2016年3月15日 (火)

スクロヴァチェフスキー

日曜日の夜遅く、スクロヴァチェフスキーの指揮するブルックナーの第8交響曲を読売交響楽団と何年ぶりかで、再演した演奏会の放送があった。

最近は面倒なことは何もできなくなったのだが、昔とった杵づか古いレコーダーはまだ扱える。

2時間予約して丸取りした録画の指揮ぶりをDVDにダビングしながらもう一度聞いた。

ブルックナーの交響曲第8番はうんざりするほど長い。なんでもありの曲だから、壮大なとしか言いようがないが、曲がいい悪いなどという実感は私にはない。しかしスクロヴァチェフスキーという人は現在92歳というがこの長大な曲をアンプで指揮してのけるのだから、すごい。

まるで化け物だ。

手振りの細かさなどどうだといいたい。声に出しているかどうかはわからないが、絶えず口元は動いている。

ゆるぎない80分間の演奏姿勢はまさに卒寿老人のものではない。

おどろいたなー。

ハープの3台をはじめ、管弦楽の楽器のほとんどすべてを並べ、曲の豪勢さを実証してみせる。

92歳は私より4つ若い。

杖をつかずに舞台を横切る姿は、老人には違いないが、姿勢の良さは抜群だ。

今年の1月21日東京芸術劇場で読売交響楽団を指揮したものだから、観衆がどよめくのも無理がない。

アンコールが止まず5回目にはとうとうコンサートマスターの肩に手をかけ連れ出してしまい、舞台を閉めてしまった。

素晴らしい芸術家の生き様をよくぞ見させていただいた。

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2016年3月 9日 (水)

新聞の時代は終わったか

朝かなりの雨、しとどに濡れた木々の間を、新聞を取りに出る。

幸いポリ袋で包んであったので、新聞は濡れてはいない。

濡れると新聞はもうたわいもないゴミである。

乾燥さしても昼までかかる。

最近はあまり新聞を読まない。テレビやラジオ、そのうえパソコンなどの影響らしい。

そちらの方がえらく鮮新に思える。

ニュースは只今のことでないとダメになりつつある。昨日では古いのである。

新聞もさるもの、事件ニュース性のものにはさして力を入れないで、読み物本位の彩りを添え、あるいは国外などの報道に力を入れているように見える。

私が愛読していたある雑誌が最近廃刊した。

新しい資料を見つけ出しては、世の思い込みを是正さしてくれたりした。良い雑誌だったのに、ネタが尽きたというのか、経営に破綻が生じたというのか、私にはわからない。

さして競争が激しくて敗れたとも思えない。只残念である。

新聞にも地方紙など苦しいとか、そういえば町村単位の小新聞の類はもうまるで影も見えない。

新聞のページ数は極端に増えた。読者の幅を増やすためか、雑誌並みである。

座してネタの拾い込みを待てば成り立った商売はもう過去の夢である。

これでは儲からないだろう、新聞も難しい商売になったなあ。

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2016年2月18日 (木)

長寿を生きる

私が現在通っているデイサービスなるものは、老人など要介護者のため作られた法律に基づくものだが、通うと言っても自分の足で歩いて通うのではない。

すぐ近くの何百米かを車で送り迎えしてくれるわけである。

私の場合は一番軽度の要介護支援者ということで、1週間に1度3時間ばかり体操のごときものをさせらるわけだが、なにもしないで寝起きだけしていた私には、結構楽な運動ではない。

94歳の時始めたのだが、もう丸2年を超えた。だから今96歳である。

同じ場所で同じことをしているものの内、私は2番目に年長だが、一番は女性で20日年上である。

ここでも女性天国だが、老人の7、8割を占める女性天国の日本だからしかたがない。

毎月一度きちっと測定してくれる、健康度も良くはなっても悪くはならない。どうも効果覿面といったところらしい。

膝や足腰がいつも痛くて、このままでは間もなく歩けなくなるぞと思っていたのが、いまは嘘のようにどうも感じない。

心臓もわるくて、息が苦しくて横にもなりにくくなってたのが、これは医者のせいもあるだろうが、1キロ2キロただ歩くのではなんでもない。

つい最近人に煽てられて、百歳まで生きられると言われ、その気になってるのだが、私の親戚を見渡しても、百に近づいた人は一人もいない。

一人家内の妹の一人が嫁いだ先のばあさんが98歳で最近なくなったのがづぬけているだけである。

あの有名な郷土の女流作家宇野千代女史は家内の伯母の若き日の仲間だった関係上、我が家の話題にはよく現れたが、これとても百歳以上生きると公言したが、98歳でこの世を去った。

