2009年11月15日 (日)

町内の大掃除

町内の大掃除の日。といっても道路などを掃くだけで、溝さらえなどはしない。楽なものである。しかし8時半は早いのか誰も出て来る気配はない。
家内と二人で隣の領分まで済ます。
家内は皆が出て来るまで帰らない。班長だから仕方がない。

私は腹の調子がいくらかよくない。便秘と下痢がないまぜになって具合が悪い。とうとう掃除を止めてトイレに走り込む。

今朝のテレビで23年前に発刊された,"思索の整理学”という本がよく売れてるという。現代人はあまり考えなくなったという反省かららしいという。そうかなあと思う。もっとも考えるという事もいろいろあるから、何を考えるかが問われるのだろう。考える動物というぐらいだから,人間は四六時中何か考えている。誰でもすることである。
こんな本が売れてもしようがないのになあ。

午前中の昼寝の時,不思議に従弟の三郎の夢を見た。疎遠のまま10年ぐらい前に亡くなった男である。小さい時にはよく手下にして,遊び歩いたものである。それでも意地悪で有名で大人を嘆かせていた。
夢なのにえらくまじめな口調で私が説教したのに驚いて目が覚めた。
なんで今頃、夢というもの不思議だなあ。

今朝の7時半の気温は9度だった。曇空だから12時近くなっても16度にならない。
ベッドから抜け出るとやけに寒い。厚手の半天を背負ってパソコンに向う。足温機にスイッチをいれて。
念のため部屋の中の寒暖計を見ると19度だ。なんだこれで寒がってはと自分を叱咤する。
老いぼれると情けない。一事が万事こうである。

人には誰でも躁鬱の気があるものだが、私は今幸いに躁の状態にあるらしい。勢い猛に荒磯温泉に車で出掛けんとしている。連れて行かれる家内はどうやら尻込み加減だが。しかし雪でも降り出したら駄目だ。後旬日。どうなることやら。

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2009年11月13日 (金)

大銀杏の驚き

夜半にかなり降ったらしい。庭の木立が濡れそぼっている。朝の気温14度。昼になっても上がりそうにはない雲行である。
昨日温井ダムに出掛けておいてよかった。
この年齢になると一日一日が大変重要である。取り逃がすともう取り返しがきかなくなる。
今度のさざん会も二人だけの大会というわけだが、もう大会というには到底あたらない。止めようかと思ったのだが、止めれば取り戻す事は出来ない。後悔しても間に合わない。

来年のさざん会は岡山の山田君にお願いするつもりだ。先般電話で話した時来年元気ならやっても良いと云ってたから,条件付きではあるが承諾したということだ。坂口君も来年広島でやれというけれど,岡山ならなお近くて行き良いだろう。
土田君は4月の初めに胃がんの手術をしたのに、元気を出して今回さざん会を引受けた。やる気があれば出来る。
今度が35回目である。継続の火は何とか絶やしたくない。来年は満90歳。終るにしても切りが良い。

今日はどんよりと重そうな雲が空を覆って,気温は上がらない。
寝るに如かずとベッドに朝10時過ぎからもぐりこむ。昨夜から掛けた電気毛布のスイッチを入れる。ぽかぽかとすぐ温かになる。私は体温が本来上がらないたちだから、こうしたコタツ類の助けを借らないと眠れない。今までは電気敷き毛布を使って居たのだが、冬が深まるとそれだけでは駄目なのである。掛け布団も3枚が限度でそれ以上は重くて息が詰まる。
というわけで電気掛け毛布の登場となる。

昼は家内からのブザーで起こされてうどんを食べる。食っては寝だからいっこうに瘦せられない。うどん、パンくらいが丁度よい。
風が治り,咳も完全に止まった。医者に貰った咳止めも何日分か残っている。
昨日の温井ダム行きも、身体にこたえなくて全く心配ない。
24日の荒磯温泉行きが楽しみになって来たほどだ。
(昨日書いた大銀杏の写真、幹回り人と比べてみて、大きいことがよくわかる)Img_1482

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2009年11月12日 (木)

温井ダムと大銀杏

いい天気になったので紅葉狩りをかねて温井ダムまで行く事にする。
内藤には半日休診なので明日行く事にする。明日は又雨という予報だし。
自動車運転慣らしと云う意味もある。

10時半家内と二人で家を出る。宮島SAから高速道に入り,加計出口から出て温井ダムに向う。1時間で到着。温井スプリングは商売を止めたのか、閉ざされたまま。ダムの周辺をうろつく。結構物好きと思われる連中が沢山居る。周辺の山はさすがに色づいて美しい。風が出て少し寒い。ジャンパーの襟を立てる。家内はしまったマフラーを持て来るんだったと叫んでいる。谷風が厳しいが山陰に入ると遮られる。先だって訪れた湖畔のお社は今回は遠慮した。

ダムの食堂に入って食事。老夫婦らしいのがやっていて、あまりおいしくはない。
程々に切り上げて,大銀杏を見る為に筒賀に向う。戸河内交差点の大きな表示を見て,迷う事なく到着する。沢山の車が狭い道を行き交う。
大銀杏は神に祭られて側にお宮が建てられている。1200年の古木だそうだが,さすがに凄い風格である。
根幹の太さは十米はありそうである。
カメラマンが取り巻いてぱちぱちやってるが、大きくてなかなか写真に納まり難い。
近くの戸河内ICから高速に入って午後2時には帰宅出来る。
浜田に行くちょうど良い車慣らしになった。
Img_1479
Img_1480

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2009年11月11日 (水)

多少の縁の森繁久彌逝く

森繁久彌が亡くなった。袖擦り合う様な縁だったが、私にも彼との触れ合いそして思い出は数々ある。
皮切りは昭和15年新京の会社に就職した年である。同僚に誘われて新京放送劇団なるものに入った。
いの一番に早口早言葉を習った。師匠がこの森繁久弥だった。
軽妙な早口、ぽんぽん飛び出すだじゃれ、田舎育ちの私には異様な存在であった。
放送劇のお膳立てにやられる偽装擬音装置など、お手の物のごとく彼がパタパタとやってのける。感心したものである。
私が関東軍に入隊して二年目だったか,新聞に”黒龍江の畔に立ちて”というルポルタージュが表彰されたと出た、作者は森繁久弥とあった。
戦後昭和21年私は上京して職を探し求めていた頃、ふと新宿のムーランルージュに入っていた。
プログラムを見て驚いた。喜劇安宅の関の主人公弁慶役に森繁久彌とあった。実名でとはおかしい。
聞き耳起てて聞くと,扮装は弁慶でも声は森繁久弥そのものだった。驚いたなあ。満州から何時帰っていつ商売替えしたんだろうと。

その痕間もなく、NHKの一番組で藤山一郎と組んで出始めた。だじゃれのうまさはやはり彼のものであった。あの男もなかなかやるなあと思っているうちに、雲を得た竜のごとく演劇の世界に君臨するに至った。

7日には無二の親友を失い,10日には身近な存在のごとく敬愛止まなかった彼と、再会の機会を得ることは永遠になくなった。私自身の生涯ももう極まったと感ぜずには居られない焦燥すら感ずる今日一日である。
(写真は新京放送劇団全員、後列左端が森繁久弥、後列右から3番目が私/昭和15年)Sinkyougekidan

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2009年11月10日 (火)

孫帰京、カナリアの声まだ聞きたい

朝の気温16度と昨日と同じ。温暖化現象続いている感じ。
孫は無事着いたか,連絡無し。現代は無事が当たり前の時代だから,沙汰がなければ無事という事か。
霧深く島影一つ見えず。

孫一人居なければ,我が家はまるで隠者のさと。暖かい筈の部屋の中、しーんと淀みない空気が,心の中を凍らせる。

周平の小説なんか読むと、昔は子がいなけれ必ずどこからか子供を貰って来て、養子として家を継がせる目的で大事に育てる。その子を中心に一家団欒が発生する。
今は子がいても、親元を離れてどんどん手の届かぬ所へ行ってしまい、孫などは爺婆が思う程の親身のねばっこさは、もうない。

こうした世相がいいのか悪いのか、私にはわからない。一面気楽な様でもあるが,老いさらばえてゆく、孤独の寂しさは人という動物の業か。

午後2時雨が降り始める。しょぼしょぼと。いい潤いである。

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2009年11月 9日 (月)

会者定離

昨朝と同じ様な雲行、気温16度驚く。
道理で昨夜は蒸し暑く寝苦しかった。親友の想いばかりではなかった。
晴子に宮島ゆきのビデオなどDVDを作成して持たす。

便秘事件以来排泄は極めてうまく行っている。おかげで体調もいい。
一日の安心感が違うらしい。

身近にいた親友が居なくなった事は、なにか大きな隙間が出来たようで、気にするなとたしなめながらも矢張り気になる。いつも彼が思い出した様に電話して来たが、よく判るその気持ち。いつも待ち続けていたこの俺。その僅かな均衡のうちに存在した友情。長い長い、然も強い強い友情だった。
私が18歳、鳳陽寮東北棟第46号室、生まれて始めての他所での生活、同室に彼は居た。運命の扉がそのとき開いた。
爾来71年、離ればなれの時もあったが、編隊飛行のごとく近く遠く飛び続けた。

あの生死を掛けた中国の戦場でも、お互いその存在を知る由もなく、運命は二人を同じ戦場に近づけたり、遠ざけたりし続けて5年間を過ごしていた。

戦後、私が事業に失敗して、途方に暮れていた時思いがけなく,うちに来んかと呼びかけてくれたのが彼だった。そのとき以来46年間もう何時も指呼の間にあって交際の絶える事はなかった。
古今東西オンリーワンの親友。会者定離、かけがえはもう何処にもない。

11時半家を出て,晴子を駅まで送る。最後まで明るい顔をしてバイバイする。一月後には今度は東京で会う事になる。

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2009年11月 7日 (土)

親友横山君悠久の彼方に去る

今朝は気温14度もあり、曇り空。天気はなんともいえないな。
もみじにはまだ早いが、せっかく孫が東京から来てくれたので宮島を案内する事にする。
家内も私もすっかり元気を取り戻したのでよかった。孫の明るい顔がよけいに刺激を与えてくれる。

10時家を出て、宮島へ。案外道路が空いていて、駐車場は満車の所が多かったが、桟橋からかなり離れたところに空いてる所があって難なく入れる。
連絡船はやはり一杯の客。団体が多そうだ。
孫は随分永く来ていないというので、正規のコースを案内する。回廊の末端を出た所でお昼前、早速近くの食道を捜して入り、名物のあなごめしを食べる。おいしいと孫も喜ぶ。

店を出てから今度は紅葉谷公園に向う。まだ10日は早いのだが、それでも結構色づいた木々は多い。
ぞろぞろと観客も少なくない。
十分秋の景色を堪能して帰路に付く。
あまり歩いたとは思わないのだが、足の疲労感は激しい。老化が進んだという事だろうか。

4時帰宅して間もなく、横山君の息子さんから、今日先程11時過ぎに父が亡くなりましたと電話が入る。驚く。先般転んで入院したのだが、脳内出血が悪化したらしいとのことだった。
いずれは死ぬ身死は仕方がないが、転んだのが原因とは、柔道マンだった彼の最後にふさわしいきがしないでもない。私より年長だから先にいっても仕方がないのだが、これから先が急に頼りなくなった。
身辺にもう往古を語るものなしである。嗚呼!寂しいかな!

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2009年11月 6日 (金)

カナリアの囀る声

快晴がつづく。今朝も11度だからまあまあ暖かい。
家内が東京へ電話した所晴子がどうやら今日うちへやってくるらしい。
家内はあわてて布団や毛布を干したり準備に忙しい。食わすものも準備しなければならないだろう。夕食は外で食うかと提案する。

何をしに来るのかという思いもあるが、なにせ久しぶりに逢えるのだから楽しい。
我ながらうきうきするのがわかる。

空は真っ青に晴れて雲一つない。明日あたりさっそく宮島でも案内するか。

今度のさざん会に土田君が言ってる様に家内を連れて行こうと決心する。家内はなかなかうんとは云わないが,最後だから無理にでも引っ張って行こう。荒磯温泉はリウマチにもいいらしい。

夕方さんざん待たされた晴子がやっと広島に着いたよと電話をくれる。
会席膳の招待券を貰ってたので、其処に行き食事をすることにする。
駅に老夫婦が迎えに出たので、めんくらったようだが、その足で食事に廻る。ともかくも懐かしい。
先方はこちら以上に嬉しいのか速射砲のようにおしゃべりを連発する。
親父が生前かわいがって飼っていたカナリヤを思い出す。

ひさしぶりな賑やかな家族団らんだった。
もっともお店はがらがらで、私らの借りきりの様で申し訳なかったが。

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2009年11月 5日 (木)

岩見重太郎の仇討ち

朝気温11度、雲多し。
家内は今日も市民病院通い。手術痕の抜糸か。
広電で出掛ける。約1時間行程。駅まで送る。

土田君から電話、水戸君に出席を促しておいた由。東京の橋本、田島,松岡、田淵の4名欠席、横山、山田も欠席のハガキが届いている由。予想通り。今の時期は皆嫌だろう。

正午過ぎ家内帰宅、井上に立ち寄ったらしい。

娘の云う事には今は天橋立は立ち入り禁止になっていて中には入れないという。
家内を連れて行ったツアーはホテルから見たり、ロープウエイで上がって見たりで、遠景ばかりを見ただけだったという。中は通らなかったよと裏付ける。なんだい!それでは駄目だ。岩見重太郎の碑は見られないではないか。
50年前私が歩いたこの松原は、ながいながい白州の松原だったが,松の一つ一つが年代があって懐かしかった。岩見重太郎はここで日本三大仇討ちの一つをし遂げたのかと,随分感心したもんだったが。

考えてみればあのまま放置したら枯れたり痛んだり,今に残らだったかもしれないな。
やっぱり観光客にぞろぞろと歩かす訳には行かないだろう。
岩見重太郎も従って人の口から消えて行くわけ。しかたないな。

同じ日本三景の一つ宮島は昔を今に残す為大変な努力を重ねている。
人間災害だけでなくこちらは自然災害が最近特に激しい。天橋立はどうなのだろう。同じ自然だから砂州が削られるとか,松が倒されるとかやはり大変なのだろうな。

私はそんなことを知らずにツアーに応募したのだったが、病気になってよかったかもしれない。

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2009年11月 4日 (水)

今の世は便利が良すぎて住み辛い

朝快晴、気温4度最低。
昨夜は羽布団一枚増やして寝たので暖かく、快眠出来た。
肛門や腸の具合はほぼ完全に治癒した。普段よりは便通具合などはよいくらい。力む事も何もない。
むらをなくする様にしなければならないなと自戒する。

家内がしきって医者に診てもらえというので、現在は治っているのですがとおそるおそる相談に行くか。先生も忙しくてご迷惑だろうに。

家内に持たしたデジカメのSDメモリー、便利なようで厄介なのだなあ。
SDは大きさが3種類ある。アダプター付きでミニ、マイクロとコマゴマしていて覚え難い。どれにどれが入っているのか、カメラかパソコンに入れてみないと判らない。
初期化すればくりかえし使えるのだが、大切な記録は永久に消滅してしまう。
写したらすぐパソコンに記録しているのだがこれも明日が知れぬ器械だからなあ。
撮った枚数もわからない。相当整理をよくしないと混乱する。いやもう大混乱している。
それにこんどはムービーカメラもSDマイクロが付いている。老人の頭に混乱の種をまきつけたことになったようだ。
便利の裏返しが案外怖い。

11時せいこう胃腸外科に行く。便秘の診断を受ける。便秘時の心得を聞き薬を貰う。また肛門内の状態も診てもらい、完治の確認をいただく。

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2009年11月 3日 (火)

アップル益々元気

朝7時半快晴、気温6度やや寒い。やはり寒波が来たか。風がないから昼には暖かくなるだろう。
今朝まだ肛門から無色の粘液が少し漏りパンツを濡らす。家内はやはり医者に行くべきだと仕切って言う。便は少ないが普通に出ているのだが。
しかし今日は休みだしなあ。

あれだけ良く晴れていたのに,10時半になると、空半分は黒雲まじりの雲に覆われてしまう。
当市の予報気温は最高16度となってるが、この調子ではさあどうだろう。今朝の気温は5.9度と正にぴったり合っていた。

乾癬は最近はずっと良くなり,チガソンは一日おきに呑んでるが,塗り薬は忘れる事が多くなった。
皮膚のザラザラは取れないが、痒くないのがよい。
活力がなくなったので、乾癬も元来が免疫反応だから、活力が鈍って皮膚へのいたずらが小さくなるのだろう。

今月のパソコン雑誌を見ると、アップルは秋の新体制でウインドウズは勿論レナックスもインストール出来て万能のパソコンを達成したらしい。ウインドウズは最近発売した7もインストールして使えるという。
ipod、iPhoneで正に世界を制覇し、巨利を挙げた余勢をかっての新布陣か。
価格も寧ろ引き下げた布陣体系でファンを喜ばせてくれる。
寿命があれば、すぐにも飛びつきたいのだがなあ。
アメリカはまだまだ老いては居ない。GMは引っ込んだが、いくらでも次が居る。

昨日は老齢を理由に永年愛好したリンククラブを退会した。逐次身辺を整理していかねばならない。
新しい踏み込みはもう無用だろうか。

午後3時過ぎ岡山の山田君から電話で足が痛くて歩き難く今回は出られないが、来年は何とか治して幹事でもやりたいからと元気な事をいう。横山君が転んで怪我をして入院しているが知ってるかという。驚く。夏に電話で話をしたのだがその後無沙汰で知らなかった。
昨晩は水戸君が座骨神経痛で遠距離は無理だとメールを送って来たが、不参加が多い。
みんな何事か起きる年齢だから仕方がない。

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2009年11月 2日 (月)

天気も体調も変調

昨日の雨はどこへやら、朝から雲一つ見えない快晴の天気。
寒気襲来を告げてたが、今朝8時の気温14度とそれほど寒くはない。風は少しあるかな。
便通も普通に帰ったし、一騒動に終った感じ。人生ままあるさ。

10時雲張り出し急に天候悪化し始める。11時小雨降り出す。あわてて洗濯物を入れさす。

土田君から美都町の寺井正運君に案内を出してくれと電話がかかる。いまだ一度も出て来たことのない男だが同じ市内でやるさざん会なのに招待しないではという。それもそうだなと、早速したためてポストに向う。

正午又雲間から日が照り出す。おかしな天気。
午後3時現在照ったり曇ったりしているが,風が強く気温も12度に下がっている。
遅まきながら寒気到来という次第だ。

我が体調も今日の天気のように、腹具合が安定しない。朝と先程と二度も排便する。いくらか下痢気味なのかも知れない。便秘とか下痢とか一体どうなってるんだといいたい。
食うのはホン申し訳程度食ってるだけというのに。
指で掻き出したのが悪かったかな,肛門は顔つきに似ず繊細な臓器だから。

家内の天橋立行きに大いに期待して,私のデジカメを持たしたのだが、うっかりメモリー(SD)が京都でいっぱいになり余分を持たせなかったので、写せなくなったよし。
見てみると天橋立の写真は一枚もない。がっかり!その前にいろいろな所で沢山撮ってた奴だから,運悪く京都南禅寺で満タンになったわけ。

ロープウエイでインスタントカメラを買ったというが、下りるとすぐ伊根に廻ったのでそこでおしまいということ。その後は雨で行動もままならず、出石でお城の回りをちょこちょこしただけとのこと。カメラの中身は現像屋に持参しなければわからない。
まあいいか、又日を改めて出掛けるよと口ではいったんだが。
(写真は昭和30年私が訪れた時のもの)
Amanohasidate

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2009年11月 1日 (日)

続便秘物語

いやに暖かいなと寒暖計を覗いてみると、20度となっている。午前7時半でそれである。
何かが狂っている感じ。

昨夜私の肛門は健全であると宣言したが、今朝起きると調子が少しおかしい。
小便をしに便器の前に立ったのだが、小便が出ると同時に、何だかパンツが濡れてる感じがする。
し終わっておそるおそるパンツを覗いてみると、肛門部の周囲が丸く濡れている。
やはりこちらも漏ったのだ。ぞっとする。
なぜこんなことになるのだろう。
便器にしゃがんで、指を肛門の奥深く入れてみる。肛門は腫れぼったくなっているが、もう痛くも何ともない。肛門の中もぬめっていて、糞のかけらもない。指について来るのは粘液だけで臭いも何にもない。今年の始めに胃カメラを呑んだ事があったが、食道や胃袋の内壁が美しく、自分ながら感心しながら画面を見た経験があるが、それと同じ感触である。

肛門も腸も悪くないとなるとこれは機能の問題である。
医師に診てもらう以外にないなと悟る。今日は日曜日だから明日以降何処かへ行こう。決心をする。

以上が我が続便秘物語である。

丁度折よく家内の友達の元看護婦婦長さんから電話がかかった。医者でなくてもこのぐらいのことならいいだろうと質問を繰り返す。
現在は無色無臭の汁みたいな液体が漏って肛門の周囲を濡らすだけなのだが、いじり過ぎたのが原因でそのうち止まるだろうとのご託宣。やった安心する。もし止まらないようなら医者に行けということだったが。

食欲とは不思議なものである。昨日今日すっかり食欲がない。それで朝はパンとコーヒー、昼は近所にうどんを午後1時に勿論一人で出掛ける。いつもうまいと思って食べてたてんぷらうどんが全然味がない、塩辛いなと思うだけである。うどんも味がなく何を食べてるか目をつぶるとわからないだろう。食い終わっても満腹感はおろか食べた感じはしない。
こりゃもう駄目だ。正に病膏盲に入りしかである。

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2009年10月31日 (土)

便秘物語

今日は大変な一日だった。というより昨晩からだから夜から昼一杯というべきだろう。
他人から見れば笑い話に過ぎないのだが、当人にして見れば命がけという程苦しんだ。
簡単にいえば便秘である。
糞詰まりといったほうがあたるかな。

夕方から便が出そうで出ないものだから1時間おきぐらいに便所に屈む。力めば力む程肛門は膨らみ、痛くて堪らなくなる。
明日からの旅行という事があるから、もう何も耳に入らない。
私が行きたいと言い出した旅行だから何だか責任も感ずるし。

とうとう肛門に指を突っ込んでかき回す。なにか石の様に固い固まりが出来ていて口を塞いでいる感じ。
指で触ると奥に押し込む形になって、なかなか引っ張り出すというところまで行かない。耳かきをつかったり、家内の手助けを借りたり大騒動になる。とうとう深夜になる。いささか疲れ果てる。
旅行はもうだめだとあきらめ、家内に一人で行けと宣言する。

深夜も便所通いをつづけて、やっと固形の一部をとりだし、それをきっかけに逐次分細化してぼつぼつと出始める。
朝5時、家内も起き出して旅行の準備を始める。

6時半車で家内を駅まで送ってやる。
帰宅してから一寝入りしては便所入り。

食事も朝、昼パンを齧っただけで寝ては起きると便所へゆく。
夕方になってどうやら円満に開通したらしい。残滓がごそごそ続いて出てすっかり楽になる。
その代わり肛門は大変である。自分では見えないがふくれあがって、花びらの様に外向きに開いている。
このままでは困るなあと、早風呂に入って暖めると、お湯の力はすばらしい。15分もすると元の形に治まったらしい。
どうやら我が肛門は依然として健全な様である。

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2009年10月26日 (月)

妻の手の手術

台風20号が沖縄南方まで来ていて、天候は益々悪くなりかけている。今回も日本列島の南方沿いに北上するらしいが、雨はかなりふることだろう。

家内は今日広島市民病院で指関節の手術をしてもらう事になっていて、正午には家を出なければならない。
終るまで待って連れて帰るつもりで居る。
朝から何だか落着かない。

正午少し前に食事を済ませて家を出る。車は少なく順調に市民病院に着いたのだが、駐車場になかなかはいれない。それでも空きが早くできて、12時半には病院に入れる。

手術開始は2時半だから待つのが大変である。一応受け付け登録だけは済まして、近くの広島城趾公園に菊展を見に行く。
隣家の植野さんが大きな菊を今年も沢山作って出展されていた。御主人にもお会い出来る。
家内が病院に引き返した後も私は久しぶりの城をあちこち歩き回る。2時半に病院受付に着いたが既に家内は手術室に入っていて、待合室で待たされる事になる。だいたい1時間はかかりますとのことだった。前の人が済んでもなかなか家内が出て来ない。
3時の予定が4時半になってもまだ出て来ない。何かあったのではと心配になったので受付嬢に尋ねる。別段何も連絡ありませんという。ちょっと永いですねえという。麻酔の切れでも悪いのではともいう。だいたい術後30分休む慣しだそうだが、中にはそれが長引く事があるという。とうとう5時になってドアの向こうに家内の姿が見える。腕を三角巾で吊って元気に出て来る。
どうしたんだというと、なにやら他の所もやったようなことをむにゃむにゃという。
家内も永い手術でいささか草臥れたらしい。

帰宅しても食事をするや否や、寝床にもぐる。腕の具合が悪いとぐずぐずいいながら。
麻酔が切れたらまたがたがた言い出すのではと恐ろしく、私ははやばやと二階の部屋に逃げ込む。
小指の関節の手術と思っていたら、手のひらから腕にかけての大手術であった。
月末の旅行も難しくなりはしないかとそれもも一つ心配になって来た。

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2009年10月24日 (土)

有終の美を飾らしたい

連日の快晴が今日は崩れそうだ。灰色にすっかり覆われて8時現在夜がまだ明けきらぬ感じ。気温15度。
風邪は何とか治まった感じ。咳は殆ど出ない。
朝食もまあまあおいしく喉を通る。

冴えない天気のまま一日が終わらんとしている。島根の行商のおばあさんが亡くなったそうな。98歳とか。大した患いも無く突然亡くなったそうだ。大きな荷物を背負って一年には何度もうちの店にやって来たもんだったが、何時頃か娘に仕事をゆずったのだったが。親子二代で随分長い付き合いだったなあ。もっとも家内の話だとずうずうしいこの娘に、又この年末には買わされるらしいが。
地図を開いてみると、島根半島の最北端に”多古の鼻”というのがあるが、その多古からいつもやってきたらしい。今でも広島からでは大変な距離である。

歳月人を待たず、どんどんあの世に旅立って行く。世の習いだから仕方がない。次は我が番の筈だが、なかなかお呼びがない。

弟から先程も電話がかかって、使っていたワープロが故障したので修理を頼んだが部品がないのでと断られたという。仕方がないのでパソコンを買う事にした。どんなのがいいかと意見を聞く。娘の古いのを貰って使い方を習っているがさっぱり使えないという。娘も就いて居れないので、新しいのを買って講座を受けなさいというらしい。
今からではそうするしかないかなあ。暇なんだからいいではないかと言っておく。

習ってもコロコロ忘れて行くのが早い年齢だからやっぱり難しい事だ。
私の様に習うのは止めてマニュワルを一生懸命に読みこむ事あるのみなのだが、殆どみなそれが出来ないらしい。
弟も字慣れが悪い口だから駄目かな。

土田君からのさざん会の件どうしたらいいかまだ迷っている。風邪の具合が悪かったりでとても駄目だと思っていたが、良くなって来てみると、またやらんといかんかなあと思ったりする。
もしやっても今回で終りになる事はほぼ間違いない。誰しも有終の美を飾りたい。県の頂点を極めた男だから当然その慾は深いだろう。飾らしてやるか!

