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2014年7月 3日 (木)

大雨の中已むなし、外出

沛然たる雨、早朝から降り続く。

午前10時半広島総合病院にでかける。

外来の多さに驚く。

空いている椅子を見つけて、腰を下ろして待つこと40分、途中、呼ばれる声がよくわからないので、大きい声でよんでくれと、窓口に注文付ける。

やっと呼ばれる。

裸になって患部を見せる。

担当医は女性だが、職業柄で何とも無さそうだが、老骨こちらも何ともない。

白昼涼しくて気持ちがよい。

診療費を払ったり、薬を貰うのに又30分。

駐車場に戻るとぼつねんと私の車1台。雨は依然として激しく打ちそそいでいる。

帰宅したのは午後1時、遅い昼飯、家内もちゃんと待って一緒の食事である。

一寝入りして起きるともう4時、一日の大半は終わった。

雨はやんでいるが、すっぽり雲に覆われた空は、油断出来ない。

今日の対巨人戦、雨中の熱戦ともなれば可哀想だな。

どうなるかしら。

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2014年7月 6日 (日)

バックミュージックの中の暮らし

昨日からまた右膝が痛い。朝痛み止めを飲む。

夕方になってもよくはならななかった。

今朝は気にしなければわからないくらいだ。

老衰の進捗は目には見えないが、なんとなくあちこちに進んでいることが感ぜられる。

いつ動けなくなるのだろう。

ある朝突然起きられなくなるのだろうか。

最近はもう述べ時間にすると、睡眠時間は一日15時間を大分越えていることだろう。

老化がドンドン進むのは当然だ。

うたた寝から目覚めてみるともう正午近い。窓の外はしとしとと梅雨の雨。

窓が開いたままだから、冷たい風が吹き込んで夏とは言えない寒さ。

DVDアルバムの音楽が何時間もずーっとなり続けている。わたしのバックミュージックだ。

別に聞いているわけではない。

今鳴ってるのはショパンのピアノソナタ。次はブルッフのバイオリン協奏曲とアナウンスが今云っ

た。

何が鳴り出すか私にもわからない。そもそも録音した時、適当にそこら中のテープからダビングしたものだからである。

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2014年7月 7日 (月)

車なら楽だ

台風8号が沖縄に近づいていて、梅雨の終末に刺激を与える気配濃厚。
Mac Miniの調子が悪いので、修理に出す予定。
やむを得ず今日からしばらくこちらHP Miniを使って日記をつけることとする。
現在はMacであろうとWindowsだろうと、変換がらくだから別に考えることは何もない。特に日記などは。
天気予報では今週中雨となっているが、老人ならずとも、うっとうしいことである。
夜半から雷鳴が時ならず響いて、気をそがれる。
古代の人ならずとも恐ろしさに変わりはない。
家内はどこにも出たくないというが、私も出るのはごめんだ。
だが、明日のパンがないぞ。
珍しく午後になっても、雷雲がこの地方に停滞しているらしく、時折とどろく雷鳴はいつまでもとどまって、去り行く気配はみえない。
俺が嫌がれば人も嫌がる。
雨の小止みを待って出かける。まず東に向かって銀行に、次にスーパー、家内のたのまれと明日のパン、国道を西に反転して、行きつけのガソリンスタンド、カードで自動給油、ガソリンが0になっていた。それからゆっくり市役所へ、車検のための軽自動車税納税証明をもらって新しい近道を一挙に自宅に一直線。
45分の外出だった。

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2014年7月 8日 (火)

パソコンサポートの凄さ実感

MacMiniの故障をどこに持参するのが一番よいか迷って、午前10時まず購入先のエディオンに電話する。

故障内容が内容ソフトのディスクユーティリティで検証して分っているので、そのことから話すと、アップルケアに電話してくれと云われる。

そちらに電話すると専門の技術者が出て来られて、約2時間電話を通じてのやり取りで、完璧に治ってしまった。

一番驚いたことは、私のパソコン操作画面が、先方のパソコンに写しだされるとということだった。

先方の指導の矢印に従って、順調にじゃましていたアプリを取り除き、最後には新品同様なスムースさで動き始めた。

終わったのは丁度12時、料金の請求は無かったから、電話負担だけ、それも後半は先方からの電話にきりかえてくれた。

現在は凄いことが出来るのだなと実感出来た一日だった。

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2014年7月14日 (月)