百にはやはり鬼門がありそうだ。公言はやめとくことにしよう。

昨日今日の体調の変化によっては、明日がわからない。

やはりはかないものである、人生は。

今日を自覚ししっかり生きていくしかない。

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2016年2月17日 (水)

年頭の辞でなくて年末の辞

中国の文化に何千年も影響されてきた、この極東アジアの人々は、お正月を2度持っている。

今丁度2度目の正月を終えんとしているばかりである。

思い返しの年頭の辞というものが存在するなら、それを今ここに述べてみたい。

億千年の昔、人類が地球上に発生した時は、ほん微弱な生き物に過ぎなかった。

ただ他の生物とは異常に頭脳の細胞が多かった。

他の生物はおろか動植物なんでも、自家の都合の良いように変化させて利用する技能を進化させた。

地球は今この人類の後輩たちの所有物化さんとしている。

おっとそうはさせないよと天地創造の神は盛んに罰のつぶてを投げつけて居られる昨今である。

およそ生物には、皆この世に存続する年限が与えられている。

生物は自分勝手に生きているわけではない。生かされてるだけである。

与えられた寿命はその生物各々のものとして、千差万別、人類も100年はもう限界だろう。

振り返ってわが人生を見ると、幼少の頃より思う様に誰かにあやつられて来たなという思いが強い。

20歳満洲の会社に就職、父の死後すぐ、親戚の非難の目を排除して。

21歳から丸6年兵役。

戦争で家も職も失い、転々としている時、恩師に誘われ農協主任職、10年。

37歳、他人の甘言に乗り、保証債務弁済のため資産を失う。同年、百貨店を企画し実現するも営業不振で3年後40歳の時倒産。

翌年大進産業(友人経営)に就職。

45歳同社を退職して、ジャパンドライクリーニング(株)経営。

49歳同クリーニングを森重武男に譲渡し、日本キーサービス(株)設立発足。

57歳まで九州、中国各地10店舖経営、58歳日本キーサビス経営を断念し、逐次縮小にかかり、

60歳、大進産業に再就職。

63歳、キーサービス店舗全部処分を終わる。大進産業退職。同社の洗浄剤部門の委託販売を継承。

66歳、洗浄剤販売委託業務を大進技研(株)に委譲。

71歳、乾癬発病。

76歳、日本キーサービス(株)を法令解散し、宮本計装(株)に¥150000.で売却。

77歳以降世界各地遊覧に明け暮れる。それからもう20年経って96歳である。

人生に遺産らしいものは何もない。存在価値無といってよい。

私は結局うまく終始のつじつまを合わされた存在らしい。

今すぐ死んでも何も波風は立たない。

年頭の辞でなくて、年末の辞だな。やはり私の人生は誰かが面白くつくりあげたものだろう。

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2016年1月 6日 (水)