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2009年10月23日 (金)

咳が気になる

朝7時半目覚める。昨日の疲れからかよく眠れる。気温12度、快適の青空、沖合の島々は僅かに霞んでいるがこれ以上は望むべくもない。春先から夏にかけて殆ど青空を見た事がなかった毎日がまるで嘘のようだ。
陽光が2mは十分部屋の中まで射し込んできて温かい。

数日来の風邪もどうやら治まったらしいが、まだ咳だけ残って突然咳き込んだりする。
咳は何時の時にもしつこい。半年もかかった事が過去に逢った。あの時は交通事故に引っかかって、入院中毎日点滴を受けているうちに治った。運良く副作用で治った訳である。

今回も点滴を受けたが1回ぐらいではどうにもならない。
家内は点滴をしてもらいに行けと薦めるのだが。
昔終戦時中国から帰還の徒次上海で胸をやられ地を吐いたことがある。軍医の見立ては結核の初期ということだった。間もなく帰国してしっかり農作業に精出し栄養を摂取して回復したが、後遺症としてははっきり残された。
戦後間もなく行われた公務員試験にも身体検査で引っかかり完全治癒まで保留とされた。その他再三の定期検査には何時も引っかかって再検査を受けることになった。
爾来胸部の弱さはいつも気にかかるところである。

親父も肺炎で死んだが、私も死ぬ時はそんな病気だろうと思っている。
咳がいつまでも撮れない事は矢張り気になるな。

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2009年10月22日 (木)

極楽寺山に登る

朝7時半、少し霞がかってはいるが、いい天気である。気温11度5分。
風邪はもう治ったと言っても良いのだが、時折咳が思いついた様に出て来るから油断ならない。
薬はまだ残っているので朝晩呑んでいる。
若い日の様にすきっとは決まらないのだな。
朝初めてストーブを入れる、やはりあったかい。

鼻汁が沢山出て時折鼻をかまなくてはならない。やはり風邪は治っては居ないな。体調が少し軽やかなだけかもしれない。

試しに極楽寺に登ってみる事にする。標高661mの極楽寺への曲がりくねった道を午後1時半から車で行く。
家内もあまり賛成していなかったが、仕方なくついてくる。
今は歩いて登る人は僅かで、今日あたりもほとんど車の人ばかりである。5台6台とあちこちの駐車場に止めてある。
キャンプはもうシーズンオフだから殆ど見かけなかったが、ハイキング仲間らしいのは見かけた。
写真を熱心に撮ってる人も相変わらず居る。

蛇の池周辺はよく整備されている。極楽寺からの眺めはあいにく霞んでいて、よい眺めとはいえなかった。
私たちの様な老いぼれはまるでみかけない。
やはり山は山、場違いなのだろう。
帰路速谷神社にお参りして帰る。ここもこの時刻は誰もいない。

全山紅葉にはやや早いか、その感興にまだひたるわけにはゆかなかった。
帰宅したのは午後4時を少し廻っていた。つるべ落としの夕日が眩しい。

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2009年10月19日 (月)

しつこい風邪

朝の気温13度。機嫌の良い秋の日和だ。
熱は下がって体調は戻ったかに見えたのだが、咳がとれない。ときどき咳き込んで息が切れるのではと思う程である。
横になると特にいけない。従って寝ても居れない。
楽な方の椅子に寄りかかって,日向ボッコしながら音楽を聴く。ベートーベンの大公トリオ、J.シュトラウスのウイーンの森の物語、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ベートーベンのバイオリン協奏曲のクラリネット版などとつづく。2時間ぐらいあっという間である。20時間分くらい自分で好きな曲を録音して置いたDVDアルバムの一つだから、夕方から夜になっても手をかけなくて大丈夫である。そのうちうとうとする。
こんなのは風邪に良くないかなと思ったり。

昨日の姪の結婚披露宴では家内が来賓の年長者だったそうで,大事にしてもらったとか。
さざん会の件も気になるのだが、体調に自信が持てない現状では,喜んで行くよとも言えない。
土田君にはどうしても返事がすぐには言い出せない。

この31日に予約している阪急旅行社の天橋立1泊ツアーを無事に通り抜けられたらという事にしたい。

今月のMac関係の雑誌をあれこれと読んでみると、皆インテル製のプロセッサーに移った器械を主体にしていて、私のPower Pcではお呼びが無い感じ。やはり老人はこの世界でも置いてけぼりである。
もうついていけないな。

生涯絶えず前向きに歩んできた私も、ここに来て能力の絶壁を感ずる。越すに越せない高さである。
もう諦めろと絶えず後頭部から呼びかけてくるささやきが聞こえる。

午前11時せいこうに出掛ける。喉の痛みが無くなった程度で,咳はひどくなるし、痰や、鼻水は多くなるし、症状はどちらか言えば悪化した。従って点滴をしてくれた上、抗生物質など薬の量が増える。

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能力の限界

朝の気温13度。機嫌の良い秋の日和だ。
熱は下がって体調は戻ったかに見えたのだが、咳がとれない。ときどき咳き込んで息が切れるのではと思う程である。
横になると特にいけない。従って寝ても居れない。
楽な方の椅子に寄りかかって,日向ボッコしながら音楽を聴く。ベートーベンの大公トリオ、J.シュトラウスのウイーンの森の物語、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ベートーベンのバイオリン協奏曲のクラリネット版などとつづく。2時間ぐらいあっという間である。20時間分くらい自分で好きな曲を録音して置いたDVDアルバムの一つだから、夕方から夜になっても手をかけなくて大丈夫である。そのうちうとうとする。
こんなのは風邪に良くないかなと思ったり。

昨日の姪の結婚披露宴では家内が来賓の年長者だったそうで,大事にしてもらったとか。
さざん会の件も気になるのだが、体調に自信が持てない現状では,喜んで行くよとも言えない。
土田君にはどうしても返事がすぐには言い出せない。

この31日に予約している阪急旅行社の天橋立1泊ツアーを無事に通り抜けられたらという事にしたい。

今月のMac関係の雑誌をあれこれと読んでみると、皆インテル製のプロセッサーに移った器械を主体にしていて、私のPower Pcではお呼びが無い感じ。やはり老人はこの世界でも置いてけぼりである。
もうついていけないな。

生涯絶えず前向きに歩んできた私も、ここに来て能力の絶壁を感ずる。越すに越せない高さである。
もう諦めろと絶えず後頭部から呼びかけてくるささやきが聞こえる。

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2009年10月18日 (日)

もう無理の利かない年齢

朝の気温12度、ちょっとひんやり。熱はもうない。
食事もさらさら喉に入る。せきもあまり出ない。
やっと風邪から解放された感じ。

家内は姪の真理ちゃんの結婚披露宴出席のため岩国に出掛ける。駅まで送る。
私も招待を受けたのだが、かぜを予測した訳ではなかったが、何年も逢った事が無い遠い縁の子の披露宴に出た所で、あまり元気の無い老人が1、2時間も座って居るだけでも苦痛なのでお断りしていた。
たまたま風邪を引いていてそのタイミングがよかっただけだ。
風邪が完治とまでは行かず、今度はやたらと鼻水が下がる。チッシュが忙しい。

昼になりさて何を食うかなと台所に行く。電気釜の蓋を開けてみると、昨晩の鶏肉と野菜の混ぜ飯が収まっている。
ははあ、今日の留守に食わすために昨夜はこんな面倒なものをつくったのかと思い返す。
引き出しには卵スープのもとがちゃんと用意されている。お湯を沸かせば、スープもお茶も一度に片がつく。
賢い奴だなあと呆れる。

午後も3時になると日本晴れのいい天気になる。そよ風しょうしょう。
土田君から突然電話を頂く。いつか彼が言い出していた浜田でさざん会を主催するという話。言い出しっぺの責任からか、11月下旬でよければ近くの温泉に場所をとっても良いから出て来ないかという。水戸君と打ち合わせて一緒に広島から来たらいいのではと。
早速水戸君に電話をいれて話してみたが、やはり大阪から浜田では遠くて簡単ではない。
水戸君も抗がん剤のお世話になってる最中である。身体に自信が持てない。無理してでもというわけには行かないようだ。

私も今回思いがけず風邪を引いてみて、体力の無さに一驚した。とても無理が出来る状態ではない。
もう暫くは寒くなる一方で、簡単には暮らせない。もう余分な事はしない方がいいとそんな気分に落着きそうである

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2009年10月17日 (土)

サンフレッチェなんとかしろ

日射しはあるけど雲が多い。朝7時の気温15度。
昨夜と今朝の体温36度5分前後と平熱。気分も悪くない。風邪はほぼ退散したようだ。ときおり咳がでるけど。

今度の風邪の原因がよく判らない。強いて推測すれば、寝てる時に身体が冷え過ぎたのではと思う節がある。
夏からずーっと窓を一部開放しつづけていること、夏布団を使用し続けたこと、が自分ではそれで良いと自覚していたが、肝腎の身体の方は冷やされ過ぎたのではないかと。

昨日本屋で藤沢周平の”未刊行初期短編”と銘打って今年9月初めて刊行された文春文庫本「無用の隠密」というのを見つけた。
彼が作家デビユーを果たす以前に書いていた作品らしい。かなり分厚いものである。
彼の作品はもうあらかた買い込んだ。文庫本では後何点か、本屋で捜すのが困難なくらいである。
幼少のみぎりから、小説を読むのが好きだった私でも、こんなに好きになった作家は珍しい。

昼の食事からどうも調子がよくない。胃袋がつかえた感じで戻しそうである。中途で食べるのを罷める。
一寝入りした後テレビでサッカーをみる。
前半2−0とリードしたのに安心したのか、後半は全く押されっ放しの地元サンフレッチェ、2点を楽々返されてとうとうタイにされ、危うく負けの場面があったがなんとか引き分けに持ち込んだ。こうしてガンバもサンフレッチェもまだ優勝戦線に居残る事となった。なんともじれったい一戦であった。

こんな試合は健康にも悪い。見るのではなかった。

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2009年10月16日 (金)

私の死病とは?

13日の朝から喉が痛くて変な咳が出る。こりゃ風邪を引き込んだなと思ったから、どこか医者に行かなくちゃあと思っていると、家内がせいこうにしなさいという。行き付けの内藤内科は客が多すげて待たされるし、他の風邪をもらってもつまらないしということで、せいこう外科に行く。

熱は37度少々だし大した事は無いと、先生は一番やさしい薬をくれる。
帰ってすぐベッドインしたのだが、その日も翌日も微熱は続きっぱなしで、時には頭が痛くなり起きられない。

電熱毛布迄敷き込んで寒さを防いだら、今度は汗びっしょり。
食欲は全く無くなり食ったりくわだったりと3日目に入る。
風邪ぐらいでおだぶつするのかなとあきらめかけたのだが、なかなかまだ死ねないらしい。
今朝になると急に身体が楽になる。体温をはかると36度7分である。
単なる風邪でも、寝ている時は死んでいるようで夢までみることはない。
何事の想念も浮かぶ事の無いまま今日に至った。

心臓病、皮膚病、風邪といろいろの薬を飲んでいるので、胃腸の調子は最悪である。食事はまるで喉を通らない。
数日食わないくらいではどうということはないらしい。寝ているだけだからなあ。
咳は少々軽くなった。

せっつかれる事の何も無い、もろもろの責務から解放されてる自由をしみじみ感ずる。
若い頃は病気になっても寝ては居られなかった。無理に無理を重ねて、気力で病気を吹っ飛ばした。
この90年の生涯で病院に入院したのは、軍隊のとき盲腸破裂の腹膜炎手術と63歳の時交通事故で頭を負傷し病院に担ぎ込まれて2週間治療を受けたことと二度だけである。健康な身体と言わねばならない.有り難い事であった。

37度程度の熱でダウンするなど過去にはなかったことだが、老体にはまるで抵抗力がない。
しかしもう平熱に帰ったのだから大丈夫だ。ただ咳だけは少し時間がかかるかもしれない。過去にも半年患ったことがあったから。

こんなことでも死につながる筈だが、危機意識はまるでない。
自分の完結の瞬間を静かに覗き込んでいる気持ちの現在である。

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2009年10月12日 (月)

曾孫が主役

連日好天気。気温も変わらず。
家内は早々としめ縄を除去している。

ブログ・ニューースを見ると、便所飯というのが大都会で流行ってるらしい。最近は都会の便所はあまり臭くないからだろうか。
手軽に腰が懸けられるし、邪魔が無くて案外便利がいいかも。いっぺん経験してみないとその神髄には触れられないだろうが。
やっぱり若くないと駄目だな。

新聞を見ると”お札を刷らない日銀”というのがあった。デフレの要因だと言うのだ。馬鹿な私はなるほどなと思ったりする。

足慣らしに植物園に行く。催しがあり、入場無料とあって凄い入り。圧倒的に子供連れが多い。
いささか辟易して、山回りを一回りして帰路につく。10時半に出掛けてきたくしたのが1時。
食事をしなかったので、ちょっと腹が減る。

信号の無い三叉路でバスの前に割り込んだら、大きな警笛を鳴らされる。一瞬ドキッとする。悪かったかな。

午後長女一家がやってくる。彩ちゃんが主賓だ。一挙手一動作が面白くみんな引き込まれる様に見入る。
いくつと聞くと指一本を上げる。まだおしゃべりは出来ないが、人の言う事は実によく判る。
凄いものだなあ。
私はビデオに録画する。うまく撮れたようだ。もう少し永く撮った方がよかったかな。5分しかなかったのでDVDがちょっともったいない。

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2009年10月11日 (日)

町内の子供神輿

気温12度と昨日と同じ。天気は昨日よりも良い。行楽には願っても無いことだろう。明日も体育の日で休日だし。
今日の八幡祭礼も無事終る事だろう。
事実上の班長の我が奥さんもやっと肩の荷を下ろしてくれる事だろう。

隣は何をする人ぞというが、人ごとではない。私も両隣と口をきく事は何年もない。
西隣はもうひと月以上も夜明かりが見えないので、どこへ行っちゃったかなあと時々気にしていたのだが、昨夜は明かりが見えてやれやれである。うちの庭先迄暗くなって、盗難防止に良くないなと思ったりしたもんだが。
町内が違うし、自然には逢う事が無い。
先代が生きて居られた時はそんなにでもなかったのだが、現在の世代とはどんな人か他所で出会ったら判らないだろう。

秋葉広島市長が五輪招致を叫んだ。2020年の非核実行年に長崎を巻き込んでオリンピックを開催するというのである。
最近は実行の難しい事を早く言わねば損みたいに、鳩山発言にしろオバマ発言と言い世界のジャーナリズムを騒がせている。
広島でオリンピックが出来るのかいなと地元の私でも首を傾げたくなる。
東京などと違って、素地がない。白紙から始めなくてはならない。予算もきゅうきゅう言っているのに、金が作れるのかいなである。言うだけでいいという手かも知れないが。

広島新球場が観客動員数187万人の新記録を作ったという。これは苦労して作った秋葉市長始め関係者の喜びは察するにあまりある。オリンピック発言はそれに力を得た発言かも知れない。急に元気が出たな。

9時頃から神輿の太鼓の音が遠くの方から聞こえて来る。やっぱり今日だった。
普段音一つ立たない町内では、小さな小太鼓でもこれに限る、すぐ察しがつく。

FM放送から静かにシューベルトの「ます」が流れている。10時ちょっと前、突如家の前で太鼓や拍子木に混ざって子供の喚声が上がる。子供神輿の到来である。家内が祝儀を包んだのであろう。間もなく行き止まりの路地を引っ返して行き、静かになる。
ラジオの音楽はなにげなくささやかに続く。

町内では子供が少なく、お祭りの神輿も出せなくなった昨今だが、今年は何ヶ町内が合同して神輿を出したらしい。ご苦労なことである。今の町内会長さんは熱心だからなあ。えらいよ。

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2009年10月10日 (土)

秋祭前夜

一昨日午前10時、台風一過して、青空がのぞきさわやかな一日となる。

朝の気温も20度と温かい。何となく元気になれて、どこか旅にでも出掛けるかと家内と話し合う。
旅行社に問い合わせて、京都から天橋立、出石と廻るバスツアーがあったので申し込む。
天橋立は50年ぶりくらいかな。

台風は午後3時現在宮城県に差し掛かっているらしい。予想通り知多半島に上陸して日本縦断ということのようだ。
強い台風だから爪痕が凄いらしい。困ったものだが、自然災害だから文句のいいようがない。

昨朝9時内藤内科に出掛ける。初めて午前中に行き込むのだろうなとびくびくしながら入ってみると、外来はまあまあいっぱいだったが、1時間で順番が来て終る。格別悪い所がないので早い。
10時半青空が大きくなりいい天気になる。

医者に出掛けている間に、町内のしめ縄張りが殆ど終っている。家内も朝一番にひとりで家の回りを付け終わる。明日のお祭りの日はいい天気になるという予報だ。

今朝は朝から雲の少ないいい天気、気温12度と今秋最低。
9時半木元に自動車を持って行く。1カ年定期整備のためだ。タイヤとバッテリーが寿命らしい。
今日いっぱいかかるという。代車を借りて帰る。

帰りにデオデオへ立ち寄る、大処分市をやっていて客が多い。
今度の旅行や東京行きを考えてムービーを買い替えようかと売り場を捜す。
標準タイプでVicter製の3万9千円というのがある。あまりの安さに驚く。しげしげ眺めているうちに店員が寄って来て盛んにお得だと薦める。永くない命だからまあいいかと買う事にする。
すぐ後から来た若主婦らしい女性が私にもと手を出す。限定品だがまだ在庫はある風だった。
60GBのHDに保存する仕組みである。10時間は十分行けるという。説明書には12時間まで一挙動で録画出来ると書いてある。停止画用には別にmicroSDを付けられる。microSDは持ち合わせがいくつもあるので都合が良い。デジカメと二つ持たなくていいかなと手軽さに惚れた。
それにしてもテープの時代は去ったのだなと思い知る。大きさも半分だもんな。

朝あれ程天気のよかった空が一面の雲に覆われる。八幡神社の祭礼は明日らしいが、大丈夫かなと心配だ。
雨でも降ると折角のしめ縄が台無しになるから。班長のくせに祭りの日が今日なのか明日なのかはっきりしない。町内会長によく確かめていなかったらしい。

午後5時車を取りに行く。修理代¥39160.
帰りは大回りしてバイパスに入って帰る。工事がもう少しだが、道幅が狭くなっただけすごい混み様だ。

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2009年10月 7日 (水)

裁判員制度

午前8時現在まだ雨にはなっていないが、愛媛県ではもう盛んに降ってるということで、もう奄美迄やって来た台風18号の影響は免れ得ない。進路はやや東よりに向うかも知れないが、今度は上陸は間違い無さそうだ。
瞬間風速60米というのだからたまらない。

先程気温は19度だったが、この天気ではさほど上がる事は無いだろう。昨夜は少し吹いていたが、問題は風だな。
我が家は軽量鉄骨の軽い家だから、つむじの様なのが来ると巻き上げられる恐れがある。
風は中心でなくても、台風の外周の方が強いとも言われる。心配はそれだ。
今晩はおちおち眠れないかもしれない。

スマトラ地震は死者が今の所7百人を越えたと言ってるが、もう残りは生存の見込みが無いからと捜索を打ち切った由。こちらも大変だが、私の方も今はそれどころではない。
災害は目白押しにやってくる。しかも戦争迄やる馬鹿も居る人間の世の中だ。

午後2時を回っても雨にはならない。何時降り出してもおかしくない様な空具合だが。
気温が上がらないので、薄着では寒くてしょうがない。寝てるばかりなのも能がないし。

曾野綾子さんが”透明な歳月の光”というオピニオン欄に裁判員制度に就いて書いている。
素人が裁判官と同等というのは錯覚だというのである。
全面的に彼女と同意見である。
それ以上に私は民主主義の欠陥をいみじくもこの制度で露呈したと見ている。人権は平等だからといって、裁判などという特殊な技能的な職業を素人も専門家もそれぞれの意見を平等に取り上げるなどというのは行き過ぎである。満足な成果が上がる筈が無い。危険で恐ろしい気さえする。素人と船頭と乗り合わせて舵取りをする船に乗せられる様なものである。

抽選で選ぶ迄は公平かも知れないが、更にこれから篩をかけるなどは、民主的とも言えない気がする。
どちらにせよ悪法だ。止めた方がいい。

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2009年10月 6日 (火)

歴史ということ

昨夜大分降ったらしく、庭は濡れそぼって居る。6時半の気温は20度、南からの影響か。
へそのすぐ脇に湿疹が一つ、痒くて仕方が無い、乾癬だろう。今度は前に廻ったかな。

今日の新聞を読むと歴史雑誌がよく売れているとある。歴史バーなんていうのもあるそうな。歴史好きが集まって侃々諤々やるのだそうな。
女性の歴史好きを歴女というとも。一種のブームなのだろう。

私は小さい時からの歴史好きだからブームには関係ないが、同好者の増える事は嬉しいし歓迎だ。
地元にも物凄い歴史好きがいて、郷土史紀行なる小冊子を刊行している。50巻以上になっていると思うが、ちょいちょい買って来て私も読んでいる。大変面白いし、参考になる。
ここ迄行くともう本物だ。学者と言っても良い。
歴史好きといってもいろいろな分野もあろうし時代もある。簡単には片付けられない。
今ここでその先を論ずるのは大変だから罷めておこう。

先の戦争のことを私はいろいろ書いているが、考えてみるともう歴史の一端に差し掛かったかもしれない。半世紀以上も経っているのだから。生き証人が居る間はまだまだと言う人があるかもしれないが。

私が子供の頃話し好きな伯父さんがよく大竹戦争(長州征伐)の話をしてくれた。そんな昔の話を聞いた所でそんなに興味は無かったが、刀や槍を拾ってあるいたものがいたなどというのは実感があった。山一つ向こう(直距離3キロ程度)が戦場だったのだから。
百姓の家に沢山の槍、刀が蔵の中にゴロゴロしていたのを実際に見ていた。
大竹戦争は1866年のことだから、話を聞いた私が10歳(1930年)頃だし、その時は6、70年前の話だったわけだ。

私が戦地に携行して、敵に斬りつけた軍刀もその中の一つかも知れない。

いつか話した第6号潜水艇(1910年沈没)なども、その証拠品の変転の激しさを思うと、追い求めた私から見ればやはり歴史と言わざるを得ない。今から数えるともう百年になるのかなあ。

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2009年10月 4日 (日)

リスボン条約なるもの

夜半空がよく晴れて満月が中天に輝き、昼の様に四方がはっきり見えた。久しぶりに見た夜景に感動した。

今朝7時、気温13度ちょっと驚いたな。うなぎ下がりだ。
秋の深まりが早すぎる気がした。
スマトラの地震による死者は5百人を超えた。お蔭でサモアの情報はパッタリ消えた。薄情なものだ。

欧州の国家統合を決めるリスボン条約が、小国の主権侵害を恐れていたアイルランドの再投票で僅差で承認され、発効が大前進した。
ほんとの一枚岩になれるかどうか、小国民族独立の世界的風潮に逆らってのこの企てが果たして成功するのだろうか。
通信、交通時間の縮小により、行政単位の無駄は排除されつつあるが、一国単位では問題ない。
が、言語、人種の違う国を統合しての行政単位作りがうまく行くのだろうか。

核廃絶はアメリカの提唱により15ヶ国が満場一致賛成した。だが北朝鮮、イランは蚊帳の外である。
仮に核がなくなっても、武器使用は制限されない。より精巧な武器はまだまだ作られそうである。
F35が欲しいなら、性能情報だけでも10億円だとアメリカはいう。この戦闘機も進化の一過程にあるだけである。
宇宙支配、宇宙からの侵略はまだ初歩段階にも入っていない。が重要指向に入っている国はすぐ側にも居る。

人類の争いは口で言う程美しくはない。陰湿で誠に醜い。

昼は天霧でうどんを食べる。スパークで買い物をして帰る。
天気は申し分ない。

一週間先のお祭り準備でしめ縄を張ったり、天がいを分配したり、家内が生真面目に班長仕事を努めているので、見かねて老骨に鞭打たざるを得ない。裏の上野さんがこれまた見かねて応援に来てくれる。小一時間もあれば片がつく。後はそれぞれの家に任せる以外に無い。
明日からまた天気が下り坂というけど、どうなることやら。

子供が少なくなって、ここ2、3年町内の子供神輿の巡幸はなくなったのだが、合同の神輿が一本町内を抜けるとは言ってはいたが。
今年は新しい公民館が出来たり、そこで衆議院議員の投票が行われたり、老人ばかりの町内も少しづつ様変りしている。このしめ縄なんてのも何時迄つづくことやら。

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2009年10月 3日 (土)

パンダの糞の細菌

気温16度で快晴。漸く秋らしい天気に戻る。
家内は昨日同じリウマチを2カ所で診る事は出来ないと内藤医師から断られた由。
家内は一応記念病院でリウマチは診てもらうことにするらしい。でも風邪を引いたら来なさいと内藤先生にいわれたとも。

私が予想した通り7年後のオリンピックはリオデジャネイロに決まり,東京は落選した。
南米では初めてだから当然だろう。シカゴは再三のアメリカだからどこも食傷している。東京も二度目だから仕方がない。しかも前回北京でやって,アジアはもう暫くはいいと思うだろうから。

ブラジルは今大発展しているというし、邦人が沢山暮らしているし、いいじゃないの、しっかり応援して上げたい。ポルトガル語の国というのも何となく嬉しいね。
種子島に鉄砲を持て来てくれて,そのせいもあって戦国時代が治まったし、ポルトガルには不思議な因縁を感ずる。
マカオを中国に返還して,今植民地が一つもないと国だという事も好感が持てる。
まだ世界には領土を拡張しようとして、あくどく小さな小島迄横取りして返そうとしない国があるというのに。
ポルトガルも日本も一頃は領土拡張に熱心ではあった。
いつかしっぺ返しを食らう時期が必ず来る。

今日の新聞でもう一つもっとも愉快なニュースがあった。北里大学の田口教授がイグ・ノーベル賞というのを貰ったという事である。研究成果はパンダの糞に生息する細菌がごみの95%を水と二酸化炭素に分解してくれるというのだ。発表会の席で千人の聴衆に笑いが起きたというが,私も嬉しくなって笑っちゃった。

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2009年10月 2日 (金)

今日も雨

昨夕から降り続いているらしい雨が,ベランダを叩いている。外を覗いてみると6時半現在気温23度と相変わらずの暖かさ。
台風17、18号の影響らしい。
本土上陸は一度も無かった今年も今度はどうやら免れ得ないようだ。二つも並んで来てはねえ。
台湾やフィリッピンが前の台風でやられて、死者が出、大被害が出ているが,今度はこちらの番かも知れない。
一昨日、昨日はサモアとスマトラで相次いで大地震が発生した。死者はどちらも数百人以上が予想される。
只ならぬ雲行だが,地球大変動の兆しとは早とちりかな。
いくら人間が賢くてもこればかりはどうにもならない。

今朝便が糞詰まりの状態でどうしても出ない。
一旦はあきらめて、一寝入りして10時頃起き出してトイレへ駆け込むと今度は何事も無くするすると出る。我ながら変な感じ。老体とは自分でも制御出来ぬからだなのか。

午後になっても雨は降り続く。
家内が内藤内科で血液検査があるというので車で送る。

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2009年9月30日 (水)

佐久間第6号潜水艇々長

昨日から降ったり止んだりが続いている。今朝7時の気温は22度。
暑気いまださめやらずといったところか。

昨日の高齢者講習の疲れがひどく今朝も7時迄ぐっすり眠る。よほど緊張したと見える。

今日の産経netviewを読むと,人物講座の欄に「佐久間勉 艇内で部下思う遺書」という表記で,私には懐かしい佐久間艇長のことが書いてある。
私の郷里のすぐ沖合で明治43年4月15日沈没して亡くなった第6号潜水艇の佐久間艇長以下14名の殉職事故の事である。

勿論私が生まれる10年前の事だから事実は知る由もない。
しかし子供の物心ついた頃から毎年行われる,新港の記念碑の前でのお祭りに母に連れられて約一里の道を何度かお参りのために詣でた思い出がある。
折から桜が満開で、海岸の岩こぶの頂上にある記念碑からつづく山に植わった花を見るのも楽しみであった。

江戸時代からあったらしい、新港と呼ばれる小さな港は岩国藩の上方や江戸に向う海上利用の関門であったらしい。
記念碑はこの新港の北の端に隣接していた。大小の舟が停泊していたのも子供には珍しい光景ではあった。
せいぜい帆船で、蒸気船のような大きなものはなかったし、港には入れなかっただろう。
港と言っても石を何段にも重ねた”がんぎ”に舟を着け乗り降りしていた。内海の島々に沢山あるスタイルの港である。

後年満州の会社に就職した時,同じ課にたまたま学校の8期先輩の長谷川さんが居られた。
兵隊に行く迄の8ヶ月間随分公私ともにお世話になった。入隊した後にも一度出張で新京に行った時,お宅に泊めて貰って奥様の手料理をご馳走になった事があった。

終戦後ある日突然その長谷川さんから手紙をいただいた。呉で第6号潜水艇の記念行事があるから出掛けるが,不案内なので案内して欲しいという事だった。
よく聞けば艇の次席の長谷川中尉が叔父さんに当たり、自分が一番近い係累だから招待を受けたという事だった。

記念行事は呉の記念公園にて行われた訳だが、潜水艇のその後の在処は知る人がなく、見たいという長谷川さんと一緒にあちこちと訊ね歩いた。
米軍が鉄くずとして処分したというのが大方の意見だった。

後日江田島の第一術科学校の校庭にある事がわかったが、宮崎県に住んでいた長谷川さんには訪れる機会はなかったのではないか。

こうした因縁のある第6号潜水艇だが、私自身は幸い2度艇に面会する事が出来た。小さな艇でよくも14名も入って勤務出来たものだと今でも不思議な気持ちである。私自身も中学生時代当時潜水学校に置いてあった艇の中に入った事があって、その窮屈さを実感していた。

佐久間艇長の沈勇さは教科書に載ったほどで、世界的に賞賛された行為だが、部下も当時の最優秀な軍人達だったらしい。長谷川中尉も兵学校卒業第2位の成績だったとある。

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2009年9月29日 (火)

高齢者自動車運転講習

今朝6時の気温は24度と夏がぶりかえす。
天気予報で雨を覚悟したのだが,7時半まだ降っては居ない。しかし朝靄に包まれて島影一つ見えない。そのうち降り出して来るかもしれない。

高齢者講習に出掛けるので早く起きたのだが早すぎて時間があるので、こうして日記を書いたりしている。

8時10分に家を出てバイパスを行く、一番乗り。
一緒に高齢者運転講習を請ける人6名、うち私だけがこの制度が出来てから3度目,2度目の人一人、後4人は初めてというのだから,皆70台である。若くて溌剌としている。
兵隊にいったのも私一人、休憩雑談の時皆驚いている。

認知機能予備検査は-1796点で問題ないと言われる。
しかし運転適性診断は総合評価3でまあやっと合格点といったところ。
自分でも驚いたのは夜間詩力61秒以上でもう夜間運転は要注意とある。
動体視力も0.2で平均以下である。
しかも視野角度に至っては117度とこれまた平均以下で余程ゆっくり走らないと危険だということだった。

運転実習も30年ぐらい軽自動車オンリーだから,大きな試験車のコロナには手こずる。車庫入れは一度では無理だった。然も初めてのオートマだから勝手が違う。感覚が鈍るばかりの3年先にはとてもまともな運転は出来ないだろう。

停止視力が0.8あるので辛うじて免許更新は可能だが、どうやら今回限りという事になりそうである。
齢90にして,70年に亘る自動車とのお付き合いもお別れしなければならない。
やはり死んだ方がよさそうだ。

家内も市民病院から午後3時頃に帰って来る。随分人が多くて待たされたらしい。
結果は大した問題は無くよかったようだ。
次の機会に簡単な手術で済むとのことだった。

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2009年9月28日 (月)

久原房之助伝

今朝も気温は22度(6時)、雲多し。

久しく通勤路を走った事が無いので,明日の高齢者運転講習に行く早稲田自動車学校への道筋を朝8時に出て,どのくらいかかるか試運転をして見る。
五日市駅前迄は10分ほどで順調に行けたのだが、八幡川橋を渡ると左へ曲がれと表示がある。まっすぐ行かないと学校には行かれない。仕方なくバイパス迄1キロばかり引き返す。
暫く考えて,旧国道に出ることにして、川の左岸を下って国道まででる。鈴が峰学園前から左折して、また先程の一方向区間を過ぎた所から最初の道に戻り学校にやっと付く。それでも30分かかっていなかった。
一応ひと安心。
旧国道に始めから出ればいいのだが、JRと広電の線路を二度越えなければならず、渋滞がひどいのがいやなのだ。
やはり老いると事前準備が必要な事を改めて理解する。
これで明日は大丈夫だ。

家内は広島市民病院でリウマチの検査の電話が入る。明日の10時半と云う。
記念病院の紹介だとの由。
明日は二人とも朝から忙しい。

正午過ぎちらちらと降り始める。
南風も強くなる。
大した雨ではないが降ったり止んだりで暗くなる。

古川薫の久原房之助の伝記を書いた「夢はるかなる」を読む。
名前はよく知ってたのだが、政界で怪物と云われたことだけで、小坂鉱山、日立鉱山を立ち上げた銅成金だとは知らなかった。
昭和初期私の幼少期に既に名を成していた人だった。
226事件の裏幕とか云われて悪人呼ばわりされていた様に思う。この本により思ってたとは全く反対の人物だと良く理解出来た。父親が暗殺されたり,親戚に疎外されたりしながらも奮起して立派な実業家になったひとだった。
政治家としても井戸塀だったことが嬉しい。現代の政治家どもに爪の垢でも呑ましてやりたい。

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2009年9月27日 (日)

集団自殺行為の脅威

昨日午後2時過ぎ、家内がアルパークに行くという。お供をして出掛ける。
次いでの29日に行く自動車学校を見て来ようと思って,下の国道を行く。
場所を勘違いしていた事に気づく。それでもこちらを来てよかったと思った。
3年前に行ったのだが、もうはっきりとは覚えていない事がわかったでもよかった。

他に用事はないのでぶらぶらと付いて歩く。
子供連れが凄く多く、すぐに酸欠状態のような気分になる。
心臓に悪いなと思いながらそろりそろりと歩く。

最後の食料品は歩くのをやめて、腰掛けて待つ。
二十分でも待っただろうか、結構永い。
やれやれという思いで車に乗る。家内が又待たせる、喉が渇いたと云って缶ジュースを買って来る。

楽しくはないものである。

疲れて帰ったその晩、訳の分からぬ夢を見た。青い制服の群れの中におさまり、最後は自分の所属が判らなくなり,迷い歩くといういつもよく見るパターンである。
驚いて目覚めて、ふとあの世とやらがこんな具合かなと思ったりする。
無数の魂がさまよい歩いていて、知り人に逢うなどは考えられない。
もとより来世を信じていないので、言ってみるだけだが、宗教家が来世のことを説くが、その通りとしても、夢のごとくどうにもならない世界にはちがいない。

地球上の動物が集団自殺するという話は時々見聞きする。
世界の首脳達もその恐れを実感し始めたようだ。一番手っ取り早いのが原爆による自殺テロである。
原爆はもう誰も,何処の国も持ってはならない。いや作ってはならない。
世界一の保有国であり、唯一の使用国であるアメリカの大統領が言い始めた。
イラク迄は強引に持たせない事にしたが、そのためには大変な犠牲を強いられた。
朝鮮も駄目,イランも駄目、次はもう出来ないと悟った。
保有しない方向に向かざるを得ない訳だ。

