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2013年11月 1日 (金)

老いぼれのやせ我慢

昨夜の腰痛騒動で目覚めが悪く、8時近くなってとうとう家内に起こされる。

広島総合病院に行く日だったと思い出し、急いで支度にかかる。食事を大急ぎでして8時半家を出る。

駐車場で混んで時間を取られたが、9時には間に合う。

1時間位で終わって帰宅、今度は家内が買い出しに行くと云う。

楽々園に行き食事や買い物をいっぺんに済ます。

身体は痛くても車ならなんとかなる。

何時だったか大分まえ せいこう先生に治療してもらった時、コルセットを付けたらと云われ、買って帰った切り、放って置いたのを思い出し探して昨夜身体に付けて寝た。

案外具合がいい、痛みもうんと少なくなる。

そのまま今日は出歩いているのだが、痛くないだけでもましで、動作は活発には行かないが、結構役に立つ。

暫くはあるものを使って我慢するか。

93歳の老人が22年かけて大学の学位を習得したと新聞が伝えている。

同い年にこんなのが居る。刺激を受けざるを得ない。

身体の不自由さ位我慢出来る。やはり一度だけのこの人生やれるだけはやるのもいいか。

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2013年11月 2日 (土)

我が家は年末多忙か

巨人対楽天の第5戦はこれこそ大接戦で、見るもの聞くもの皆胸を痛めたであろう。

5対5での延長第10回、私が最高の期待を寄せていた巨人の西村投手が、こともあろうに相手の則本投手をノーアウト四球で歩かせてしまった。

両チームも観客も驚いた。その上次打者へは痛い、足へのデッドボールである。当人も痛いが巨人チームも痛い、しかし原監督は辛抱して投げさせ、一番当たっている銀次にタイムリーを打たれた。則本投手のホームインの早かったこと、投手のそれでは無かった。

巨人に反撃の力はもはやなかった。

王手をかけられた。

今日は楽天は田中投手だろう、これを打ち崩せば優勝の芽は残るのだが。

2、3日前、8日に益田方面に行く予定を立て、津和野のホテルに予約を取ったのだが、腰の調子が悪い。

どうするか決めかねることになってしまった。

昨夜は東京の娘から年末に夫婦でこちらに来ると云う電話が入る。正月をじいばあの側で過ごしたいとのこと。

しかし、正月休みにはトンボ返りで、若い者の代わりに勤めにでなければならないらしい。

長期の休みもままならないサラリーマン稼業、いろいろ考えているようだ。

老いぼれ二人何も出来ないよと、歓迎の言葉はもう出ない。

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2013年11月 3日 (日)

負けてよかったか、ニッポン

雨の11月3日なんて昔はなかったなあ。この日は晴れていい天気になるとの信仰があった。

中学生の5年間、明治節といって、下記の唱歌を歌う儀式があり、その後支度をして全校生徒全員で、城山を1周させられる競争があった。

上級生が一斉に後ろからはやし立て、追いまくる強引な徒競走で、10キロ程度を必死で走った。

ゴールインすると、ビッコを引いて錦帯橋の上り下がりをヤッコラショと渡り、楽しかるべき休日をへとへとになって家に帰り着いたものだった。

大正の軟弱さを一擲し、軍国主義一色に全国民が火の玉にさせられた。

馬鹿げた思想だったかも知れないが、人種とか民族の存在が、最も強い観念として、日本の人々に植え込まれた。

昭和20年、頂門の一針ハッシとして打ち込まれたが、残痕は今に残らざるを得ないようだ。

戦後、国土の縮小と同時に、民族の純粋さも深まった。

不安を醸す要因がうんと浅くなり、平和が続いている。

国連とか、エイペックとか、経済の都合ばかりを重点にして、多民族国家の成立に力を貸している。

色も言葉も考えも違う人間同士が、簡単に結合出来るとも思われない。

中国、ロシアという大国にしても、なかなか一枚岩にはなりにくい。噴火の火種は絶えないようだ。

よくいっているアメリカさへ、経済格差の露呈が、不安材料として浮上しかけている。

一口に地球人などと云ってるが、四海平等、安心安全な世界は望むべくも無い。

それでも現方式にこだわり続けるしか方法は無いのか。

明治節の唱歌一番

アジアの東日出ずる処 ひじりの君の現れまして

古き天地とざせる霧を 大御光にくまなくはらい

教えあまねく 道明らけく 治めたまえる御代たふと

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2013年11月 4日 (月)

