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2014年3月 1日 (土)

ヴィールスに取り付かれて

今日からウィンドウズで日記を書くことにする。
マックにヴィールスが取り付いてなかなか離れようとせんので、河岸をかえる意味。
ヴィールスなんて聞いてはいたが、20年間、確認できたのは初めてで、削除しようとしても削除することが出来ない仕組みになっている。
そこらがヴィールスたる所以らしい。
日記を書くぐらいテキストがあればすむことだし、簡単である。
最近は体が弱って、出歩くなど行動はもちろん駄目、読書など智的活動もだんだんたいぎになって、寝るばかりの毎日では書く材料もつくれない。
何を書こうかなと思案の時間が長くなるばかりである。
デイケアーセンターの女の子が戦争の話をじっくり聞きたいなんて言うものだからその気になって、いろいろ考えたが、女の子ではなあ。
興味のありそうなことはまるでない。
やはり、男と女はその社会の仕組みから違う。
交じり合う環境がまずなければ話にならない。
しかも軍隊というところは、典型的な異質の世界である。常住坐臥ばかげていて、女ならずとも男でも関心をもつところではない。
それに書くことならまだしも、話すということはまるで苦手で、どうしたらよいか見当もたたない。
処置に窮して、10年前にホームページ「語り継ぐ戦争の記憶」に書き送った原稿「私の軍隊生活」を引っ張り出し、こぴーすることにした。
勝手に呼んでくれというわけである。興味がなければ読まなくてよい。
無理に聞かされるよりはましだろう。
昨日早速ファイルを1冊つくった。時間の有り余る老人の得意技ともいえる。

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2014年3月 2日 (日)

戦争の話

生暖かく快晴、申し分ない春の気候だ。

3月とはこんな月だったかと改めて感慨無量。

東京の娘が今月末ごろに伊勢神宮参拝につれてゆくという。

さては私の先が短いと読んだか。

肝心な私はおいそれとあの世には行かぬぞと元気なのだが。

末娘が手離れしたので、急に自分の人生を求めてあちこちしたくなったのか。

もともと自分も末娘で自由奔放な子だったからなあ。

もっとも人のことは言えない。長男でも私は親の遺産を蕩尽尽くした。

人の口車に乗せられ、甘い甘い人生を勝手気ままに過ごしてきたのだから、人を説教する資格は微塵もない。仕方のないことか。

この水曜日には、戦争の話を聞きたいというケアーセンターの女の子に、語るよりは読んでほしいと、「私の軍隊生活」と友人の「ニューギニア戦記」の2冊をコピー準備した。いづれも150ページを超える大冊である。果たしてその意が届くかな。

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2014年3月 3日 (月)

20年ぶりのお伊勢参り

朝子は今朝初出勤うまく出来たであろうか。

東京都内のこと学生のときと違い、気違い染みたラッシュを乗り切る苦労は大変みたいだからな。

辛抱して頑張るからと決意をしてみせてくれてはいるが、一日二日の事では無いからなあ。

もちろん希望に胸膨らませているだろうから,当座は大丈夫だろうが、2月、3月たってからが問題だろう。

職場環境次第ではあるが、ここはもう天にすがる以外にない。

真面目すぎるぐらいの子だから、天性に狂いはない。

幸運を切に祈る。

娘もあれやこれや、先行きの幸運を祈って伊勢神宮参りを決めたのだろうから、素直に同調して付いて行くつもりだ。

私には何度目かのお伊勢参りだが、1994年彼女たち娘とお参りしてから丁度20年ぶりというわけだ。

朝子が小さく元気で、良く泣いたことを憶えている。

朝熊山からの眺めがきわだってよかった。泣くな泣くなとあやしたんだがなかなかやめなかったなあ。

翌日の鳥羽の水族館では,珍しい魚やペンギンなどに気を取られて,すっかり機嫌が直ったっけ。

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2014年3月 6日 (木)