便利よさとは高く付くもんだ

早朝世界サッカーの決勝戦がドイツとアルゼンチンとの間で行われる。

2時頃から眠い目をこすりこすりテレビの実況中継を見る。

90分で0-0とけりつかず、延長戦、後半7分ドイツが蹴り込んで先取点。

攻防激しかったがそのまま終わり、ドイツの何度目かの優勝。

やはり今回のチームの実力通りといえようか。

彼等の試合を見ていると、日本はどうひいき目に見ても相手になる資格が無いなと痛感する。

午前10時車検と車の整備を購入先の木元自動車に、やって貰うため持って行く。

もう15年目だそうな、年は食っても、4万キロ台の走行距離だから、車の性能は申し分ない。

ハンドルがちょっと重くなったので直して欲しいと云っておく。

10万位掛かるだろうか。

もうすぐ寿命が尽きるし、無駄かなと思うのだが、現に毎日乗っている以上は仕方がない。

よく考えると税金、保険料、高いガソリン代、馬鹿にならない。

タクシーの方がどれだけ安くつくかしれない。

便利というのはほんとに高く付くもんだ。

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2014年7月15日 (火)

自動車パンク談義

昨日木元自動車の人とパンク談義になった。

昔私は毎月九州のうちの各店舗に定期出張したのを始め、自動車を乗り回すことは年に数万キロを越えた。

パンクは何度も所嫌わず経験させられた。

ところが76歳でリタイヤしてこのかた、ここ十数年経験したことがない。

タイヤがよくなったからだと思っていた。

この歳になって、パンクでもすると大変だなと、普段感じている所だった。

彼はタイヤは格別変わりない。道路が綺麗になったのだと云う。

そういえば、高速道路が出来たし、どこに行っても舗装道路だ。

市町村が掃除するのか,、道路会社がするのか、どこも道路は綺麗である。

釘なんか落ちてるわけが無い。

従ってパンクしないわけである。

私の考えはどうやら時代錯誤らしい。

それでも起きないことは無い。つとめて道路の真ん中を走りなさいと彼は云う。

やっぱり気をつけないといけないことに変わりはないわけだった。

が、結局、タイヤはまだ交換しないでよいと彼が結論した。

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2014年7月18日 (金)

自動車の誤算

梅雨はまだあけそうにない。

来週になるのかもしれない。末期には大雨になるのが習いだが、今年もそうなるのか。

今回は車検がまだ終わらない。今日で5日目だが、ハンドルの修理が永く掛かっているのかも。

代車はあるのだが億劫だから外に出る気もしない。

雨と云えば、困難を極めた、あの湘桂作戦の初動を思い出す。

泥濘で道なきところに踏み入れさせられた我々自動車隊は、走るは愚か殆ど1日1キロも前進出来ない。

山中に行きも帰りもならず、1200台の車が数珠繋ぎに来る日も来る日も停滞して動けない。

やっと渓谷を突破して、山頂に出で、敵の飛行機の好餌にされながら、ほとんど夜間、うろうろ進む数日、数週間。

防衛庁戦史室編纂の記事を見ても、4割が敵襲の被害にあったとある。

結局目的地に到達し得ず、この兵站路は閉鎖され、元の出発点に引き返し、岳州を経ての、洞庭湖湖畔路を進撃して戦史では7月に入ってから長沙に到着したとなっている。事実私の隊も7月末やっと市内の廃屋に居を構えた。

5月25日行動開始してから2ヶ月かかっている。

発起点崇陽からの目的地平江までは戦史に132キロとある。そこから長沙まで100キロだったが、この最初の第一歩は実現不可能だったわけである。

軍の主力は6月中旬にはすでに長沙を占領していたのだから、後方部隊が如何に難儀していたか分る。

この作戦雨のため齟齬を来たし、海軍との提携による湘江遡行による、水路補給に頼るほか無かった。

こちらも中国民船をいれて約3000隻、戦史が明らかにしている。

もちろんこちらも敵飛行機、機雷にさんざん苦しめられたことはいうまでもない。

人間は極めて傷つきやすい動物である。また乾パンの一つでもよい、食物が無ければ動けない。

これに補給する無駄な物資及び労力、最終的には国民に付けが回って来たことはいうまでもない。

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2014年7月23日 (水)