二つのハプニング

気温が元に戻った感じ、今朝は15度丁度である。
よく晴れて日射しも強く、すっかり元に返った。
これなら益田までのドライブも何とかこなせるであろう。一泊予定なんだから。
昨日は楽天が創設9年目で日本一に輝いた。
星野監督ってやはり凄い男だね。
最後の9回に昨日160球も投げた田中将大に投げさせた。二人にヒット打たれ、ホームラン1本で同点振り出しである。決断には全人生がかかる。敢えて断行した。
結果は先にホームランを打った代打の矢野選手を三振でけりを付けた。
ホームラン狙いだけしか無い。絶対にそれはさせない。
虚々実々白眉の対戦だった。
昨日は母校の岩國高校が中国大会で優勝した。
地元でも進学高校で通っているが、野球も例年強い。
私の時代は駅伝は強かったが、野球は1回戦ボーイだった。
今の監督がいいのだろうな。
準優勝した、広島の新庄高校もも似た様なチームだ、監督がやはり違う。
高校球界も地図が変わるなあ!
長生きしてると思いもよらない事態を経験することになるものだ。
川上監督も一足先にあの世に行ってよかった。

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2013年11月 5日 (火)

長生きの秘訣なんか無い

家内は食事抜きでせいこうに行く。血液検査などがあるらしい。彼女は医者の提言に極めて従順である。

薬も言われた通りきちっと呑む。為に年中胃が悪いとこぼしている。もちろん胃薬も混じっているらしいが。

私みたいにずるが出来ないのだなあ。

私の薬は言われた半分も呑まないから、机の引き出しに古い薬がわんさとせめぎあっている。

ときどき医者なしで勝手に呑んだりしてるが。

同級生に随分早く亡くなったが、中岡武男と云う名医がいた。

彼一人家内の耳下腺炎を手術し取り出し治してくれた。それまで地元の数軒の大医者、大病院にかかって手術もしたのだが治らなかった。

どうやら癌と勘違いしていたらしい。

彼は医者は皆正しいのでは無い、いい加減な判断で薬を飲ませたり、手術をしたりしているのだと、友人の私達によく言ったものだ。

私の乾癬も出来始めに、九州の店に出張途次駆け込んで、一発の注射で治してくれた。

近くにあったらその後再発しても通ったであろうが、身近な医者にたよった。

いたずらに長引いた。

もうあれから20年以上になる。先だって広島総合病院の若い医師が、もうこれは治ることは無いでしょう、とのたもうた。

名医にあたり難病でも治してもろう、これは運だとしかいいようがない。

寿命なんてものは、いろいろな運が入り交じって結果が出る。

人事なんて尽くさずに素直に天命を待つ。これが人間の行き方ではなかろうか。

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2013年11月 6日 (水)

美しき秋の山野

天候がやや下り坂か。

今朝の中国新聞では三段峡付近の空中写真で見ると一面の秋山の色彩。美しさいわんかたなし。

一足先に天界から覗き見たから、頃は良し、ドライブで通り抜ける決心固まる。

20131106_92710

ベランダのすのこが腐食したので、半数の6枚を敷き替える。こちらも綺麗になって安堵。

私のうちのベランダに合わせた様な寸法で作ってある。

それとももともとベランダの寸法は決まりがあるのだろうか。知らんかったなあ。

腰の痛みはコルセットのおかげで何とか過ごせる。これも知らんかったなあ。

寝るときは外して、起きるとすぐ締める。用法はこれでいいのかわからない。

この歳になっても知らないことが多いなあ。

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2013年11月 9日 (土)