とうとう風邪にやられたか

昨日の続きがつづく。

風邪薬は呑み続ける。

昼には随分軽くなった感じ。

他に用事のない老人だから、起きて何かにとする必要もない。

くしゃみはもう止まったし、鼻水も普段程度におさまっている。

他には何も症状のない不思議な風邪である。

体温も今朝35.8度だった。

昨日のデイケアーも出られたかも知れない。イヤ、一寸無理かな、こじれてもこまるしな。

一昨日植物園で食事を始めて途端、くしゃみがやたらと出始め,鼻水がつづいたので、花粉症かも知れないとおもったりしたのだが、元来その素質がないので、わからない。

まあ直りさえすればいいか。

午後買い物に出る。ついでに私のものも買う。しっかり厚着して出る。

外の風は思った以上に冷たい.正にシベリアの風か。

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2014年3月 8日 (土)

サンフレッチェの強さ

家内が昨夜食あたりかなにかで吐いたらしい。

今朝は朝飯を食わずに寝て居る。

最近良くある事だが,胃腸が大分弱っているのだろうか大変心配である。

家の事万端世話をかけてる私としては、身体がすくむ思いである。といって今更何も出来ないし、一人で一枚のパンを齧ってそれで終わりである。

情けないものだな男の老人なんて。

早くくたばりたい。先に見えるのはもうくらやみばかりである。

なんで94歳などという長生きをしたのであろう、のぞみもしないのに。 

ところでサンフレッチェの強さはどうなんだろう。

今日お昼すぎ地元のエディオンスタディアムで今シーズンの二戦目を川崎フロンターレと戦った。前半後1分と云うところでシュートを打ち込まれてリードされた。

後半奮起したサンフレッチェが佐藤の相変わらずの妙技で早々と追いついて,今度も又後1分。ゴールゲート正面20m前でのフリーキックのチャンスを今度はサンフレッチェが戴いた。

すかさず前の試合の殊勲者塩谷がまたもやゴールに蹴り込んで,圧巻の2連勝を呼び込んだ。

テレビ放送がなかったが、妙な予感がしたので地元ラジオにチャンネルを合わせて聞いていた。なんだか不思議な思いだな。

近年ラジオでサッカーの実況放送なんて聞いたことがなかったが、とてもまどろっこしくてドンドン変わる場面が理解出来ない。ゴールの瞬間も猛獣のうなり声に似たアナウンスが轟くだけでどちらが入れたのか分らない。

今日の最後はフリーキックだからはっきり認識が出来たけど。

面白いといってもやはり願い下げだな。人間のおしゃべりではおいつかないよ。

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2014年3月 9日 (日)

佐藤寿人のシュート

佐藤寿人のアクロバチックな後ろ向きのシュートの画面が繰り返し放送される。

永い修練のおかげなのであろうか,あるいは天性かな。

昨日のサッカーの逆転勝利はサンフレッチェの真の強さを印象づけた。

予想通り3連覇へ向けての快進撃が始まるかも知れない。

ACLでオーストラリアへ,帰るとすぐ浦和戦が待ち構えている。前半の正念場となるだろう。

テレビのない時代は何でもかんでもラジオ放送しか出来ないから仕方がなかったけど、球が敵味方を絶えず行き交うし,それに人数も多い。

これに対応出来る言葉なんてあるのかいな。

最近の若者言葉随分早いがそれでもおいつかないのだが。

目の状態が最近よく無い。鼻と連動して悪い。

寿命だし仕方がないな。

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2014年3月10日 (月)

陸軍記念日

昔陸軍記念日というのがあった。今日の事である。明治38年(1905)7万の死傷者を出して、日本軍がこの会戦に勝利し、やっと敵ロシア軍がこの地奉天を放棄して北方に退却した日で事実上、陸上での戦いが終わったとされる日である。

