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2013年10月 8日 (火)

岩國の明治維新戦争の由来

慶長5年の関ヶ原の役で、事実上の毛利軍総大将だった吉川広家は、敢えて不名誉な徳川内応の策を採用し、軍を動かさず、徳川の勝利を導き出した。

吉川広家は関ヶ原の論功行賞で、とりつぶし裁定の毛利を救うため、岩國3万石に逼塞して、明治維新まで260年間雪辱の日を待った。

内外からの批判は朝鮮の役に勇将とうたわれた吉川広家には堪え難きものだったろう。

広家が騎馬修練の途次、江戸隠密から3代将軍家光の英邁さを聞かされ、嘆息して思わず騎乗したまま、鞭を落としたとされる、鞭捨小路は母校旧岩國中学校(元養老館)の正門前を今も走っている。

爾来吉川氏は富国強兵の道を励んだ。

麻里布、川下、尾津地区の干拓は早早に手が付けられた。

錦川が堆積した土砂は干潮時にはすでに今のこれらの部落は海浜と化していたことだろう。

遥か数キロに渡る沖合まで、いかに悠揚たる眺めであったことだろうか。

麻里布の浦は万葉の昔から、船舶の停泊の好適地として数々の名歌を残している。

遠く東国から呼び寄せられた防人たちの外敵防御遠征への途次、偶々目にしたこの美しい景色を妻子へ見せたい思いが、込められていることは間違いない。

今万葉の景観はもうどこにも残されていない。

しかし幕末には石高を6万石と倍増せしめていた。

小藩といえども倒幕の精神はゆるぎもしなかった。

明治維新の原動力として十分長州藩とともに役割を果たした。

幼時、おとぎ話のように近在の老爺から大竹戦争の話を聞かされたものである。

武士だけでなく国の総力を挙げて戦う意気込みをわけのわからぬまま聞かされた。

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コメント

自分が現在居住しているこの地について考えてみた。地球が出来てから現在に至るまでこの場所で、どのような事(生活の歴史)があったのかドキュメンタリー映画として観てみたいけれど不可能なこと。各々が生存した期間しかわからない。

投稿: しろまる姫 | 2013年10月 9日 (水) 08時03分

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