益田紀行

昨日午前十時家を出て、付近のICから高速道に入り、戸河内まで行って降りる。

三段峡を迂回する191号線を走る。深入山付近の全山落剥して、色彩の豊かさ、この世のものとも思われず美しい。

屢々道に立ち止まりて、景色を確かめシャッターを切る。

匹見峡美都付近まで達すると、大勢のドライバーたちが車を止めてシャッターを切っている。

考えは皆同じなのだ。自然の美に打たれて、思わず手を出す姿と言える。

益田に到着、観光予定の医光寺、萬福寺に参詣、雪舟の作したと云われる庭園を覗かせていただく。

山口の常栄寺のものより規模は小さいが、岩石をちりばめた造形はやはり雪舟のものであろうか。

足利時代の建築らしいが、古刹の悠揚迫らざる姿は、京都だけでないことを示していて、頼もしい。

市立図書館付近で姉妹の女性たちに道を訪ねたところ、ご親切にも柿本人丸神社に案内してくれる。

丁度車だったので、私を先導して2キロ先まで。

この宮も歴史の重みが実に色濃い。

万葉歌人の祖といわれ、言い伝えの多い人だが、社殿そのものは徳川初期造られたものらしい。

その晩は津和野ホテルにパソコン検索で出たホテルに予約していたので、3時過ぎには到着。

団体客用の宿かも知れないが、当日は寥々の静けさだった。

温泉ではないが、お風呂は一人で家内も私も独占した。

料理は鍋料理でささやかだったが、一応堪能出来たからそれでよろしい。

一泊2食付きで一人¥7300。の宿泊代だった。型破りなのでさすがに驚いた。

今日は7時過ぎに食事を済ませて、山口経由防府から山陽高速に入り、12時過ぎには帰宅する。

少し疲れたが、まだまだ意欲は十分だ。

身体の痛みは相変わらずだが、負けてばかりでは折角生かしてもらって申し訳ない気持ちだ。

未だやれるだけはやろう。

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2013年11月10日 (日)

県知事選挙の日

県知事選挙があるというのに、あいにく雨模様である。

あまり関心があるほうではないが、それでも最低の義務は果たさねばとの思いがあるし、出足をそがれた感じである。

1日は永いし、そのうち上がるだろうと心待ち。

昨日ブログに掲載した写真の銀杏並木通りはご存知津和野の保存地区だが、改めて見る白壁の土塀と、こいの泳ぐ小さな堀そして此れ等の銀杏、誰が思いついた構図だろう。

老いぼれたからこそしたたかに郷愁に打たれるのだろうか。

稲荷神社はあの永い階段の奥、卒寿老人には無理だから、参拝はご遠慮申し上げたが、早朝のこととて人も車も少なく、遠方からでも十分拝観可能と見えた。

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昼前になりやっと小降りになる。

買い物も食事もあるので、ついでに投票を済ますことになり、車で投票所に廻る。

谷川君に駐車場でぶっつかり、しばらく立ち話。食が進んでいるらしく随分太っている。

寿司屋に廻り寿司をくってからスーパーへ。

2時には帰宅。雨はまだしょぼしょぼ。

まあ義務は果たしたのだからよしとしよう。

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2013年11月11日 (月)

いいことばかりはない

11月11日と聞けば、ああ大戦が終わった日だなとうそぶいたものだった。

第1次世界大戦の翌々年、正確には1年2ヶ月後に私はメキシコで生まれた。世界不況到来の申し子だった。

世界も日本もそれから半世紀ろくなことはなかった。

あれから百年が間もなくだが、大戦の火種は今も燻り続けている。

人間てなもんは、賢いようでも欲が深くて駄目な奴だなあ。

鯨の方がよっぽど賢い。

口を開いて居れば餌は自ずから入るし、悠揚迫らず大海を漫歩する。

ただ生きる目的と問われると困るが、そちらは人間も似た様なものだし、問わないのがいい。

そこへ行くと日本はいい、第2次大戦でこりて、もう70年戦争を避けた。

それまで日清、日露と10年ごとに干戈を交えつづけて、とうとう行き着いた所から70年。

未だましな方なのだ。

昨日はなんだか疲れ果てて、眠ってばかりだったが、家内は寿司屋の寿司が濃過ぎて当たったのか、皆吐いてしまったらしい。

もっとも私も夜中に寝苦しくなって何度か便所にかよったなあ。

いいことばかりはないものだ。

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2013年11月13日 (水)

