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2013年10月 6日 (日)

未だある幼き時代の思い出

小学校1年生のときは、身体が弱くて第二学期を休校した。頭が痛いとわめき叫んだらしい。母が困って、あちこちのお宮やお寺に連れて参った。

今もその所在が分らない草津の地蔵さんに、連れて参られた記憶が鮮明にのこっているのがその時のことである。

岩國から汽車、電車を乗り継いで、今の広島市西区の草津のお地蔵さんに参り、山道を沢山の参詣者に混じって往復した。

(永い間どこにあったか、探し求めているのだが、原爆のせいか誰も知らないし、記憶と現状が違い過ぎて、今は記憶の信憑を疑い始めている)

何の効用があったか知らないが、第3学期には復学しているから回復したのであろう。

近所のガキどもと山野を駆け巡り、5.6年頃にはガキ大将になって、村祭りや部落行事をリードしたから、元気になっていたのだろう。

運動神経はあまり無かったと思う。走るのは遅い方だった。只跳躍力はあったのか、6年の時、朝鮮から来た、2、3歳年上の子についで、走高飛びで学年2位だった。

小学校に入ると、学校の他に部落の子供たちの仕事が待っていた。部落部落の数あるお宮の掃除管理、お宮などの行事の下役お手伝いである。

5、6年生になると当然順送りにその世話役となる。夏休みになると先ず寄付集めが始まる。

12灯(お宮の参道に点す行灯、普通20個以上)の保守管理のためかなり金がかかる。1軒1軒何人かで組になって廻って寄付をお願いし集めるわけである。夏休みの間中12灯の壊廃、絵描きに追われる。

お祭りが近くなるとおこもり小屋というのを作って寝泊まりし、お宮の参拝道路の警備をする。時に他部落との小競り合いが起こる。

少年たちがしごかれて逞しくなって行く過程である。

野球は好きだったが、概ね外野の補欠で卒業まで正選手にはなれなかった。肩も悪かったし、打撃力も無かった。

学業成績はどうしてか優秀で卒業時優等賞の他に特別賞として高橋奨学賞という大漢和辞書を戴き、未だに愛用している。

声もよく、よく音楽会や学芸会にひっぱりだされた。

当時は人口が増加していた時代だから、6年生のときは160数名も居て、私のクラスは卒業写真では52名いる。

よく教えることができたなあと感心する。ただ鉄拳制裁は当たり前で、先生は竹の根でつくったむちで、ぴしぴし生徒を叩いていた。

悪童の頭はこぶだらけであった。

ついでに言うと、中学校5年間と、兵役初年兵の1年間は鉄拳制裁がまかりとおった。珍しくも何でもなかった。

明治維新から半世紀そこそこ、荒々しい遺風はまだまだはっきり残っていた。

こうして思い出してみると、子供の頃も尽きない経験をしている。とても書き尽くせない、よく忘れたなどというのは嘘である。

簡単には語れない親たちの秘話などもちゃんとおぼえているものである。

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コメント

昭和初期の子供時代は、それなりに充実した日々を送られていたのですね。私の子供時代は…父親が再婚(昭和41)してからろくでもない毎日だったなぁ。父親は予科練(防空壕を掘っていたから別名ドカ練と呼ばれていた所もあった?)で受けた鉄拳や尻叩き(木刀で)を躾と称して、やられたこともしばしば …
すみません、くだらないことを書いてしまいました。

投稿: しろまる姫 | 2013年10月 6日 (日) 16時00分

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