ロシア、中国が従うかどうか。問題はここにかかる。ここ1年みものである。実行はその先だ。

しかし何時の日か集団自殺的脅威は残るのでは、過剰人口を支える有効な手だてがあるとは思われない。

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2009年9月25日 (金)

鳩山首相国連で演説

昨日昼前内藤内科に行き診察を受ける。前回の血液検査結果はガンの恐れなく、異常なしと云われる。

立ちくらみは年齢相応で仕方が無い。血圧が108/60なれば低すぎて、なほひどくなる筈だとの事。
診断を待つまでもなく、今年の春頃からたちくらみが激しくなった。
何気ない立ち居がうまくゆかない。かならず何か二手をかけてするように心がけるしか無い。

家内は今朝9時に出て、予約してある記念病院に出掛ける。

朝から日射しが強く,気温20度と又暑さがぶり返した感じ。昼中には30度に達するかもしれない。
鳩山首相さすがに英語は達者と見えて、国連演説原稿棒読みながら無事やってのける。
日本の総理ではうまい方であろう。

オバマ大統領といい、どこやらの女性総理といい、顔ぶれも多様化して面白い。時代の移り変わりをしみじみ感ずる。若干小粒化したかな。

先般テレビで「白州次郎」をやってたが、近衛,吉田、白州などあの時代だから目立ったのだろう。
今の時代では、鳩山などはさだめし近衛の亜流で吉田にはとてもなりえないだろうな。

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2009年9月23日 (水)

洞雲寺まで散歩

私たち夫婦は並みの人間と思っていないので,連休の行楽は勿論遠慮する。
それでも家内は一昨日の敬老会に出て、久しぶりに近所の人の目に触れ、声をかけられた由。
どこ吹く風と全国の交通機関の渋滞などをテレビで見聞きする。
こんなのを見ると景気は良くなったのではと錯覚するが,下には下があるとみえ、明日の糧にも苦しんでいる人もあるやに聞く。腹立たしいことである。

昼前妹の家に行き一緒に食事をしに出る。駐車場が凄いラッシュで一番空いているメルパルクに入り、そこの食堂で食事をする。
家内は哲郎君の娘の結婚祝いをことづける。
デオデオに行きデジタルカメラを妹が一つ買う、ヂスタンスが7倍あるというので気に入ったらしい。
妹が持参した音響補助装置を修理してもらうというので付き合ってるうちに家内も一つ欲しくなり、同じものを買い求める。
センターで別れて帰る。相変わらず妹は元気そうだ。

今朝家内が運動がてら洞雲寺あたりまで歩いてみないかという。曇り空で雨の心配はなさそなので出掛ける事にする。
家内の友達の角さんの裏を通り抜けて洞雲寺に一応お参りする。秋分の日だから門も大きく開きお堂の中を拝めるように手配がしてあるようだ。
参詣者はほとんどないが、ときどき車が入って来る。

洞雲寺から道路工事中のところを、幸い休日で誰にもとがめられる事無く,見て回ることが出来た。お茶の先生のお宅は既に立ち退かれて跡地は草ぼうぼうの野原になっている。

そのうち大陽が雲を通して日射しをなげかける。普段馴れない散歩だから足は何でも無いが身体がほてって汗びっしょりになる。途中からカラーシャツを脱いで,肌着だけであるく。
それでも途中蔭があれば隠れ,腰掛けられるところがあれば腰を下ろし、えっちら、よっちら我が家へ帰って来た。

行きには迫さんの老夫婦に声をかけられたが、帰りは誰にも会わない。1時間半の散歩だったがすっかり汗ぐっしょり,疲労困憊する、早速シャワーを浴びて着替えなんとか元気を取り戻す。

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2009年9月21日 (月)

都市集中と地方過疎

灰色一色の空だけど雨になる気配はない。気温18度。
また今年も敬老の日だと云う。嫌な日だな。女子は25%,男子は21%がそれぞれ日本国民に占める割合とか。正に老大国だ。活気がなくなるのはしかたないな。
祝祭日なんて喜んでいる場合ではないのではないか。

昨日は午後1時頃山陽高速道路が広島ジャンクションから河内ICまでに34km、防府IC-熊毛IC間29kmの渋滞が続いたという。やはり早まった低料金下は考えものだな。休日だけというのもおかしい。

無理の無い,公平な低料金化というのは無いのか,智恵をしぼって貰いたい。

最近地方分権化の声がやかましい。かねがね私は東京一極集中は良くないと思っている。
もし大震災がまた起きれば戦争の被害と同じいやそれ以上の日本の大損害を招くだろう。
国家は起ちなおれなくなるかもしれない。少なくとも首都機能は早く移転させて置くべきである。

東京だけでなく大都市集中は抑制しなければ駄目だ。法的な規制をすべきだとも考えている。地方の過疎化は主原因は都市集中である。共産国家の中国でも同じである。
防ぐには強制力となる法的規制による以外は無いだろう。子供に給付をするように、地方に特典を与えたりするのである。
この際は人口比率で代議士を選出する制度では駄目である。少なくともアメリカのごとく参議院は一都道府県2人と固定すべきである。

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2009年9月20日 (日)

高速道路無料化の是非

早朝からほとんど雲の見えない好天気、気温17度。
布団を日乾する家多し。
家内も洗濯物を欲張る。

テレビ報道では、高速道の大渋滞が各地で続いているようだ。5月の連休に匹敵するとか。
今後とも正月、盆、そして春秋の連休と大渋滞の年中行事となるだろう。

高速道路の無料化は議論が多いところだが、やはりすぐやるのは問題かもしれない。
また有料化に逆戻りする公算が少なくない。というのは却って交通不便化をもたらす懸念が多いからである。
高速道が今の倍以上にでもなれば、複線化し進路変更が容易になり、渋滞を避けられそうだが何時の日の事になるやらである
千円にしてみて、その利害は既に明らかである。
ガソリン浪費を助長し、温暖化現象に拍車をかける事になる政策は、世界から指弾を受けそうだ。

利用者に応分な負担を求める事は,世の正義に反しない。
料金の程度を経済事情に合わせて、上下させればいいのではと思ったり。
せっかくETCという制度があるのだから、頻度が高いもの或いは金額が多いものには割引があるとか、そう難しい問題ではあるまい。

更に云えば都会集中を避け,過疎地を少なくするにはまだまだ高速道路は必要である。むしろあり過ぎるぐらい作る方が良い。建設事業による経済活性化はもちろん雇傭の拡大にも繋がる。
亀井議員のいう郵便事業の不便地を無くするにも役立つだろう。
ただその財源を税金だけに頼るのはやはり公平の原則に反しそうだ。

日本全国どこにいても同じような暮らしが出来る理想郷つくりは目指せないものか。

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2009年9月19日 (土)

軍国の母の覚悟

気温19度とやや戻る。台風14号は小笠原から北東へ転向して影響はないのだが、熱気だけはもってきたのだろう。

鞠子からカメラを買い替えたいと相談してくる。以前私がくれてやったのが故障して使えなくなったという。最近富士山観光に行って使えなかったので残念で、買い替えたのを持って、また行くつもりだと云う。特に湖の水芭蕉が良かったのにと。富士山も曇って頂上は見えなかったと。私より二つ下だけなのに、元気のいい事である。
近所のカメラやとデオデオとどちらがいいかというので、どちらでも同じようなものだよと答える。

そのすぐ前に尾瀬ケ原に行くつもりで東京の娘を誘ったが、日光迄云って尾瀬にはつれて行かなかったと悔しげにいう。老人の足では無理だと娘が気を聞かしたのにと内心でつぶやく。

今朝から風がかなりきつい。
やはり台風の余波だろう。

私が世田谷の陸軍自動車学校にいるとき、この妹を連れて母が私に会いに来ていたということを、今朝妹の電話の中で聞き知って驚く。昭和21年12月の話である。もう63年も前のことである。
その翌月の元日に又学校に訊ねて来た。
この時はびっくりして急遽外出許可を貰って東京の街に一緒に出た。学校も休みの日だった。終日宮城前から初めて、市内を歩き回り門限迄に帰営したことを憶えている。

あの頃は東京迄は早い汽車でも15、6時間かかった筈である。
その前に大連から私は一市民に頼んでこっそり手紙を投函して貰って、大連を今から起って日本に帰るからと知らせた。母は門司に着くものと、はや合点して、妹をつれて門司に行き到着を待ったらしい。
軍用船だから(私は普通の連絡船だと思っていた)門司には着かないで、宇品に入港し、似島で検疫の後上陸して、市民の歓呼の中を広島駅迄歩かされた。もちろん別仕立ての列車で上京した。
こちらは広島市中を歩く間中きょろきょろと母の姿を捜したが、門司に行ってたのなら見つかる訳は無かった。
母の執念は恐ろしい。我が子の顔見たさに今度は東京までも出て来た。丁度12月初め頃は富士の裾野で演習があって、そちらに行っていて、学校の門ですげなく追い返された。そして又一月もしないうちにまたやってきて、今度は正月休みを狙って訊ねて来たのだった。

考えてみると運悪く私が戦死でもしたなら、今生の別れになったかもしれなかった。
出征の日でもしっかりやれよと涙も見せずに激励して送り出した気丈な母だったが、そんなに何度も遠路をいとわず訊ねてくれたかと思うと、こちらが暗然とする。

学校(幹部候補生隊)を3月卒業して帰宅すると軍刀をどこかでしつらえて待っていた。
父を入営の前々年に無くしていた。母のなみなみならぬ覚悟を今更思い知った。
立派な軍国の母だった。顧みて私の甘さ加減と意気地無さが無性に情けない。

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2009年9月18日 (金)

脱官僚主導ということ

今朝も6時半気温17度、昨日の午後5時半からずーっと17度だったのだろうか。不思議な気がしたのでもう一度寒暖計を手に取って見直す。やはり17度だ。
夜の間13時間も同じ温度という事があるのでしょうか?お天気博士様。

子供の頃歳老いてから目の見えなくなった九一郎伯父さんがよく昔話をしてくれたことがあったが、岩国との町境にあった招魂場の山におさんという狐が居て、よく人を化かしたとその手口を聞かされたものだったが、今朝はもう2、30分も前から寝てるのか起きてるのか夢見心地で私もおかしい。
とうとうわたしもいかれたかな。

伯父は”和木の与三郎に岩国のおさん”と賢い狐の名前を呼んでいたが、時々聞くあちこちの民話でも同じような名前が出て来る。どうやら江戸時代からの日本の伝説を地域にこじつけたらしいのだが。

明日から5連休とあって、金が要ると困るので下の県道の交差点にあるATMにゆき預金を引き出す。交差点の車の往来が激しいのが気になったが、何とか簡単に済ませる。
他店の銀行のATMだから今迄は手数料を取られていたが、最近はそれがなくなり、だんだん便利がよくなった。
それにしても5連休というのは度が過ぎるのではなかろうか。

民主党政権の人気が上がっているらしいが、脱官僚主導というのがどうもよくわからない。
今度選ばれた代議士にしても、従来からいる代議士にしても、その道その道で、担当の職員に比べたら技能の差は歴然としている。一から学ばなければ何にも出来ない筈だ。
三権分立が最良というつもりは無いが、古来素人が口出しして物事がうまく運んだ試しはほとんどない。いやしくも国、いや国民の運命を左右しかねないことに運任せの政治をしてもらいたくない。
専門家に任せた方が良いのではないかと思ったり、やはり争点になるわけか。

やり始めたら、投げ出したりしてもらうとひどい目に遭うのは国民だから。こころしてやってほしい。
私自身官僚も信頼出来ないが、代議士もそれ以上に信頼出来ないので。

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2009年9月17日 (木)

奇跡の不沈艦「雪風」

朝から青空いっぱいの快晴、6時半気温17度。

井上に東京から送って来たものをお裾分けして届ける。今日は孫や曾孫も顔が見えないので寂しい。長居しないで帰路に着き、アルパークに立ち寄る。
大して客があるようでも無い。
買い物と食事をする。食堂でくじをひけひけ云うので引くと一等があたる。もう一度なにか只で食えるらしい。

本屋に入って本を探していると”奇跡の駆逐艦雪風”というのが目に入る。
あ、これは今田君が編集したニューギニア戦記に出て来るあの駆逐艦だと気づく。
手に取ってみると、帯封に「神宿る」日本海軍屈指の強運艦と書かれている。
緒戦のスラバヤ沖海戦から最後の沖縄の大和特攻作戦迄戦い抜いて”不沈の航跡”を残したことで名高いとある。
そういえば私が書き写している戦記の始め頃ダンピール海峡で輸送船8隻を護衛した8隻の駆逐艦の中に入っていた。全輸送船と4隻の駆逐艦が撃沈させられたうち残った駆逐艦4隻の一つが雪風だった。
早速買って帰る。

戦後復員に従事したという、そういえば私は戦後上海から生き残りの駆逐艦で帰国した。武装は解除されていたがあれが雪風だったかもしれないなと懐かしい。

本のあとがきに、この船は昭和22年7月中国に引き渡され、中国海軍の旗艦として再就役したとある。私の帰国したのは22年6月6日だったのだが。

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2009年9月16日 (水)

鳩山由紀夫内閣発足

朝7時気温16度と冷たい。雲は殆ど見えない、快晴だ。

最近目に見えて食事の量が減って来た。食欲がどうのということではないらしい。胃袋の老化で弾力性がなくなったのではないかと思う。膀胱にしてもそうだ。1、2時間に一度は便所に通うというと、内藤先生は前立腺のせいだと言って薬をくれた。1週間ぐらい飲んでるのだがいっこうに変わらない。これも老化のせいと思うのだが。

胃袋の方も今はおやつを入れると一日4回食事をしている。量は減っても、体重も変わらないし、少し便秘気味になる事はあっても胃腸の具合は悪くない。
ただ食べ残しが多くなり、調理したり、片付けたりする家内には気の毒なのだが、長年の習慣で急に調子を合わせる訳には行かないらしい。
外食するときなどは遠慮なく残せるから気が楽である。

そんなところへ、昨日は東京の娘が鳴門金時や豊水梨、わかめなど沢山送って来る。老夫婦では勿論消化不能である。幸い近所に子や孫がふえたので手助け頼めるから、まあいいが。

今朝パソコンにスイッチを入れると早速ソフトのバージョンアップを云って来る。iTunes,Quicktimeなどである。メーカーが気を利かしてのサービスなのだが、やりかけた仕事を中断させられる。
気短な老人には少し迷惑なのだがこれまた仕方が無い。

鳩山内閣が発足した。本県から亀井さんが大臣になった。郵政担当で早速民営見直しに取り組む訳だが、粘る西川社長との丁々発止はみものだ。強面の亀井の筈だが、大臣になったからと云って、やたら福笑いは止めてもらいたい。

高速無料化で33%一酸化炭素が増えるという。新総理の公約25%減は大丈夫だろうか。
電気自動車だけ無料とすればいいのだが、それでも公約違反になるのかな。

今日の国会で総理大臣が選ばれた訳だが、あらためて議員の多さにいささか飽きれる。
アメリカでもこんなにはいない。小さな日本で経費はかかるし、こんなに沢山は必要ないのではとつくづく思う。公務員の整理も必要だが国会議員も今の半分でよい。
実現は自分の首を絞める事だから、当然非常に難しいことだが。革命でも起きないと駄目だろうな。

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2009年9月15日 (火)

あじなのたくあん

雨は暗いうちに止んでいるが、雲が深くていつまでも夜が明けない。
7時を過ぎて目覚める。もっとも夜中に起きて2時間ばかり「ニューギニア戦記」をコピーした。

イチローが大記録を樹立した。百年ぶりという。
朝鮮にも、台湾にも優秀な大リーガーは目白押し。マラソンはもうアフリカ勢の独壇場。
大相撲などハワイ、蒙古からの外人に占領されっぱなし。
素材的には人間は地域人種格差はないことが立証された。

台風シーズン到来とあって、天候やや不順。ここ1ヶ月くらい8号から15号迄ひっきりなし。
直撃がないので助かってはいるが。

午後家内のお供をして近くのスーパーに食料を買いに行く。
けつについてうろうろしていると、私の好物の阿品のたくあんが目についた。早速取り上げて家内の籠に投げ込む。
このたくあんはどこにもある品物ではない。しかし私が幼少の頃から知っている名物のたくあんである。
これと同じ味のするたくあんを戦後間もない頃帝釈峡でキャンプした日の翌朝茶店で売ってた事があった。凄くおいしかった。
その後何十年かして観光で訪れた時、尋ねた所それを生産していた農家がなくなって今は出来ないとの事であった。これは鍾乳洞を利用して生産したものだとの事だった。

この阿品というのは、私の郷里の家から3里程山の中に入った所にある弥山という霊山の下にある部落の名前である。数年前に「あじなのたくあん」という名前で特定のスーパーでだけで売り出されているのを見つけて買い求め始めた。
ほとんどの店には置いていないので、当初は随分探しまわったものである。しかも時期が限られてほとんど夏だけの商品である。

最近は知ってるスーパーのうち3軒で売り始めた。ただすぐ無くなるので、何時もという訳には行かない。運が良ければ買えるという代物である。

阿品の弥山には小学生の何年だったか、遠足でつれて行かれた事がある。十人足らずだったから希望者だけのものだったろう。帰りはみんなへとへとになり、歩けなくなって泣き出すものも居た。暗くなって一人一人先生が家迄連れて行った事を憶えている。
山は20丁程度の高さの山で、今も知られた山だがその後行った事は無い。

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2009年9月14日 (月)

献体者の総会

気温18度(午前6時)。
来月の白菊会の総会に出席を予定していたが、役員選挙とか余り関係のない事が多く、1時間半も行事があっては体調が持たないかもしれないので欠席する事にして返事をしたためた。
2500人も会員がいて、例年出席者が千人近くいるらしい。私のようなよれよれが出る所ではないようだ。どうせ焼却場で焼く程ならと軽い気持ちで応募した献体だから、俗世間にしゃしゃり出る事もあるまい。

死んだら灰を海にでも撒いてもらったらいいと思ってるぐらいだが、たまたま市役所(まだ町役場だったかな)が墓地を作るから希望者は申し込めと言って来たので、いずれ死ぬのだからと申し込んだ所抽選が当たってしまった。何年か前になっていつまでも放っておくと没収するなどという噂があったりして、墓も作ってしまった。入らなければ仕方がなくなった。
家内は場所が遠くて不便だと機嫌がよくないのだが、今更どうしようもない。

葬式も大げさなのは嫌いだから、やらないで死んだらすぐ電話をかけて白菊会に引き取ってもらえば良いと思っているのだが、家内や子らが聞いてくれるかどうか、死んだ後では私の手ではどうにもならない。

毎日もう永くはないなと心待ちしながら寝起きしているのだが、考えてみると死ぬ前に後始末をしておかないと、困るだろうなと思う事がいろいろあって、自分で始末をつけるのが一番良いのだが、何時やるかとなるとなかなか決心がつかない。

日が経つのが早いのか遅いのかよくわからない。
あっという間に運転免許証の更新時期が迫って来た。生きてればまだ無いと困る。
もうやめたといえば切りがつくのだが、生きていれば、生きて行くのに困る事が多すぎる。決心のつきかねる所以のものだ。

今やってるこのブログにしてもそうだ。ニフティの会員登録を止めてしまえば一遍にかたがつくのだが、やりたくてやってる以上登録を抹消する訳に行かない。病気で倒れでもしないと止められない。
病気が重くて登録抹消が出来ないということになるとやはり困る。
自分で始末をつけるという事は考える程簡単では無さそうだ。
ガンにでもなってあと何日の命と宣告してもらうのが一番なのだが。

イチローが先程(10時半過ぎ)9年連続200本安打を達成した。テレビ中継でその場面だけ丁度見ることができた。
たまたまネットのホーム画面で後1本と出ていたので、いそいでテレビのスイッチを入れた。BS1で中継している。入れた途端丁度イチローの打席、内野ゴロ駄目かなと思ったら足の方が速かった。
取った内野手が間に合わないと判断して、一塁に投げるのを止めていた。

スタンドはがらがら、日本国旗を振ってるのが見える。こんなの生中継してるのは世界でNHKだけだろう。
俺まだこんなことを気にしている。とてもすぐには死ねないな。

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2009年9月13日 (日)

第35回さざん会開催あぶない

空は灰色に包まれているが、良い天気になりそうだ、日射しが明るい。
気温は18度。
下剤の作用も治まって、今朝はお腹は快調だ。普通に食事をする。

西隣のお宅はもう十日以上も夜明かりが見えない。昼間もカーテンが閉まり放しだ。どうしちゃったのかな。班も違うし、通路はずーっと南を廻って何百米も行かなければいけない。家はブロック塀一つで遮られただけだが、声をかけるにも相手が見えない。近くて遠いお隣さん。変わった事がなければいいが。

昔当時東となりに住んでいた家の奥さんから、貸家の一軒が何月も家賃を払わないし、鍵をかけたまま留守だし、鍵を壊して取り替えて欲しいと頼まれた事があった。

鍵は開けたのだが、もう一つ中から掛け金がしてあって、中に誰か居る感じである。これ以上は戸を壊す以外に無い。
鍵穴から覗いても、中は格別変わった様子に見えないし、何の臭いもしないし、丁度そこへ郵便配達の人が来たので一緒に臭いをかいだり、中を覗いてもらったりした。
仕方が無いので奥さんに警察に頼まれたらと言ってさじを投げる。
結果はコタツに入ったまま何月も前に死んでいてミイラになっていたということがあった。
あの人は一人暮らしの若き女性だったが、このお隣さんは家族何人もいる家庭だからなあ。

布団をベランダに干したのだが、雲が大分出て来て油断がならない。
昼前になって干すのを止めて納める。

藤本の次女の結婚式には、家内一人出席にして、私は健康状態が今ひとつだからと、招待をご辞退申し上げる。

坂口君もさざん会のことは何も言って来ない。インフルエンザのこともあるし、勝手に取りやめにしたのであろう。まあ仕方がないな、私が幹事でもそうするだろう。

昭和20年代終わり頃だったか、まだ焼け野が原に近かった広島の当時広島カープの合宿所だった皆実寮(シーズンオフだった)を借りて、近くのものが連絡を付け合って初めて集まり、昭和32年、34年にやはり広島で、33年一度山口で準備会を開いた後、昭和35年5月21日に第1回全国大会と銘打って脇君が幹事で全国に呼びかけた。先生3名を入れ41名が湯田温泉の水野旅館に集まった。
爾来48年間、昨年の小郡大会で第34回となったのだが、今年予定の35回が来年に繰り延べられる公算が大きくなった。

幹事になり手が無ければ、終わりになるかもしれない。去年も出席者5名だったからもう年貢の納め時かな。
いや、浜田の土田君がガンを克服出来れば幹事をやってくれるかもしれないのだが。

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2009年9月11日 (金)

我が身の秋

朝6時20分気温19度、少し雲が多いかな。青空も見える。
昨夜は早くからベッドインしたから、よく眠れて気分は爽やかである。
予報では曇時々晴、最高気温27度とある。過ごし良さそうだ、

DVDで録音した音楽を聴きながらのパソコン記帳である、今はラロのスペイン交響曲をやっている。バイオリンは松山冴花である。朝向きではないかな。
まあ、音楽なら何でも良いか,聞きながらなんだから。

今日から半袖を止めて長袖を着る。もう暑くはならないだろう。
やたら内出血して赤黒い斑点だらけの腕を人に見せないで済むし。

こうして毎日つまらないことを思いつくまま書き綴っているのだが、一月纏まると結構長いものになる。
習慣だからなんでもないのだが、今書き写している「ニューギニア戦記」となると大変だなあと毎日くじけそうになる。日記の3ヶ月分くらいだろうと思うのだが、間違いない様にと思うと結構しんどい作業だ。

しかしこれを書き残した吉田武中尉殿や編集した今田君もえらいなあと改めて感心しながら自身をむち打っているわけである。

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2009年9月10日 (木)

行き違い

放射冷却現象か気温17度と薄着では寒い。雲殆ど見えず。青空今日もすがすがし。

家内が墓の掃除に行こうという。
折から日射しが強くなり、墓迄言ってみると大変な暑さだ。
両隣の墓地はまだ墓が建ってない草畑だ。特に左側の墓地は永らくほってあるらしく,草の繁殖が並みではない。
5、60cmも伸びた草がうちの墓に覆いかぶさって大迷惑である。
引き抜こうとしたがとても私の力でどうにもならない。鎌でも持参していればと思ったが後の祭り。

草けずりで一生懸命叩いて何とか一部を切り取る。腰を屈めてふうふういいながらやってると,急にくらくらと目の前が暗くなる。こりゃいけない、倒れるぞと急いで通路の側の石垣に身を寄せる。
しゃがみたくなったが、しゃがむと起てなくなるのでそのまま石垣に縋る。
自分の墓の前で死んではあまりに都合が良すぎるなと思ったり。
暫くしていくらか良くなったのでまた作業にかかる。またふらふらする。暑いのがいけない。

家内は元気に草を抜いたり削ったりしている。20分もするとあらかた片付く。
私はただ傍観してるだけ。
こんなに暑い日は無理だ。
急いで帰り支度して,途中のスーパーに立ち寄る。
クーラーが効いてやっと人心地。

家内は昼飯を食おうと言ったそうだが,私には通じない。
食料品を買いに車をつっぱって行ったと思って,人が少なくて涼しい二階の売り場にエレベーターで上がる。
衣料や雑貨の売り場をぶらぶらと通り抜け,子供用品売り場のおもちゃなどを暫く眺める。
買う気はないので只眺め歩くだけ。
20分ぐらいして下の売り場に降りる。

家内を求めて売り場の中外を歩き回る。何処にも居ない。車の所に帰ったかなと行ってみるが、そこに帰った形跡はない。また店内に戻る。探してあちこちとうろつく。
疲れ果てる。どうも後追いして互いに捜し歩いている気がして来る。
もう1時間は経っている。
休憩所で座り込む。10分ぐらいしてやっと家内が車を突いて現れる。やれやれ。
先に一人で食事を済ませたという。
言われてみればこちらも腹ぺこに気づく。

大きなスーパーはやはり勝手が悪いな。

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2009年9月 9日 (水)

医者通い多忙

今日は広島総合病院に行く日。今度は忘れていない。午後には内藤にも行かないといけない。薬が切れてしまった。どちらも目下病状には気づかないくらいだから、出掛けるのを忘れても仕方がないか。

気温21度、まったく天高く秋の気候。海上遠く島影やや霞む程度。

相変わらず病院の人の多さに辟易する。文庫本を携行して読みふけりながら待つ。
案外早く順番が来る。昼には帰宅出来る。

病院で頭の乾癬がひどいと言って、別の処方の薬をくれる。自分では見えない所なのでハイハイと素直に受ける。
マスクを着けて行ったが、着けた人は1割もいない。恥ずかしい。
何も触った居ないから、うがいも手洗いもしない。

藤沢周平の「小説の周辺」を読む。私より7歳も下なのに書いてるエッセイを読むと,こちらが学びたい事がぎっしり。偉いなと思う。幼年期は私とよく似て本の虫だったようだ。少年クラブ、譚海なんていうのも同じだ。只戦争に行かなかったのが違い,青年期によく勉強ができたようだ。もっとも結核で療養所に入ったりして回り道はしたが。結核は私もやった。ただ私はやけくそで自力で突破した。

その後の道のりが違った。まあ違う人間だから同じ訳はない。
勉強に仕方が良かったし向った方向もよかった。自分の能力を信じていたのだろう。
並の直木賞作家とは格段の違いを感ずる。司馬遼太郎と双璧か。
早く死んでしまってつくづく惜しい。まだ老いても居なかったのに。

本人は遅筆のような事をいってるが、私はよくあんなに沢山書いたと感心している。全部読み切るにはまだ間がある。一度読むだけではもったいない。ものによったら十遍も読み返している。
死ぬ迄何時果てるともなさそうだ。

内藤内科に行く。別に一人来患あり、すぐ終る。やや頻尿の気があるので前立腺肥大解消の薬をくれる。

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2009年9月 8日 (火)

藤沢嵐子の歌

連日快晴がつづく。台風の影響らしきものは何も無い。気温22度、快適。
乾癬も軽く快調である。

政局は余りにも大差の政権交代で文句一つ出ようが無い。船出は順調に見える。
排出ガス削減2020までに25%と鳩山代表の公約宣言。
高速道無料は反対が多く難航しそうだ。
お手並み拝見で、国の内外からは格別のざわめきは聞こえない。

何の気無しに棚からCDを取り出してプレーヤーに入れる。藤沢嵐子の歌が鳴り始める。
若い一時期タンゴが好きになった、その原因になった歌手の一人であった。
町の百貨店の宣伝部長だった私は顧客を藤沢嵐子ショーのかかっている劇場に招待したことがある。
彼女の脂の載りきった時期で熱演だった。
CDの音が少し変だなと思ったりしたが,「ママ、恋人が欲しい」あたりになると完全にその声を思い出す。本人が今どうなってるか知る由もない。しかしCDがこうして私を楽しませてくれる。
良い時代だ。

日射しが長くなって、部屋の中に1m近くも入って来る。まだこの時期暑くてたまらない。カーテンを引いて遮断する。暗い部屋になったが寝たり起きたりだから、まあいいか。
Img047

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2009年9月 7日 (月)

贅沢な我が家の借景

台風12号がまたやってきているが、こちらはどうやら又外れそうだ。それでも風は結構強い。
おかげで昼中はむしむししそうだ。
朝の気温は21度だったが、予報は33度まで上がるという。

秋風は吹いているのだが、これも温暖化の影響かすっきり秋ですとはならない。
南極や北極の氷は半分ぐらい融けたそうだが、来年再来年当たりどうなるのだろう。
これも傷むのは小国ばかりで、大国は知らぬ顔。所詮国連は大国のもの、これも簡単には神輿が上がらない。

広電楽々園に行き又又文庫本など買って来る。ついでに中国新聞に出ていた戦後すぐの広島の写真集128枚というのも買う。別に根っからの広島っ子でないから思い出がつまっているというわけではない。
しかし戦後すぐからよく訪れてはいるから、中には懐かしい所、風景など見いだすことがある。
現在との変わりようの大きさは私とて感慨ふかざるをえない。

私の一家が広島に引っ越したのは昭和39年8月だった。1964年だからこの廿日市を含めて、もう広島在住45年になる。(廿日市と言っても100mも行けば広島市との境界がある、意識はもちろん広島在住である)
生涯最長の住まいであり、奇しくも生涯の過半数を過ごしたところになるようだ。
愛着がないなどとはとても言えるものではない。
表に厳島、後に極楽寺山を借景に、朝夕眺め暮らしている、何の不足などあり得ようか。

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2009年9月 5日 (土)

長十郎梨

今朝の気温24度と変わらず。台風12号はまだ遥か南方だが、北方からー6度の冷気を含んだ高気圧が南下して来るらしい。昨夕雷鳴がつづき停電もあった。気候不安定は続きそうだ。

曇が続くかと思って植物園に出掛ける。ところがかんかん照りに見舞われ木蔭を探して伝い歩くことになる。それでも暑い。客のつぶやきが真夏よりも暑いと聞こえて来る。
とうとう熱射病にでもなると叶わないので、食事はしないで12時過ぎ帰途につく、