又音に凝るかも知れないな

11月12日(火)曇

昨夜は随分冷えた。寒くて夜中に身体の震えがしばらく止まらなかった。

気温も急冷えしたらしいが、それよりも老体の発熱力低下が原因だ。

風呂から出てすぐ寝たのが悪かった。

今晩は電気毛布を1枚加算することに朝一番に決心する。

あるものは使わないと損である。

11月13日(水)晴

昨夜は電気毛布を足して寝たので暖かかった。

随分楽だった。

先日エディオンに注文していたHARMANのスピーカーが届いたと連絡があったので取りに行く。

帰宅して早速パソコンのUSBに差し込んで鳴らしてみる。

昔のオーディオに劣る所は何も無い。

音量は今の時代ホールではあるまいし、自分一人の耳に入れば十分である。

素晴らしいとしかいいようがない。

大げさなコンポーネントはもう要らないな。

世界的な音響メーカーだから少しは違うだろうとはなから信用してカタログ注文したのだが間違いなかった。

暗くなるまでたっぷり聞かせてもらう。

冨田勲のシンセサイザーなんか特に良い。ふさわしい楽器といえるのかもしれない。

アルゲリッチのラベルのピアノコンチェルトも特に良かった.音の生々しさが身体を震わさせた。

当分又熱中しそうな雲行きに鳴って来た。

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2013年11月14日 (木)

小さな台車でも便利

昨夜降ってたと思っていたが,思い違いだった。雨の跡はまるでない。

と云って、晴天でもない。

秋深まれば落ち葉ばかりのもう冬である。

台風に明け暮れた夏秋だった.最後はフィリッピンで史上最大の台風30号が一万人の生け贄を連れ去ったとか。

地球最大の海、太平洋だから、齎すものは何でも大きい。

灯油が切れたので下のガレージから提げて入る。

腰を用心しながらだから、ふらふらしてやはり気になる。

台車でやれと、家内が古く腐れかけた台車を提げて来る。これでも何とか役に立つ。

もうこれも何十年つかったろうか、お払い箱にしてやらないとかわいそうだ。

買い物に出たたついでにダイキに寄って、小さな台車を¥4000.で買って帰る。

今は軽いものばかりだからこれで良い。

近く¥200.つけて捨てることになるわけ。永い間ごくろうだったなあ!

自動車に乗れなくなったら、こんな芸当も出来ない。

やはり死ぬまで車に乗らなくてはならないな。

ガソリンが高くなっても問題では無い、なんて言ったら怒られるだろうな。

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2013年11月15日 (金)

転んでも立ち上がれない

今朝は雨のせいか気温も12度と暖かい。

10時頃には晴れて来る。穏やかないい天気。

天気につられて、追加のすのこの塗装をする。この前は6枚だったが今日は2枚、それでも腰の痛みは変わらない。

どんどん進むもんだな。

暫くしゃがんでいると、もう立ち上がれない。

そばに柵があったから何とかなるのだが、全く情けない。

何も無い所で転びでもすると、立ち上がれないなこれでは。

ちょっと怖くなって来た。

杖1っぽんでも離したらもうだめだ。

どうやら誰かに引導を渡された心持ちである。

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2013年11月16日 (土)

戦後でも良き戦友たち

私の年表にも時にミスがある。

旅行の記念写真を根拠に年表に昔勤め先の会社の得意先感謝旅行の日付が入っていたのだが、どうも符合しないので日記帳で調べてみると、一月後の日付だった。私が引率者だったから載せていたのだが、記念写真がいくらも出て来るのに日付が違っていては話にならない。

こんなのは珍しいが、それにしても日記というものは参考になる。

1964年だからもうかれこれ50年前になる。琴平、栗林、屋島、鷲羽山など経巡ったのだが、社長代役で33名を連れ歩いた。今と違って難しい人が多かったなあ。挨拶のときなどヤジが入ったり、嫌な役目だった。

未だ瀬戸大橋の噂も無かった時代で連絡船が怖かったかな。

最近のことは知らないが、成長期のこととて、日記で見る限り毎日の取引先来客の多さには驚く。

接待時間も永く、深夜を越えて帰れなくなるなんて当たり前のようであった。

次の年名古屋、蒲郡接待なんてあって、別の業種の顧客接待をメーカー主催であったときは、社長が俺が行くというし、残念な思いをしたりした。

若くて元気だったあの頃だった。

メーカーを慫慂して.展示会をあちこちで開かせたりするなど、随分良く働いたと思うのだが、間もなく数年後に私は独立した。

しかし、自分だけではなかなかうまくは行かなかった。例のオイルショックは何より痛かった。

アベノミクスといえども、当時の痛みが思い出せる人たちは慎重にならざるを得ない程だ。

1997年遂に現役から降壇した。この世の引退も覚悟したのだったが。

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2013年11月18日 (月)