卒翁の念頭の辞

若い時は年が改まると心まで年頭とか称して、何か大きな目標でも掲げて一仕事したくなる気持ちを抱いたものだった。

結局何も実現せず、悔いだけ残る年が多かった。

その経験もあってか、老年期に入ったらもう何の希望も抱負もなく、わずらわしい年末年始行事に追いまくられて、なければいいのにと恨み言の一言など出るばかりであった。

96歳になる今年はちょっと気持ちが違うようだ。

年末に先に運転免許鉦を更新したように、前向きにあとの人生を取ら得られた。

こじつければ、8回目の干支回帰年だし、百歳もあと4年と近づいた。

なれるものならなってやろうじゃあないか、ふつふつと久しぶりに血のたぎる思いに駆られる今日この頃ではある。

私は軍隊に取られてから、まるきり自分の思う人生はなかった気がする。

全部天の神と言おうか、神仏の思うままにあやつられた奴凧そのものだったのではなかったか。

恩師の思惑に踊り、親友の都合に拾われ、独立して自分の志みたいな事業に飛び込んだのは、昔だったら老年期に差し掛かる45歳だった。

7年の軍隊生活から脱出して、戦後帰国するや、まもなく悪意を持った人物に手もなくあやつられて、爆撃で粉砕された跡形までもだまされ、残さず失っていた。

転々とした挙句、飛び込んだ事業は考えたこともなかったクリーニング業だった。

これは助けてくれた親友の援助もあり、思いがけず大成功だった。

しかしこれとても内輪のもめごとから、自ら手をひき、改めて鍵の複製という珍奇な商売に身を置いた。

販路は岡山から九州熊本まで、勢いはよかったのだが、距離がありすぎて、自動車の燃費ばかり嵩む(自動車はロータリー車)、結局は経費倒れとなった。

49歳の時から60歳になっていた。

この年先の友人横山君の会社に再度復帰し、要職をいただき精出すことになった。

4年位して、一部門を譲り受け、会社を起こしてしばらく専念する。

70歳前後になると、力を出す仕事はだんだんできなくなり、縮小の一途を志す。

もう年金に頼るしかなかった。

わずかながら私には軍人恩給も支給された。

若き日のご奉公の報酬だと思えば、遠慮する気はなかった。爆撃で財産を失い、その国家補償はなにも受けていなかったし。

そして荏苒日をすごすこと20数年。

遊び癖がついた気もする昨今で、すこし世間に申し訳ないかなと、謝りたい気のする毎日である。

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2015年12月25日 (金)

満96歳の運転免許更新

昨日すこし張り切りすぎたので今日はすこし足腰が痛い。

結果を見ればなんでもなかったように見えるが、心労はただ事ではなかった。

何事ももたもたする老人の挙措は、目に余っていらぬトラブルが起きたりせぬかなと余分な気遣いもした。

しかし免許センターの鮮やかな進行ぶりには、前回同様まったく感心、頭の下がる思いがした。

前回は女性ばかりの職員の応対で、テキパキと進行、10分少々でけろっと終わって唖然とした感じであった。

今回も前回同様さらさらとよどみなく次々と送られ、他人の動作など気を向けるいとまなどなかった。

今回は男性の中年職員が多かったが、交代制でも取っておられるのだろうか。

やさしさ丁寧さは前回と変わるところはなかった。

しかも連携のうまさは格別で滞る隙などまるでない、まったく理想的な応対で、嬉しくなったくらいである。

満96歳を1月後に控えて、ボケの進行が著しくなりつつある自覚もして、更新の決心には随分苦しんだ。

しかしうちの環境からして、日々の暮らしに車がなくてはどうしようもないほど困る。

娘の世話になるつもりで一昨年、同じマンションの空き部屋を借り受け、こちらとの行ったり来たりの生活も、やはり現実にやってみると、歩き乗り換え歩きそしたまたと、交通機関を利用する苦痛にはとてもたえられず、やめる予定だった自家用車運転を放棄するわけにはゆかず、今日にいたった。

更新にあたり、担当せられる職員各位の優しく積極的な応対にすっかり感激した。

いい国だななあ日本は!!

長生きして国に余計な負担をかける申し訳なさを、払拭してあまりある、昨日の免許更新の1日だった。

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2015年11月26日 (木)

出雲大社参拝

出雲大社参拝

予ねてから東京の次女が、連れて行くからと言い続けてきた、出雲大社参拝の実現の日が22日やってきた。

車は昨日夕方、横川のオリコレンタカーで借りた5人乗りのマツダである。

朝9時過ぎ、予定通り次女夫婦とその長女、そして私ら夫婦の5名が乗り込む。

荷物台には市役所から借りた車椅子まで。

正に隙間もない満載といったところ。

快適に飛ばして、三次から松江道路にはいり、三刀屋で一旦高速道路を降り、中食。

近くに存在する岩倉加茂古墳をまず手始めに見学することになる。

婿が熱心に今勉強している、出雲史探訪の筆頭とも言える。

駐車場から5百米の登り坂道。

歩けない私は車椅子に乗せられ、婿がハアハアと息を切らしながら押してくれる。

乗せられたわたしも初めての経験、身の縮まる思いである。

1996年に弥生期のものと見られる銅鐸など39点が発見されたところ。その数は日本中で最も多く全部の半数を超える。

展示館にはレプリカが数点あるだけで、国宝の現物は皆出雲市の歴史博物館に収められているということだったが、館の職員さんの熱心な説明に心を傾けて聞く。発掘現場も回ってみて、なるほどとその偶然の所産に驚く。