雷鳴が轟いていたが、降っては来ない。

シャツを着たまま風呂場に入ってシャワーを浴びる。瞬間ぞくっとしたが冷たくて気持ちがよい。数分で身体が冷えきる。もう暑くも何ともない。

食後快適に眠る。

午後になると日射しはなくなり、灰色の雲に覆われる。しまったなあ、今から出掛けるんだった。

おやつの時間に家内が昨日スーパーで買って来た梨を食わす。種の部分が小さくて食べる所が多いという。なるほどそんなものかなと改めて覗き込む。味も良い。改良されたのだろうな。
昔おなじ色をした長十郎という梨を、18歳の年の3月神村君と出雲への自転車旅行した時、益田の駅前の果物店で買って食った事がある。熟れ過ぎて柔らかくなっていたが、甘味が濃厚でおいしかった記憶がある。
今考えると、梨は今頃熟れる時期の筈だ。3月も下旬に食ったということがどうも信じられない。
当時でも保存方法がよければ食べられたのだろうか。食った記憶が私だけでなく神村君と先年あったとき、あれはうまかったなと言ってたから間違いない。直径が20cmくらいもあった、大きな長十郎だった。
もっとも西瓜などは正月によく食った憶えがあるから保存は出来るのだろう。

ついでの話で、家内にごうら道で随分難儀したと言うと、彼女はすぐ理解した。今の若い人にはわからないだろう。
現在は全くない道路だ。昔はハイカラにバラス道とも呼んだ。田舎のバス道路は河原から採取した石ころを敷いたのが多かった。自転車では全く走り難い道だった。舗装など無い時代の話しである。
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2009年9月 4日 (金)

志無き者は去れ

同じような日が続く。
近所のスーパーに食料品を買いに出掛ける。

考えてみると小売形態は戦後革命的に変わった。セルフサービスという言葉が随分喧伝された。
それも定着してみると、セルフサービスという言葉迄古語化してしまった。
個々の小売はこの界隈にはまるで見当たらない。ただクリーニング店、特別ブランドの菓子舗などが、細々と店員一人で客に応対している。

食糧に限らず電気製品、日用品雑貨、書籍、園芸用品、衣類迄大型店の支配下にある。
価格は当然ほとんど全国的に均一化しつつある。
この変化はもう久しい。
人間の智恵がもたらした現象である事は間違いない。
そして行き着く所まで行ったのであろうか。

今の大学で学ぶ経済學史などどんなものであろうかと、その辺あたり興味を引く。
当時随分退屈したもんだったが、変化の度合いから言えばはるかに現在の方が少ないのではと思ったりする。

古色蒼然たる教科書、参考書の類いが我が家の書架に立ち並んでいたが、最近もう読む事は無いと棚から間引き降ろした。これらの学者の後継者は今どうしてるのだろうと思って感慨は深い。
学問というものが、その後社会で役立っただろうかと思うと、頸を横に振らざるを得ない。
只素養として役立った事迄は否定出来ないのだが。

古来学問は志す者には黄金に匹敵するものだが、志無き者には無益に等しい。
現代の漫然たる向学風潮は殆どの若者に誤った指針を与えているのではないか。
それを憂えるものである。
学問に終わりは無い。ものすごく考究に時間を要するものでもある。
急いでもどうにでもなるものではない。
私自身も道を誤った事を自覚している。後悔は先に立たない。

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2009年9月 2日 (水)

新型インフルのせいかなーさざん会

今朝気温21度、何だか寒い。今まで通りシャツ一枚ではいけないかな。
同じ21度でも夏と秋では人間の皮膚感覚は違うらしい。

オッ!ぐらぐらと来た。6時40分震度3ぐらいかな。
テレビでは47分に字幕が出る、マグニチュード4.0、震度2と出た。
小さくてもやはり気持ち悪いなあ。
震源は伊予灘という。

何年前だったか、1分近く揺れて本などがバタバタ落ちて来て、あわててベランダに抜け出し、さてどうして地上に下り立つかなと考えた事があったが、もうしばらくあんなのはないな。

標高7百米の後の極楽寺山の中腹には大昔海底だった証拠の貝殻なんかが散らばった地層が剥き出しになっている。こんな地震が来たら原爆なんか目じゃあ無い。もう絶対ないのだろうか。わからないぞ。
地球最後の日ということになるのだろうが。

さざん会が9月9日と言って来たのは水戸君だが、肝腎の坂口君からは未だに何の連絡も無い。
体調でも悪くなったのかなあ。俺がやると本人が昨年の会合で宣言したのだから間違いないのだろうが。無理に9日でなくてもよいが、場所でも決めかねているのならしかたがない。
どうせ集まるのは数名だろうから、早く決まりをつけて欲しい。寒くなってはこちらまで外出し難くなる。
もっとも新型インフルのせいで躊躇してるのかな。

もうどこからも何も聞こえて来ない。耳が遠くなっただけではなさそうだ。さびしいなあ。

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2009年9月 1日 (火)

鳩山内閣に期待すること

今月中には民主党政権が誕生するのではと思うが、公約どおりやってくれると結構騒がしくなるだろうな。
一番庶民に影響が太い高速道路無料はいつ始めるの、消費税は4年間は上げないだろうから、財源はどうするの。まさかガソリン税をもっと上げるというのではあるまいね。料金を上げなくても通行税を取るという方法もあるわけだし。
まあともかくやってみてもらわないと何ともいえない。

官僚のいうままにはさせないということは、具体的にはどうするのだろう。政府内にめくら判を押さないスタッフを大臣脇に揃え、上がってくる書類をチェックするとか。目が回るのと違うか。
ちょっとやそっとの勉強では年季の入った官僚の書き物にチェックが入れられるかどうか、知恵比べだが。
インド洋の自衛隊は早速帰還させるのか。家族は喜ぶだろうが、アメリカや国連はどうするかな。よもや黙って見過ごしはしないだろう。
中学生以下に給付金を出すというのもあった。
公約が生半可なものでないだけに見ものである。

地元の新聞は新しいねじれ現象が起きるといって心配している。
国と地方の政府の行政のずれのことである。
そういえば国の事業には地元負担というのが多いらしい。これなど早速ずれに巻き込まれそうだな。
圧倒的な多数に物を言わせて押し切ることにしてさてどうなることやら。

どしろうとの私がやきもきしたところでどうにもならない。若い人が多いからいい知恵が浮かぶことだろうな。
先に革命的現象などと早とちりしたけど、鳩山内閣が終わってみないとわからないことで、前言多謝。

今日は日本晴れのいい天気。防災の日なんて浮かばない程。
もっとも北国では11号台風が吹き荒れて、細長い国だから条件が違うんだよなあ。
まあサァーと通り抜けてくれてよかった。

「ニューギニア戦記」を書き写すのに毎日2,3時間はかかる。パソコンと6本指でにらめっこ。やはりおいぼれ、つかれて悪い夢ばかり見ることになった。

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2009年8月30日 (日)

旭盛丸の最後

雨になりそうな雲行き。歩いて衆議院議員の投票場迄行く。結構人が多い。
久しぶりに外を歩いたので汗をかく。
帰宅してすぐシャワーを浴びる。やっと人心地。

こちらは相変わらず「ニューギニア戦記」の複写に忙しい。
先日雲南省のラモーで第56師団の一部守備隊1300名が玉砕した顛末をテレビでやっていたが、国民の知らぬ所で惨めな事実が展開されていた、ニューギニアの戦場も同じようなもので、勝った勝ったで踊らされた国民が哀れである。
   ___________________
  旭盛丸の最後・・・・海上に退避する
30分くらい経った頃船長が巡回してきて、機関室に火が回ってきたのでエンジンが爆発する恐れがあると伝えにきた。既に下船準備の命令が出されていたので、中隊員は銃を斜めに担い、雑嚢に最小限の食糧(乾パン)を入れていた。三人一組のグループを作り、各組は乾パンの空き箱で作った浮きを持って舷側の近くに待機した。
船は殆ど停止していた。「退船用意」の命令で兵士たちは先ず乾パンの箱で作った浮きを投げ込み、次いで携行糧抹や乾燥野菜の入った缶,ブイ、竹材、予備の浮き胴衣等あらゆる浮くものを投げ込んだ。
本船付近の海面は多くの浮遊物が散乱し、暴風雨の過ぎ去った後の港の中のようであった。
輸送指揮官の「全員退避」の命令で一斉に海に飛び込み始めた。

舷側に吊るされていた救命ボートが海中に下ろされていた。下半身を打ち付けて半身不随となっていた中村軍曹が戸板に括りつけられて運ばれてきて、そのまま舷側からロープで吊り下ろされ救命艇に収容された。この様に重傷者はすべてロープや戸板で吊り下ろされたが、無傷のものは自分で、舷側に吊り下げられたロープを伝って海面に降りて行ったのである。
戸板で降ろされた中村軍曹は当夜ラエに揚げられたが、3月7日に死亡した。

相変わらず砲弾は間断なく誘発を繰り返し船倉の中は黒煙が濛々と充満して近寄る事は出来ない。負傷者は見つけ次第元気な兵士に担がれて右舷に運ばれて行く。
当初負傷者は一人一人吊り下げていたが、今はその余裕もなくなった。戸板に括りつけてまま海中に投げ下ろす。戸板が裏返しになるのもあるがそれをかまっている余裕は全くなかった。生も死も投げ入れる一瞬で決まる。表が出れば生、裏が出れば死である。しかし表が出ても生きるという保証はなにもない。烈日の大陽をまともに受けて漂流すれば、命は何時間と保たないであろう。船に残っていてもいずれは沈む船と運命を共にしなければならない。元気な者は生き残っている負傷者に対しとり得る処置にも限界があった。負傷者に対し詫びながら彼等を次々に海中に投げ入れていった。戦友を助けるためだと言いながらこんな方法しかとれなかったことはなんとしても惨い仕打ちであった。

船は最悪の状態となって、右舷は海面すれすれに傾き、左舷側は船の赤い横腹を剥き出してきた。これは恰も巨大な怪物が眼前に迫った様であった。最早スマートな船の姿は目の前には見られず、捕鯨船の銛を打ち込まれて曳航されている鯨にも似ている哀れな姿をしていた。予想外に船の横っ腹の大きいのに驚いた。

ついさっき迄の甲板上の騒ぎはまるで嘘の様に静かになっていた。早くも一時間近くたっていたようだが、見渡す限り周辺の海上に船らしいものの姿は全く見えない。

副中隊長の寺田中尉がやってきて、中隊員が全員退避したことを中隊長に告げた。
二人で船橋のタラップの下に腰を下ろし、寺田中尉が煙草を取り出してそれに火をつけて差し出した。二人は無言のうちに思いっきり煙草をふかした。

船は完全に停止していたが、船上には兵士の姿は全く見られず四周の海上には点々と漂流者が浮かんでいた。もう敵機の姿はなく、打ち上げた砲弾の名残らしい砲煙が薄雲の様に高い空に残っていた。ハッチ内の砲弾の破裂音もまばらになてきた。その時船長が走ってきて「もう危ない」と叫んだ。よし、行こうかと二人は腰を上げ、煙草を投げ捨てて右舷の欄干を越えて寺田中尉と共に一挙に海上目がけて飛び込んだ。これで二人も海上を漂流する仲間となったのだ。
飛び込む前に船上から中隊本部員の位置を確認して,其処に飛び込んだにも拘らず,一旦海上に入ると見通しが悪く皆目見当がつかない。何はともあれ沈む本船から離れる事が先決である。浮き胴衣をつけていると思う様には泳げない。

やっと本船から7、80mばかり本船から離れる事が出来た。大声で呼び交しているうちに中隊本部のグループを発見して,辿り着いてやっと彼等と一緒になることができた。

此の時、振り返って本船を見ると船首を海中に突っ込んでいた。次の瞬間船は逆立ちとなって船尾が水面に立ち上がり、やがてするすると海中に消えていった。
旭盛丸は実に他愛無く沈んで行ったが,暫くして水中を通して腹にずしんと衝撃があったが、これは船が海底に着いた音であろう。と海上に水しぶきが揚がり,暫くして海底から砲弾の破裂する振動音が思い出した様に伝わってきた。味気ない本船の最後であった。

小泉日記には旭盛丸の最後の状況を次の様に記録している。
「旭盛丸は如何なったかと波間から伺うと,黒煙を吐きつつ迎えた最後の光景がはっきりと見えた。それは船首を真下にして船尾を高く空中に持上げたかと思うと,甲板上のあらゆる物品がガラガラと音を立てつつ,茶色の埃を噴き上げて海中に引き入れられて行った。そして、旭盛丸自体も右に体を捩る様にして,急速に海面から消えて行った。ハッチの上に搭載されていた大発動艇が海上に押し出され、ブスブスと余燼を揚げながら海面を漂いつつ海中に消えていった。
あの艇内には戦友の遺体が幾体も横たわっているのだと思うと心が痛む。やがてギシっと腹に強いショックを受けたが船体が海底に達した瞬間であろうか」と。

暫く泳いでいると中隊本部の湯田曹長のグループが見つかり,互いに大声でそれぞれ名前を呼び交した。湯田曹長は中隊の先任下士官であった。彼は大声で「各人、名前を言え」と怒鳴った。彼方此方からそれぞれ名前を名乗って来たが,名前が抜けて出て来ない者が沢山いるようだった。將兵たちは呼んでも返事の返って来ない戦友たちの名前を繰り返して呼び続けたが,そのものたちのの応答はなかった。此の戦友を呼ぶ声は空しい事と知りながら,その後いつまでも続いていた。
(船舶工兵第8聯隊吉田武中尉手記/山口在住今田勇編集ニューギニア戦記から)
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2009年8月29日 (土)

選挙の声だけ喧しい

相変わらずの霞空、気温26度。
5時半に目覚めて、CDで音楽を聴く。イヤホンで1時間ばかりじっくり聴く。
アップル・タッチホン付属のイヤホンは音の分離が良くて各楽器の音が生々しく聞こえて何時もながら楽しい。
面倒だから寝ているときでないとイヤホンは使えないが、こんな時には良いな。
昨日はデオデオに出掛けたので、もっぱらオーディオコーナーを見て回ったが、觸指が動くものはなかった。
もうロートルはお呼びでないのかもしれない。
3、40年前オーディオ機器が所狭しと並んでいた時代はもう再現不可能なのか。

昨日デオデオのあるスーパーに家内が買い物に行くというのでつれて行く。車がかなり多くて時間がかかる。前記の様にデオデオにも顔を出したが買うものは無い。中の食堂で昼食を済まして帰る。
何を食べてもおいしいという事がなくなった。五感すべて老化した。

最近になって朝がおの花がよく咲いて、毎朝私たちを喜ばせてくれる。どうやら遅咲きの朝顔だったらしい。

蟻は薬が効いたのか、時候のせいか幾分少なくなった。偵察蟻はそれでも所嫌わず出没してはいるが。

家内はせいこうで血液検査を受けに朝食抜きで出掛ける。
9時だんだん蒸し暑くなる。島影はまるで見えない。湿度は70%を超えている。こんなときは体調は当然良くない。

終日「ニューギニア戦記」の複写に忙しい。
指が少ないからもどかしい程時間がかかる。あせってもどうにもならないな。使う指もなんだか疲れて痛いようだ。

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2009年8月27日 (木)

あわれ、ダンピール海峡

灰色の空、気温22度。やや湿度が高いかな47%。

大分先の事だなと思っていた衆議院選挙がすぐ目の前に迫った。どうやら民主党が圧勝の気配濃厚だが、この前人気というのが余り宛にならないことが多いから、過信は禁物だ。
ただ私は昔から党よりは人を選ぶ主義だから、相手は時々で変わっている。今回はまだ考慮中だが、弱者に味方する性向から、投票用紙に誰を書き込むかその瞬間までわからない。

世界柔道選手権女子48キロ級で福見選手が金メダルに輝いた。王者谷の後継者が現れた。身体の小さいのは日本だと言うのが嬉しい。
地元の平岡選手が今度は銀メダルだった。北京の惨敗の屈辱を雪いだ。次のオリンピックでは金を狙う足場が出来た。

弱いカープも昨夜は珍しくヤクルトに大勝した。もう来年を狙うしか無いが、選手一人一人の向上を計らねば向上は難しい。外人にウエイトを掛け過ぎている昨今の各チームは相撲同様どうも面白くない。宝くじを引いてるようで気乗りはしない。
良いのが大リーグに出て行ってしまったからか。10年以下の若い選手に期待したい。

今複写している「ニューギニア戦記」がいよいよダンピール海峡決戦の場面に入った。もちろん全輸送船が撃沈される場面だけれど、よく丁寧に描写されている。戦闘場面は極く瞬間的な事象だから、第三者的に見るわけにはいかない。勢い小説的な描写にならざるを得ない訳だが、最近の様にビデオカメラで命がけでとりまくる人がいればほんとの描写になるのだが。
当時はそんなのはなかったから仕方が無い。

それにしても中隊長はよく覚えていたなあ。この手記の白眉の場面である。
あの時ああだったこうだっとと思い返しながら手記したのだろうが、大局的な事は別にしてこんなに細かくはとても覚えきれない。よほど事象を瞬間的に捉え得る能力の持ち主だろう。敬服する。
(以下ニューギニア戦記より抜粋)  
  ____敵機は旭盛丸を最初の目標にしているらしい。敵の編隊は先ずこの船団の一角を崩す事を狙って、先頭の旭盛丸に集中攻撃をかけてきたと思った。当時旭盛丸は二列縦隊で進む船団の、左の列の先頭をきって前進していたのである。
数発目の一発が左舷の数米先に落下して、船は大きく衝撃を受けて激しく揺れた。その瞬間続いて落下してきた爆弾が1番ハッチと2番ハッチを同時に直撃した。後々の記録によると8時15分に被弾したと書かれていた。

耳を突き破る爆風と衝撃とによって、船上に積んである資材も人も吹き上げられ、甲板上に打ち付けられた。同時に1、2番ハッチから真っ黒い煙が立ち昇った。
ブリッジは2番ハッチのあふりを食って前半分が引き千切られふっとんでしまった。今まで平穏であった船上は一瞬のうちに騒然となり、目の前が真っ黒になる様な衝撃を受けた。

敵編隊は悠々と煙の立つ中を轟音を残しながら飛び去ったいった。
2番ハッチの上には大発動艇が二段に積載してあった。蛙を押しつぶした様に支柱が折れて飛び、ペシャンコになっている。
暫くするとハッチに積み込んであった弾丸が火に巻かれて誘発し始めた。
破裂音、煙、怒号と船舶砲を打ち上げる発射音と、狭い船上を右往左往する将兵たちの呼び合う声等、忽ちにして船内は修羅場と化した。隊員は何から手を付ければ良いか迷った。本船のエンジンは停止しているが、船は惰性でまだ前に進んでいた。
ハッチから黒煙が猛烈な勢いで吹き上げているし、また赤い炎も吹き出していて、船は非常に不安定な状態になっていた。
ハッチの中での火災が大きくなったようで、火が回ったらしく、砲弾が破裂する音が甲板まで伝わってきた。船の速度が次第に遅くなってきて、左舷側に向って徐々に傾き始めた。忽ちにして本船は船団から離れてしまった____

____船上にある浮遊物を左の舷側に運び海中に投げ入れる準備をする。
当時の海上の状況を詳しく記録に残した小泉分隊長の日記によると、「1番船倉は火の海となり中の兵員室は飛び散った肉塊と血の海の中で、負傷兵たちがのたうち回っている光景はまさに地獄であった。
底に積み込んだガソリンへの引火爆発による火災は手のつけようが無い。甲板に昇るための階段が爆風により吹き飛ばされたため、船倉に居た兵たちは逃げる事が出来す、阿鼻叫喚の巷となった。助かったものはただ一人のみで船倉の桁から垂れ下がったロープにすがり、必死に甲板に昇り付いたのである。____
[以上は船舶工兵第8聯隊中隊長吉田武(故人)の手記により山口市在住今田勇氏の校正編集になる「ニューギニア戦記」より]

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2009年8月26日 (水)

四国の山が見たい

昨日の朝に続いて気温20度とさわやかな朝だ。
昨夜は9時前にはベッドインしたから10時間以上寝床にいたわけである。

本もあまり読まなかった。かけっぱなしのラジオが夜中の1時過ぎ落後を2題やってたので、ふと目覚めて面白くて全部聞く。
最初の「たがや」は古典では旗本の頸が飛んでタガヤーとなるのだそうだが、平和の時代だからタガが弾いて陣笠を飛ばした後、侍どもを片付けて群衆の胴上げに逢いタガヤーとなるとという新作落語である。「青菜」は植木屋が旦那の真似をしてしくじるといういつも通りだが、どちらも若々しくて面白かった。眠気は完全に取れてしまったのだが2時のニュースまでには又寝てしまった。

6時目覚めて外を眺めると青天井にはなってるが、沖合は矢張り霞んで島影は薄い。
とても四国まで遠望するという訳にはいかない。
昔小さい頃近くの山に登ると、雲の上に四国の雪を頂いた峰々が時に見えたりしたものだが、今はもう夢にも望めない。

私が生まれた年に国勢調査が始まったと聞いた事があるが、その時は人口が5千万ちょっということだった。朝鮮、台湾も入っているから、日本人は4千万人というところだったのだろう。今は1億人を超えている。増えたものである。
出生率が少ないといっても人口は増え続けているのだからまだまだ大丈夫だろう。

しかし吐く息だけでも倍増したのだから空気が霞むのは無理ないなと思わざるを得ない。
未来永劫四国の山が見える事はないだろうな。地図を見ると100kmしかないのだが。

そういえば、世田谷の陸軍自動車学校に居た昭和16年には毎朝130キロ向こうの富士山がはっきり見えてたものだった。こちらは今でも時折見えるらしいが。
湿気の薄い高い山に登ればまだ見えるかもしれないが、そんなのが無いしなあ。
こんど冬の天気のいい日に宮島の弥山に登って眺めるとしようか。幸運に恵まれればの話だが、ただ老体がそれを許すかどうか。

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2009年8月25日 (火)

秋風

気温20度、さわやかな朝である。白雲のなびく合間に青空が色濃く顔を出す。
すっかり秋の気配といっていい。

珍しく青空いっぱいの快晴。今日は降るまいと大喜びで布団類をベランダに干す。
素っ裸になって、痒い所に薬を塗り直す。

昨日は中京がやはり勝った。しかしほん紙一重といってよかった。日本文理の最後の気迫の凄さ、最後のサード・ライナーもほん少し外れて飛んでいたらどうなったか分からなかった。
10-9いずれにしろ稀に見る大接戦であった。
日本文理の健闘に惜しみない拍手を贈るものである。

今日の午後、近くの家具屋ファインズに行って座椅子の良いのを買って帰る。今あるのは安物でどうも長居に堪えられないものだからちょっと贅沢をする。

天気は昨日も今日も終日良かったのだが、風もあり湿気も少なく気持ちのよい一日だった。
昔から盆を過ぎれば暑さも治まると言ったものだが、少し遅かったがその通りになった。
さらっとした空気が一番良い。蒸し暑くなければ暑さも響かない。

「ニューギニア戦記」の複写に終日取り組む。ようやく軌道に乗ったかな。

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2009年8月23日 (日)

日本文理頑張れ

朝気温22度と涼しい。もう秋も近いなという感じ。
昨夜はやっと寝苦しさから解放された。サンフレチェが宿敵レッヅに2-1と勝ってくれたのが気持ちを楽にしてくれたせいもあるかも。

相変わらずの曇り空で、日射しがないだけに涼しい。家内が食堂の敷物を上げて洗濯するというから手伝う。
息切れして苦しい。つくづくもう駄目だなと自覚する。

「ニューギニア戦記」を複写するのに忙しくて,ブログなんか書く暇がなくなった。本を一冊写し取るという事はやはり難儀なことだなと思い知る。自分だけのために保存するのならスキャンすれば済むのだが、校正して「戦争の記憶」に登録するとなると、やはり一旦複写する以外に無い。今の状態では今年いっぱいの完成は無理だろう。ほんとに寿命がもつかどうか。

体力が目に見えて落ちた。食わないから駄目だと家内は言うが、食道に詰まって食事が入らないのだから仕方が無い。
大好きだったおかきももう食えない。ボリュームがあり過ぎる。

蟻の噛まれるせいか、乾癬の悪化のせいか、今日も身体が異常に痒い。

全国高校野球選手権大会は準決勝を終って、中京と新潟の日本文理高校との決勝ということになった。中京はno.1伝統校だから、予想はしてたが、番狂わせに逢う事無く決勝に進出した。日本文理は全然思いもしなかった。結構強い学校を連破して勝ち上がったのだから明日も好試合を期待したい。
最近はサッカーといい、野球といい新潟の名をよく聞くようになった。伝統校はいないが、スポーツに力を入れる県民の志をしっかり実現して欲しい。私はこうした下から盛り上がる県民性が好きだ。
明日は初めての大旆を遠慮なく持ち帰って欲しい。

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2009年8月21日 (金)

深夜の音楽

午前2時ふと目覚める。深夜放送がトロイメライをやっている。日本語に訳すと小さな夢ということだそうだ。
乙女の祈り、ラ・カンパネラ、ショパンのノクターンまで1時間じっくり聞く。
中でもモーツァルトのピアノ協奏曲第21番の第2楽章を内田光子の演奏で聞かされる。静かなしじまに響き渡るゆっくりした美しいメロディ。
これをテーマ曲に作ったスエーデンのヴィデルベルイ監督の映画「短くも美しく燃え」のビデオを探し出して見る。
映画には別にこの歳では感動は無い。しかし内田光子の演奏はこの時間にふさわしく特によかった。
映画を見終わったら丁度5時。もう寝れないな。

5時半現在気温27度。今日も暑くなりそう。

「短くも美しく燃え」は陸軍中尉とサーカスの綱渡り女性の悲恋物語だが、昔東満州にいたとき兵隊の逃亡騒ぎがあった、林口から虎林まで約250キロの間を、自動車と汽車を乗り継いで探し歩いた事があった。間もなく日を置かず捕まったが、この映画の主人公のごとき悲惨な末路ではなかったと聞いている。たかだか重営倉何日かであった。
私も初年兵の頃制裁に堪えきれず、逃げたくなって悩んだことがあった。しかし逃げた所でオオカミの餌になるだけで、この大荒野と湿地を抜けきる事は無理だと涙を呑んだ。逃亡者はソ連に憧れて国境に向うものが多かったようだが、北樺太のようにはいかない。ウスリー河や大湿地帯が遮っていた。

映画の主人公は食糧が尽き、野草を拾い食う始末で、終に死を選ぶのだが、風土とテーマ音楽の美しさが悲劇を救っている。
只感情の赴くまま、余りにも無謀な逃避行は救いようが無い。


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2009年8月20日 (木)

世の中何事も思うようにはならない

昨夜は眠気が感ぜられず、9時から12時まで藤沢の小説を読み返す。筋などすっかり忘れていて新しく読む心地すらする。

12時からしばらく音楽を聞きながら眠気を促す。
午前1時ごろやっと眠りに落ちる。

今朝は7時丁度目覚める。いつもより疲れを感ずる。まぶたも開け難い。
朝8時もう熱気ムンムン。ベランダの温度は29度となっている、

新型インフルが本格流行と新聞の一面、死者国内3人目と大きな報道。あまり苦しくなければ罹って死んでもいいなとふと思ったりする。

家内は民主が優勢だとやきもきしているが、私は順慶の洞が峠を決め込んでいる。しかし順慶とは違って強い方には味方しない。

カープは弱いなあ。中日に13連敗とか。いい鴨に出会ったドラゴンだが、目の前の敵巨人にはなかなか追いつけない。

J1はあれだけいい選手を揃えた浦和がJ2降格間際の柏に4-1と惨敗、夏バテかな。

甲子園ではよもやのPLが負けた。真夏の異変しきりという所だ。

午後になってから、盆間休んでいた「ニューギニア戦記」の複写を再開する。根気がいるぞー。

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2009年8月18日 (火)

権利は重く、義務は軽く、それでいいのか

朝早く来信メールを開けてみると、夜中の2時過ぎに発信せられた、三好信雄氏の息子さん力雄さんの長いメールが入っていた。歴史の先生をしておられるとのことで、取り組み方が違うようだ。
あの親にしてこの子ありだ。
長生きしてるといろいろ起きるなあ。

昨日はミチ子さんがいろいろ付近の私も知っている家のその後のありようを一つ一つしゃべっていたが、孫や曾孫の世代になるとそれほどまでに変化するのかと驚く。絶家するうちが又数多いのにも驚く。民主化、少子化は古い日本的体質を画期的に変えてしまったな。後35年一世紀経ったらまるで違う国になることだろう。

韓国ドラマ好きな家内はことあるごとに韓国の家族制度の方がよほど古き良き日本と似ていると語っているが、日本は変わりすぎたのであろう。いい事か、悪い事か私には分からない。

家族制度の崩壊は現実のものだが、次はアメリカ、ブラジルのごとく多民族社会へと進むのではと危惧する。現在でも隣は何をするひとぞで、隣保の精神は希薄である。
言語、習慣の相違から来る差別は郷土社会とはまるで相容れない。
次の孫、曾孫の時代は考えるだけでも恐ろしい。
昨今の原爆症患者訴訟は民族、国籍、居住地の差を否定する事を是とした。

義務は先ず置き、権利は何ものにも勝る社会に向きつつある。
そのうち義務はなくなるかもしれない。
国民は楽な方を好む。政治的にはそちらに1票投ずるだろう。
権利の摩擦は当然争いを生む。平和は言葉だけになりはしないか。それが恐ろしい。

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2009年8月17日 (月)

遅まきの墓参り

朝霧深し。気温26度。
6時半起きてパソコンに向う。ネットに入りニュースなど一渡り見る。
受信メールの中に
r-miyoshi@triton.ocn.ne.jp  というアドレスのメールが一通入っている。
三好という文字があるし、去年の7月に数カ所私のブログに載せられているということで、戦友の横浜の三好信雄氏の関連だなとすぐ気づく。調べてみるとやはり3回記事を載せている。思った通りである。
去年の5月に亡くなられているとのこと、もう少し聞きたい事があったのではと残念である。
昨年の年賀状では広西大学教授趙冰夫妻のその後を心配して居られたが,当事者の私にもまるで分からない。彼の友人周仏海(南京政府のno.3)そのものが死刑になったのだから、辿り着く術はなかったのではと思うだけである。
戦争はあくまでも非情である。

午前十時家を出て,家内と二人で遅まきの墓参に岩国に出掛ける。
車が少なくて助かる。同じ区間を、行きは500円,帰りは350円だったが、どういうことだろう。普段は750円とられるのだが。

家内が日傘を墓に置き忘れて,弟がとりに行ってくれる。久しぶりだから話は長くなるし,昼を過ぎて食事は出してもらう等,いとまを告げた時には午後3時、もうひとりの弟のうちでは忙しく話を端折って、それでも帰宅したのはかれこれ5時。とうとう一日つぶしてしまった。
今生の別れになるかもしれないから、まあいいか。
しかし今日は暑かったなあ。駐車中に車が焼けて,危うくハンドルで手を火傷する所だった。

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2009年8月15日 (土)

戦争はいやと敗戦はいや

夜半からの雨、昨夜は無事に宮島の花火大会が盛大に終了したようだ。家からは前の小山が邪魔して,花火の頂上しか見えず,水中花火を音だけが耳に入って来る。
後で聞けば35万人の見物客だったとか。

4、5年前わざわざ連絡船に往復乗船してじっくり見たことがあるが、もうその元気はなくなった。
年々盛大になるが、果たして喜ぶべき事かどうか。

岩国民間飛行場はいよいよ施設工事に着手するらしいが、何か盛り上がりに欠けるようだ。
私自身利用の恩恵に浴する機会はゼロに等しいが、それでも将来のために嬉しくて仕方が無い。
軍用であれ、民間用であれ、飛行場に変わりはない。軍用は戦時になれば稼働するが,平時は民間と同じである。市民に及ぼす経済活力は一緒である。すぐ近くの大連でも先般見た所では戦闘機が飛行場の隅に数十機ずらっと並んでいた。
戦争はやらなければいい、いやもう絶対にやるなである。やったら一飛行場の問題ではない。
その前提で進むべきである。