夫と妻の食い違い

午前中植物園に行く予定で家を出る、良い天気だったのに料金所近くまで来るとぽつりぽつりと降り始める。

日が射していたので傘は持て来てない。

一寸の間車を止めて迷う。後続の車が居なかったので、とっさにUターンする。

広い植物園の中を傘なしでは歩けない。

家内が買い物をしたいという。バイパス途中のボックスストアに行く事にする。

品物が多く安い。久しぶりである。

丁度正午家に帰って来る。

途中かなり降ってたが、家に帰るとほんちょっとお湿りの痕跡があるだけ。

奇妙なものだな。ものの3キロの範囲で様子がまるで違う。

結局今日は家でおとなしくということになる。

大分ご無沙汰したから「しまなみ海道」でも訪れてみるかなとぽつりと私が言う。

止めときなさい、とっさに家内の口から叱声。行くなら一人で行きなさい、私はいやですよ。

何か見る所がまだあるかなあ、ネットをしらべなければならない。

一人で出かけるとなると、やはりあじけないな。

二人旅でも家内には心労多く、楽しいものではなくなりつつあるらしい。

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2013年11月19日 (火)

つんぼに電話

最近買って来たハーマンのスピーカーのおかげで、パソコンをいじりながら、大半の時間をバックグラウンドミュージックつきで過ごすことになった。

何もしないときは、普通のコンポーネントに頼っていることに変わりはない。

一般の人がどうして過ごしているのか私にはわからないが、目の前の仕事と背後を流れる音楽とで、私の感覚の中には他に入り込むすきはない。

従って日常のこと、世界状況などは、家内から聞かされるだけである。

突然夢から覚めたように、今度の益田行きなど言い出すから、家内は去就に迷う。

出かける2日前に聞かされて、反対してたのだが、宿をすでに2人分取っているから駄目だと云われ、渋々付いて来た。

関心はゼロに限りなく近かったらしい。だから余計退屈し疲れたのだろう。

家内も私も耳は随分遠くなった。聞き耳を立てなければ聞こえない。

特に私の声は超低音だから、何を言ってるか普段は殆ど分らないらしい。只長年の感で察しを付けているようだ。

イエス、ノーさえ分ればそれでよい。

私に掛かる電話はもうひとつもない。受話器は二つもあるのに。

だから電話にも出ないし、いつの間にか切れたりする。

友人の中には、かねてから耳が聞こえないから掛けるなと、言ったのが3人も居たが、その後元気なのか生死も定かではない。

電話料は無駄使いに等しいが、老人の生活は何一つ有用なものは無さそうだ。

まあ、お国の為にはなっているのかもしれないが。

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2013年11月20日 (水)

前の東京オリンピックの時代

やや雲の多い青空が透いて見える天気、気温7度と変わらず。

起きる前から腰が抜けて仕方がない。

新聞を取りに出ても、危うく尻餅つきそうにまでダウンする。

少しひど過ぎるので、今日の行動は慎まざるを得ない。

やや暗然たる気持ち。

食事だけでも大変なのに、他の世話までは出来ない。看護施設に入れて貰わねばと家内がこぼす。

頭も手足もまともに動くのだから、施設にだけは入らないと私。ちょっとした口論。

九十何歳、嫌な年齢だなまったく。

頼みもしないのにこんなに永く生かしてくれて全く恨めしい。

   ______________________

昭和39年(1964)元旦の日記より(東京オリンピックの年)コピー

1月1日(水)小雨

ケネディの暗殺、三池炭鉱爆発、横須賀線二重衝突等々。宇宙開発の着々たる進展のかげ

に、ショッキングな数々の事件を織り込んで、1963年は過ぎて行った。

小雨こそけぶるが暖かい元旦である。

(途中省略)