最近は歴史を習ってない人が多くて,話にならないので、私達老人には何でもないことだが,一応語っておくわけである。

私の伯父もこの日露戦争で出征し,金鵄勲章を貰っているから,何らかの働きがあったのだろうが,伯父は私に何らの自慢話もしてくれなかったので、その仔細は知る由もない。

後年私が満州国に就職し、手みやげにお酒などを渡した時,懐かしげに、ことのほか喜んでくれた思い出は、その深い意味をこめて忘れられない。

命をかけて戦う事は、1年2年の短い期間であっても、当人に取っては10年にも20年にも匹敵する価値を持つものである。

私自身その経験は人後におちるものではないので,理解出来る。

然し歴史は非情なものである。国の為よかれと一身の死をかけての働きも、唯一期待した靖国の英霊という名も、勝利国のごりおしに同調し、総理の参拝すら要らぬ事と非難視する時代である。

勝利者勝利を祝う時,敗者は無念の死を遂げた死者を弔う、何の不思議、不正義があるか。

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2014年3月11日 (火)

人類は何故こんな変な仕組みを作るのか

朝早くから近所の家の新築の音が心強く響いている。

最近この近辺ではなかったことだ。

東北大震災の復興は丁度丸3年経った今も途上にあって,遅い早いの論議はかまびすしい。

何より長期を要する原発施設の被害は,国の致命的な被害でもあった。

完全な修復は原子力の終期を待つと何万年もかかるという。

世界にショックを与えたにも関わらず、新興国を始め挙って原発に頼らんとする国が増えている由、やはり人類は自ら死への道を選ぶ動物らしい。集団自殺それは哺乳類の宿命か。

家内が眼科へ行くと云う。もう術後1年半経つ。

家内もいつまでも続くケアに草臥れている。

私も白内障の手術から2年目に予約して病院で診て貰う事になっている。

家内のように毎月ではないので助かっているが。

けだし過重ケアということもあるのではと素人は疑うのである。

個人負担額は私達せいぜい1割だから大して問題ではないが、残りを国が負担する。

間接的に税金としてとられる。なんだかごまかされている気がする。

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2014年3月12日 (水)

逆も真なり

天気予報は夕方には雨という事であまり良くはないのだが,現在はよく晴れて気温も3度とまあまあである。

先週休んだので,昨日はケアセンターの田中さんから具合はどうですかと前もっての電話だった。

大丈夫行きますと元気な声でお礼を言っておいた。

今朝もどこも悪くない上々の体調である。

咳一つ出てはいけないからと念のため甘露あめを口に放り込む。

デイケアーに行く。相原さんと云う女性職員さんが一人増えている。デイケアー者も女性が一人増えて、やはりなんとなく華やいで見える。

1週間のロスがあったので、どうかと案じていたが、格別苦しい事はなかった。

それより体力測定で先月より筋力が増し,体脂肪が減少したと云う説明に驚いた。

バランス的にはもう少しという所だが、それにしても驚くなあ。

この次、元の木阿弥になっていなければいいがと,心配が却って一つ増えた。

生活そのものは変わる所はないから、この傾向が持続するならしめたものだが。

春闘が今真っ盛りである。ボーナス関係は満額回答も少なくないが、ベースアップは業界は渋り勝ちである。

当然の理屈だが、ここは思い切った賭けに出てはどうか。

先ず賃上げをして、それに見合う利益確保の尻たたきを断行するのである。

尻たたきにはいろいろ方策があると思うが、知恵を出してもらいたい。出来ないではすまないのである。

兵法では、古来まかり通った理論である。負けてはいけない決死の理論と云えよう。

逆も真なりという格言もある。

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2014年3月14日 (金)