私の生涯の友、横山博君

2009.11.7 横山博君が死んだ。

翌年7月には私の二つ下の実妹が交通事故で死んだ。

爾来ばたばたと旧友、知己,親戚と今生の別れがひっきりなしに続いている。

昨今病床に居るわけでもないのに,命旦夕に迫る思いがしてならない。

脅迫観念というものであろうか。

思えばこの横山君とはどうした因縁に結ばれたものであろうか、とうとうその死の殆ど前日まで交際が絶えることがなかった。

大した用事でもないのに屢々電話がかかり,家族内の相談にまでも預からしめられた。

昭和35年(1960) 彼は私が数人の知人と組んで始めた事業が倒産したと知るや、いち早く一時仕事を手伝っていた知人宅まで追っかけて来て、自分と一緒に仕事をせんかと誘いをかけて来た。

トーメンと提携しての仕事が出来そうなので,手伝ってくれというのだ。

旧交を忘れない彼に喜んで応じて、早速彼の仕事を手伝うことになった。

昭和35年(1960)12月のことだった。

翌年1月年明けから勤めることになり、大進産業と云う未だ小さな従業員10名足らずの彼の会社に奉職した。

ポリエチレン加工品販売から始まって、各種業務用洗剤&洗浄剤、ポリウレタン製品、そして輸入クリーニング器械に至るまでどんどん事業を拡張して行った。

私は担当していた、イタリアから輸入したクリーニング器械の販売が好調な上,その性能に惚れて、独立したクリーニング業経営を横山に願い出た所,彼が快諾したので、彼の資金応援を得て,早速広島市内中心部に店舗を開設して開始した。昭和40年(1965)7月だった。

銀行からの援助も得て次々2店舗を1年足らずの間に増設し、好調を維持し、大進産業自身も店舗を開設して、私に経営を委託してくれた。

昭和44年(1969)4月全投資額の回収を終わったので,家内の伯父に事業全部を売却、あらかじめ予定していた鍵の複製販売事業を日本キーサービスとの商号で開始した。

まだ日本も東京で始まったばかりであった。

同年3月には既に会社を設立していて、市内に本店を構えると同時に,福屋を始め福山、徳山、山口、長崎、熊本、倉敷、北九州、福岡,久留米にそれぞれ百貨店などの店舗を借用して,一挙に事業を拡大して行った。順調に利益を上げていた。

しかし今度は昭和48年(1973)のオイルショックが痛かった。ガソリン、人件費の急上昇が販売利益を阻害した。しかも類似した事業者が急増した。

特にベルギー資本の大手靴修理業ミスターミニットの進出が脅威であった。副業の鍵複製がまともに我と競合した。同じ百貨店内の出店なので、しかも数億資本の単なる競争相手では無かった。

とても太刀打ち出来ないと、早速撤退を開始した。

事業を他企業に譲渡したり,長崎、熊本はミスターミニットそのものに、福屋などは店員に無償譲渡するなど全部廃業して本店のみを残した。

本店は家内に任せた。

私は昭和53年(1978)4月、古巣の横山君のところのかって担当部門だった洗浄剤部門を、再度担当して委託業務として仕事を始めた。

昭和55年(1980)2月、横山君からの要望により,再度社員として復帰することになり,専務職をあてがわれた。

大進産業本社ビルを新築することになり、私の中学生のときの同級生だった平本俊秋君に頼んで格安で工事をして貰った。

12月からは早速そちらで勤務することになった。

一階はクリーニング店舗だった。

相変わらず主力はクリーニング業だった。私の提案で衣類のリフォームも既に始めていたが,これもすこぶる好調だった。

昭和58年9月、5月に通勤途中で車にはねられる事故にあい、体調不良も相まって退職させてもらった。

昭和59年3月、大進産業を通じて委託契約だった洗浄剤部門の業務をメーカーの正和工業と私個人との契約として存続した。

尚この仕事は昭和61年(1986) に実務さしていた原田孟氏にメーカーの了承を得て無償譲渡した。

公的には横山君と縁が切れたことになったが,私的交際は益々激しく、絶えることはなかった。

彼が大規模クリーニング工場を建て、その経営に知恵を貸す羽目になったり、後にこれも廃業して貸しマンション建築にも相談させられたり、えんえんと20数年に亘り、無い知恵を絞り出させられた。