日本もオリンピックを国威称揚の起動点にと、総力を結集して当たっている。新春のマス

コミは一斉に先ずそのファンファーレを奏した。

私も私なりの新しい人生の門出のファンファーレを高らかに奏したい。

室蘭の山崎君から祝賀電報が本年の第一報として「今年こそ最良の年にしたい」と届けら

れる。

   _____________________

東北大震災に始まって、台風30号フィリッピン襲来、東京オリンピックが7年先再度開催、宇宙衛星も画期的な低価格で飛び、ケネディのお孫さん駐日大使でやってくる、何十年経ってもさして変わらない世界情勢ではある。

尚この年(昭和39年)8月には、広島に転居した。

勤めている会社の本社も中心部の空き地を社長が購入したのに伴い、私の中学校同級生の建築会社に4階建てのビルを建築させて、転居し、戦後直ぐから社長個人で立ち上げた会社をこの時従業員30名足らずの会社に仕上げ、ようやく安定した時期だった。

同じ日記の1月6日に.12月集金売り上げ成績結果という表が載せてある。

   ___________

※12月集金成績結果

           売掛残高     回収額    回収率

本社 営業第一部   4797727     4026329   83.9

同  営業第二部   2784826     2920590  104.9

九州 出張所       5025784     3148503   62.6

松山 出張所       1042599             661810   63.5

                13650936           10757232   78.8

   ____________

景気も良かったが、時流に乗った泡沫会社ばかりの時代だったから、倒産も多く、売掛回収など最も重要な事業成功手段だった。

私が直接指揮した第二部は成績一位で表彰の的であった。

尚この翌年7月には、販売していたイタリー製の自動ドライクリーニング機を自分で使って、直接職人を使い、店員を雇い、市内の中心部に店舗を借りて商売を始めた。もちろん会社は退職した。

次々3店舗出した。

私がやった商売で唯一成功したものだった。現金先払いだから、売掛という心配はなかった。

ただ三カ年で元資金一切を回収し、自分の家を建てられることになったので、義理の家内の叔父に丸ごと権利を譲渡した。

家内が重労働で倒れたのが第一原因だった。非衛生的なきつい仕事であった。

それ以後も自分を信じて、刻苦勉励したが、幸運は訪れなかった。

しかし、今日があるのだから、求め過ぎてはなるまい。

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2013年11月22日 (金)

退屈な昨日、今日

11月21日(木)晴

朝、ほの湯に久しぶりにつかりに行く。

ほとんどが同じ様な老人ばかりである。

私みたいに用事がないので、朝からお湯につかるわけである。老人大国ここにキワマレリの感じである。

これでは日本国も永くはないなと痛感。

贅沢のしついでに、赤外線電気ストーブをエディオンに行って買う。石油の持ち運びが大変になって来たからである。

未だ手足は効くのだが、腰が痛くて目方のあるものは提げ歩くことが出来なくなって来たから仕方がない。

ガスストーブもあるのだが、これは火力が強くて危なかしくてしかたがない。

付け放しでよそに逃げているわけに行かない。

老人は不用意に転んだり、転がしたりする。

不自由さより、やはり安全第一。

11月22日(金)晴

昨夜寝る前に呑んだインドメタシンが効いたのか、不思議に腰抜け現象が起きない。

なんだか不思議な気がする。始めは原因がのみ込めず、朝起きて外に出て歩いてこれはおかしいぞと気づいた。

朝飯を食い、しばらくすると例の腰抜け現象が突然始まった。

家内のリウマチの薬だから,家内に言って貰って呑むことになる。

これでは長続きしないから又医者に行かなくてはならないだろう。

家内が一時的な薬だから、一度で治る様なものでは無いと云ってたが、やはり昼前には又痛くなったわけ。

言われる通り又呑む。

昼になってデパートに布団や毛布を買いに行くというのでお供をする。

3点ばかり買う。娘婿がひさしぶりに年末にくるというので、客布団は古いものばかりだから仕方がない。

女の気の着きそうなことだ。

食堂でうどんを食う。

買い物を探すかのようにあちこち移動し、最後に布団など大きなものは店員さんに運んでもらって、やっと帰路につく。

けっこう一仕事あるもんだな。

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2013年11月23日 (土)