予約時間を待つ限度

今日は広島の某総合病院の耳鼻科に行く。

8時半の予定になってたから,7時半には待合室に入って待つ。まだ誰一人いない。

iPhoneに記録したbookで読み耽りながら待つ。

8時40分呼び込みが始まる。次々呼び込まれるが、私では無い。

9時を過ぎる、まだ呼ばない、19分私はさすがにしびれを切らした。

受付嬢に文句を言うためしわっ面を窓の中に突っ込んだ。

検査をするからと理由にならない理屈を言う。私も遂に激高した。もちろん穏やかな声である。

受付嬢は相談に内に入る。理由はことごとく私には通じない。

しっかり詫びてもらって更に10分待つ。予定時間を丸1時間過ぎていた。

検査の看護師嬢も担当医もお詫びの連続であるが、許せない。

僅か1時間だが私には後幾ばくもない余命の一部である。

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2014年3月15日 (土)

私の心根

づきんが汚れて薄汚いので自分で風呂の湯を組んで洗剤に浸けて洗う。

薄茶色の合繊の頭が痒くないので気に入ってよく使っている。形は一番不細工で幼児でもあざ笑うほどのものだが、私はそれでいい。

只綺麗になってくれるかどうか、それは干し上がってみないとわからない。

家内はせいこうに点滴をうけに出かける。3日目である。大分良くなったから効いたのであろう。

伊勢参りは断るように言っておく。弱った身体と,不如意の足取りではあの長い参道は無理だろう。

晴子と二人でそれぞれ手を引っ張るつもりだろうが、足が動かないではどうしようもないだろう。

去年の出雲大社参りで私の役目は終わりだな。

私はメキシコで生まれ、帰国した最初に宮城に連れて行かれ遥拝したと聞いている。

以後満洲への旅立ちの時,兵役入隊の直前、そして戦後何度か節目節目に二重橋前でぬかづいた。

自分ではあっぱれ忠臣のつもりである。

1昨年上京の折、家内や子や孫とともにおとづれて、二重橋前から既にこの世でのお別れをしている。

伊勢神宮までは出来過ぎというものである。

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2014年3月17日 (月)

FACEBOOKというもの

FACEBOOKというのがある。うるさいので最近はiPhoneでも触れないようにしている。

私の場合送る事は何もない。他人の情報を見るだけである。

一頃百人を超すほど友だちになりたいという押し掛けがあったのだが,今はもうない。

友だちも身内のもの以外は2人だけである。

その二人も一人は子の年齢,一人は孫の年齢である。

せっせと便りをくれる。一方通行で終始しているが。

子の方はオートバイ狂かと思われる位あちこち走り回っているらしい。

孫の方は目下インドに居て最近生まれたおさなごの育児に忙しいようだ。しきりとその写真を送って来る。

皆忙しくてよろしい、この卒年老人のごとく何も出来なくなってはもうおしまいである。

私の孫が一昨年まで留学していたLeuvenからの友だちになりたいが数十にも達しておどろいたが、これもようやく治まった。

おそらく孫がうっかり洩らした事から、こうなったことは間違いないが、電波の早さは恐ろしい。

もう一人の孫の年齢の友だちは、そもそもの出会いがインターネットであった。

その祖父の死を友人である私をネットで探し出して、当日に私に知らせてくれたのが初会だから恐ろしい。

奇跡的な出会いである。しかもインドのニューデリー在住だということも後から知った。

友が死んだのは札幌だから、霊魂が導いたとしか言いようがない。

この友は一期下の戦友で,約3年間同じ部隊で生死を共にした。戦後も十年ばかりして私を訊ねて岩國に来て、半年私の仕事を手伝ってくれてことがあった。爾来交友は絶え間なく続いていた。

私と60年も違うこの友だちは時々日本に帰って来るらしいが、私は見た事はない。

この彼女の父親はその幼い時一度逢った事はあるのだが、成長した現在はしるよしもない。

此れ等をつなぎ止めるFACEBOOKとはおよそ不思議な糸である。

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2014年3月19日 (水)