わが廿日市市でも岩国基地に猛反対しているが、私には理由が分からない。騒音がうるさいという。四六時中やかましい自動車騒音はうるさくないのか。飛行機が宮島に落ちて国宝がなくなるという。確率0%に近い。爆音で傷む事は無い。こんなこと心配してたら生きて居れない。
広島空港まで行くよりは、どれだけ近いか。時間と燃費を計算してみたらいい。

64年前の今日私は終戦を知らず,広西省と湖南省とにまたがる大南嶺山系の密林の中で、昼は眠り,夜はのろのろと自動車を走らす、反転作戦の最中だった。確か全県というところだったろう。
敵機の来襲が急になくなったことは、次の日、その次の日には気づいた。だからといって昼間は走れなかった。なけなしのガソリンを使うよりは、じっとしている方がいいということでもあった。
撤退時は当然補給活動もほとんど無かった。

前日の昭和20年8月14日には、故郷の我が家が敵の猛爆撃に壊滅した。もちろん知る由もなかったが。戦争被害者であることは、国民の皆さんと変わる事は無い。

いつかもこのブログで再三書いたが、開戦の日昭和16年12月8日の生々しい記憶とこの終戦の日の模糊たる記憶との対比が我ながらおかしい。

敗戦後の約一年、飢えと屈辱と後悔に打ちひしがれ、初めて戦争は嫌だと思い知った。それでもまだ”戦争は嫌”ではなくて”敗戦は嫌”だが本音だった。

しかし曲がりなりにも戦争無く六十有余年を過ぎてみると、やはり平和の方が戦争よりは良いと本音で自覚出来た。時間がかかるものである。

しかし敗戦の痛みを知らないアメリカ人は戦争を嫌だと思っていないのではないかと思ったりする。戦争を準備している国は他にも沢山いる。これでは戦争はなくならない。
戦争は嫌でも巻き込まれないという保証はない。
いやいやと言いながら戦争をさせられることになる。これでは前のときと同じ事だ。

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2009年8月12日 (水)

墓の掃除

朝日が早くから輝いている。いい天気になるかもしれないが、墓の掃除にはむかないかな。
便所に屈むと無意識にラジオのスイッチを入れる。途端にシューベルトのピアノ・ソナタのあの甘美な主題が聞こえ始める。ピアノは誰かなと一瞬思ったが誰でもよかった。陶然として排便の事を忘れる。15分しても排便しない。便秘かな。

今朝も霧が濃くて島影は一つも見えない。

午前中銀行とスーパーに出掛ける。千代も自分の用事で廣島に行く。
雨が時々思わぬ時に降り始めたりして惑わされる。

ニューギニア戦記のコピーに精出す。指の関節が病気で曲がってしまい使い辛いので、殆ど暗打は出来ない。いちいち真ん中の3本の指を使うのだから,キーを見ながら叩く。本を見たりこちらを見たり忙しい。まだ8ページ、全部では142ページだから、何時終わるのか見当が立たない。

運転免許更新に先駆けての高齢者講習等の案内が県の公安委員会から来る。今までの実習以外に認知症の検査がある。早速近くの自動車学校に予約を申し込む。免許取得期間は12月から2月までだが、寒いときはいやだからといって9月29日にしてもらう。受かればいいがなあ。
忘れっぽくなったから検査は困るなあというと、学校の担当者は難しい事はないですよ、とこともなげに言う。

期日の一週間前にはがきを呉れるというから、そちらは大丈夫だろう。

12月にはオペラを見に東京に行かねばならないし,死に際に忙しいなあ。
近所でも免許証を返納した人は多いらしい。しかし同い年の藤井さんは更新すると言って居られた。負けてはおられない。

墓の掃除は誰も入っていない墓だし、盆明けでもいいと家内がおっしゃる。まあ任せるとするか。

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2009年8月11日 (火)

親子水入らず

朝6時ふっと目覚める。幸福な余韻が身体を包む。いい夢を見たからではない。
昨日のアルパークの親子の会食を思い出す。しまった,写真を撮っておくのを忘れた。
考えてみると親子水入らずの会合の機会は今は滅多に訪れる事はない。将来にももう無いかもしれない。
惜しい事をした。全然気づかなかった。
長女がたまたま勤め先が休み,千代が東京から一人帰郷していて、ほんとに親子4人の水入らずとはこの事であった。子らが小さい時以外にはなかった。母や兄弟やその他大勢での写真は沢山あるが、何十年も4人だけというのは無かった筈だ。
惜しかった,タイミングを失った。

3時間も飽きる程水入らずで語り過ごしたのに,記念写真を取り損ねたのは返す返すも残念だった。

9時過ぎになると、夏の日に代わる。かんかん照りの凄い暑さ。
台風9号はもう東の方に去った。

千代が私の部屋を隅から隅までせっせと大掃除してくれる。今日から気持ちよく眠れそうだ。

昼広島駅まで行き、田丸の仏前供物と千代土産を売店で買い、ついでに食事も済ませて田丸に行く。女たちの長話に疲れて眠ってしまう。
4時になったので起こされて帰路に着く。

ときどき夕立が来たが概ね晴れる。
おつきあいでもひどく疲れる。やはり老体は駄目だな。

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2009年8月10日 (月)

今度は雨台風

今朝6時気温27度だから、また熱帯夜だった。寝苦しさに変わりはない。
黒雲が覆っているから、天候はくずれそうだ。台風9号が近づいているそうだから、そのせいもあるだろう。こちらに向かっては居ないらしいが。

千代ら姉妹が打ち合わせてアルパークで逢うというので,一緒に車で出掛ける。
久しぶりに酔心で食事をする。話しても話しても話し足りないらしく、喫茶に入り尚続く。
女の姉妹はそれにしてもよくしゃべるなあ。男の兄弟ならああは行かない。しゃべりすぎると喧嘩になる。
仲がいいのはいいことだ。じっくり黙って聞き役に終始したが、結構楽しかった。

北棟が出来て映画は便利がよくなった。今日は子供向きが多く見るのはやめる。
駐車時間が4時間過ぎると有料になるので、こちらは帰ることにする。千代は残ってまだ話すという。お先に帰る。3時間半で無料で済んだ。

甲子園が雨で又ノーゲーム。兵庫県は大雨で12人も死者が出たりする。野球どころではない。
台風9号は紀伊半島に接近している。明日は東海から関東へということである。
長梅雨のあとの雨台風だから困っちゃうな。

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2009年8月 9日 (日)

お盆の行事どうする

昨夜千代が同窓会から帰って来て、雨が降っているよと起こされる。
部屋のカーペットを干したままにしておいて,濡らしてしまう。長期予報では曇か晴みたいにいってたのにとぶつぶついうが間に合わない。

寝られなくなったのでビデオを2時間ばかり見る。
おかげで今朝の目覚めは7時半近い。雨は依然としてしとしとやっている。

千代一人居るだけでひさしぶりに我が家は賑やかである。

12月9日のオーチャードホールでのオペラ「トスカ」の切符を買ったから、是非出て来るようにと招待を受ける。
レニングラード歌劇場の出張公演らしいが、指揮者はフェラネッツといって私は知らない。
ともあれ「トスカ」は好きなオペラだ.是非みたいと受諾の意思表示をしておく。
ただ問題は東京までの旅行をどうするかだが、あまり自信がない。
行けなくとも孫娘が二人いる、チケットを損する事もあるまい。

午前11時雨は止んでいる。気温は冷やされたか若干涼しい。
出掛ける用事もないので,寝たり起きたり、終日ごろごろする。
相変わらず蟻の攻撃が凄まじい。考えてみると今は彼らのシーズンだから仕方がない。身体に取り付く奴をつまむ以外に方法はない。
小さいから一つまみで一応片はつく。

テレビを見ると全国帰省移動で高速度はすさまじいな。千円効果が効きすぎた感じ。
迷惑する人も多いだろうな。
こんなの選挙の票につながるだろうか。ばかばかしい。

墓参り、墓掃除どうしよう。千代がまだいるそうだからこれを使う手もあるな。

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2009年8月 7日 (金)

東部ニューギニア戦記再編集

朝6時20分、気温28度、湿度30%。
昨夜最近録画した米画で「チャンス」というのを見た。最後に湖水に入って行くのだが沈まない。
富豪に使える庭師の物語だが、たっぷり風刺を効かして,時の大統領を悩ませたりする。
分かったようで分からない。不思議な映画だ。
ほんとの所はアメリカ人でないと理解出来ないかもしれない。

今田君の編集した故吉田武陸軍中尉のニューギニア東部戦記をweb用に再編することにする。
活字で100ページはあるので大変だな。
「語り継ぐ戦争の記憶」に投稿したいのだが、私の寿命が間に合うかな。

千代が5時頃来るというので,早めにシャワーを浴びて迎えの準備をする。なにしろ外は猛烈な暑さである。ものを一枚でも着る気になれない。
直前まで裸でいるつもりである。
結構落ち着かないもんだな。
孫は来ないらしいから夫婦とも少しがっかりだが。もう二十歳前後だから昔のような可愛さはないだろうが、やっぱりたまにはあいたい。
こちらが出向く気力体力ともにもうないだけに。

予定通りやって来る。皆元気にやってるようだ。ひとまず安心。

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2009年8月 6日 (木)

原爆65回目のこの日

沖縄付近に来てる台風8号の影響でこの付近まで大雨に見舞われそうである。
凄く範囲が広いらしい。

原爆の日、8時15分市のサイレンが鳴り響く。黙祷。
あの年以来原爆を使った国はない。しかし保有国は何倍にもなっている。
もう使うにも使えないということである。
その点では北朝鮮もイランも使わせないという抑止力にはなるかもしれない。内心どこにも侵略させないと思ってるのではないか。
韓国も日本も持つだけなら作ってもいいのでは。相手の核に脅えているだけでは情けない。
其のとき始めて非核の時代が到来する筈だ。

1985年の今日の日記に継ぎの記載がある。____
今日貰った見舞い状の中で大井駒二君が材料厰仲間の諏訪郁文、小林美好、小林博、内山
三郎、浅川孝らと一泊旅行に出かけて、満洲、桂林の話に花を咲かせている。今年になっ
て三度目とのこと。少しも飽きずに楽しいから不思議ですとはこちらこそ不思議なくらい。
一度仲間に入れて欲しい気がする。____
戦争は辛い体験だったが、悪い事ばかりではない。明日への結束になってることが、まざまざと浮かび上がってくる。
この日から24年、戦争終結から64年上記の仲間たちはもう皆あの世に行ってしまった。
歳月人を待たず、私の鬼籍に入る日ももうすぐそこ。

雲は多いが青空も覗くまあまあの天気で終わる。風がかなりあるので夕方は涼しい。

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2009年8月 5日 (水)

悲しい思い出

昨日の夕方やっと梅雨明け宣言があったらしい。今頃梅雨明けなど随分めずらしいことだという。
今度はかんかん照りに悩まされそうだ。梅雨の間は正直な所老人には恵みの毎日だった。

暑い日はなんと言っても,水浴びが最高である。子供のように海や河に飛び込む訳にはいかないから、家の中のシャワーという事になる。上がるとすぐ熱気が襲って来るからほん一時の快楽だけど、もやもやを中断することは後の動作にやはり役に立つ。

部屋の中は今34度だが、すぐ前のベランダは丁度50度にっている。
外に出たらやけどをしてしまうくらい。
昼はクーラーはかけない主義だから,今はふんどしだけでパソコンいじり。
眠くはなるが頭はまだまだ働いてくれてる。
この夏はもたんかなと思っていたのだが,原爆記念日そして盆と一番戦争を思い出す日々が目の前に来た。今年も思い出の深い日々をなんとか通り抜けられるらしい。

軍隊に入る直前の元日の朝宮島の弥山で一緒に初日の出を拝み、兵隊から私が帰った時には原爆で最後を遂げていたおっちゃんが、いまだに眼前をちらちらする。被爆者名簿にまだ身元不詳となってるとは寂しい。
身元は分かっているので,手紙を出したり,電話をかけたりして、届けるようにとお節介をやいたのだが、無視された。人情紙風船。全然知らない世代ではやっぱり無理かなあ。
あの世があれば一番に訪ねて行くのだが。

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2009年8月 4日 (火)

私の人生に占める比重

気温25度、湿度75%、蒸し暑い。
”私の戦争”は昨日で一応完結させた。
満80歳になった時、書き始めてniftyの戦争フォーラムだったかに「私の軍隊生活」として投稿したのが始めで、他のホームページなどに転載されたのをきっかけに何度か小訂正をして、何年間か放っておいたのだが、この度いろいろ反響があったりしたので再度角度を少し変えて書き直してみた。

日時、出来事など本質的な事はほとんど同じだが、それでも他の兵隊が記録したメモなどとすりあわせて若干の修正をしたものもある。
そして戦史に記録されていた,緒戦の平江からの反転,新経路で進軍した事など、全然気づかずに居た。来る日も来る日も、闇夜の進軍だから、これも珍しくはないことだろう。僅か百キロ強の道程(今なら半日行程)を2ヶ月もかかって自動車隊が進軍したのだからさもありなんと、今更気づかざるを得ない。
もちろん新しく書き加えたものも数多くある。

あれからもう10年近くなったかと,時の早さに感無量である。
戦友もばたばた死んだ。アドバイスしてくれたもの、喜んでくれたもの十数名に上る。
今、加藤鏡児君、山崎初三郎君の2戦友を残すのみである。この二人は「私の軍隊生活」はプリントを読んでもらったけど,今回の”私の戦争”はパソコンが苦手の彼らは読む手段を知らない。

戦争という異常事態とはいえ、わたしの人生90年の中の5年間である。
戦争の期間は他の生活の流れと比較してあまりにも短い。が比重となるとはるかに重い。人生を一変せしめたといって過言ではない。
こうして記録した事が其の意味で意義深い事は誰にもわかってもらえるだろう。

人の世はうたかたの如しと言うが、なんとも恥多く心定まらぬ我が青春だったのだが、
この後の人生のありようはもう何とも表現の使用のないほど未熟で哀れなものだった。

午後3時半とうとう気温35度となり、たまらんのでふんどし1枚になってパソコンのキーを叩く。これで扇風機をかければ何とか持つ。
アルゼンチン蟻があいかわらずちくちく噛むが、裸なら簡単につぶせる。根は小さな弱い動物なのだから。

私のブログの検索による接続数のベストテンが,7月末現在で下記の通り発表された。
1番の斐徳は意外だったが他は順当な所だろう。
1位:斐徳
2位:森脇瑤子
3位:戦争の思い出
4位:満業
5位:asusとは
6位:軍靴 靴紐 結び方
7位:ソ連参戦 韓国
8位:乾癬にスルメは悪いか
9位:見越しの塔久木綾子
10位:マツダ球場

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2009年8月 3日 (月)

生還

青空は見えないがたかぐもりで雨は降りそうにはない。只霧は相変わらず深い。
昨夜は蒸し暑くて、1時間づつ二度クーラーをかける。
扇風機だけではどうにもならない。

デオデオに行き,電気カミソリを一つ買う。Braun製である。
家内は下のスーパーで食糧を仕入れる。昼をいくらか過ぎたがそのまま帰宅。
本格的な蒸し暑さで参りそう。

水戸君からさざん会は9月9日に決まったと言って来る。
坂口君がいよいよ神輿をあげたらしい。
早速お礼のメールを送っておく。ガンの事は何も書いて来て居らぬ故、一応おさまっているのだろう。
 ________________________
私の戦争/生還
 帰還船の駆逐艦は砲塔も何もない只の船だった。艦名は何か,聞く気にもならない。居室はそのままだから、入って行くのも、座るのも寝るのも、窮屈で簡単ではない。分散して指定された場所に落ち着いたが、誰がどこにいるのか、聞いても探しようはない。恐らく誰がどこに入ったか知るものはいないのではないか。
ごろっと横になるともう安堵して寝るだけである。
目覚めて甲板に出てみた時はもう東シナ海と思われる洋上だった。

翌日艦内放送で戦災地の地図が閲覧出来るから、心当たりのものは閲覧室に来いという。早速我が家はどうなっているかと心配していたので見に行く。

地図を借りてみると,大きく何カ所もやられて、その区域が表示されている。
岩国駅を中心に広範囲に爆撃されている。我が家もぎりぎりのところでやられているようだ。

これは帰っても住む所はないかもしれない。母や弟妹はどうなってるだろうか。その生死が一番心配だった。
やはり広東橋の住民が言ってた通りだったか。
がっくりして、纏まらぬ考えで眠られぬ数日だった。

6月5日やっと故国が見えて来た。鹿児島湾に静かに投錨した。
祖国日本の景色を甲板から食いいるように見つめた。鹿児島の街は焼け野が原のように遠目にも見えた。
戦火は国の隅々まで届いているらしかった。

翌6日上陸命令が出る。桟橋を抜けるや、始めて見る大柄な米兵に、上から抱きすくめられるようにして、白い粉を頭から全身に、頸から下着の中までホースで吹き付けられる。DDTという殺虫薬だった。

そういえば捕虜生活中我々の身体には絶えずしらみが同居していて、ひまさえあればシャツを脱いでしらみ潰しをやってたもんだ。
風呂に入る事はほとんどなく。水を浴びる事すら稀な2年間であった。
上陸手続きは連綿とつづき、とうとう夜になり,半壊の高島屋という元デパートの各階に分かれ,土間にござを敷いて雑魚寝ということになった。

鹿児島は全市くまなく破壊され焼けただれているようだった。
このビルもコンクリートの建物だけで,窓もしきりもなく、焼けたあとが歴然とわかった。
翌7日西鹿児島駅から軍用列車で、なんの歓声も起らず,寂しい旅立ちだった。
この大隊即ち独立自動車第31大隊は殆どが東京近辺出身者だったから、2日間の長旅になった。
熊本,福岡は夢うつつの中に通り過ぎる。始めて見る海底トンネル関門海峡には丁度夜明けにさしかかった。戦時中よくも作ったものである。

戦争の傷跡は至る所車窓から望まれ,厳しい生活を強いられている国民の姿がいやでも目に入って来た。心は重くなるばかりである。
故国の土を踏んだ時の華やいだ気持ちはすっかり失せ、うちひしがれて皆目をとじ,黙然と車窓を眺めるばかりであった。

郷里の岩国が近づき、立ち上がって皆に別れを告げ、車窓から見える筈の我が家の方角に目をやる。
兵たちが「隊長殿、お宅どこですか、どれですかと」とせき立てる。見えない。
やはり爆撃でやられたのだ。おお、あの松林が見える。あの前、駄目だ、何もない。

山裾の人家がちらほら見えるが、その前の方は廃墟のようだ。

これでいいんだ。皆大きな犠牲を払ってるんだから。私が帰れただけでもよしとしなければ、と自分に言い聞かせながらすべりこんだホームらしきところに下り立つ。
さよなら、さよなら、皆元気でやれよと声を振り絞って手を振り別れを叫び合う。
小林信繁が車窓から乗り出しすぎて,柱にぶっつかり,ブラーっと垂れ下がる,中から腕が何本か出て引き揚げる。ほっとする。

これがホームか、見渡せば駅舎もバラックで改札もない。ホームからそのまま外に出る。家もほとんどない。修復途中のバラックがちらほら見える。
大波を打ったような凸凹の大地を道なきままに,山に向かって我が家のあった方向にあるく。

途中道路作業をしていた女性が声をかけてくれる。「御帰りなさい。お母さんは元気ですよ。元の家の所に居られますから早く帰って御上げなさい。」と親切な声、だれだったかな。とっさには思い出せない。

取りあえず寄せ木で組み合わせたような、バラックを回り込んで前に出ると,母が鍬を手に歩いて近づきながら、「おお、帰って来たか」といったなり声がでない。
ともかくも生きて皆戦火をくぐり抜けたのだ。

参考に無事帰国で来た今回の我が大隊の兵員は大隊長以下548名(将校18、下士官97、兵432)と記録があり、満州から転戦した850名に初年兵30名を加え,中国軍に入隊した30名を引き、約36%の減耗率であった。
直接干戈を交える事の殆どなかったこの部隊にしてこうである。
戦争の悲惨さがしのばれる。

一応私の戦争は終わった。しかし”生きて行く”という新しい戦いがすぐその日から待ち構えていた。              (終)
(写真は岩国駅近辺の爆撃跡)Iwakuni

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2009年8月 2日 (日)

捕虜その4

相変わらず灰色の空だが、朝から日射しが強いから、雨にはなりそうにはない。
気温はいつも通り24度。ちょっと涼しいかな。

天気が良いからどんどん気温は上昇して10時半には35度を超える。
ぐったりして眠られもしない。
蝉の鳴き声がいやに暑苦しく聞こえる。

デオデオにカミソリを買いに行こうと思ったのだが,家内に止められて今日は止めとく。混む日などは老人なんか相手にしてくれないもんな。

昨夜は蟻の群れに枕元を襲われ驚く。2時間ばかり大騒ぎして眠るに眠れなかった。
共存共栄といったけどやはり楽じゃないな。

 _____________________
私の戦争/捕虜その4
 私の隊にも終戦間際補充の新兵さんが、5名入隊して来た。
しかし鴨志田武雄と伊藤武一という兵隊は部隊追求途中で途中の兵站病院に入院病死してしまい。顔を見る事も出来なかった。更に西谷益男と江端時雄は帰還途中の全県で病床にあるのを見舞ったが、すでに危篤状態で言葉を交わす事もなかった。風土病に冒されているらしかった。脚部は腐って臭い膿を出していた。

一人松島健四郎のみ元気で着隊し、すぐ先輩隊員にとけ込んだ。そしてそのまま我々と一緒に帰国の途に着いた。

大隊は先頭が4月19日賀勝橋を出発,逐次武昌に向かって行軍を開始した。我が隊は29日に武昌に向かった。
5月6日当隊はやっと小舟10隻に分乗、揚子江を流れ下ることとなる。
大隊は4月29日には逐次河を下り始めていたので、5月11日には南京に到着した。当隊は5月22日南京に到着、上陸するやテントに入る間もなく私は喀血病臥する事になる。
南京から無害貨車で上海に移送される.途中で何度も停車し,押し寄せる住民のブーイングを聞き、略奪をされ、汽車輸送の対価物資の要求をされつつ、やっと懇願しながら上海に辿り着く。

5月24日到着するや収容所に監禁され、外部とは一切遮断される。
もちろん住民とのトラブルを避けるためと分かっているから,忍ぶ以外にない。

6月1日引き出されるまで、長い長い毎日だった。
帰還に要した1ヶ月、まったく忍耐の日々だった。中国兵の略奪にも笑って堪えた。目的はただ故国に帰れればいいそれだった。
南京でも厳重な取り調べがあった。聞けば南京虐殺があったというのである。
身に覚えもないし,寝耳に水の話だった。

埠頭まで厳重な警戒のまま行列し,日本の駆逐艦に乗船させられる。
やっと愁眉を開いた瞬間だった。

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2009年8月 1日 (土)

捕虜その3

目覚めると外は雨。やはりまだ梅雨は続くと見える。気温24度。
「雨天は上のポストへ」と張り紙しておいたので、新聞は上のポストに入れてある。
ポストを設置したのは随分前だが、張り紙をしないといつまでも入れてくれなかった。やっと効果があったわけだ。

9時過ぎには雨は止んだ。
家内はせいこう外科へ行く。
午後になると雲間を通す日光が眩しく暑い。
午後3時また空が怪しくなる。家内はまだ降るんだろうかと心配そう。

アルゼンチン蟻の跋扈はますます甚だしい。伝染病などまき散らしてくれると大変なんだが,その気配は無さそうだ。神経質になる方が損だ。共存共栄で行くしかないか。
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私の戦争/捕虜その3
世の中がどうなってるのかわからないまま新年を迎えたが、帰国の話は風の便りもない。
すき腹をかかえたまま、寝転んでの生活がいつまでも続く。一頃の演芸ブームも影をひそめる。
情報も何もない。時折本部の山崎少尉が私を訪ねて来るが。昔話をするだけで先の見通しは情報掛将校の彼にもわからない。
私の隣に寝転んで食べ物の話をしながら、朝まで過ごして帰って行くだけ。

緯度からいえば、奄美大島くらいの位置だから、雪も降らないし、夏服ぐらしでもそんなに寒い訳ではないが、徐々に栄養失調になって行って,身体にカロリーの蓄えはなくなりつつあった。

3月下旬突如帰国どころか、出動命令が下った。咸寧南方50キロの道路、河川の改修命令が下り、各隊から選抜の集成1ヶ中隊を率いて、私に行けというのである。
今まで一番楽をしていたと思われたのだろうな。部隊長は桂林を立ち去る前に生田目大尉から山下大尉に代わってはいたが。
二日行程の一日目の晩たまたま宿営したところに生田目前部隊長の部隊が駐在していた。
生田目さんは大喜びで私を歓待してくれた。楽しく嬉しい限りであった。

私には道路工事や河川改修などの経験も知識も皆無である。指揮指導のしようがなく、各隊任せで適当にやれということだった。
毎日小川で釣り糸をたれて,時間を過ごすだけだった。
子供らがやって来て、いろいろ談笑するのが楽しみになった。海の話は彼らにとって興味ある話題だったらしい。熱心に話しあって時を忘れる事もあった.

4月中旬部隊本部から、軍の帰還命令が出たので、すぐ引き揚げるようにとの連絡が入り、やっときたかと、約80キロの道を昼夜兼行で歩き続けて、一日で賀勝橋の収容所に帰って来た。

出発の前日中国軍の身体意見が実施された。
中国のものと思われるものや、写真などは一切没収されるし,場合によっては逮捕等の原因になるかもしれないので、焼却など処分するようにとのあらかじめの達しがあった。

私は満州以来,愛用のカメラや撮り続けてきた写真ネガを数百枚保存していたが、犯罪につながるようなものはないと自信を持ちながらも、部隊の帰還遅延の原因になることを恐れて、無念の焼却をせざるをえなかった。

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2009年7月31日 (金)

捕虜その2

来る日も来る日も,曇か雨か梅雨らしい日が連続して,真夏らしくない涼しい毎日だったが,一昨日,昨日と快晴が続いて、漸く真夏の大陽がぎらぎらと頭上に焼きごてを当て始めた。
今朝は灰色の空を抜け出て来る日射しはないが、あつい雲はなさそうだから、そのうち灼熱の日光が届き始める事だろう。

昼前に出掛けて壱番屋にゆきカツライスを食べる。その足でスーパーで買い物をして帰る。
もうすっかり夏の日射しの中,ちょっとの外出でもくたくたになってしまう。
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私の戦争/捕虜その2
捕虜収容所に入ったその日から連日、前の軍公路を陸続と日本軍の部隊の行列がつづいた。

光部隊のように仏印から引き上げて来たという堂々と軍靴を響かせて4列縦隊であるいてくるのもあれば、よれよれに疲れ果ててばらばらやって来る兵隊もある。
中には軍用犬を飼ってくれと置いて行く兵隊も居た。
幸い小林信繁という兵隊が軍用犬師だったので譲り受けて飼う事になった。
絶対に他のものに手を出させない難しい犬だったが、ここを去るときどうしたのかなあ覚えていない。

蒋介石が戦争の怨讐をこえて日本軍は円満に日本に帰すと明言した伝えられ、早くも送還が実行されてるとも伝えられた。
国共内戦のとばっちりを受け、国民党側の捕虜となっている我々に、取り合えず防御用にと小銃と弾薬がかなりの量支給される。聞けば共産ゲリラの出没が予測されるからということだった。また協力して戦う兵士を募集するから、申し出ろとのことでもあった。
私の隊でも中村軍曹ほか5名が、どうせ日本に帰れても碌な事にはならないだろうからと応募して出て行った。
彼らは押収された日本車を運転して、輸送などに従事しているらしく、合間にはやってきて、食の足しになるものをくれたりした。そのうち数ヶ月もするとどこかへ行ってしまったらしく消息がなくなった。

賀勝橋の駅前の商店街に行き、食い物をあさったりした。
公用で咸寧の司令部に行く時など、日本軍が残した木炭列車の機関車の横腹なんかにぶらさがっていった。汽車はものすごくいっぱいで、住民たちは勝手に乗り込んでいる風だった。

商店街の食堂に入ると、見も知らぬ住民が酒をすすめてくれたりした。
皆ひとがよかった。
しかしある日三民主義青年団というのが、漢奸だと称して、数名の男たちを捕縛して,街の広場につれて来て容赦なく銃殺した。夜遅くまでそのうめき声が聞こえ凄惨であった。

広東橋でも経験した住民に対する医療協力を実施した。だんだん知れ渡り沢山の住民が病気治療を受けに来るようになった。お礼にと持参する食糧が我々の台所を潤すことにもなった。

虎に噛まれたと言って,肩から背中にかけて手ひどい怪我をした男が担荷で担ぎ込まれたこともあった。すぐ近くの山でやられたという事で、大騒ぎになった。

住民からの申し出もあり山狩りをすることになり。兵隊数十人と部落民多数で山を取り巻いて、発砲したり騒ぎたてたりしたが、虎は出て来なかった。
アリクイの大きな奴を持参したり、ところかわれば品変わるのたとえ通り、日本で見かけない動物がいろいろいた。

我が部隊だけでも約800名もいるのだから、賀勝橋を中心に4キロ範囲くらいの民家に自由に宿営しているのだが、戦いで荒れ果てていて、捕虜を養うのも簡単ではない。
中国軍もほとんど口出しせずに自主的に管理させているらしかった。中国軍の兵士が見回るなどいうことは一切なかった。

器用な兵隊が居て,演芸会を開いたり、また麻雀、とか囲碁,将棋など遊び道具はいつの間にか沢山作られて各所で大会が行われる始末だった。

近郊に水深が1mぐらい幅3mぐらいの小川がながれていたが、釣り糸をたれても鮠ぐらいしかかからなかった。小さな沼が1kmぐらい離れた所にあったが、こちらでは2、30cmぐらいの鮒がよく釣れた。天ぷら炒めして食うとおいしかった。しかし釣り人多しで間もなくいなくなってしまった。

カエルを捕って食ったり、のびろをつんでくったり、食えるものはなんでも探し歩いた。何百人もの兵隊がやるのだから、そのうち何も無くなってしまった。

近所の住民のうちに行き、物々交換で茶碗一杯のめしを僅かな菜っ葉の漬け物を載せてくったこともあった。
翌年の正月頃になるともうじたばたしても駄目だと悟った。

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2009年7月30日 (木)

捕虜その1

珍しく青空一面の快晴、気温24度と涼しい朝。
このまま梅雨が上がるといいのだが。

11時内藤内科に行く。腎臓の検査をするという。血液を採って別に検査してくれる。
健康値ぎりぎりで良好と告げられる。
食欲もまあまあだし、これ以上はしかたのないところだろう。

午後はやや雲が出て来たが、かんかん照りよりは過ごし良い。

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私の戦争/捕虜
 昭和20年8月30日夕刻、長沙を徒歩で出発。背嚢には食糧と下着類のみのささやかな荷物を詰め込み、それこそとぼとぼと気力を喪失した歩みであった。

何キロ行ったか、もと鉄道のあった橋だろう、渡る事になった。1kmもある長い橋である。下はごうごうと凄い音を立てて流れる濁流の大河湘江、落ちでもしたら命はない。
線路を取り払った,隙間だらけの橋、揺れ動く橋板の上をそろそろ歩く。まったく肝を冷やすとはこのことだった。始めは何とか立って歩いたが、中程からは皆這って渡り始めた。その方が安全で早かった。歴戦の勇者も形なしであった。