やはり足の運動か、もみじ見物

今日も朝からいい天気、家内がどこかへ行きたいと云う。

手頃なのは岩國の紅葉谷か、空港前の三景園か、今の私には歩くのが無理だろうが宮島となる。

紅葉を見る山はたくさんあるが、先週訪れた匹見峡でひとまず沢山だ。歩き回ることはもう出来ない。

お昼近くなって出かける。

岩國紅葉谷公園のにする。

時間が遅かったか駐車場がなかなか見つからない。河原は未だ空いてたが、橋を金を払って渡らねばならない。

体調がまだよくないので、5橋を渡るなど、無理だ。

史料館のが空いてたから、利用して約1キロを歩く。

規模は小さいが相変わらず美しい。

観光客も酸いほど多い。

ぞろぞろと大変である。

由緒あるお寺の中庭まで覗き込む。

今回は吉川家の大きな墓地まで覗かせてもらう。

食事はどこもいっぱいでとうとう市中まで帰って、スーパーで弁当を買って食うことになってしまう。

兄弟の家にはどこもお邪魔しないでそのまますーっと帰宅する。

随分歩いたから足の鍛錬にはなったであろう。

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2013年11月26日 (火)

戦友又一人死す

ちょっと冷たいけどさわやかな紺碧の秋の空だ。

腰の痛みか、尻の痛みか自分でも定かではないのだが、昨夜の湿布材が効いたか、今朝はうんと楽である。

寝る前随分滲みて痛んだが、今朝はもう忘れたようだ。

二三日日記でも数行程度しか書くことがなかったから、ブログも休まざるを得なかった。

金沢の加藤鏡児君が死んだ。同年兵だから93歳である。部隊の主計首座だった。

戦後私が最初に訪ねて泊めて貰ったのは、彼の家だった。

といっても、大阪商船の芦屋の寮で、辛うじて戦災を免れていた住宅街の一角にあった。戦争直後の昭和21年9月のことだから、仕事らしいものは何もなくボツねんとしていたと思う。

あれからどういう有為転変を重ねたか、生涯二度と会うことはなかったから、聞いたことはない。文通も年賀状以外は3、4度くらいのものだろう。寡黙冷静な男で、自分のことなど語ることはなかった。

後年金沢に居ることも、パソコン検索のおかげで探し出すことができた。鏡児という奇妙な名前がよかった。

住所は兵籍にあった彼の本籍から見つけ出した。

電話で話したことも2、3度を超えないだろう。

私が書いた「私の軍隊生活」という自伝を、彼の口から数名の戦友に手渡したことがあったが、今記録として残っているかどうか。

所詮当人が居なくなれば、消えて無くなる存在だから。

交信の繋がる、戦友はもう一人もいなくなった。

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2013年11月27日 (水)

独立自動車第31大隊本部の仲間の思い出

昨日書いた加藤鏡児君の死は、繰り返し思い出して淋しさが募る。

遠方であったせいもあって、疎遠のまま数十年も過ぎた。

遠くて近い存在に山崎初三郎君がいた。元日になるとしばしば電話で元気な声を札幌の地から発信してくれた。

数少なかった加藤君の電話会談のなかで、そのことを聞かしてやってもさして感慨深げには応じなかった。

部隊本部にいた副官の久田君(初年兵同期)、兵器委員の山崎、そして主計の加藤という役回り(三役)だったから、私も兵器委員首座という役割を担っていたし、おりふし論戦の仲間入りをせざるを得なかった。

よく考えてものを言い、適切に協力を惜しまずやってくれた。特に私とはうまが合うと云う感じだった。

久田君は随分前に亡くなったが、山崎は一昨年までは元気だった。今回の加藤君の死は疎遠の期間は永かったが、軍籍を離れても頼りにしていた仲間の一人だった。

なにか忘れ難い。戦場と云う特殊環境の中で過ごした数年だったからには違いないのだが。

山崎君はお孫さんに引き継がれた縁でいまだに文通がつづいている。

加藤君の場合はどうだろうか。

彼が紹介した第4中隊の糧秣係の河田氏は何度か懇切な手紙をくれたし、特産のみかんを一箱送ってくれたりしたが、先年亡くなったと遺族からお便りを戴いた.香川県地域の名士らしく、勲章などのコピーを見せられたりした。横浜の三好氏も何度か鄭重な礼状を戴いたり、軍隊時代の私のことなど、私の知らぬ角度からの、回想話を綴ってくれたりした。これも先年この世に永別された。