予約してあった玉造温泉の保性館に入ったのは、午後3時前、部屋に通されるには少し早すぎてしばらく待たされる。

お湯はだから一番乗り。

婿が転ばないように手取り足取り、他人のいないうちだから、恥ずかしさも何もない。

十分堪能してお湯を出る。1回きりだったが満足したのか、疲れが出たのか、2度入る気にはならなかった。

300年の歴史と昭和天皇来宿の栄を誇る宿だが、増築が続いたらしく、迷路が多く老人には、宿の中を動き回るなどは禁物だった。

翌朝9時出発、出雲大社に高速道路で向かう。

すでに万に達する人出である。

昨日今日と神在月の神事が続くこの日、とりわけ行事が目白押しらしく、各所に行列が続いて騒がしさ一入である。

車椅子専用道もつけられ、歩き良い。

わたしは社前で車を預け、杖をつき歩いて、大きな注連縄の下まで行きぬかづく。

前回来た時、宮の後ろまで一周したが、今回はその元気はない。

婿たちも、出かけて行ってはわたしのところへ失はないようにと、戻って来る。

邪魔な親たちではあろうな。

気の毒だが仕方がない、人が多く声もとどかぬ騒然たるなかで、いつ迷子になるやらしれたものではない。

東に隣接した立派な歴史博物館に行く。

燦爛たる国宝の数多くの展示物が目を驚かす。参百数十点の銅剣など、まったく素晴らしい。

国最古のこれらの展示物。

今更出雲の風土の凄さを見直さざるを得ない。

多くの宝物を拾った心持ちになる。

2階の食堂で軽食をいただき、帰路に着いたが、館内全部を車椅子で押してもらって歩いたのに、疲労は案外わたしの方が激しかったかもしれない。

感動疲れというものだろうか。

明日からまたお勤めなどある子や孫たちは今日中に東京に帰らねばならない。

来た道を急ぐ、ラッシュがつづく。

しかしなんとか明るいうちに広島まで帰り着く。

ありがとうよ、ほんとにありがとう。

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2015年10月 5日 (月)

長寿とはお笑い草か

心臓の調子がいいらしく、階段の上り下りが楽だ。

不思議に違うもんだ。

さっきまで2時間昼寝していたのだが、雨の音がざわざわと激しかったから・ずいぶん降ったのかなと起きて窓の外を見ると、雨の形跡はまるでない。全くの空耳である。

ツンボというのは聞こえないだけではないらしい。ない音が聞こえるということもあるようだ。

家内も耳が遠くなったから、言った言わないの口論ばかりか、全く違った受け取り方をして、これまた言い争いの種になる。

家内に言わせると私の言い方はまるで何を言ってるかわからないらしい。従来からの感でうけこたえしていることのようだ。

トンチンカンを絵に描いた感じである。

後はお笑い草とは、故人はよく云ったものだ。

話は変わるが、私は今尿瓶を3本備えて身辺に転がしている。

もし不時の来客などあっては、いかにも恥をさらしている体たらくで、全くの老体そのものと言える。

2、30分に一度尿意に促されて、その尿瓶のお世話になるというしだいでは仕方がない。

利尿剤を毎日飲んでるから、昨今涼しくなってくると尚更のごとく激しい。

オチクボ先生はそのおかげでずいぶんと心臓の働きが良くなった。呼吸が楽でしょうがとおっしゃる。

全くその通り、ここ1ヶ月の変化は自分でもわかる。

季節の変化と思っていたが、真意は別にあった。

心臓の幅も6cm狭くなった。診察の都度みせられるレントゲン写真で計って言われるのだから、論をまたない。

血流の不整脈で、心臓弁の内外でぶっつかり合う血流をみせられ、今また心臓の横幅を計示され、首肯する以外に何物もない。

血管の不時の梗塞により引き起こされる、障害はこれにより取り除かれるという。

とはまだまだ寿命が伸びるということでもある。困ったなあ!

