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2014年5月22日 (木)

生き残り3名〜つづき

十時間ぐっすり眠って目覚めてみると、もう次の日の朝である。

今朝のように明るい日射しに包まれると、まさに飛んで来たような感じ。

飛ぶがごとく日々は過ぎ去って行くわけである。

同級生の神村は昨夜の話では、遅生まれだから生年月日は1919年の9月だと言う。

私より4月古い。此の差は永久に縮まらない。

ガキの時代からいつも私をリードした彼は、やはり兄貴だったか。

出雲自転車旅行の中国山脈越えの道行きをいやでも思い出す。

1938年3月、といえば、私は18歳と2月、彼はすでに18歳と6月になっていた。

兄貴らしかったわけだ。

この旅行の言い出し、自転車で行くこと、生まれて始めて宿屋で泊めて貰うこと、路傍の茶店で飯を喰うこと、皆兄貴の誘導であった。

私の親父は始めあちこち、その道の先輩の意見を聞き回って、無謀だ罷めろと反対したのだったが、親友の神村に私が行くと約束していたし、諸般の事情撤回することが難しいと知るや、一転して可愛い子には旅をさせろに傾いていた。

親父は自らが二十の歳には、メキシコに出稼ぎに出かけていたし、進取の気象は人並みはずれていたから、理解は早かった。

母親は終始反対し涙さえこぼした。

未だに鮮明に思い出すこの旅がいかに大きな影響を私に齎したか計り知ることが出来ない。

神村君はとうとう現在まで生涯の友であり続けた。

私は昭和16年1月、軍隊入営の直前1週間、彼の会社の寮の彼の部屋に泊めて貰い,宮城との訣別、首都東京の見納めを実行した。

徴兵は頑健な彼は船舶工兵、私は兵隊ともいわれなかった輜重兵に振り分けられた。

奇しくも二人とも幹部候補生に選ばれて、彼は松戸の工兵学校、私は世田谷の自動車学校に、折から大東亜戦争勃発の時期、それぞれ学びつつあった。

示し合わせて、ある休日銀座の喫茶店で再会したりした。

戦後も死神に見放されて、郷里での付かず離れずの友情と交際が続いた。

何時の頃からか、広島と東京と遠く別れたが、からむことも切れることも無く、生糸のごとき交際は今も辛抱強く続いている。

昨年暮れ12月、丁度岩國空港開港を利用して私は上京、最後の訣別となるを予期して、彼の一家を訪ねた。

そして今、同級生100名の中の、生き残り最後の3名のうちの2名になったとは。

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