平成2年(1990)11月には中日友好協会のすすめるツアーに彼等夫妻と私達夫婦も揃って参加したりした。

そもそも彼とのこの縁は一学校の寄宿寮の一室から始まった。

昭和12年4月、お互い見ず知らずの少年が、この日から共に学び食らい眠る生活をすることになった。

私は17歳、彼は19歳だった。彼はその風格から「おっさん」とあだ名された。

卒業と同時に、就職したのは彼はトーメンの上海支店、私は新京の満洲鉱山であった。行く道は遠かった。

しかし翌年からの兵役は、奇しくも同じ戦場での戦いだった。知らぬ間に、二度すれ違った。

一度は衡陽であった。中国で日本が一番苦戦した戦場の一つである。私は部下とともに、昭和20年1月1日この日ここで夜明けを迎え、新春を祝した。その数百米も離れていない所に彼の職場自動車廠があったし、彼も居た。

もう一度は広西省柳州である。終戦の年、ガソリンがなくて戦えなくなり,代替燃料のアルコール製造の技術を学びに私は桂林からやって来て、2週間滞在した。彼はその部隊に所属して居た。唯彼は任務が食糧調達という大仕事で、付近に出歩いていて寸暇もなかったらしい。

お互い存在すら知らないときだから、現実にばったり顔をあわす以外に知り様はなかった。

そして生きてるか死んでるか分らぬ戦後、昭和23年のある日彼が突然私を訪ねて来てくれたことがあった。

商売の都合で岩國に来た時、誰からか聞いて、私の職場に元気な顔を見せた。

その時か或はいつか、新しく事業を始める話を彼に打ち明けていたのであろう、かれもそれを気遣っていたらしい。

きっかけは思いも掛けぬ所からやってきたわけだった。

爾来ほぼ70年にわたる縁故である。

所謂公私にわたる永い永い付き合いだった。彼が一足さきにあの世にいったが、順番通りだから文句は無い。私を待ち受けてくれるだろう。

もしあの世がほんとに在るのなら、どうしても逢いたい最初の人である。

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2014年7月24日 (木)

老人の消夏法

朝から暑い日射し、もうまぎれも無い真夏。

車のハンドルの改装を木元四輪から云って来る。こんんどはいいものだという。但し値段が¥35000.掛かると云う。OKする。新品だったら11万円もすると云う、馬鹿に出来ない。

午後2時現在気温は33度を越えている。じりじりと焦げる匂いがしそうである。

裸になりたいが、案外汗と云うか湿気と云うか、肌がじっとりしていて気持ちがよくない。

シャツ1枚の方がまださらっとしてよい。

仕方がないから風呂に飛び込んでシャワーを浴びる。老人にはこれしかないな。

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2014年7月28日 (月)

日曜日のスポーツ

朝から風があり幾分涼しい。家に居るときは毎日下着1枚での生活。

幸い、だれも来ないからこれでしのげる。

家内はその点不便だな、可哀想だ。

午後3時シャワーを浴びる。

高校野球広島県決勝、広陵が2失策の新庄に2-1で勝ち、4年ぶり甲子園行きを決める。

伝統の重みという所か、どちらが出ても遜色は感じられない。

夜はカープもタイガースに連勝、不思議に両チームとも外人の働きがなかった。

こんな日もあるということだろう。

サッカーは世界大会を熱心に見たせいか、テレビ中継で見る、Jリーグの試合がもたもたと動きの鈍さが気になって仕方がない。まるで迫力が感じられない。

一流と二流の差どころではないらしい。

世界のレベルとはやはり凄いもののようだ。

大相撲、やはり最後は白鵬のものだった。30回優勝おめでとう。

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2014年7月31日 (木)

通所介護支援更新

また台風が沖縄近くにやってきている。かなり大型らしい。

ただ今度の11号はは真っ直ぐ北に向かい満洲方面に志向している。

もう一つ12号が八丈島南方に来ている。いよいよ台風シーズンである。

災害列島日本の本領発揮というところ。

午後2時市役所の介護の係員尾形さんとデイケアセンターの伊勢本さんが来宅する。

私の要介護支援1の更新の確認ということのようである。

現在の私の状況、来年に向かっての抱負など聞かれる。

昨日に引き続いてのことだから別に変わったことは無い。

現状のデイケアーがまことに適切に私に合っているから、引き続いてのケアーをお願いしておく。

腰や膝の痛みが消え、体調が際立ってよくなっている現状を見ると、明らかな効果を感ぜざるを得ないし、もし中断でもすると却って悪い結果を引き起こす心配すらおぼえる。

現状を無理にでも御願いする他無いとの心情を披瀝して理解してもらった。

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