デイケアーの効果でお伊勢参り可能か

伊勢に参る事に決めたが,雨が降ったらいやだねと家内は言う。

先の事どうなるやらわかりゃしない、昨日は切符を買いに行く気勢をそがれて、とうとうどこにも出ない。

福岡の林田さんのことが不思議と思い出される。5年前彼女はどうして急に会いに来たのだろうか。その前の年には三次の林君が突然逢いたいと云ってうちを訊ねてやって来た。ささやかな仕事を通じての交際だけの仲である。

林田さんは当時確かスーパーの店長をしていたと思うが、激務の中突然今から行くからと電話を戴いた。取るも取りあえず駅に出迎えその足でとっさに宮島に連れて行こうと思いたち、車を飛ばした。

昼食べた穴子飯がおいしかったと後日彼女が述懐している。

何十人何百人といる職務上の交際相手の中、何十年も経ってまで慕ってくれると云う現実に驚く。

そう云えば彼女の結婚式に祝辞を述べてくれと頼まれ一席ぶった記憶もある。彼女等の交際を認めて一緒に食事をしたり、くだらぬ説教も時にしたりした。

今もふっとこうして思い出す人間の心理、全く不思議としかいいようがない。

未だに年賀状だけはめんめんと続いている。消息がかすかに続いているというわけである。

今朝駅に行き名古屋行きの切符と指定席を買う。家内の体調がもういいと見定めた結果お伊勢参りを決心した。

午後1時からはデイケアーが始まる。

すっかり楽しい日課になってしまった。要支援1級だから週1回に過ぎないが、希望が出来るならもう1回あっても良さそうである。体調がぐんぐん良くなって来た。目に見えるという事はこんなことをいうのだろうか。

何より身体の隅々の機能まで余す所なく運動させられるという事らしい。

そして私に一番足りなかった歩く事,足の運動だった。今日は歩く時間を7分に上げてもらった。ペタル踏みも6分に上げた。少し多かったかも知れないが後のマッサージで調和してもらったl。

良い結果が出る事が期待出来るほどだ。

お伊勢参りが予定通り出来たら、それこそデイケアーさまさまなのだが。

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2014年3月20日 (木)

羽田ミドリさんヨーイ

暖かいけど雲が多くいい天候とは言えない。

外出は止める。

デイケアーの娘たちが,私の提供した本で皆読みたがって騒いでいるようだが、プリントしてわざわざ彼女たちに提供したものだから,期限なんて勿論ない。貰ってもいいよという人があれば差し上げるほどのものだ。

今日ふと思ったのだが、一応公刊してはいるが、同級生の羽田ミドリ女史の「わが生涯に悔ありき」が彼女たちには同姓の戦中戦後の苦難との孤独の戦いだけに、関心が深いのではと気がついた。

この次のケアーの日に羽田さんから贈呈を受けて居る,同書を持参してみる事にする。

色気も何もない,男ばかりの殺伐な戦争風景より余程ましではと思うのだが。

そういえば羽田女史は4年前私の年賀状が所在不明で帰って来て以来、探し様がないのでそのままになっているのだが、元気で居るのかいなと不安である。

知っている人はいないかな?

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2014年3月22日 (土)

悔い残る二十年

羽田ミドリさんの住所が私の住所録が間違っていたようで、いまやっと気がつく。

改めて電話してみたが3度とも留守で話す事も出来ない。

まあいいか定価の付いた本だから、誰が読んでもかまわないということ。事後了解ですむことだ。

いつか便があったら訊ねてみる事にしようと思い定める。

お互い同年の94歳だから、まともでないのが自然だ。でも、会えば話くらい出来るであろう。

昼ごろから天気が又あやしくなる。

春の天気は全く予想がつかない。伊勢神宮参拝もうまく行くか心配である。

人間というものは働いているときが花で、老いてすることがなくなり、寝たり医者通いするだけでは,全く無用の長物である。

判りきった事なのだが、悔いがいつまでも残る。76歳仕事を収めてから18年間、何もしないで今日がある。国の為にも自分のためにもならんなあ。

21歳の軍隊を皮切りに、可能な限り働きもがきつづけた。

七十余歳で果てるべき寿命であった。

何とも無意味な二十年、悔いても悔いても悔い足りない。50年を無駄にしたか。

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2014年3月24日 (月)

