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2013年10月 1日 (火)

待ち遠しき余命

なにやかやと大変なことが多かった今年も後3ヶ月になってしまった。

最近では同級生のうち、一番近くの防府に住んでいた石本一之君も亡くなった。

この地方では、山陰の土田好治君、岡山の山田繁君、美禰の田辺朝直君?など後2、3名になってしまった。

心細いという言葉がぴったりである。

田の字がつくのがいいのかなあ。

80歳代終了までは、中学校、専門学校とも毎年同窓会が続いたから、出席を欠かしたことの無い私は、多くの親しい友を持った。山口高商33期会は解散総会まで幹事として締めくくった。

若い時代は経済界も戦場だった。しかしこれらの同窓生たちは皆よく私の仕事を助けてくれた。

人を紹介するにも、自ら足を運んで一緒に相手を訪ねてくれた。

事業をしくじり、人に騙され、家産をすっかり失っても、彼等は好意を注ぎ続けてくれた。

今日あるは、終生私に言葉をかけつつ死んで行った横山博君など、みなこの仲間たちの好意のおかげである。

正に私にとっては、友あるかな、なのである。

一番生存者の多かった関東地方ももう昨年逢いに行った神村義夫君ほか数名だろう。

一律に90歳を過ぎては消息を掴むことは難しくなった。

一番手っ取り早い電話でも、ほとんどがツンボで会話にならない。

今年元旦早々風邪を引き、医者にかかり、耳が聞こえなくなり、これで我が人生も終わりかと覚悟をきめたのだったが、何とか四分の三年が過ぎた。未だ分らない余命とはいえ、もうすぐそこだろう。

待ち遠しいものだ。

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2013年10月 2日 (水)

11年の待ち時間は結構長い!

待ち遠しいは誇張が過ぎたかな。勿論恋いこがれて、待ってるわけではない。

あくまでも自然体で居るのだが。

私に限らず誰でも死を免れることを考えるものは居ないだろう。

早いか遅いか、いつか間違いなく死ぬるものだ。

一番最初は若き日戦場で敵飛行機に乱射を受け、偶々このとき弾は僅かに外れたが、頭の先10センチくらいの場所の13ミリ弾の大きな穴を見て、このままいつかは当たって死ぬのだろうと、漠然と予想し、出来ることは何でもしてやろうと思った。

割とうまくいった。

桂林でガソリンが無いと云うからアルコール燃料を乏しい知識で作った。

実際に部下を使って、気化器を作り、車輪を改造し、アルコールで動く鉄道トロッコを牽引する車両を作って桂林の停車場から走らせた。

輸送司令官が視察に来て、誉められた。終戦直前だった。

戦争が終わり1年後なんとか生きて帰った。郷里の家屋敷など爆撃で壊滅し惨憺たるものだった。

まず何もかもなくなっていたので、食うことから苦労した。南京で血を吐いて担架で運ばれたことなど親には黙って働いた。

病院で死ぬのは嫌だなと思った。

寿命は天任せと心得た。

しかしやることなすこと、うまく行くことはほとんどなかった。

只、親兄弟、友人には恵まれた。助けてくれる人はやたらと多かった。

死から救ってくれた人たちだった。

今は長く生き過ぎた報いが怖い。身辺にいる数多くの認知症患者になりたくない。

7年も寝たきりで死んだ実母や4年間腰骨を折って動けなかった舅、或は脳溢血で10年間も各病院を転々とせざるを得なかった姑、などなど、人の苦痛もそれ以上に自分にも苦通だった。

何よりも寝たきりになる身体障害者はごめんだ。

現状が一番良い、このまま眠るがごとく死にたい。

現実に穏やかに死を全うした知人も近くに存在した。

この月の23日には赤十字病院にて、自ら希望して認知症診断の器械に掛かることになっている。

重大な決断をしなければならないかもしれない。

勝手な言分かもしれませんが、生きていて何も出来ない今、走ることさえ出来ない。いかにして自分の思う通りの死を迎えるか、待ち遠しいとはそういうことです。

つい先日かかりつけの医師で心臓の数値が極端に悪いといわれました。

チャンス到来かもしれません。具体例として今一番の朗報です。

死んだら簡単に兄弟たちと別れをして、すぐ広島大学白菊会が引き取りにきて、若い人の教材になる筈です。

墓はもう11年前に作って死を待っているのですが、もう少し空いたままになりましょう。

待ち遠しいとしか言いようが無いですが違いますか?