もう帰心矢のごとく、もくもくと歩くのみだった。暗闇の中を、どこがどことも分からず付いて行くだけで、小休止、大休止と伝令が伝えれば休み、路傍にばたばたと寝転ぶだけであった。

9月2日大きな河のほとりに立ち止まった。汨水であった。
川船で渡り、ここから岳州まで鉄道で運んでくれるということで、河辺に散らばって時間を待っていた。
すぐ近くの廃屋にいた電信隊の隊長が、私を呼んで、今日米の戦争終結の調印を放送しているから聞けと,レシーバーを貸してくれた。アナウンサーは間違いなく無条件降伏と伝えていた。
その瞬間思わず涙が滂沱と頬を伝って落ちるのを感じた。もう駄目だ。俺たちの死に場所はどこになるのだろう。その事しか思い浮かぶものはなかった。呆然として真っ白な頭の中。
二千年の昔楚の屈原があの有名な「漁夫の辞」を残し、主君懐王がとらわれた先、秦に客死して、忠誠空しきをを悟り、石を抱いてこの汨羅の淵に身を投じたと伝えられている故地でもあった。

岳州に着いて、しばらく待命休憩の時間がつづいた。
街の中は住民の復帰で混雑していた。憲兵下士官が大きな袋を引きずっているので,なんだと聞くと、袋の口を開いて中を見せてくれた。袋一杯に乱雑に押し込んだ紙幣、いうまでもなく無価値になった儲備券であった。どこかで焼くしかないとやけくそな口ぶり。
何万枚もあったのではないか。

9月9日列車で咸寧県賀勝橋というところに運ばれる。
この駅の近辺に部隊は民家に分宿して、捕虜生活をつづけることになった。
私の隊は駅から一番遠く3キロも離れた部落の民家の土間の何部屋かにシートを敷いて寝起きする事になった。一部屋に十数名のごろ寝である。隊長も兵隊もなかった。
食事は一日主食のみ300グラムの通達で、毎食メンコ半分のお粥か雑煮だった。

この家の住民も同居しているのだが、多勢に無勢黙って狭い一,二室に窮屈そうにくらしていた。
お上の命令だから致し方はない。

隣の部屋に寝てばかりいる老人が居たので,聞くと食うものがないので死ぬのを待っているのだという。さかんに没法子を口走る。一般住民は国が勝とうが負けようが関係ないのである。

おりしも、その国自体も国民党と共産党が死力を尽くして内戦のまっただ中にあった。

(注)漁夫の辞について、よく聞かれるが、詳しい事は私もよく知らない。
nifty searchで拾ってみると、ちゃんと本文と邦語訳があったのでそのまま載せておく。
漁父辞
屈原既放
游於江潭
行吟澤畔
顔色憔悴
形容枯槁
漁父見而問之
子非三閭太夫與
何故至於斯
屈原曰
與世皆濁
我独清
衆人皆酔
我独醒
是以見放
漁父曰
聖人不凝滞於物
而能與世推移
世人皆濁
何不乱其泥
而揚其波
衆人皆酔
何啜其汁
何故深思高挙
自令放為
屈原曰
吾聞之
新沐者必弾冠
新浴者必振衣
安能以身之察察
受物之紋紋者乎
寧赴湘流
葬於江魚之腹中
安能以晧晧之白
而蒙世俗之塵埃乎
漁父莞爾而笑
鼓(木世=えい)而去/
乃歌曰
滄浪之水清兮
可以濯吾纓
滄浪之水濁兮
可以濯吾足
遂去不復與言

屈原 既に放たれて、
江潭にあそび、
ゆくゆく沢畔に吟ず。
顔色 憔悴し
形容 枯槁せり
漁父見て 之に問うて曰く、
子は三閭太夫にあらずや、
何の故にここに至れる。
屈原曰く
挙世 皆濁り、
我、独り清めり。
衆人、皆酔い
我、独り醒めたり
是(ここ)をもって放たれり。
漁父曰く
聖人は物に凝滞せずして
よく世と推移す。
世人 皆濁らば
世人 其の泥をみだして
其の波を揚げざる。
衆人 皆酔わば、
何ぞ其の汁を啜(すす)らざる
何の故に深思高挙して、
自ら放たれしむるを為すや。
屈原曰く
吾、之を聞く
新たに沐する者は必ず冠を弾き
新たに浴する者は必ず衣を振う と
いずくんぞ能く身の察察たるをもって、
物の紋紋たる者をうけんや。
寧ろ湘流に赴いて
江魚の腹中に葬らるるも、
いずくんぞよく晧晧の白きを以って
世俗の塵埃を蒙らんや
漁父 莞爾として笑い
えいを鼓して去る
乃ち歌って曰く
滄浪の水 清まば、
以って吾が纓(冠の紐)をあらうべし
滄浪の水 濁れば、
以って吾が足をあらうべし
遂に去ってまたともに言わず

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2009年7月29日 (水)

日本の敗戦を知る

朝広島総合病院に出掛ける。もちろん一番の呼び込みである。簡単に済む。
帰宅すると家内が長女の所に行って来ると支度している。広電駅までつれて行く。
ちらちらと小雨が降っている。梅雨は8月までつづくようにいっている。
天候異変のうちに入るだろう。

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私の戦争/日本敗北を知る
 昭和20年7月23日桂林に別れを告げる。
出発間際に犬養兵長が連れて行ってもらいたい人があると、頼みに来る。
広西大学教授の陳冰夫妻という。南京政府の周仏海が友人なので,彼を訪ねて行きたい.行ける所まででよいからとのこと。奥さんは香港生まれで英語や,広東語は得意で,主人は北京語と広東語に堪能とかだったが、私との会話は難しかった。奥さんの通訳で英語での会話が多かったような気がする。
ともかくトラックの背中の幌の中での雑魚寝で過ごしてもらうことになった。

周仏海と言えば汪兆銘、陳公博とならぶ南京政府の要人である。名前だけは日本でも著名であった。
日本と手を組んでる人たちだからいいだろうとすぐ請け合った次第だった。

各部隊が一斉に北上を開始したのだから、軍公路の込み具合は大変である。
敵機も早くも察知して、頻繁に襲撃して来る。
だから夜の行動だけで、昼はもっぱら蚊帳を樹木につって昼寝という訳。
私が携行していたマイナー・ハーモニカを寝ながら吹くと、兵たちが唱和して歌うといった、思わぬ戦場風景ともなった。勝敗はともあれ故郷へは近くなるという思いがこころを楽しくさせてくれたのであろう。

8月17日全県を過ぎ、祁陽付近の山茶花の林の中に退避していたとき、本部から各隊長集合の命令が届けられた。部隊長から停戦になったから、昼の行軍で迅速に先ず長沙まで行くようにということだった。停戦ということがどういうことか、よくわからなかったが、ともかく一時武器を置くという事だろうと理解した。しかし敵が攻撃して来た時は戦うことに躊躇するなと言う事が付け加えられた。

住民が豚を殺してご馳走してくれた勢いで直ちに前進を開始した。
南岳市に来た頃,夕方近くなっていたので、車を止め、指揮班長と伝令二人に、偵察に出向かした。
ところが十数分もすると、日本の警備隊と敵が交戦中だと伝令が報告して来た。
そこで私はすぐ戦闘準備を下命し。半数を車両警備に残し。残り半数を率いて、南岳市を包囲するごとく展開せしめた。桂林で補給された、重機、軽機、迫撃砲などは勿論この時とばかり携行せしめた。

街に到着し始めた頃敵は早くも気づいて,衡山の麓を上に向かって、一斉に退却し始めた。
直ちに重機関銃と迫撃砲で攻撃を開始した。敵影がよく見えるので狙い撃ちである。どちらの火器も弾着が分かりやすいので攻撃しやすかった。
小銃を射つ暇もないうちにかたが付き,敵は潰走し、警備隊の10名ばかりを救い出す事ができた。

隊長の見習士官が本隊に帰りたいというので、車に載せ,全員をやく10キロ先の衡山市まで送っておき、こちらは野営場所を求めて更に前進する事になった。

思い出の広東橋があと50キロぐらい先にあるので、暗くなってもいいから、そこまで行こうということに決め急ぐ。

もう8時過ぎ、9時近くなっていたかもしれない。住み慣れた場所だけにすぐ野営施設を始めると間もなく、誰が連絡したのか、部落の顔役などがやって来て、ご馳走するからと案内にやってくる。
皆私たちを忘れてはいなかった。幹部のもの、関係があったもの十数名が招待を受け,夜遅くまで歓待された。
このとき彼らはもう日本は負けてアメリカに占領されたのだから,あなた方は国に帰っても駄目だ。こちらに残ったらどうだという。われわれでなんとか面倒を見るという。

冗談じゃあない。日本が負けるわけがない。一時停戦しただけだ。いずれ戦争は終わるよと事情を彼ら程知らないわれわれは、怒って彼らの言い分を拒否したのだったが。

翌々日長沙に入るとすぐ敵の部隊に武装を解除すると通告を受け、やっぱり負けたのかとがっかり。
超先生にもこういうことだそうだから、自動車は敵に取られるし,送っては行けないから自分で方途を考えてくれと別れる事になった。

8月23日正式に武装解除され、背嚢一つとなり、銃も剣も皆取り上げられてしまった。

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2009年7月28日 (火)

桂林撤退

またぞろ灰色の空,沖は霧で覆われて何も見えない。
雨になるか予測はつかない。

アルゼンチン蟻の出没が激しく油断ならない。パソコンの中.寝床の中、茶箪笥の中までどこでもござれである。ときどき皮膚を噛む。針を刺すように痛い。
在来種の半分ぐらいで,色が皮膚色透明で全くわかり難い.お手上げである。
妙なものが日本に侵入したものだ。

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私の戦争/桂林駐留
 今振り返ってみると、桂林南方周家村での駐留は昭和20年2月から7月まで正味5ヶ月いたことになる。その割には思い出がない。広東橋は4ヶ月だったが思い出が多い。
どうしてだろうかと考えると、先ずアルコールに打ち込んだ事、寝ても覚めてもだった。
そして大隊全部が一緒に駐留していたので、住民と直接接触する事がほとんどなかった。
毎日同じ仕事の繰り返しでは記憶することの種類が少なかったということだろう。

会稽村のアルコール工場のたたずまい。焼酎の集荷、生産したアルコールの処理などの業務の確認、
そして外に出て街の賑わいを息抜きに見る。白崇禧屋敷に入って蔵書など拝見する。

20キロ離れた駐留地の周家村に戻れば、隊の稼働状況を見て回る。
することは僅かなものだった。

そういえば、この付近は貧しい所だったようだ。主食はなんだか里芋だったような気がする。
朝に晩に里芋のきぬかつぎをよく食わされたなあ。白い犬コロも食用に飼ってたようだった。
食ったかどうかまではしらない。

部隊内に一カ所遊郭みたいなところを作って、娼婦が何人か雇われていたようだった。
本部の深川軍医の管理のもと、検査は厳重にやっとるから心配せんで、通っても大丈夫だよと将校集会の席などで皆を笑わせていた。そういえば集会の後の宴席にはかり出されていたりしたなあ。
駐留期間が長かったから、兵隊の慰安のために施設したのだろうが、そういえば慰安所といったかもしれない。
ひょっとしたら娼婦は日本人ではなかったかもしれない。

会稽村は一応賑やかな街だったから,店も多くいかがわしい店も当然あった。
麻雀賭博をしていた兵隊の中に私の隊の兵隊がいて、週番将校をしていた私の同期の久田副官につかまった。早速友達の私に耳打ちしてくれたので,ビンタを取って説教し釈放した。
宿営地なら重営倉というところだが、戦地ではこの程度で仕方がなかった。私も部下をビンタを取ったのは始めてであった。

桂林陥落の際捕獲した兵器弾薬などは凄かった。アメリカ製の自動小銃、対空機関砲など目新しいものいろいろ配給された。また洋酒などもたくさん配られてときならぬ宴会になったりしたものだ。
これらの武器のお蔭で終戦後撤退の途中役立ったことがあったりした。

この付近の景色は南画に描かれた絵そっくりで、南嶺を超えて樹木越しに、曉暗に浮かぶタケノコ状の山波を眺めた時の驚きは忘れられない。朝に夕に眺め暮らした割にはその後の感動は記憶にない。

戦史によると我が部隊は苓浦を中心の区間輸送を担任したらしいが、直接携わる事のない材料廠だから全然記憶にはない。
アルコール燃料もそれ用の自動車も後はご自由にと任せただけで、あとの事は撤退に忙しくてどうでもよかったのかもしれない。

何も聞かされてはいなかったが、日本が危ないということは、空気伝染で分かりかけていた。
目をつむり,耳をつむっていただけだった。
7月撤退命令が出たとき、やはりそうかと覚悟した。もう生き延びる道はなさそうだと思わざるをえなかった。

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2009年7月27日 (月)

老人の或る日

今朝3時半目覚める。息苦しいので起き上がりソファに腰を下ろす。深夜放送が流行歌をやってたが,大きな声でやるので,スイッチを切りかけたが思いとどまって音をしぼる。
折から広島、呉、東広島の大雨警報解除が告げられる。窓を大きくいっぱいに広げ深呼吸する。
なんとなく息苦しさが治まる。
又ベッドに入り明け方まで寝る。

6時半気温24度。青空が見えるいい天気.積乱雲があちこち点在し,梅雨明けの空の様。
朝の食事はパン1/3。又しばらく休む。

昼飯をかねて,買い物にアルパークに出掛ける。
先ず讃岐やで腹ごしらえを済まし、贈り物にする品定めをする。
午後1時過ぎ帰宅。
青天井の快晴の空のもと焼け付くような日射し。
眩しくて運転も難しい。
幸い人も車もさほど多くなくて助かる。
とっさの判断は難しいかもしれないが,並みの運転ならまだまだいけそうだ。

夕方5時、空は灰色一色。水蒸気でも立ちこめたか。

天気はいいのに気分はもう一つ。何もやる気がしない。
老人だからこんな日もあるだろう。

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2009年7月26日 (日)

戦史を読む(3)

何時降り出すかも分からないような空、気温23度、梅雨はまだ上がりそうにないという。
7月に入ってから一日でも天気の良い日があったかしら。
朔日から三日続きの雨の三日目だった。
日記には曇と書いておけばほぼ間違いない日の連続である。

午後に入るととうとう本降りになる。
もう止む気配は全然見えない。

大阪の水戸君から珍しく電話。5回目の抗がん剤を飲み始めたとの事。痛くないので助かるとの弁。
それが一番。遅かれ早かれ何かで死ぬのだ。痛まずに円満に死にたい。
元気な声を出してるからまだ大丈夫だ。もうちょっと頑張れ。


今”私の戦争”をブログに連載しているのだが、私の一番記憶の希薄な部分に取りかかっていて,連載を迷っている所だ。
戦争末期、他の事には目もくれず集中して取り組んでいたのは、アルコール燃料とその実用化問題であった。
連夜桂林駅構内に出向いて、如何に早く,間違いなくトラックの車輪をトロッコの車輪と取り替え,レールに載せて走らせるかであった。10人ぐらいの部下を指揮して,夜を徹して取り組んだ。
敵情など時折信号弾は上がっても、全然気にしなかった。星明かり、月明かりだけをたよりに、今思い出すと不思議な気持ちだ。

テスト運行がうまく行って、もう大丈夫という所で、実際に輸送を担当する中隊に引き渡したのだが、それから後がどうなったか、どうしても思い出さない。
駐留地から桂林まで2、30キロあったから、夜通うのでも何時間もかかる。
引き渡してからは、こちらの役目ではない。
結果は後日聞かされた話になり、実際に体験したのでないからいい加減な記憶になる訳である。
どれだけの実績を上げたかは報告は受けたであろうが覚えていない。

ただ6月か7月輸送司令官が部隊に見え、我が工場をつぶさに見学し、激賞してくれたことはよく覚えている。それがアルコール事業か鉄道に転用した実績だったかそのあたりがはっきりしない。

後日捕虜生活中、久田副官が鉄道のトラック輸送のお蔭で後方に滞貨なしと司令官から賞されたのだから、戦に勝っておれば勲章は間違いなしだったのになと、私に語った事があったが、冗談だったか本気だったかはっきりしない。負けてしまっては後の祭りだと聞く耳をもたなかったせいもあった。
久田副官も20年も前に亡くなって、大分前に資料が残ってないか奥さんに探してもらったが,僅かなものしかなかった。
この度防衛省に問い合わせたが、部隊の陣中日誌や作戦記録は焼却したり、散逸したりして残っていないと回答があった。久田副官が二日市で下車して、終戦事務所に出向したのはなんだったのだろうか。

今ここに風聞程度のことを書く訳に行かないから,私の戦争史から除外しなければならない。
私のやった戦争功績はこれしかないような気がするから,今となっては至極残念でたまらない。
槿花一朝の夢だったかもしれない。

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2009年7月25日 (土)

戦史を読む(2)

雨は降り止まない。大雨洪水警報は出っ放しである。
防府市の死者は12名になった。2名行方不明というのだからまだふえそうだ。

昨夜8時過ぎ、突然芳邦さんが野菜を沢山持ってやって来る。家内は風呂に入っているし,私は寝床にいるし驚き慌てる。それでも遠慮の要らない中だからそのまま上がってもらって2時間ばかり歓談する。
雷鳴しきりに轟き外はただならぬ気配だが、家の中は和やかな話で終始、遅くなったと慌てて帰り支度して午後10時雨の夜道を帰って行く。気をつけてと暗闇の中を何度も繰り返して送った。

今朝は南からの横雨がひどく外を眺める事も出来ない。もっとも眺めるに値するものは何もないが。
昼頃やっと雨が止む。しかしまだ先は分からない。

また戦史でも顧みよう。
昭和19年6月29日梅仙ー平江付近に停滞して動けなくなっていた,3個聯隊と3個大隊の自動車集団1200台は結局軍命でそこから崇陽まで引き返して岳州を回り、洞庭湖に沿う二本の道路のうち東側の道(長楽街経由)を一気に長沙へと7月17日全車両無事到着したとある。もっともそれ以前に受けた損害は除いての話ではあるが。
結局200キロの道を1月半かかったわけである。
しかし最後尾を受けたまわる私の隊の陣中日誌には8月2日長沙に到着とあるから、戦史より更に半月遅かったことになる。
(私見だが、聯隊といい大隊といい規模は殆ど同じで部隊長の階級が違うくらいのものであった。私も当初第3聯隊に入隊し,そのままの規模で第69大隊に名称が変わった。1部隊約200輛の編成だった)

訳の分からぬまま、前の車の後に跟随して、いつまにか引き返して岳州を廻ってたらしい。
山から下りてえらく早く走ったなあと思っていたが、そういうことだったのだ。とにかく暗闇の中を走るのだから,明るくても未知の土地、どこがどこだかわかるわけがない。
千輛を超える車がぞろぞろ列を作って狭い道を、夜走るのだぞ,想像してみたまえ。

当時の自動車の性能も悪かったが、自動車隊としての行軍速度は時速10キロ、一日100キロと作戦用務令に定めてある。立派な行動基準である。

ついでに気づいた事を書いておこう。この湘桂作戦でつぎ込んだ自動車は15000輛とある。主力の第11軍だけでも9800輛と戦史に書いてある。1500キロの長い戦線だから、ばらまけば問題ないかもしれないが、どこからどうして運んで来たのだろう。

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2009年7月24日 (金)

戦史を読む

ときどきぱらぱらと雨粒が散り落ちる変な天気。
家内が広島総合病院で目を診てもらうというのでつれてゆく。
昼過ぎに終わってつれて帰る。老人性の白内障が片方の目に出来ているよし、ひどくならない薬をもらう。他の病気はないとのこと。まあまあ安心。

戦史叢書を読むに急がし。何をする暇もなし。
湘桂作戦今読めば心当たり多し。
特に昭和19年5月25日の開戦間もなく、道なき道を尾根伝いに行った行軍は6月23日進撃中止命令発令とある。
軍は遅々として進まない行軍に愛想をつかして、この進撃コースを中止したわけだった。
方向転換を強いられたわれわれこそ迷惑な話だった。

一晩に1キロといったことがあった。朝になって見るとすぐ向かいの山に見覚えがある.
尾根は皆まっすぐと決まっては居ない。Uカーブした尾根もある。昨夜あそこから出発したのだと指差して驚いたことがあったもんな。そして夜が明けるとまた敵機が襲撃してくる。
隠れ場のない山の尾根をのろのろと一列縦隊で何日も行けば、やられるばかりで、1200台の車両の4割が損傷したと戦史に書いてある。
無惨な戦だったなあ。敵機に取ってみれば、これぐらい面白い戦いはなかったろうな。

燃料の消費量が3倍になったともある。よく燃えたものなあ。燃料満載の車も多かったのだから。
ぶーぶー一晩中ふかして1キロでは割にも合わない。
崇陽を通過した事は今でも覚えているが、平江という所まで行けずに20キロ手前の梅仙で立ち往生したと戦史にある。
崇陽から平江までは約百キロの道のりである。

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2009年7月23日 (木)

札幌の戦友から見舞の電話

雨漸く上がって,朝から日射しが強い。気温は7時現在22度。
明日からまた下り坂というのだから、今日は一息いれなければ。
ブログも今日はお休みとしよう。

岩中36期生の昭和33年度版から書き写して名簿をつくる。準会員(4年生で進学したもの)を入れて卒業者108名中死亡者26名差し引き82名が存命とこのとき現在一応はなっているのだが。消息不明のものも数名いるので、確定はしない。やはり戦争で死んだものがほとんどだ。
加国とか藤村とかトップクラスが死んでいる。惜しい事をしたものだ。

昼にはかんかん照りとなる。パソコン台の拡張机のビスをどこに整理したかわからない。机をつけようと思ってもどうにもならない.ダイキまで出掛けて買って来る。一汗かく。
家内がスイカを買って来いと言ったが、小さなうまそうにないのしか置いてない。いいのは売り切れたのだろう。皆が欲しがる時は駄目なもんだ。

スイカや瓜はいつでも食べられるように,昔の我が家には水槽に何個も浮かんでいたものだが、あんな姿は田舎に行かないとやはり見られないな。

夕闇が迫る頃にはまた空もすっかり雲に覆われて何時降り出してもおかしくない状態。

暗くなって先般注文していた湖南と広西の戦史叢書がとどく。
我が部隊自動車第31大隊も小さな文字でところどころに載って入る。
ほんとにあったことだから載ってて当たり前だが、なんとなくほっとしながら、その先が知りたい。
やはり戦史だから,戦闘部隊優先で輸送隊なんて目ではないようだ。

夜札幌の山崎君から電話、雨の災害の見舞だが、いつもながら優しい心根.感謝、感謝。
一つ年下だから88歳、老骨にむち打ってフィンランドに5回目行って来た由。元気な事だ。
曾孫が二人だそうだから私より一人多い。
料理が趣味で滋養なものを作っては食べてるという。ながいきするぞー。
兵隊仲間で電話まで呉れてるのは彼一人になった。

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2009年7月22日 (水)

アルコールの製造

雨は昨夜のうちに上がり、さわやかな朝.気温24度、ちょっとすずしい。
昨日は山口県が大きな被害があった。8人死に行方不明が何人もいるとのこと。
自然はありがたいが、怖い。
空は雲がびっしりだから、大陽が見えるどころではない。大陽があるところはいやに明るいからわかるけど、輪郭まではとても。日食の時は真っ暗になるのだろうからけじめはつくか。

雲あつく大陽が顔を見せる事はなく終わった。しばらく天地の間が暗くなったとき日食が起きたのだろうとは察しがついた。

昼前アルパークに行く.中元のお返しをする。
雨にこそならないが、曇空はつづく。

 ______________________
私の戦争/湘桂作戦その6
 大隊は既に12月22日頃には新しい任務零陵ー全県間の輸送業務に精出していた。
全県双倍村にて我が隊の第2分隊と合流。しばらく駐留することとなる。
南嶺山脈のど真中といってよく、軍公路脇まで森林に覆われ、車の遮蔽は問題なく敵機の恐れも少なかった。樹木間に蚊帳を吊って暮らす生活がしばらくつづく。

昭和20年2月11日部隊は前進を開始し、14日逐次桂林南方の周家村に到着。
この付近の民家を利用して駐留を始める。

私の隊は桂林に入ったのは20日を過ぎていた。

破壊された市街の中心ロータリに軍の掲示で、サイパン島が敵に占領された事を知った。
しかしマッチ箱くらいの爆弾で軍艦一隻を沈め得る新型爆弾の開発中だとも書いてあった。
こわれた家の中には爆撃で死んだか、凄い形相の死骸が二つ三つと転がっていた。
地雷に注意の表示があちこちあったので、大きな道路を行き,漓江にかかる橋のところで住民が魚を売っていた。1米くらいの大きな鯉を買って、車の所へ向かっていると、後でわかったのだが地区司令官の巡察に出くわした。敬礼すると近寄って来て馬上から何処の部隊か名乗れというので、部隊名と官氏名を名乗った。何も言う事もなく立ち去った。

後日部隊長会議でうちの部隊長が名指しで注意されたらしい。
なんでか理由がよくわからない。わたしには何もいわないで何を注意したのだろう。
私は知らん顔をして聞いていた。ばかばかしい。

到着そうそう南方の形勢不利となり、燃料不足が伝えられ、輸送も滞り始めた。
アルコール燃料の製造方法を教えるから、人を寄越せと軍から言って来た。桐生高工出身の中井兵長と興亜石油勤務だった安藤上等兵そして私の3人が受講のために出掛ける。
他の部隊の要員と一緒に100キロ先の柳州の自動車廠までトラックで運ばれた。
約2週間みっちり教育を受けた。でんぷん類を発酵させて、アルコールを作り蒸留して燃料を作り出す訳である。一方自動車も気化器を新しく作って交換しなければならない。混合比が違うから爆発しないというわけ。

はいはいと言って帰ったが出来るかしらと3人は文殊の知恵を出し合う事になる。
ここで我が技術集団がものをいった。この地方はさといもしかない。発酵がうまく行く訳がないと早急に結論した。焼酎を集めろと部隊に号令した。蒸留塔は板金工を中心にすぐ出来始めた。気化器は鋳物工と旋盤工の合作で、寸法通り立派なものが量産された。原材料はカンパンの空き缶や飛行機の翼などの残骸である。
工場は白崇禧(広西省閥の親玉)の郷里の会稽村に作り、その近辺で焼酎を買い集めた。

20日足らずで稼働を始めた。中井を工場長に5名が従事した。85度以上がとれ始めた。
テスト車をつくり試験走行に没頭した。
普通道路は凸凹が多くて速度も出ないが、そもそもが馬力が足りない。荷物を積んでなどとんでもないと分かった。

兵隊の提案を入れ、鉄道線路を利用する事にした。車輪はトロッコの車輪に取り替えれば大丈夫と分かった。少し車幅や軸心の大きさが違ったが、そこは彼らのお手の物、簡単に手を加えた。
アルコール自動車1台でトロッコ10台ぐらい牽引出来た。夜間でも無灯火で道を踏み外す事はない。そんなに飛ばす事はない。そろそろで結構である。真っ暗な中で走るのだから、敵機はおろか敵兵すら気づかない。
何度か桂林駅に足を運び、材料を集めテスト運行を繰り返した。

が,時既に遅く、軍は反転準備に忙しかった。
会稽村ではフル稼働の最中,或る朝夜が明けると同時に敵の包囲攻撃がはじまった。もちろん狙いは工場だったろう。中井兵長らは屋上から攻め寄せる敵兵を狙撃し数名を倒した。
連絡により集成一個中隊を本隊より送り救援,夕方までには撃退した。こちらの損害は1名戦死ですんだ。
焼酎の集荷もだんだん悪くなり、敵情は悪化するばかりで工場稼働も難しくなった。
その頃、
5月湖南省芷江(衡陽から西方300キロ)で大敗、6月沖縄が占領された。その事情は終戦後まで知る事はなかった。
退路を断たれる恐れが高まった7月急遽全軍反転の命令が下った。
7月23日我が隊も逐次周家村を引き払い、桂林を経てとりあえず武漢に向かう事になった。
軍公路は夜を徹して、北に向かう我が軍の列がつづいた。

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2009年7月21日 (火)

広東橋を去る

こうして連日雨がつづくと65年前の湖南の里を思い出さずにはいられない。
田園風景といい、山の姿といい、まったくここらと似通っていて当時なんだか郷里を走り回っているような気がしたものだ。緯度は沖縄県と同じだから秋から冬にかけても寒さなどは全然感じない毎日だった。
しかし秋の長雨は不思議な感じだった。あの時もよく降ったなあ。
敵機は全く来なくて助かったのだったが。

朝6時40分又雨の音が激しくなる。南からの風に押されて雨だれが窓を叩く。
食事を済ませても夜がつづいて、やはり寝ているのが無難だ。
こちらはどうでも良いが、悪石島の皆既日食は明日の朝9時頃というが大丈夫かな。

午後に入っても一向に降り止まない。この付近一帯に災害警報が発令される。
河川の増水が著しいか。
山口県がひどく新幹線も高速道もあちこちで交通止めになる。
 _________________________
私の戦争/湘桂作戦その5
 第1分隊へ連絡のため、夜間伝令の安藤上等兵の運転でだるまで走った事があった。
軍公路ぞいの山から信号弾が飛び交いこれはまずかったかなと思っているうち、同じ思いの安藤が全速力で飛ばした。ひょっと気がつくと座席の下から煙を出している。
あわてて止めたはよいが、今度はエンジンがかからない。
狭い谷間の道、数人の敵兵でも、こちらは小銃一丁では戦えない。万事休すと思ったが、暗闇の中敵情らしき気配は見えない。
息を殺しているうち3、40分も経った頃友軍のトラックが通りかかった。
危うく助かったという一幕もあった。

統集団司令部が一時的にあった、南岳市に2度訪れた。風光明媚な山水で街が賑やかだった。
南岳というのは支那五岳の一衡山のことをいった。山頂近くまで寺院が立ち並び、下からの眺めは壮観だった。
10キロも離れた湘江河畔に別に衡山という大きな街があった。
ここに駐留していた第2中隊でコレラが発生し、5名だったか兵士が戦死した。

ながらく班内で臥せっていた斉藤栄一等兵が10月9日とうとう息を引き取った。簡単な葬儀の後枯れ枝を掻き集めて、家の裏庭で焼却した。我が隊始めての戦死者だった。軍医の診断では脚気衝心ということだった。
作戦の最中だし、郵便の手段もなく故郷へ知らせるすべはなかった。

我が軍は何条にも別れて南嶺山脈を横断突破し、11月初め桂林を包囲占領した。

12月中旬部隊は零陵ー全県間の輸送任務に変更され、ぞの前進に伴い第1分隊は全県に前進、材料廠も12月下旬長かった広東橋駐留に別れを惜しみつつ、前進を開始した。

このときやはり胃腸病で臥せっていた浅川上等兵を易俗河の兵站病院に入院させた。つれていってくれと泣いて懇願されたが、こころを鬼にして突き放した。
彼は翌年5月武昌で帰国途中に隊に元気で帰還し、一緒に揚子江を下った。
戦後彼との付き合いは彼が数年前亡くなるまでつづいた。特に東京日本橋のレストラン・エルムに居る頃はよく逢いに立ち寄ったものだ。(写真は昭和47年頃店に訪ねて撮ったもの、浅川君は私より3歳ぐらい年長だったかな)