私だけのこの思い出も、間もなく終わる。

今生はしょせん空しいものなのか。

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2013年11月28日 (木)

敗残の兵、兵後を語る

加藤鏡児君の奥さんにお悔やみ状を書いて送る。

この11月の5日に亡くなったというのだから遅くはないだろう。

消え行く宿命とはいえ、残された側の虚無の情はやはりやりきれない。

久田君が副官になる前、満期除隊した前副官小林六郎さんとは、同じ官舎で同居した。

まだ満洲斐徳に駐留していた頃だった。

当時は本部の三役は小林副官、と兵器委員の私と主計が誰だったか今思い出せないがその三人だった。

満期除隊で副官と主計それに兵器委員首座がともに除隊したので、後任が前日書いた三人だった。

軍から見れば、次期作戦要員としての叙、解任だったらしい。

1ヶ月もしたかしないかで、部隊の中支作戦に向けての移動が発令された。

昭和19年5月から始まった湘桂作戦中は、共に会して議論をする暇も場所もなかったが、戦争終結後の捕虜期間中は山崎君と一番よく話した。

一転、惨憺たる祖国に帰って来て、もうお互いを気遣う余裕はなきに等しかった。

久田副官とは初年兵も同期だが、あまり親しくはなかった。

戦後も一度訪ねたことがあったが、その時は既に亡くなっていた。短命だったようだ。

むしろ前任の小林さんには在京時、米の遅配に窮して、千葉の農家だった彼に救いを求めて伺ったことがあり、大歓迎を受けた思い出がある。

この時帰りに乗換駅秋葉原だったか、荷物の検査があり、米は没収されたがイモや落花生は残してくれたという後日談まである。

昭和21年の暮れ、最高に苦しいときだった。

よく正月、命あってのものだねと、すごすごと東京を後に、郷里の崩壊した我が家にもどって来た。

小林さんには後日亡くなられた時、奥さんからお知らせを戴き、電話でいろいろお話したことがあった。

縁があれば、このように、お互いを認め合う時期が来るものであった。

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2013年11月29日 (金)

認知症かな?

大分おかしくなったな。日記付けたと思っていたが、探してもない。

抜けてたらしい。

いや、今日はまだ29日だから、そして今午前9時過ぎだ。

今からならいくらでも書ける。

書き落としたわけではないようだ。日にちを取り違えたらしい。

不思議な気持ちだ。認知症に入りかけたのかも知れない。

音楽を聞き過ぎたかな。深夜放送からずっとだから。  

ふすまは明日やり直しに来ると云う。

今日は家内は午前11時リウマチ医者に行く予定になっている。

10時過ぎ車で家内を広島に連れて行く。

今日は薬局の前の自動管理の駐車場が空いていたので、其処において行く。

患者が凄く多い。

時間がかかるかなと思っていると案外に早く済む.読売新聞を読み切らないうちに待ち合いを出る。

薬局もすぐ終わり、正午をいくらも過ぎないで家に帰り着く。

運転もおかしくはなかった。

夢を見ているわけではあるまいな。

腹が少し渋る。

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2013年11月30日 (土)

単に健忘症というべきか

昨夜寝苦しかったせいか、腰が朝から痛む。

寝返りが打ち難いのを無理してやるとこうなるらしい。無意識だからどうしようもない。

歯ぎしりも同じことだ.只最近は寝る前気づいたときは、入れ歯を外す。これなら無事だ。

私が認知症と思っているのは、ちょっと違って健忘症というのだろう。

極端に言えば数分前に思いついたことが、もう憶えないと云った状況だ。

私の場合、本を読んでも、パソコンを打っていても、疲れるとすぐ眠くてたまらなくなり、側のベッドにもぐり込むか、ソファに倒れ込む。

時刻は関係ない。

この時が曲者らしい。

急にベルが鳴って起こされると、瞬間正常な我でなくなる。

とんちんかんなのは仕方がないかもしれない。

今日は天気が良くて日射しが強い。四畳半の部屋一杯の明かりは避け様がない。

勢い間もなく疲れて眠くなるであろう。

今ミルバの何と言う曲か流れている。低音が快い。

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