香護山の家

広島南道路が昨日開通した。昨日は式があったり、随分混雑したらしいが、いずれ私もすいすいと走ってみたい。黄金山や呉など簡単に行く事ができるだろう。

今年の花見はそちらにするか。

 

私の魂は明らかに過去の良き日をしきりにさまよい続けている今日この頃である。

今も勿論存在するであろうが、黄金山と峰を続けて香護山がある。その裾野一帯に終戦後いち早く出来上がった新興住宅地が香護山町といわれた。

坂の中途のバラック長屋の一つが私達家族が始めて広島に移り住んだ家だった。

当時登場した軽自動車が道路幅すれすれにやっと家の前までやって来れた。わずかな家財道具は社員が会社の車で運んでくれた。

この家は社長の弟さんが買って住んでいた家だが,彼が北九州支社長に転勤して空き家になってたので,社長命令で無償で私らが住む事になった。

大変なボロ屋でごきぶりがぞろぞろには先ず参った。畳を上げてみると、根太の下は大きな岩盤である。

夏尚湿気で岩肌はぬらぬらしている。

北向きで比治山学園と対峙しているが、日が射しこむことはまるでない。

こんなうちに永く住んでいると確実に病気になるなと思った。

翌年の1965年、会社を辞めてクリーニング業を始め、3軒目の店を借りる時、そのビルの4階の空き部屋も借りらされたので、其処へ移り住んだ。丁度丸2年の香護山暮らしだった。

ただではあったが、lこんな条件の劣悪な家も少ない。

寝るだけの我が家であってみれば、私にはさして不快な思い出はないが、家事,育児、店の手伝いと追いまくられた家内は気の毒だった。

良く辛抱してくれたなとずーっと未だに私の心にひっかかっている責め苦である。

未だにその意味でなつかしい。

もう何十年も近寄った事もない。南道路を利用して近寄ってみるかなと今思っているところである。

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2014年3月25日 (火)

無名校甲子園で勝ち上がる

朝はまあまあだったが、午後2時現在雲にすっかり覆われた空は、雨を待つばかりである。

午前中皮膚科の診療に広島総合病院に出向いた。担任医師が転勤でかわるとか、私の担任は特に良く変わる。

どこへ行くのかと訊ねたら広大病院とか。

ずーっと昔自営するという医師も居たが,最近は2,3年で里帰りする医師が多いようだ。

実地勉強は上を目指すには欠かせない。立派な医師に育って欲しい。

昨日書いた香護山の地名、今地図をひっくり返してみるとどこにもない。地名、町名がすっかりかわっている。

原爆で地上には何も殆ど残されなかったのだから,仕方がない。

私の当時の世帯届けには「仁保香護山641-29」と確かに実在を証明してくれている。

あれから60年変貌の激しい広島だから、当然の成り行きであろう。

中国地方から岩國高校と広島の新庄高校が選ばれ、今朝その新庄が初出場して長野の東海大3高と戦い,思いがけず山岡投手の好投で6-0で勝ち星を挙げてしまった。

岩國がいち早く初日に6-1と軽くあしらわれるごとく敗れたので、やはり中国の代表校は駄目だなと諦めていたがそうでもないらしい。

まあ番狂わせも多い甲子園の大会だから、しっかり頑張ってあっと云わせてほしい。

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2014年3月26日 (水)