大晦日、激戦の痕が生々しい衡陽に入り、敵兵の骸骨のごろごろしてる中で野営した。
自動車廠との連絡と燃料受領の用件があったから仕方がなかった。
昭和20年1月1日朝、雑煮はあらかじめ広東橋で搗いて来た餅に、粉醤油であじをつけ鰹節を削っていれた豪華なものだった。
Asakawa_me

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2009年7月20日 (月)

引き続き広東橋

夜来の大雨がつづいている。遠雷が時折聞こえる。
所によっては集中豪雨に見舞われているかもしれない。
じーっと部屋に閉じこもっているしかない。又寝転んで「蝉しぐれ」を拾い読む。もう十回目ぐらいかも知れぬ。

小説と言えば、先頃山本周五郎の「栄花物語」と「日々平安」を買って来て一気に読んだ。
私の好みはやはり周平の方だ。
が、残りがもうあまり無さそうだ。本屋にないのでAmazonで買ったりした。
慎重に選ばないと、二度同じものを買ってもつまらないし。

なんで今日休みかと思ったら”海の日”という。
山の日はないのに。おかしな日だよ。

丁度正午雷鳴轟きひとしきり大雨がつづく。
昼飯のときあまり外が暗いので夜と勘違いし、食後に呑む薬を夜食後と間違ってしまう。
 _____________________
私の戦争/湘桂作戦その4
 初期には不審な犠牲者も出た。ある日懇意にしてる住民が日本兵が殺されてると告げてきた。
押っ取り刀で10名ばかりつれて現場に行くと、頭を貫通されて若い兵隊が襦袢1枚で倒れていた。
認識表も銃も何も持っていない。広い畑のど真ん中で、人影はどこにもない。人家もない。
仕方がないからどこかに埋めてやろうと、兵隊に担がせて、軍公路まで出て来ると、どこからか兵隊が一人現れて、病院下番の連れだという。名前や部隊名は知らないという。長崎県人だとはいってたがとまことに頼りない。

結局道ばたに穴を掘って埋め、簡単な木の札を立て長崎県人という表示をして去った。
敵情はなかったときなので、犯人の推定は出来なかった。

やはりこうした一般兵が食糧を求めて民家に入り、略奪行為をするものも居た、その都度住民から通報が入り、出掛けて行って取り返し、あるいはビンタを取って制裁を加えたりした事もあった。

大きな部隊で倉庫のもみを勝手に精米しているのを、訴えて来た住民と共に部隊長と掛け合い、代金を支払わす事で折り合いをつけたこともあった。

こうしたことが逐次住民に浸透した結果前記のような事態が生まれたのかもしれない。

池本上等兵は5キロぐらい離れたところにある湘江沿いの馬公堰という市場まで行き、そこの顔役と親しくなり、義兄弟のようなつきあいをしていたと後に聞いた事がある。
彼の案内で私も一度視察に行き、儲備券が流通しているの確認した事がある。
もっとも池本の話では、対岸から支那兵が買い物に来た時は法幤を使うのだといってたが、平和に暮らすには仕方がない事だと思った。

他中隊で芋の収拾に出ていた兵隊が、敵に襲われて6名戦死したとの通報もあった。
ゲリラ的に襲撃してくる敵兵の侵入は戦争だから防ぎようはなかった。
スパイらしきものの侵入も当然免れ得なかった。

住民から敵兵侵入の訴えもあって、ある日急遽20名ばかりを率いて、ツーチン山方向に示威行動を行った。4、5キロ奥には小学校らしきもののあり、住民もたくさんいたが、敵兵との選別はつくわけもなかった。

10月に入ると雨が多く、軍公路の自動車による損傷が激しくなった。轍の跡を修復するたび路面を削るので、だんだん深くなり、場所によっては車がすっぽり埋まって横からは見えない程になった。
湘江を利用する水上輸送が当然増えたらしい。
8月やっと衡陽が陥落、9月には零陵、全県を占領、広西に向けて湖南省、江西省、広西省の境界にまたがる深い大山脈(南嶺)は機械化部隊の進攻は大変だったらしい。

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2009年7月19日 (日)

広東橋に駐留4ヶ月

 一応雨は上がって青空もあちこち見える。気温26度。
そのうち間もなく霧が沸いてきて、いつもの天気の姿にかわる。
雲がやはり厚く、日射しはない。
夕方には雨という予報だが。
 ______________________
私の戦争/湘桂作戦その3
 我が工場は正直な所さして多忙ではなかった。第1分隊の方は手元で見ていないのでなんともいえないが、第11軍から第6方面軍の隷下に入ったぐらいだから、部隊は軍の最後尾といってよい。
だから敵空軍も手加減したかもしれない。重大故障が少なければ我が隊の出番は少なくなる。
少々の故障などは、経験者の多い召集兵の部隊だから,自分の中隊で治す事ぐらい可能だった。

兵隊を遊ばすのはもったいないので、宣撫工作に力を入れる事にした。
伝令の池本上等兵、河原衛生兵などに命令して,積極的に住民に接触し早く親しくなるようにせしめた。
手っ取り早いのは薬品をつかっての病気治療である。物々交換は塩を使うのが手っ取り早かった。
池本は東京消防庁出身だったから,応急手当はお手の物だった。
積極的に部落を歩き回り交際を深めた。

又給養掛を命じていた犬養上等兵は元の総理犬養木堂の孫でもあったので、この地方の顔役などには孫文の関係で著名であって、非常な親しみを持って迎えられた。食糧などの購入にはなくてはならない存在に間もなくなってしまった。

しのぶ隊と仮称を隊名として使っていたが、2ヶ月もするとこの名称が隣の花石県まで届いたらしかった。県の代表というのがやってきて、自分の方にも来てくれというのである。
かの国の事だから、軍閥とでも考えてるらしかったが、眉唾な話と、もちろん取り上げる事はなかったし,出来もしない話だった。

軍公路沿いだから,昼夜各部隊の往復が続いた。従って時折敵機の襲来があった。夜はないが昼間はよく通過部隊がやられたりした。上田冲あたりから山あいのつづらおりの道の連続で、敵も責め難かったと思うがやはり思いがけず攻撃して来たりした。
このとき始めて落下傘爆弾というのを見た。低伸性の人馬殺傷用の新型爆弾らしい。
通過部隊が6人死傷した。木の枝に一つ引っかかって残ったので、遠くから銃撃破壊した。

私たちの家を取り囲んでいる山の北側に30個ばかりの部落があったが、取り残された犬、猫がいるだけで、家財もろとも避難して誰もいなかった。
時々裏山に登って頂上から俯瞰したが、ものの動く気配はいつもなかった。
うねうねと続く深い谷が奥深くつづき、地図で見るとツーチン山という1000メーター近い山の山麓につながっているらしい。

しかし9月に入って本格的に雨期が到来した。
雲が深く雨も多かったが、飛行機が飛べる状況ではなくなった。
昼の往来が圧倒的に増えた。

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2009年7月18日 (土)

赤痢で危篤になる(長沙)

毎朝25度程度の気温が続く。亜熱帯夜といったところか。それほど寝苦しくもなく、涼しい方だ。
沖合はすっぽり霧に隠れて何も見えない。

昼近く青空がのぞき,明るい日射しがひさしぶりに下界を照らす。
 _________________________
私の戦争/湘桂作戦その2
 8月いっぱい部隊は長沙を起点に本来の輸送業務に精進していた。
私はまもなく赤痢にかかった。当初は凄い下痢で寝込んでしまった。便所に通う時間もたらないぐらいで、当番兵が見かねて腰掛けの中に穴をあけ、ベッド脇に置いて腰掛ければ排泄が出来るようにしてくれた。

リンゲルという注射もされた。太股にする大きな筋肉注射だが、これを何本したか記憶が残っていないが、後年随分長くこの後遺症に悩まされた思いが残っている。ともあれ軍医などの熱心な努力で回復はしたが、動き出すのに一月を要した。
後に軍医がもう駄目かとおもったといった程だった。グアニジンという当時できたての新薬のよく効く薬のお蔭だったと述懐していた。隊長だから使えたとの口ぶりでもあった。入院もせずに危篤の患者を医者や看護兵(衛生兵)の尽ききりで治してもらった。後日の話だが、補充で追求して来た顔を見た事もない部下には同じ赤痢で長沙で死んだものも居た。申し訳ない。

8月というこの月は私は寝ているだけで過ぎた。もちろん任務とはかけ離れていた。
隊の半数は早くから易俗河の方へ転進していたが,残り半分の第2分隊も私を残して前進、湘譚県花蕚郷板塘という易俗河から60キロ南方に修理所を開設した。もちろん部隊は9月から易俗河ー衡山間約百キロの輸送任務についていた。
先行した第1分隊は衡山付近の黄花坪に開設していた。

結局9月半ばまで指揮班の一部を看病に残して、他は第2分隊とともに前進した。
9月に入ってからだったか、B−24の絨毯爆撃を食らった。50機ぐらいだったろうか。
半分は焼夷弾らしかったから、落とした数程の被害はなかった。ほとんど廃屋だし、燃えるようなものはなかった。
私のすぐ側に数発落ちたが,少し壊れた程度で車両には被害0だった。私はすっかり回復し元気になっていた。

転々と火の手が上がってはいたので、視察に出て歩いたが、消火活動するものもいなかったし、不発弾がごろごろころげているのには驚かさせた。衡陽攻略に全力を挙げ,長沙警備の第58師団まで使って、やっと陥落させたくらいだから,このとき長沙はもぬけの殻だった。
閑散としていた警備司令部に被害状況報告に行った際、今晩地下室で日本映画「新雪」を上映するから見においでと誘われた。
支那語字幕付きの日本映画だったが、懐かしく嬉しかったなあ。ぼろぼろ涙を流しながら見た思い出がある。 

長居は無用とすぐ準備して部隊に追求する事にし,出発する。
易俗河までの数十キロの間に、路傍に70輛以上の焼けただれたトラックなどが転げているのに驚いた。
長沙の街中では敵機は大爆撃以外は来た事がなかったが、易俗河付近の渡河点は危ないなと警戒する。
渡河点についてみると、夜にならないと駄目だと言われ,順番を待つ。
この日は順番がこないで翌晩まで待たされる。1、2キロも離れた廃屋のあるところで遮蔽して夜を待つ。
昼間近所の畑で落花生の植わっているのを見つけ,掘り出して夕食のおかずにする。生まれて始めて落花生の煮物を食ったが、おいしかったかどうかそこまでは思い出せない。

工兵の鉄舟をつなぎ合わせたはしけで幅1キロの河を1輛づつ渡してもらうのだが、暗闇での作業だから気が気ではない。運転手は随分緊張したらしい。

無事渡り終えるとすぐ前進、先ず上田冲の本部に立ちより生田目部隊長に報告と謝意を表する。
久田副官は私と同年兵で同じ部隊出身である。よろしく頼んで、10キロ先の我が隊に向かう。
夜が明けてたかもしれない。

準備してもらっていた居室に入る。予期していた訳ではないが、約4ヶ月の駐留が始まった。
地名を軍から提供された地図に現在地部落の名前が入っていないので、現在地と思われる場所に地名か橋名か分からないが広東橋と表示があったので、これだと呼称をこれにきめる。
部下にも,本部や他隊にも通知して、知悉せしめる。

工場は山あいを利用してうまく設営してあった。
兵たちは民間にあって,数年の、中には十数年も年期を積んだものたちで、隊長が作業に口出す事はなにもなかった。

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2009年7月17日 (金)

湘桂作戦開始

夜来の雨が降り続いている、時に相当激しく。

昨夕問い合わせていた防衛省防衛研究所から独立自動車第31大隊の陣中日誌などは終戦後散逸して残っていないと手紙が来る。
千代に頼んでいたがないのでは,無駄足になるだけなので電話して取りやめる様連絡する。
思えば私の自家製のメモ手帳の記録が唯一の歴史資料となったわけである。

日本では源平の昔から敗軍の将兵を語らずで資料どころか語り継ぐこともなかった。
終戦時大量の戦争資料が焼却された事は万民承知の事実である。敗戦の事実以上に悲しい。

今書き綴っている「私の戦争」はやはり無意義な事ではないと悟る。私の頭脳が生きてる限り書き伝え残そうと決意をあらたにする。

家内が記念病院の広島診療所に雨の中を出掛ける、広電山陽女子大前駅まで送る.ここの薬のお蔭で随分良くなっているのだが、薬をやめるとまたひどくなるとか。

午後に入り雨止む。
 ___________________________
私の戦争/湘桂作戦その1

尾根伝いの前進が、もっぱら夜つづく。
明け方は魔の一瞬である。空が白んで来た瞬間音もなく敵戦闘機が頭上に来てるということが、しばしばあった。
車の退避が一瞬でも遅れるとばりばりと掃射を食らう。ある朝樹木の陰がなくて、仕方なく山の斜面に入った所をやられ、車から逃げる所をもう一機が私を狙い射った。身体の前後に風を伴って数十発走り抜けた。かすり傷すら受けなかった。

再度飛来した飛行機の機上から黒い米兵が覗き込んで下を見た。死んだか確認したのであろう。

やっと山を下りて平地を走る。破壊された部落がつづく。野犬か飼い犬かうろうろしているのを射殺して食う。
貯水池を決壊して魚を食事の足しにする。カンパンだけの糧抹では腹の足しにならない。
戦争の無慈悲さを知る。

身体は垢だらけであり、水虫に足をやられ、歩けなくなる。自動車に乗ってればいいのだから靴を脱いでの行動となる。
ほとんど乾いた田畠がつづく。路上は部隊から遅れて、疲れきった兵たちの行進がつづく。
車に乗せてくれと手を振る兵もいるが無視せざるをえない。
あちこちの木陰には,疲労したか、病気にやられたか、てんてんと横たわる兵士を見る。戦場は非情である。

やっとの思いで長沙に入る。陥落してから1ヶ月も経っていただろうか。
本部より宿営地を割り当てられ、廃屋の中を適宜探して入る。

中隊によっては,休む間もなく任務を貰って長沙ー易俗河間の輸送を始めた。我が部隊の始めての作戦任務参加といってよい。

ここで部隊間の通信手段について、少し説明しておこう。
大隊程度の部隊には無線機はなかったので、伝令による歩行連絡か,伝令車(2人乗り小型4輪駆動空冷車俗にいうダルマ)によるか、行進中は手旗信号によって伝送していた。

だから行動が比較的に迅速な自動車部隊にあっては、事故が起きるとたちまち混乱が生じ、連絡は取れなくなるし,命令などの伝達は混乱を来した。
故に大隊が一丸で行動する事は不可能で、中隊(概ね45輛)ごといや小隊ごとになることが多く、悪路を行く時など間隔が大きく離れて、収拾つかなくなり、分隊長の判断により、数車両の行動が基本になることが多かった。
地区移動以外の区間輸送などは、分隊ごと(約4両)の行動が基本で、分隊長の指揮能力が一番重要であった。

故障車収容、修理補給を主目的とする我が隊は,第一分隊(中村軍曹)を先行さす。易俗河付近に前進させ,駐留修理業務に任ずる。
材料廠は小隊はなく、指揮班、と2個分隊で構成される。
1分隊は工作車(発電機、旋盤、ボール盤諸工具を積載、車上工場となっている)2台(ニッサン)、トラック4輛(部品工具人員)(シボレー)で構成、第1分隊長中村軍曹、補佐林兵技伍長、第2分隊長小林伍長,補佐山口兵技伍長、指揮班長森脇曹長,技術主任西川兵技曹長、指揮班はトラック4輛、伝令車1輛(くろがね)、兵員数約70数名の当初編成であった。

第1分隊は先行中隊に加わり,第2分隊指揮班と共に部隊最後尾が定位置であった。

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2009年7月16日 (木)

大きな夕焼け雲

昨夕見事な夕焼け見た。西空から東空へ最後は帯状になって続いた。かってみた事のない夕焼けだった。長過ぎてカメラにも収めきれなかった。

明け方にふったか、地面が濡れている。今朝8時気温25度.南の空に青空が見える。やや霞んで宮島はぼんやり。

9時半、かなり厚い雲間に青空がくっきり。梅雨明けも真近いかな。

10時半家を出て郵便局に立ち寄り、内藤内科に行く。
明日が診察日なのだが、立ちくらみが再三起きるので,一日診察を早めたわけ。
高齢になれば血管が硬化するのでした方ない事だと丁寧に図示説明してくださる。もうどうしようもないことだというわけ。
立ち居振る舞いのスピードを落とせということだ。
しかし薬はまた変更される。
医者も患者のいうことは聞かなくはいけないし大変だな。

今日は午後休診のせいか、患者がすくなく割と早く済む。
Sunset

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2009年7月15日 (水)

初空襲にど肝抜かれる

毎日同じような夏の朝。気温25.5度。
朝一番に千代に電話して、湘桂作戦中の陣中日誌の写しを取得してくれるように依頼する。
詳細はメールで送る。暇だそうだからすぐやってくれるだろう。

昼前突然シャワーのごとく降る。
幾分涼しい。
ぼつぼつ梅雨が明けるのかもしれん。
昼過ぎから雨もやみ,島々がいやにはっきり見え始める。雲は依然として深い、
 _________________________
私の戦争/中支作戦その4
いくら人馬の死骸を見ようと、戦いの現実は新米の指揮官に分かる訳がない。
しかしその瞬間は突如訪れた。さして高くはないがうねうねと波のようにつづく山の尾根に、無数の自動車が動きがとれずに立ち往生したまま日が暮れんとした、その時だった。尾根すれすれに飛来した敵P-40が2機折り重なるように銃撃を繰り返してさった。
後方、そして前方つぎつぎと自動車が火を吹いた。燃料を積載してたか,車のタンクを貫通したか。

急いで車から退避したがあとの祭りである。始めてだから爆音と同時にぶるぶると身震いした。震えるというのはこれだなと後で実感した。下の方へ逃げた兵隊の中にはなかなか戻って来ず捜索を出す始末。笑い事ではなかった。
しょっぱなの衝撃はやはりひどかった。

遅まきながら友軍機が間もなくやって来て,こともなげに旋回してくれた。

しかし時ならざる時敵機は襲来した。あっという間に来てあっという間に去る。
友軍機の飛来が少なくなり、敵機の跳梁は激しくなるばかり。
ついに昼間行動は中止し,夜間行動に切り替わった。
友軍の飛行場が空襲を受け,我が方全滅したとの情報も入った。
そうなると連日連夜来るのは敵機ばかり、爆音が聞こえれば退避のくりかえしとなる。やられた車が火を噴き積載弾薬に誘爆すれば側も通れない。

山上の無灯火行進というのはやってみた事がないと分からない不安なものである。勿論助手が誘導するのだが,歩いての場合やバンバーに立ってする場合もある。前面ガラスを跳ね上げて,運転手は血眼で前を睨む。何時間はとてもつづかない。
幸い軍隊は交代が原則だから民間の運転とは少し違うのだが。
しかし渋滞するばかりである。

数日間だったか十日以上かかったか、今定かには覚えていないが,尾根の行軍は水を求めるたびに谷底まで下りねばならず、殆どカンパンや乾燥糧抹に頼るだけの空腹に堪えている兵たちの苦労は大変だった。

来る日も来る日も山上をうろつき、敵機の襲来を気にしながらの毎日だっただけに、やっと平地に下り立った日のほっとした思いが今でもありありと残っている。

(写真はいずれも毎日新聞「日本の戦史」より収録)
P40
Gunhensei

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2009年7月14日 (火)

自動車尾根を行く

また霧の朝、何も見えない。気温26度。

灰色に空に変わりはないのだが、雲があるのかないのかはっきりしない。しかし午前中にはかんかん照りになる。
おかしな天気である。
午後1時やっと青い空が顔を出す。
それでももやがベールのごとく空にかかり,青空を紺碧からうすめている。

前の家でクレーン車をいれて、大きな音を立てて工事をしていらっしゃる。やかましいけど邪魔にはならない。
ただ何をしてるんだろうと,要らぬ節介だけど多少気にはなる。このくそ暑いのに。

午後2時ベランダの温度、影の部分でも34度。熱気が舞い込んで病気になりそう。

防衛省の防衛研究所に戦争中の陣中日誌などがあるという。自動車第31大隊のそれを一度見ておきたいと思う。
私の資料との違いを確かめたいし、行動日時が本部と随分離れた時期もあるので確認したい。

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私の戦争/中支戦線その3
5月10日やっと前進命令が出た。ゆっくりと車列を組んだまま昼夜を分たずのろのろと前進。咸寧付近から南下崇陽方向に向かう。山中で数日か十数日か待機。戦争というのは根気のいるものである。特に後方部隊というのは、期限などというものはない。
5月27日第1次湘桂作戦が火ぶたを切る。第一線が一斉に敵防御ラインを突破して長沙にむかったことを聞かされる。

今度の作戦は第3次長沙作戦というとのことだ。京漢打通作戦に引き続く粤漢打通作戦の始まりである。
北京から広東まで打通しようという狙いだが、戦争の集大成にでもしようと大本営は考えたのであろうか。

6月に入ってようやくのろのろと雨の中を動き出す。
徒歩部隊のごとくちょろちょろと何処でも動き回るというわけにはいかない。
道と言ってもろくな道はない。ちょっと水深の深い小川は橋を架けて渡らねばならない。
崇陽付近に達すると激戦のあとらしく人馬の屍体がまだ散乱している。その腐臭の凄さにあきれる。

雨の中の暗夜遅々として動かぬ自動車のすぐ横には、蛆で白く覆われた人馬が横たわり、腐臭にへどを催すといえども逃れるすべはない。人魂が飛び交う異様な光景は戦場でなければ目にする事はない。戦場の初体験は弾丸のそれではなかったが、正に痛烈度肝を抜くものであった。

夜が開けても、ほとんど進んでいない。
カンパンを齧りながら、付近の探索をする。山中を分け入ると療養所の隔離家屋のようなものに出くわし,鼻や唇が欠けたりした異様の人たちがぞろぞろ出て来たりして驚く。

池の魚を捕ろうと探って、八つ目鰻がたくさんとれる。骨ばかりで食えたしろものではなかった。

崇陽付近を過ぎると、道路は敵軍が破壊除去していて、痕跡すらない。
仕方なく友軍が臨時に作った道路を山に登り,谷を渡り依然としてのろのろ行進がつづく。
我が隊は部隊の最後尾だから、先行を急ぐ砲兵などの一戦部隊が,割り込み先行させろと強要するなど、てんやわんやで本隊からは遅れるばかりであった。

7月に入った頃から、ほとんど山の尾根を走る事になった。
この頃空中戦を演じていた友軍が制空権を敵に奪われたらしく、ほとんど援護しなくなり,敵機の跳梁に任せる有様ととなった。
僅か数機の敵機にでも襲撃されて炎上し、燃料弾薬に引火するなど,各所で道路を塞ぎ,渋滞はますます激しくなった。
昼間は行動不可能になったので、夜間だけしかも無灯火で進まなければならなくなってますます動きが遅くなる。

職掌がら、空襲被害を調べるため前方まで何キロも歩いて廻ったが、とうとう部隊本部にはたどり着けなかった。
昔の部隊は連絡手段を持たなかったのだから万事窮することになってしまった。

作戦を立てた参謀たちはどんな考えで戦を始めたのだろう。
あまりにも前時代的だと言わざるをえなかった。いや自動車隊は出来たばかりで、扱い方がまだ分かっていなかったのかもしれない。民間の普通のトラックを転用したものばかりで、しかも敵アメリカ産の車ばかりだもの。

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2009年7月13日 (月)

武漢三鎮

朝6時半気温26度。宮島おぼろなり。裏の極楽寺山はすっぽりと霧の中。

朝アルパークに出掛ける。久しぶりだが丁度10時頃だったから、早すぎて店内はがらがら。私は本屋に行き地元の地図を買う。
家内はあちこち探し歩いていたが、いいものは見当たらなかったようだ。
昼飯になるようなものを買って帰って食べる。
民生委員の生谷さんが顔を出し健康状態はと聞かれる。別状なしとこたえる。麻雀をやりに来ませんかという。もうそんなのは駄目だとことわる。もう何十年もやらない、できるわけがない。

暑くなって疲れがひどくなった。起居すべてがえらくなった。
まもなく動けなくなるのではと朝不安になるこの頃である。

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私の戦争/中支戦線へその2
南京では貨車搭載の我々の列車ごと新線路への入れ替えなどで忙しく、市内の様子を見る暇などはなく、通過してしまった。
翌13日終点の蕪湖に到着、ここで搭載を終わり.一般道路上に入るのだが、これが簡単ではない。
一騒動も二騒動もあってやっと落ち着く。
遡江の準備もあって4、5日滞在することになる。
戦火もほとんど受けてないので、凄く賑やかであり、物資も豊富だった。
南京政府が発行した儲備券もよく流通してるし、結構買い物が沢山出来た。

大通りを2mもある鯉を背中に背負って、しっぽを引きずりながら歩いている男がいたが、さすがに河も大きいが魚も大きいなとと驚く。

ゆっくり休養をとって、18日フェリーのような船10隻に分散乗船し、各々引き船にひっぱられてしずしずと遡江を開始した。
途中なんども寄港し休憩を重ねる。時折敵機らしきものが見えたが、単なる偵察だった。安慶、九江などすばらしい風景を望み見しながら、観光気分で通り過ぎる。イルカも数頭づつの群れがなんどか後を追って来て、海でも出くわさなかっただけに珍しかった。

26日大冶鉄山の積出港、石灰ように到着。ここで遡江を終わって上陸する。
ここでの食事のまずさには参った。米の中に砂利が沢山混じっていて、すごく食べ難い。とうとう歯を一本欠いてしまった。
健康優良児の歯だったのが、この戦争で虫歯だらけになってしまった。

陸路久しぶりに走って、武昌に入る。
武漢三鎮と言われるだけあって、さすがに大都会である。
しかし戦争のおかげで大半は廃墟と化し、雨露をしのぐに役立つ程度だった。
無人の空き屋を利用して分散駐留する事になる。
家の中はがらんとしているが荒らされた形跡はない、戦争をさけて家財を積み、近郊にでも立ち去ったのであろうか。
しかし便所に入ると早速さそりに出くわす。すぐ兵隊に言って駆除さしたが、怖い御出迎えであった。

電気は200Vだから、満州から持参した電気器具は役に立たない。もっとも同じものを2個直列につなげばなんとか使えたが。
(電灯などくらくてどうしょうもなかった)住み着く訳でないから、必要なことだけ済まして、もっぱらぶらぶらして過ごす。ナンキン虫も多かったなあ。さされておおさわぎする。

空襲はなさそうだから、用事がなければ有名な黄鶴楼をまず見に行く。揚子江岸の小山の上にあって遠くからよく見えてたので、行くのは簡単だった。漢口、漢陽の街も河を挟んでよく見えた。がいずれも訪れる事は最後までなかった。
近郊の竜宮城を思わせる武漢大学は二度訪れた。湖水の向こうに横たわるその眺めは夢に見るような景観だった。(下の写真とはまるで違う紅楼とも称すべきものだった)

(この写真はwww.edu.cn/ より収録)
Photo

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2009年7月12日 (日)

戦場に入る

今田君から昨夕お礼を兼ねたはがきをもらった。こまめなことである。丁寧にはがきいっぱいに書いてある。
昨日スーパーにいった時、カウンターの側に立てかけてある雑誌棚から、文芸春秋を引き抜いて勘定に加えてもらう。
表紙に「奇跡のピアニスト」母の手記とあるのが目のついたからである。
アメリカのクライバーン・コンクールで優勝した辻井君のことが余さず書かれている。まことに誇らしい。
同じ雑誌の中にある「米英を畏怖させた三人の艦長」にも感心した。よくぞ発表してくれた。負けたとはいえ、掘り出せばまだまだ誇るべき業績があるはずだ。老人たちよ気張れ!