(私と家内二人の墓です、墓銘はあの世でも楽しくやろうよという意味です)

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2013年10月 3日 (木)

人間退化の順序

子や孫たちと離れて暮らしているせいか、テレビで語られている日本語がよくわからなくなった。

家内も似た様なもので、韓国ドラマの方が分り良いと云う。もちろん韓国語がわかるのでなくて、翻訳された日本語でのおしゃべり、或は字幕を見て理解するわけである。

最近は日本の映画やドラマでも字幕が出るのがあるようだが、年寄りが多くなって、私の様なのが多くなったせいなのだろうか。

放送局が気を利かしているとすれば、よく調べているなあと思う。

只私のように聞く耳を持たぬ、人生を卒業した人種も多くなったのではと思う。

折角の好意を無駄にして申し訳ない限りだ。

尤も私の場合は、耳の機能がかなり低下しているから、常人並みに考えてはいけないと自覚している。

しかし補聴器などを付ける気はまるでない。

少々の不如意は自分も人もあきらめる。老人はそれで通るらしい。

同窓会で、80歳になり始めくらいで耳が遠くなり、苦労して会話してたのがいたが、90を過ぎてみるとツンボでないものが少なくなった。

従って同窓会も成立しないことになった。立ち居の振る舞いは一律に老人のものになったが、耳が一番先に老人の社会行動を困難にするとは思いがけなかった。

耳が悪くなると自然に呂律が回り難くなる。やっぱり会話が難しい。こういう順序らしい。

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2013年10月 4日 (金)

写真を見ている様な大昔の思い出

なんでこんなことを思い出すのか、自分の気持ちがわからないが、小学校に入ったばかりだった。

日の丸の旗を手に手に、先生に引率せられて、人絹町と云う新しい町の角々を練り歩いていた。

どうしてだったか今憶えては居ない。大正天皇がなくなられて1週間経っていた。

丁度真北の方向にもうもうと黒煙が吹き上げた。

すわ火事だ!引率している先生が騒ぐから、子供たちは驚いていっせいにわめく。

浦が浜と云う部落が全焼した。昭和2年の元日だった。百軒を超える大火事だった。

もちろん其処の部落の子もいたから大変である。

いっせいにまちまちの方向に走った。

その夕刻には大きな声を出して泣きながら道を行く、同い年くらいの子の姿に同情の涙が頬を伝った。

明くる日誰かに連れられて見に行った。部落を深く巻いている入り江に繋がれている沢山の舟のうち、未だいくつも煙を上げていた。部落は完全に黒焦げになっていた。

何人も友達がいたがどうしたろう。

昭和の幕開けがこれだった。当時6歳だった。

その2、3年前我が家が新築されていた。入学前の思い出は新しい家の前で、焚火しながら談笑する親父と大工の棟梁の姿だけである。

麻里布小学校入学後は断片的ではあっても、思い出は沢山ある。

最初の1ページがこの旗行列と大火事であるのが、90年近く経った今も写真のように脳裏に残っているのが不思議でならない。

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2013年10月 5日 (土)