若き女子に戦争を語る

昨夕から降り続く雨、さしてひどくはないが。

後ろの新築の家は昨日大急ぎで2階の屋根、壁が出来上がった。柱だけだったのがいつの間にか家になっているのに,朝窓から覗いてみてびっくり。

一日で格好よく出来上がった。建築工法も随分進歩したようだ。昔とはまるで違う。

午後はデイケアー、雨には関係ないからいいな。

最近は迎えの車が待ち遠しい。少年時代の限界をしのぐ武道の稽古や駈けっこの練習と違って、健康体操とかいうのんびりしたもの。楽しいのが当たり前かも知れない。

もう慣れたもので、空いた器具を自分で選んで、どんどん進行するから、今日などは大分時間が余った感じ。

山本さんがしきりに戦争の話を聞きたがるから、話すに丁度よかったかも知れない。

少し喋り過ぎたかも知れないな。

ついでに羽田ミドリ女史の小説も貸してやる。同性の戦争苦労話だからより興味深いだろう。

ケアー利用者の中には、10年以上若い人も何人も居るから、聞き耳をそばだてて聞いてくれたりする。

青春の21歳から27歳までまるまる戦争で塗りつぶされた私にとっては、戦争が青春のすべてであり、爆撃でふるさとの家屋敷も廃墟と化したし、その戦争被害は何の誇張もなく,人に受け取ってもらえるはずだ。

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2014年3月30日 (日)

お伊勢参り

今朝は郵便受けに残っていた宗村さんの名刺に残ったお話ししたかったとの書き置きを見て,直接そのケータイに電話してみる。

音楽CDのことだった。彼もいっぱしのクラシックファンだから、百円CDが見つかったとのことだった。

27日から名古屋,伊勢と千代と思いがけず歩き回る事になり、この年でも可能な事がわかったが、しかしやはり疲れたな。

もうもう一度やれと云われても出来ないな。

お伊勢さまの参道を杖を引く老人は数多く居た。

身体を折り曲げて,私以上にすごい人も居た。もちろん身体障害者の車を引く姿もあった。

日本はまだまだ広く多様である。しみじみ思い知った。

しかし娘が良く介助してくれたなあ。それなくしては一歩も動けなかっただろう。

遷宮祭直後の宮の息を呑む美しさ、木肌の美しさとはこれなるかな。

死への最後のみやげ、もはや思い残す事は何もない。

丁度20年前参拝したときと比べても何倍か増えたと思える参拝者の数。凄い事だなあ。

なにがそうするのだろうか。

最後の日の夜泊まったあの宿、”山田館”、これまた伊勢に相応わしい凄い宿だったなあ。

渡り廊下の波うちあんばい、知らねば恐怖に襲われるかも知れない。

明治を思わすその容姿。中身も外身も古今絶後か。

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2014年3月31日 (月)

記録は残す努力が必要

ひさしぶりにいい天気になった。

明日から消費税が3%増税になるとかで新聞が騒いでいる。

新聞は国民を煽っているかにみえる。軽薄と云われても仕方がない、良識がないな。

私は秋になったらクーラーを一つ(私の部屋の分)買い替えようと思っている。

暖房の効き具合が良くないから、新しい最近のものに。

今度旅行して伊勢の大正2年に建てられたという旅館の室内クーラーが小さくて凄く能率が良かったのに魅せられたわけ。

思いつきで、戦友などの書簡を繰ってみる。内地帰還直後沢山の手紙をもらったが、爆撃でなくなった家の、日々の生活にも難渋する住まいの狭さに,処理できず、皆ドンドン処分してしまった。

今残っているのは,ここ40年位の僅かなものだが、延々と続いている貴重なものではある。

死ねばもう私とともになくなるものだが、ブログ集などと一緒で、子孫のもので興味を持つものが現れて,資料探しをするかも知れないので,スキャンして電子化しておく事にする。

現在でも黄変して,ゴミになりかけている紙切れよりいくらかでもましだろうと思うからである。

何時まで続くか分らないが、ホームページ「戦争の記憶」の中の10篇の私の遺文集のように、すでに永久に残すと編纂者は広言しているものもあるほどだから。

庶民一人一人の記憶が正しく伝わってこそ民族の歴史は残されて行くのではあるまいか。やはり努力を惜しまない事が必要だ。

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