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2014年7月23日 (水)

私の生涯の友、横山博君

2009.11.7 横山博君が死んだ。

翌年7月には私の二つ下の実妹が交通事故で死んだ。

爾来ばたばたと旧友、知己,親戚と今生の別れがひっきりなしに続いている。

昨今病床に居るわけでもないのに,命旦夕に迫る思いがしてならない。

脅迫観念というものであろうか。

思えばこの横山君とはどうした因縁に結ばれたものであろうか、とうとうその死の殆ど前日まで交際が絶えることがなかった。

大した用事でもないのに屢々電話がかかり,家族内の相談にまでも預からしめられた。

昭和35年(1960) 彼は私が数人の知人と組んで始めた事業が倒産したと知るや、いち早く一時仕事を手伝っていた知人宅まで追っかけて来て、自分と一緒に仕事をせんかと誘いをかけて来た。

トーメンと提携しての仕事が出来そうなので,手伝ってくれというのだ。

旧交を忘れない彼に喜んで応じて、早速彼の仕事を手伝うことになった。

昭和35年(1960)12月のことだった。

翌年1月年明けから勤めることになり、大進産業と云う未だ小さな従業員10名足らずの彼の会社に奉職した。

ポリエチレン加工品販売から始まって、各種業務用洗剤&洗浄剤、ポリウレタン製品、そして輸入クリーニング器械に至るまでどんどん事業を拡張して行った。

私は担当していた、イタリアから輸入したクリーニング器械の販売が好調な上,その性能に惚れて、独立したクリーニング業経営を横山に願い出た所,彼が快諾したので、彼の資金応援を得て,早速広島市内中心部に店舗を開設して開始した。昭和40年(1965)7月だった。

銀行からの援助も得て次々2店舗を1年足らずの間に増設し、好調を維持し、大進産業自身も店舗を開設して、私に経営を委託してくれた。

昭和44年(1969)4月全投資額の回収を終わったので,家内の伯父に事業全部を売却、あらかじめ予定していた鍵の複製販売事業を日本キーサービスとの商号で開始した。

まだ日本も東京で始まったばかりであった。

同年3月には既に会社を設立していて、市内に本店を構えると同時に,福屋を始め福山、徳山、山口、長崎、熊本、倉敷、北九州、福岡,久留米にそれぞれ百貨店などの店舗を借用して,一挙に事業を拡大して行った。順調に利益を上げていた。

しかし今度は昭和48年(1973)のオイルショックが痛かった。ガソリン、人件費の急上昇が販売利益を阻害した。しかも類似した事業者が急増した。

特にベルギー資本の大手靴修理業ミスターミニットの進出が脅威であった。副業の鍵複製がまともに我と競合した。同じ百貨店内の出店なので、しかも数億資本の単なる競争相手では無かった。

とても太刀打ち出来ないと、早速撤退を開始した。

事業を他企業に譲渡したり,長崎、熊本はミスターミニットそのものに、福屋などは店員に無償譲渡するなど全部廃業して本店のみを残した。

本店は家内に任せた。

私は昭和53年(1978)4月、古巣の横山君のところのかって担当部門だった洗浄剤部門を、再度担当して委託業務として仕事を始めた。

昭和55年(1980)2月、横山君からの要望により,再度社員として復帰することになり,専務職をあてがわれた。

大進産業本社ビルを新築することになり、私の中学生のときの同級生だった平本俊秋君に頼んで格安で工事をして貰った。

12月からは早速そちらで勤務することになった。

一階はクリーニング店舗だった。

相変わらず主力はクリーニング業だった。私の提案で衣類のリフォームも既に始めていたが,これもすこぶる好調だった。

昭和58年9月、5月に通勤途中で車にはねられる事故にあい、体調不良も相まって退職させてもらった。

昭和59年3月、大進産業を通じて委託契約だった洗浄剤部門の業務をメーカーの正和工業と私個人との契約として存続した。

尚この仕事は昭和61年(1986) に実務さしていた原田孟氏にメーカーの了承を得て無償譲渡した。

公的には横山君と縁が切れたことになったが,私的交際は益々激しく、絶えることはなかった。

彼が大規模クリーニング工場を建て、その経営に知恵を貸す羽目になったり、後にこれも廃業して貸しマンション建築にも相談させられたり、えんえんと20数年に亘り、無い知恵を絞り出させられた。

平成2年(1990)11月には中日友好協会のすすめるツアーに彼等夫妻と私達夫婦も揃って参加したりした。

そもそも彼とのこの縁は一学校の寄宿寮の一室から始まった。

昭和12年4月、お互い見ず知らずの少年が、この日から共に学び食らい眠る生活をすることになった。

私は17歳、彼は19歳だった。彼はその風格から「おっさん」とあだ名された。

卒業と同時に、就職したのは彼はトーメンの上海支店、私は新京の満洲鉱山であった。行く道は遠かった。

しかし翌年からの兵役は、奇しくも同じ戦場での戦いだった。知らぬ間に、二度すれ違った。

一度は衡陽であった。中国で日本が一番苦戦した戦場の一つである。私は部下とともに、昭和20年1月1日この日ここで夜明けを迎え、新春を祝した。その数百米も離れていない所に彼の職場自動車廠があったし、彼も居た。

もう一度は広西省柳州である。終戦の年、ガソリンがなくて戦えなくなり,代替燃料のアルコール製造の技術を学びに私は桂林からやって来て、2週間滞在した。彼はその部隊に所属して居た。唯彼は任務が食糧調達という大仕事で、付近に出歩いていて寸暇もなかったらしい。

お互い存在すら知らないときだから、現実にばったり顔をあわす以外に知り様はなかった。

そして生きてるか死んでるか分らぬ戦後、昭和23年のある日彼が突然私を訪ねて来てくれたことがあった。

商売の都合で岩國に来た時、誰からか聞いて、私の職場に元気な顔を見せた。

その時か或はいつか、新しく事業を始める話を彼に打ち明けていたのであろう、かれもそれを気遣っていたらしい。

きっかけは思いも掛けぬ所からやってきたわけだった。

爾来ほぼ70年にわたる縁故である。

所謂公私にわたる永い永い付き合いだった。彼が一足さきにあの世にいったが、順番通りだから文句は無い。私を待ち受けてくれるだろう。

もしあの世がほんとに在るのなら、どうしても逢いたい最初の人である。

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