今朝も霧が立ちこめて、天候がはっきりしない朝だ。6時気温24度。梅雨が去ってもこんな感じの天気が続くのではと思ったりする。

午後風呂の追い炊き回路の汚れを掃除する。2年ぶりくらいだから凄い量のよごれが出て来る。
冬期はどうしても追い炊きする回数が増えるから、回路にたまる量が増える訳だ。
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私の戦争/中支戦線へ
 昭和19年4月5日我が独立自動車第31大隊はその全車両約200台を鉄道貨車搭載し、兵員のそれぞれ別個の有蓋貨車に乗り込み、住み慣れた斐徳の地から訣別した。
列車数が何個だったか覚えていないが、私の隊は最後尾を承って、長い長い列車の尻をもじもじと動いて行った憶えしかない。

一旦進行を始めると、手旗以外に連絡の取りようのない当時の部隊では、ほとんどこちらの意思表示など出来ないままのあなた任せの旅であった。
食事の分配はどこで作られるのか記憶がないが、当番兵が受領して持って来てくれるのが普通だった。
名も知れない駅構内や時として曠野のど真ん中に停車して、食事や排泄などが線路脇を利用して行われたこともあった。
4月とはいえ、まだ白がいがい零下の凍結した満州の天地は、のんびりと落ち着いた行動を許さなかった。
出発途端から臨戦態勢にいることを、いやでも思い知らされることになった。

勿論一般の列車も走る線路を走るのだから、予定も何も知らされないし、停車したまま何時間も動かないこともしばしばあった。
恐らくハルビン、新京、奉天など都会を抜けて来たことは間違いないのだが、気づくことはまるでなかった。
機密保持は厳重に保たれていた。

何百キロ来たか、4月10日めざとく見つけた兵隊の甲高い声で.山海關を通過することがわかり、それらしい城壁をちらと覗き見て、目的地の支那に入ったことを知った。
この時点で関東軍の隷下を離れ支那派遣軍の隷下に入った。

津浦線を南下するにつれ、どんどん気温が上がり、防寒服ともお別れである。
外を覗いてみるたびに麦の背丈がどんどん高くなって行く。小説や流行歌で著名な「麦と兵隊」がこの付近を描写しているのを思い出したりした。

4月12日浦口着。夜を徹して連絡船に列車ごと乗り込み、揚子江を渡る。暗くて何も見ることは出来なかったが、数時間もかかったので、その大きさは何となく理解出来た。
列車はまた鉄道線路に入って、終点の蕪湖に13日到着。自動車を貨車から下しやっと解放された。Gunyoukasya

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2009年7月11日 (土)

初年兵回想をまた

雨は上がっている.気温23度と少し涼しい。
依然として霞に包まれて日射しはない。梅雨に変わりはない。
午後になって家内と近くのスーパーに買い出しに行く。

夕方になるまで降りもしないが、晴もしない。どんぐもりのまま日が暮れて行く。
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私の戦争/初年兵の追加
 ここでまた初年兵時代の生活について思い出したことを一二書いてみよう。

兵隊での生活は日常茶飯事にいたるまで、お仕着せの生活だった。だから公式の服装は当然予備を併せてすべて支給されたし、交換もしてくれた。が細かい下着とか、日常使う歯磨き歯ブラシの類から,チリ紙,ハンカチなどはどうだったか、とんと覚えがない。
月々の手当は5円内外だったから、金目のものは当然手が出ないし、外出もないのだから買う所もない。唯一酒保でうどん、そばなどの食物から、鉛筆、便箋の類は売っていたと思うから、おそらくそこで調達したのであろう。
寒い所だから、当然防寒衣料が支給され、下着から靴下、靴、手袋まで官給だった。
眼鏡は当然自分持ちだったが、壊れたときどうしたかこれ又覚えがない。ただ吊るが折れたときは,絲で耳に吊った覚えはある。

軍隊には下着に襦袢,股下というのがある。私の家庭での生活習慣にはないことなので、最初は戸惑った。股下の下端部分が10センチばかり割れていて、割れた両端の部分に15センチばかりの紐がついている。紐はもちろん結ぶためのものだから、誰に聞くともなく単純に結んでいた。
これが問題だった。非常呼集の際、整列して服装検査が始まり、めざとく検査官にその紐の結び方がひっかかった。手抜きをして動作を速くした即ちずるをしたと取られたわけである。
前に引き出されてひっぱたかれ、入隊早々印象を悪くしてしまった。ひもは足首を巻いてしっかり縛るためのものであった。そこに気づかない粗忽さ(常識外れ)が私の身上であった。

入隊1週間目風呂場で営内靴を盗まれた。凡そ公衆浴場には生まれてから一度も行ったことがない私は、履物の管理を自分がするという観念が初めからない。脱ぎ捨てて入ったから出て来てみたらない。ほかにも脱ぎ捨てられた営内靴は沢山あったから、それでいいものだと単純に思った訳。実際は市中の公衆浴場と同じく履物箱に整理すべきものであった。
だからなくなっても誰も取り合ってくれない。零下20度の戸外(といっても広い営庭のことだが)を裸足で走って帰営する羽目になった。営内靴がないといちいち軍靴を履いて(便所に行くにも、もちろん紐をしめて)出かけなければならない。
足を突っかけて出かけるのと早さがまるで違う。軍隊は拙速を尊ぶところである。当分の間苦労することになった。別の班にいた学校の同級生の述本君が見かねて、親戚のもの(一年上級)が隣の3中隊にいるから聞いてみてやろうと言うのでついて行く。その人は名前は知ってた、同郷の3、4年先輩の(河上さん後の岩国市長)だった。なんとか員数外の古いゴム製の少し形が違うものを貰って帰る。
私の初年兵の大半の時期はこのボロ靴のお世話になってしまった。こんどはどこで脱ぎ捨てても盗られる心配はなくなったのが、気の利かぬ私には丁度よかった。
ずぼらなようでも、何事も人より姿形の悪いもの,値段の安そうなものを身につける習慣はこの軍隊生活で育成された。そして生涯を貫いた私の哲学である。

これも入隊して間もない頃だった。時ならぬ時に初年兵集合がかかり、急遽営舎内の一室に集まった。 見ればテーブルの上に同じ兵隊が転がされ顔は布巾で被われていた。嗚咽の声がしたので、泣いてるようだった。週番士官の説明が始まった。この兵隊は規則で決まっている服装をしないで、歩哨に立ち、為に凍傷にかかった。ここを見ろと言われて見ると、足首から先が真っ白くなっている。
もうこれは切る以外にない。このままだとどんどん上まで腐っていって、足はおろか命迄危なくなる。 よいかよう見ておけ、これからすぐ病院に送って切るので、時間がないので急に集めたのだとのこと。 寒いところとは、良く分かっているのだが、現実に凍傷にやられた人間を始めて見たので,聞いてはいたが、さすがに驚きに身も心も引き締まった。
そして何よりも勤務中に凍傷にやられて、足を切られる兵隊の身の上が悲しかった。

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2009年7月10日 (金)

斐徳訣別

昨日、一昨日と不思議にいい風が吹き込んだ。いいというのは涼しいからである。老人にはこの風の感触はえも言われない。
ただ昨日は昼近く小雨がぱらつき、あわてて窓を閉めに廻った。横雨が窓ガラスを濡らした。これは困る。
ただその他はまことによい。
老人は自然に逆らうことはしないし、できない。

今朝は早朝から降り続いている.気温も25度と相変わらずだ。風は北に廻っている。
午前8時現在かなり強い雨だ。今日も外出は無理だな。
昼前後強く降ったりしたが、午後2時現在雨止み幾分空が明るくなる。
雲が粗くなり、日光がこぼれている感じ。

私はこの約90年間入院したのは、今下に書いているブログの斐徳陸軍病院に盲腸手術のため、これだけである。
もっとも十数年前交通事故で担ぎ込まれたことがあるが、これは病気のためとはいいがたい。
家内も先般はじめて入院して大騒ぎしたが、わたしのこの次は死ぬる時であろう。
医者通いは普通だから、大病は死ぬ時だけということになりそうだ。
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私の戦争/任官その2
何回目かの衞戍地週番巡察の時、これは昼間だったが胃けいれんを起こして、歩けなくなりやっと部隊の衛兵所まで辿り着き助けを求めた。すぐ巡察司令から後任手配をしてもらって、救急医療室入りとなった。
翌日専門医が診察の結果盲腸炎とわかり、改めて斐徳陸軍病院入院、手術を受けることとなった。
少し時間が経ちすぎていて既に患部が破れ腹膜炎を起こしていた。そのため完全治癒まで1ヶ月以上を要することになった。

手術の日、学生時代同じ下宿に居た1期下の松田房夫君に病院で邂逅し、翌日彼は牡丹江に後送されるといって挨拶に来た、これが一期一会の別れとなった。彼は隣の地区の野戦重砲の部隊に所属し、演習中重砲のキャタピラに巻き込まれて足を折られという。
まもなく退役し、家業の酒造業を継ぎ、数年前になくなったが一度も再会することはなかった。
ただ彼が私の初恋の人に生存していることを伝えたといういきさつがあった。(40年ぶりの電話の原因)

この昭和18年は神のいかなる配慮か。、この他にも何人もの旧友と出会ったり別れたりということが、身辺で発生した不思議な年であった。

ともあれ時折聞かされる内地の非常時体制、ガタルカナルなど苦戦の状況とは裏腹に、駘蕩としてのどかな日々の続く、ここ対ソ正面だった。

材料廠長内藤中尉が当時「映画の友」という雑誌を発行していた橘という人の弟と懇意で、カメラの指導を受けたりしていたが、沢山の有名女優からの慰問文や写真を見せてもらったり、間にはカメラの写し方、現焼きの仕方など、教わりながら、毎晩遅くまで手伝わされたりしたものだ。

翌昭和19年1月新規補充兵の入隊があって、部隊ではかなりの除隊者が出た。私は29日除隊する内藤中尉の後任として材料廠長に補せられた。
そして兵器掛将校の後任には札幌出身の山崎少尉が任ぜられた。
間もなく日を改めて椎橋第7輸送司令官による命下布達式行われ、正式に隊長職である材料廠長に補せられた。陸軍少尉であるから階級を飛び越した補任であった。部隊の分列行進の儀礼を受けるやら、大げさな儀式に戸惑うことしきりであった。

大きな責任を背負わされたなあとの実感をひしひしと味わされた瞬間だった。
隊長ともなると、自己のことより先ず隊のことを考えることから始まる。
普通の兵隊と違い、殆どが専門技術を身につけたものばかりで、兵隊とは全く異質な人間たちだった。
私が習熟した軍隊教育は彼らには全く通用しないといってよかった。
むしろ彼らの技術の前に頭を垂れるのみといってもよかった。
後に確信となった私の思い通り、凄い集団だということが戦争後期に発揮された。

思えば関東軍特別大演習は明らかに対ソ作戦のための動員令であった。私たちの所属する東部方面軍はあの有名な山下奉文が指揮し、直上の軍司令官は飯村穣中将であった。
百万といわれ満を持していた関東軍も、肝心なソ連は欧州戦線に釘付けで動く気配なく、ただ漫然と対峙しているうち、南方では日本軍の苦戦がしきりに伝えられて来た。

いずれと思っているうちに、我が部隊にも移動の準備命令が下達された。
今度の人事異動はそのためのものだったに違いない。
家族持ちとか、高年齢のものとかばかり、除隊させたのは間違いない所だ。

4月1日中支方面作戦参加のための、移動が発令となり、部隊長も板倉少佐から生田目大尉に交代した。
移動といっても軍隊のことだから、兵器と軍用装備品だけ持参し、私物は行李一つ拵えれば、自宅宛の名札をつけて残し置けば十分である。

4月5日、特別列車に自動車、装備との貨車搭載を順調に終わり、兵員を乗せ終わるや、3年有余過ごした斐徳との生活に別れを告げた。
Kabocha_2

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2009年7月 9日 (木)

チチハルの大草原を思い出す

昨日は降り続いた雨に風まで吹いて、窓も開けられず蒸し風呂にいるような一日だった。
しかし時節柄この程度の暑さでクーラーはもったいないから、下着だけで終日過ごした。
もちろんどこにも出掛ける気など起らない。
しかし家内が内藤内科に夕方出掛けるというので、やむなく車で送る。
帰りは汗だくになって帰って来る。

今朝相変わらず気温25度と熱帯夜か。雨はなんとか上がっているが雲多し。

しっかり小説を読んだり、ブログを書いたりいつも通り長生きの業だ。そういえば最近テレビは殆ど見ない。夜は深夜便とDVD音楽、昼はCDかDVD音楽である。静かすぎるのも嫌だから自然こうなる。
私も内藤で薬を変えてもらった効果かもしれないが、食欲はまあまあ出て来たようだが、今度は立ちくらみが多くなったような気がする。
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私の戦争/任官その1
 昭和17年12月23日本部付きに転補、兵器情報掛将校を命ぜられた。
任務上本部と材料廠に机を置いての仕事となり、行ったり来たりと結構忙しい役割であった。

兵器とは自動車部隊だから第1種兵器自動車に関することが、先ず第一で、二にも三にも自動車関連ということになる。
材料廠は第69大隊のときにも経験していることだから、仕事の内容は熟知していたので驚くことはなかった。

情報関係はむしろ面白い仕事として関心を持ち,特にソ連関係が主になるので、自分としては特別に熱心に取り組んだつもりであった。上級機関から送られて来る極秘情報を読み,記録し,部隊長(板倉少佐)に報告し、一般に布達するという手順である。
何より嬉しかったのは満州新聞など数種の新聞が遅ればせながらも、毎日一番に読むことが出来るということであった。

何日もかかって来る手紙や、たまに届けられる慰問袋の中の包み紙の新聞で見る内地の状況でも,情報の乏しいこの地では全く貴重であった。職務上人に先駆けて知れるということは無上の喜びであった。

新京に住んでいた当時、放送劇団に入り、放送局で森繁久彌アナウンサーの指導を受けたりしたのだが、その森繁さんが黒龍江のルポルタージュで表彰されたとの満州新聞の記事を見たのもこの頃だった。懐かしかったなあ。

時には部隊全員の前でソ連情報など講演させられたりしたが、拡声装置のないころのことだから、千人の兵隊を相手に大変だったことを覚えている。

またこんなこともあった。初年兵の頃、初恋の女性からの手紙で内容が女々しいといって、班長にビンタを取られるやら,木銃でたたきつけられるやらして、同郷出身の郵便掛かりの二年兵から気の毒がられ、もう返事は出すな、来た手紙も送り返すからと言われてその通りお願いしたことがあった。あれ以来もう2年近く、音信は途絶えたままになっていた。明日の我が身がしれぬ今、音信自由の立場にはなったが再開する気にはもうなれなかった。(彼女には40年も後の1981年3月26日に”生きていたのか”と電話で懐かしい声で、なじられたことがある)

任官と同時に営外に官舎を与えられ、小林副官と同居することになった。もちろん当番兵が私用は何もかもしてくれるので、楽な生活ではあった。
ただ各部隊交代勤務の衞戍地巡察の週番勤務は難儀であった。24時間中自分で設定した時間に3回水道ポンプ場、東部境界橋梁の分哨を巡回しなければならなかった。全部で約8キロあった。昼間は何でもないが夜間が大変だった.特に零下20度以下の暗夜はさすがにこたえた。

3月軍命で、チチハルの第6部隊にガス教育を受けるため出張することになった。
幸いに私の出身部隊第69大隊の同期生述本少尉が一緒ということで、心強い出張だった。
26日斐徳を出発し、牡丹江で一泊して脇少尉と会食し、ハルビンでは満州電業のハルビン支店に勤務している戸倉寛一君のアパートに泊めていただいたりして、チチハルに着いたのは30日であった。

4月1日から教育が始まり、1ヶ月間みっちり鍛えられ、ガスの怖さを身にしみて感じさせられた。
道なき草原を荷框にいっぱいの将校たちを乗せたトラックが横倒しになったりして、けが人が出たり始めから風雲急な教育であった。
最後の夜を徹しての大草原での模擬遭遇戦は大変だった。あまりの過酷さに、拂曉の突撃白兵戦にはへばって倒れてしまった。
睡眠不足と過労で意識が朦朧とし、朝食の配布のときうっかり他の隊の食事をとってしまった。後で怒られたりしてひどく恥をかいた。
赤弾の試射をしてみせたりしたが、風下に現地人の部落があるにも拘らずぶっ放したりして、無茶なことをするなあと怒りを覚えたりした。
敵も味方も同じ被害を蒙るこの兵器は、いくら戦争といえども使われない様祈るばかりだった。(眼鏡着用のものは防毒面の私用が難しく特に苦労した)

チチハルでのある休日述本君と一緒にある書店に入った所同級生の坂口武君にばったり邂逅した。彼は250キロ南方の貨物廠に勤務していて、遊びにチチハルまで出て来たということだった。
彼は現在も元気で我々同窓のため尽力してくれている。

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2009年7月 8日 (水)

回り道

夜来の雨が降り続き,雨音で目覚める。朝6時半気温25度。夏はまぎれもない。
例年通り台風でもこなければ梅雨は終わらないだろう。

昨日スーパーで買い物をしている家内をカウンターの外で待っていると、乳母車の中で同じように母親を待っている幼児がおしゃぶりを手に、私をにらんでいる。顔をしかめたり合図すると顔をゆがめてまるっこい手足をばたばた動かす。OKなのかNOなのか私にはわからない。可愛いなあ。
昨日は結局過ごし良いいい天気だったが,今日は雨で終わりそうだ。
周平の文庫本をまた一冊買う。
帰宅するとまた読み始める。なにがなんでも読む。

朝すこし下痢気味だ。なぜか分からない。蒸し暑かったから夜中に腹を冷やしたかもしれない。夏布団をかけて寝るのだがだめなんだなあ。時には夜中に急に寒くて震え出したりするのに。

最近家内の手の指の腫れがすっかり引いて,炊事や庭の手入れに支障がないらしく元気である。
記念病院の薬が効いてるらしい。本人は薬が効きすぎて骨が溶けなければいいがと、それを今度は心配している。

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私の戦争/見習士官その2
 昭和17年10月15日赴任して,独立輜重兵第54中隊の第2小隊長を命ぜられた。部下が50名くらいで、身の回りをしてくれる当番兵が2名。見習士官だから当然営内居住で何から何まで世話してもらい全く殿様暮らしの毎日だった。
自動車隊とはまるで気風が違っていたが、やはり馬という生き物を扱っている兵隊は自ずから人間性が異なっていた。
長野県出身の兵隊が主だったので、そちらの風習とかで1時間置きにお茶が出るし,お菓子も机の引き出しに入れてあるという風な,当番さんの気の利かしようで、すっかり気に入ってしまった。
また勉強好きな兵隊が多く、教育の時間などには質問を沢山投げかけてくれ、個室までやってきて話し込むなどじつにやりがいのある兵隊たちだった。

馬も現地産のポニー種で小さく可愛いく、乗るのは楽だが,走るのはいささか乗り心地はよくなかった。
輓馬には結構耐久力があって向いていたらしい。
しかし演習に出ても,私は歩くのが得意でないので、いつも乗馬で行くのだが、小さな馬にちょこんと我ながら不細工な格好だったことだろう。
間もなく木材伐採のため、10キロ山中に入った所に演習と称して出かけ,野営しながら川でマスを沢山つり上げて楽しんだりしているうち、急に第7野戦輸送司令部に転勤させらることになった。1ヶ月たらずの惜しいような勤務だったが軍命もだしがたく、途中から単身演習地を去ることになった。

輸送司令部は東斐徳の4個自動車大隊の中間にあった。
10日間暫定勤務させられた後、11月17日には独立自動車第31大隊に転属、第3中隊付きとなった。
この部隊は関特演で召集編成され、留守部隊は近衞師団で東京近郊から召集された予備兵の部隊で、第69大隊と同じ営舎内にあった。
転属といっても隣に行くようなものだった。ただ兵隊の年齢が少し多く,車種はシボレーが多かった。

見習士官はその名の通り見習いだから、まるで責任がない。しかも身体が楽だし,自由が利くので,公務が終われば,毎日のように将校集会所に行き,玉突きはやるし,酒は飲むし,怖いもの知らずだったようである。
又野外に出てはやたら車を走らせて、原野に雉子を追ったり,ノロを射ったりしたものだ。
ずいぶん野方図にあばれたらしい。

12月1日少尉に任官、予備役編入、即日召集。同日付けで改めて第3中隊付きとなった。
Syoi

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2009年7月 7日 (火)

一瞬の邂逅に終わった金出君

昨夕遅まきながら,紺碧とは言い難いが,青空が空いっぱいに広がりすっかり好天気になる。
前線が北上するとの予報だったが、止めたのかな。風も涼しいし文句のつけようがない。

私の戦争を書きつないでいる関係上,日記の方は後先まちまちになり、自身でも迷いそうだ。

今朝6時半気温25度、もう熱帯夜ではないかと驚く。
連日宮島が見えない日々がつづく。
我が家からの眺望は今や最低である。
生きてる値打ちはいよいよ遠ざかる。

「ニューギニア戦記」を送ってくれた今田君に求めに応じて恥ずかしながらと,「私の軍隊生活」を郵送する。
苛烈な戦争場面をフンダンに織り込んだ「ニューギニア戦記」にとても読み物として比較にならないが。

ふと今頃になって”私の戦争”にも出て来る金出于台君(昨日書いた)のことが気になる。あの邂逅以来どうしたのだろうか。
戦後同窓会名簿ではいち早く死亡者リストに入れられていた。生真面目な男だっただけに率先して死地に赴いたのか。
秀才の多い下関中学出身だったが。

2005年11月10日上京した際,家内と娘を伴い,東京農大を訪ね、候補生隊の旧跡を尋ねた。
米軍が残したと思われる横文字の記念碑が庭の一隅にはっきりと存在した。RIKUGUN JIDOSYATAIの碑文も確認出来た。
運動場も残っていたが兵舎は当然瀟酒たる校舎に建て変わっていた。

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私の戦争/見習士官その一
 部隊に帰着すると,申告の後とりあえず5名づつ各中隊に配分される。もっとも出身中隊は避けて別の中隊に分けられる。
しばらくは部隊においての将校としての教育が続けられる,教官は山崎中尉が引き継いだ。
軍装を解いて改めて,軍刀を分解し銘をみる。美濃の国関の銘が入っていた.別に記録までしなかったので今は思い出すすべもない。アメリカ人などに負けるものかと、アメリカで数年働いてよく知ってるだけに軍国の母らしく気丈だった。

ほんものの兵隊に対する実兵指揮も何度かやらされて、結構面白い。
何よりも内務班の実地指導が愉快だった。馴れるに従い週番士官をとらされたり、兵隊たちとかかわり合うことが多くなり、気合いの入った見習士官のお返し指揮、指導ぶりであった。
非常呼集はやるは、点呼後のマラソンはやるはで、兵隊たちは驚いたらしい。ビンタも取られただけ取り返すとうそぶいた見習士官も居た。

見習士官は営舎の別室で一緒に寝起きした。もちろん当番が一人一人宛てがわれているから、身辺の雑事は皆当番にしてもらえる。そのかわり週番にて中隊の管理、巡察、警備など任される。
5月1日士官勤務を命ぜられ、同月15日材料廠付きとなった。得意な自動車技術理論の知識が認められたときいている。
兵器,情報係も兼務し、二年兵の教育にも当たった。
この二年兵の中に同郷の同じ日に入隊した同級生の吉川君が居た。同じ初年兵で来たものがかたや教官かたや生徒といった軍隊なればの珍風景もみられた。

8月15日突如2ヶ月間馬術教育を受ける様命ぜられ、輓馬部隊に出向することになった。
教育途中の9月15日東安にある軍貨物廠内部の運搬業務をする輓馬部隊独立輜重兵第54中隊へ転属を命ぜられた。
お上のすることは我々には分からぬことが多いが、自動車を1年以上も教育しておいて馬とはと腹がたったが仕方がない。が馬も乗ってみると面白い。馬場騎乗は辛かったが,野外騎乗は凄くおもしろく、よく雉子と追っかけっこしたものだ。近くの日本開拓村に立ち寄ったりして、遠い故国を偲んだりもした。信濃村、広島村など今でも目に浮かぶ。
10月15日命令通り赴任した。同じ中隊の初年兵で一緒だった脇君は牡丹江の輓馬部隊に転属した。
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2009年7月 6日 (月)

ひいまご

昨日午後になって,井上のものたちが、雅代と彩寧をつれて突然やってくる。

彩寧はすっかり大きくなって,動作が激しい、机にすがって簡単に立ち上がり素早く左右に移動する。手に触るものはたちまちおもちゃになる。親の言うことはよくわかるらしく,すぐ反応して動作に移る。
よく肥えていかにも元気、いうことはない。
主役は完全に彼女のもの。みな振り回されて口あんぐり。
一時間以上居て帰って行く。原爆の日が誕生日である。もう間もなく1歳になる。
滅多にあったことのない私は終始相手にしてもらえなかった。
Ayane

今朝なんとなく起き辛い。
昨日婿から教えてもらったソフト”宅ファイル便”での送信がどうしてもファイルごとになってフォルダーでは送れなかったので、今朝もう一度今度はフォルダーを圧縮しておくって見る。そしたら一つのファイルと認めてくれたらしく送信可能となった。
婿もちらと圧縮してと言ったようにも思うのだが、その時は聞き流していた。

これで添付書類の制限1MBを超えて楽に送れるようになった。ただしこれでも100MBが限度ではあるが。
灰色の空は終日変わらなかったが、その雲を通しての穏やかな日光が,暑からず寒からず、くらしよい天気にしてくれた。
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私の戦争/幹部候補生その3
 この日昭和16年12月8日は私の記憶の中でも最も鮮明な一日として残らざるをえなかった。演習に同行したカメラマンもよくこの日の写真を撮り残してくれたものである。こうして現在まで生きながらえてみれば,最大の追憶証拠となった。
1週間程度の富士山麓での訓練体験だったが、真近に仰ぐ富士の峰はその印象まことに強烈であった。特に夜半歩哨に立つと、山の威容が正に白扇逆さに天に架かるに似て、まざまざと心の底まで残された風景ではあった。

軍を挙げて東に西にはた南に北に戦火を拡大しているのだから、当然我々も心身ともに臨戦態勢に移った。
最後の3月は火だるまのようになって打ちすぎた。

正月の2日に突然母と妹が上京して来て,面会を申し込んだ。正月休みでゆっくりしていた私も突然のことに驚いたが、外出許可を得ると勇んで外に出た。数年前まで近所に住んでいた山県さんの家に泊めてもらっているとのことで、先ずそこへの挨拶から始まって都心を終日あちこちつれ歩くことになった。
忙しく歩き回ったのだから,今となってはどこへ行ったか定かではない。
へとへとになって門限ぎりぎりに学校へ帰ったことは覚えている。

明日観兵式の日の前の夜,学校酒保で突然同級生の金出宇台君に出くわす。同じ寮で暮らしたことのある男である。明日の式に参列するという。彼は所沢の騎兵学校生徒だった。正に閲兵行進する側である。こんな時期だから正に一期一会の邂逅だった。

昭和12年2月最後の野外演習が愛知県渥美半島で行われた。天白、高師の原野で実践形式の2週間に亘る熾烈な演習だった。

豊橋駅では列車搭載の実戦訓練も行われ、後日満州からの移動の際には大いに役立った。

3月31日教育修了、曹長に進級同時に見習士官に任命された。
即日軍刀を購入し、帯刀して帰郷した。
郷里では母が親戚から刀を分けてもらい軍刀に仕上げて待っていた。
母の志を受け,戦地にはそれを携行した。この刀が最後まで行を共にし、武装解除で中国軍に引き渡す運命となった。

4月5日同士20名は下関で集合し、関釜連絡船で釜山へ、朝鮮経由で新京へ、一日滞在して勤め先の会社の上司、同僚などと久闊を叙し、その夜は先輩のお宅でお世話になり、翌日新京からハルビン経由で斐徳の原隊に復帰した.4月10日だった。
Sityouheigakkoutai
Lunch
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2009年7月 4日 (土)

心臓の薬変わる

昨夕内藤内科に出かけ診察をうける。心臓は年相応に弱ってはいるが、悪い症状はないから心配することはないといわれる。食欲不振については、薬の副作用が考えられるので今日からかえることにするのこと。
今度はニコランマートとアーチストという錠剤になる。

昨日千代は娘らをつれてガムに行ったらしい。暢気なことだ。
ガムなら新型インフルの心配はないのか。

昨日午後散歩のため植物園に行ったが休園だった。しかたがにので近くの運動公園に行き広い園内をそろそろ歩く。人は少ないが、立派な公園だ。眺めがいいし、空気もいい。損して得した感じ。

今朝は気温も20度とまあまあだが、一面にもやって天神山から沖は何も見えない。いつもよりひどい。
雨になるのかなんともいえない。

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私の戦争/幹部候補生その2
教育も基礎的なものを終わって、自動車行軍的なものが多くなる。近郊の開拓団訪問、虎頭要塞見学、東安国境視察などなど。特に虎頭でのウスリー河対岸のソ連側監視設備、そして要塞内部などこれは凄いなと感じた。
この間に対ソの戦争準備が真剣にすすめられて居ることに気づいた。
もう引き返しがつかないなと感じた程だ。

夜間の非常呼集も何度か行われて、兵の緊張を高めた。
兵営内ももう1個大隊が入って、窮屈になった。車種は米国製が主力だが、シボレー、フォード、日産、いすず、トヨタ、などが多く、ヒルマンなどというのも僅かにいた。ことごとく中古車で能力のばらつきはひどかった。
道路も悪かったが、故障はつきもので行軍がスムースに行くことはまずなかった。

これだけの車を無理矢理徴集したのだろうが、された方も困っただろうが、おんぼろ車で戦えるのかと我々は心配が先に立った。
第2中隊は全部Fordの38、39年型だった。比較的性能の良い,事故の少ない中隊だった。
私は懸命に構造その他原理にまで研究を続けたから、車には詳しくなったが、他のものはどうだったか、ついていけなかったものが多かったのではと思っている。
他の車は理論は比較的分かり良かったとは思うが。

軍隊は学問だけでは駄目なことはよく承知したが、一歩先んずれば自信につながる。因循だった私がこのころ頗る積極的になり、実兵指揮など進んでやり教官にほめられたりした。

9月東京の輜重兵学校行きを命ぜられ、9月16日甲種幹部候補生20名は斐徳駅出発故国への旅についた。
ハルビン、新京、奉天を乗り継いで、20日大連到着、翌日軍用船に乗船、25日宇品に入港、一旦似島で検疫を受けた後翌日関東軍各部隊から集まった二百余名の将校の卵たちは、宇品から徒歩で広島東練兵場まで約10キロを堂々市中行進した。市民歓呼の中を正に凱旋気取りで歩いたものだ。

大連を出る前こっそり行きずりの日本人市民に依頼して手紙を母に送ったのだが、母と妹は門司につくかと思ってそちらに向かい訪ねたそうだが分かる訳がない。こちらはとも知らず市民に混じって手を振ってはいないかと、目を皿にしてみたが、居る筈はなかった。
何事も秘密裏に運ばれる軍事行動だから、一兵士の浅はかな行為が通用するはずのものではなかった。

軍用列車が広島駅の東側練兵場脇に横付けされ乗り込む。不定期に走って東京に向かう。めざとく我々を見つけた市民が手を振って歓呼の声を上げた。
大東亜戦勃発を後2月に控え、戦意がいやが上にも高まった時期だった。
戦争へ戦争へと国民の意識が一色になっていた。
東條さん一人を責める訳にはいかない世情だった。

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2009年7月 3日 (金)

梅雨のおかげ

気温20度と少しひんやり。雨の日がつづいたので、うちの内外が冷たくなったらしい。
それにしても今度の雨は人間どもを助けてくれた。
今朝の新聞では八田原ダム以外は殆ど満水状態になり、今度は洪水の恐れが出て来た程である。
心行く程水が呑める訳だ。

林田さんから先般の宮島ゆきの写真など送って来る。
孫の顔を見に行ったり、今度定年退職したスーパーにボランティアで掃除に出かけたり、積極的な彼女らしい忙しさで明け暮れている由。別れてからどうしてるのかなあとちょっと心配していたのだが杞憂だったようだ。
すぐ方向転換出来る若さがうらやましい。

叔父さまの戦死状況探求に熱心な松田尚樹さんには、思い出すことはすべて書き送ったつもりだが、一応納得して貰えたらしい。今月に入ってからは、メールの速射が途絶えたようだ。

同窓会の席で今田君から戦場体験を聞かされ、最先端にあった戦場の苛烈さをしみじみ聞き知った。
それやこれや、急に私も戦場記録をもう一度調べ直して、ブログにでも載せようと発心し書き始めた。
持病の関節性乾癬の後遺症で指がまともには使えないので、遅々として作文がはかどらない。
やはり年を取りすぎたようだ。
もう今は行ける所まで、ままよというきもちである。
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幹部候補生
 全部隊から20数名選ばれ、、集合教育が始まった。教官は陸士出の私たちとほぼ同年輩の立間中尉であった。
陸士出らしく活発な偉丈夫だった。厳しさの中にやわらかさもあり、実に楽しい4ヶ月間であった。

5月になると氷が溶け始め、兵舎のすぐ前面数百メートルまではひたひた水が押し寄せ、地表はいわゆる湿地帯と化してしまった。春秋に咲く野花が一斉に咲き乱れ、素晴しく美しい光景に一変する。
教育は高地の、湿地を避けて、陸上訓練は行われるが、自動車となると湿地も避けては通れない。
湿地通過はソ連相手の訓練では最重要な課題だった。来る日も来る日もこれには悩まされた。
実際の戦場では自動車部隊はお荷物以外のなにものでもないと悟らされた。

乾燥期に入ると、誰がつけたか野火が襲って来た。40キロ向こうはソ連である。まさかと疑ったが原因は分からない。弾薬は野原を掘って地中に埋め、雨よけだけしてある体裁だから大変である。
地区の各部隊総動員で野火を防いだ。誰も野の管理はしないのだから、前年の枯れ草をまいて突っ走るように燃え且つ飛んで行くさまは全く壮観である。えんえん数十キロに亘って数日間も燃え盛るのである。
下は湿地だから一過するともう何でもないが、始めての経験だから驚いた。

凍結が完全に融けると、ハンカ湖の水位が上がり、ひたひたと兵舎近くまで押し寄せて来る。朝日に反射してぴかぴか光る水面の美しさはこれまた一種の風物詩と言えた。

6月20日上等兵に進級、7月1日甲種幹部候補生を命ぜられた。
教官や助教たちの印象で選別されたのであろう。20名が甲種となった。
教官は立間中尉の同期で山崎中尉に変わった。落ち着き払った理知的な教官だった。
教育も将校にふさわしいものだったといえる。

6月27日関東軍臨時甲種特別大演習が発令された。事実上の対ソ動員であった。
部隊は編成替えせられて、独立自動車第69大隊となった。
動員せられた新しい部隊がぞくぞく到着し、野戦輸送司令部や別に2個大隊この地区に加わった。
こんな遮蔽のきかない野っ原で、撃たれればすぐ燃え上がる自動車が役に立つのだろうかと疑ったものだ。
しかし輸送手段は他にない。軍はどうするのだろう。
素人の私でも成算はまるで見えなかった。
軍司令官は山下奉文中将と伝えられた。

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