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2015年9月29日 (火)

私の暇つぶし

昔は「暇さえあれば」と、口癖のようにこの言葉を頻発したものだが、今は毎日毎日暇な時ばかりで、1日をどうして過ごすかに苦労している。

私の場合、音楽好きで、30代からずーっと、テープやCD,DVDそして、パソコンのHDまで利用して、主にラジオのFM放送を利用して、何千何万曲となく録音し、分類保存している。

おかげで、私だけでなく家内も喜んで暇つぶしにかけまくって楽しんでいる。

もちろん多くはクラシックだが、これにこだわることなく、古今東西、流行歌も外国の曲も、落語も漫才も、朗読も自分の思いつきでなんでも入れてある。

テープは半分は聞く機械の関係で捨てたが、途中で惜しくなって残りは保存してある。

機械さえ良ければいい音である。

目録はお手の物で昔はワープロ、パソコンが出てからはパソコンで、さっさと作って混乱を防いでいる。

己斐の家に週の半分住んでいるから、この時は特に暇で仕方がないし、マンションだから音響効果も申し分ないし、絶好の楽しみ時間である。

冒頭に苦労していると書いたが、実際は極めて満足し楽しく過ごしている次第である。

この月、高齢者自動車運転の試験があったので、近くの自動車学校で受けて無事合格証をいただいた。

あと3年、今まで通り行ったり来たりして、音楽も楽しまれそうである。

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2015年9月27日 (日)

人生を決める教え

私の幼い時はとても貧弱な体だったし、休学はするし、意志も薄弱でとても優秀な子供とは言えなかった思う。

どうしたことか、小学校5、6年になると、成績がずば抜けて良くなった。

ちょうど担任が中川安一先生に変わった時期である。

いい声をして、音楽が得意な先生で、スポーツも野球に積極的に力を入れ、昼休みなどには子供らを相手にノックして玉をひろはさせたりした。6年の時にはチームを編成し、当時近隣では強豪校として有名だった呉五番町小学校や、柳井小学校などを招いて他流試合を挑んだりさせられたこともある。

もちろん歯の立つ相手ではなかった。

彼らは堂々のユニホームに身を固めた本格的なチームであった。

私はこの先生にとても可愛がられた感じである。

声がいいとて、いつも教壇に引っ張り出されて独唱されらりした。実はこれは私はじつに嫌で嫌いだったのだが、仕方がなかった。4年生の時には担任の高木先生に音楽会に出るように指名されたが、音楽の先生が別の専門の先生だったので、逃げ隠れしてとうとうすっぽかしてしまった。

今度は毎日教えてもらう担任の先生だから、逃げるわけにはいかない。

全国学力テストで最高の成績を収めたと言って私を天才だと、他の生徒に広めたりされたものだから、逃げ場がなくなってしまった。

6年卒業時、君は軍人が向いているから軍人になれと個人懇談で言われたりした。

自分ながらえこひいきされてると感じたのであろうか、意に逆らって、商業の道を選んでしまった。

非常に短気な先生で、子供達をよく殴っていたので、生徒たちからは恐れられ、嫌われていたが、わたしには非常にいい先生だった。

卒業時には優等賞や高橋奨学賞を頂戴するなど、身に余る光栄に浴した。

中学校に入っても美声ということで、模範独唱は常々させられていたが、入学後しばらくして風邪をひいたことが原因で声が出なくなり、回復した後は声質が全然違ったものになり歌えなくなった。

中学2年の夏、元すぐ近所に住んでいて、2年前東京に引っ越していた山縣孝人さんが、今度高知高校(旧制)に入学したとかで、寄り道して岩国の親戚に来てしばらく滞在するという。

私一人しか親しい人がいないので、毎日うちに遊びに来て、話すうちに私が泳げないのを知り、教えてやるからと、一緒に海岸に出かけ手取り足取りで教えてもらうことになった。

熱心な指導で10日くらいですっかり泳げるようになり遠泳までできるようになった。

小学校の低学年時溺れて危うく死にそこねたことがあったので、海にはそれ以来何年も遠ざかっていた。

しかしこれ以来、すっかり自信をつけられたことは今も忘れられない。

なにはともあれ、教わるということは今にして思えばものすごく大切なことである。

人生はこの若き日の教育指導で決まるといってよいのではと、いまここに人生を終える間際、痛感するものである。

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