幼時の瞼に残る記憶

昭和3年になって、大正天皇の喪があけると、即位の礼があって、全国津々浦々でご大典祝賀行事が始まった。

浦が浜との境から約2キロ、西に向かってさいの峠まで室木部落と云った。

200戸もあったろうか、有志連中がはでな衣装を着て、三味線太鼓などお囃子を連れて、暗くなると、家々を流し歩いた。

江戸歌舞伎まがいのお芝居も混ざった。

ぞろぞろとけつに連なって、眠たくてどうにもならなくなるまで着いて歩いた。

七、八つの子供には何もわけ分らずに只おかしく面白かった。

何日続いたのだろうか。

翌年だったかドイツからツエッペリン飛行船が日本に飛んで来た。空への関心が俄然高まった。

ある日藤生の海岸に水上飛行機が着陸した.弁当を作ってみんなで見に行った。

間近く見る飛行機、驚き喜んだ。

一方不景気で失業者がむちゃくちゃに増えた。近所にも仕事が無くて喧嘩が絶えない家もあったりした。

米騒動まで起きる始末で、世の中は不安におののいた。

此の年昭和4年父がメキシコから引き揚げて家に帰って来た。

我が家は安定したが、世の中は暗殺が流行ったりして、浜口総理など政財界の要人が次々と殺され、隣村の村長まで殺されるという事態が発生した。

ただならぬ時代に入った。

そうして5.15事件、2.26事件と相次ぎ、昭和6年の満洲事変の勃発と続いた。

皆日本の国内の不平の高まりが招いたものだった。

しかしこの騒ぎをどこ吹く風と子供の私はよく遊び歩いた。

少年野球が花盛りとなった、対校試合が日曜日ごとに行われたりした。

呉の五番町小学校、柳井小学校など遠征して来た。強かった。

歯の立つ相手では無かった、後年甲子園を湧かす連中が混ざっていたのだから。

間もなく遠征は禁止になったが。

フィルムも写真もありはしないが、瞼の記憶がありありと当時を写し残している。

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2013年10月 6日 (日)

未だある幼き時代の思い出

小学校1年生のときは、身体が弱くて第二学期を休校した。頭が痛いとわめき叫んだらしい。母が困って、あちこちのお宮やお寺に連れて参った。

今もその所在が分らない草津の地蔵さんに、連れて参られた記憶が鮮明にのこっているのがその時のことである。

岩國から汽車、電車を乗り継いで、今の広島市西区の草津のお地蔵さんに参り、山道を沢山の参詣者に混じって往復した。

(永い間どこにあったか、探し求めているのだが、原爆のせいか誰も知らないし、記憶と現状が違い過ぎて、今は記憶の信憑を疑い始めている)

何の効用があったか知らないが、第3学期には復学しているから回復したのであろう。

近所のガキどもと山野を駆け巡り、5.6年頃にはガキ大将になって、村祭りや部落行事をリードしたから、元気になっていたのだろう。

運動神経はあまり無かったと思う。走るのは遅い方だった。只跳躍力はあったのか、6年の時、朝鮮から来た、2、3歳年上の子についで、走高飛びで学年2位だった。

小学校に入ると、学校の他に部落の子供たちの仕事が待っていた。部落部落の数あるお宮の掃除管理、お宮などの行事の下役お手伝いである。

5、6年生になると当然順送りにその世話役となる。夏休みになると先ず寄付集めが始まる。

12灯(お宮の参道に点す行灯、普通20個以上)の保守管理のためかなり金がかかる。1軒1軒何人かで組になって廻って寄付をお願いし集めるわけである。夏休みの間中12灯の壊廃、絵描きに追われる。

お祭りが近くなるとおこもり小屋というのを作って寝泊まりし、お宮の参拝道路の警備をする。時に他部落との小競り合いが起こる。

少年たちがしごかれて逞しくなって行く過程である。

野球は好きだったが、概ね外野の補欠で卒業まで正選手にはなれなかった。肩も悪かったし、打撃力も無かった。

学業成績はどうしてか優秀で卒業時優等賞の他に特別賞として高橋奨学賞という大漢和辞書を戴き、未だに愛用している。

声もよく、よく音楽会や学芸会にひっぱりだされた。

当時は人口が増加していた時代だから、6年生のときは160数名も居て、私のクラスは卒業写真では52名いる。

よく教えることができたなあと感心する。ただ鉄拳制裁は当たり前で、先生は竹の根でつくったむちで、ぴしぴし生徒を叩いていた。

悪童の頭はこぶだらけであった。

ついでに言うと、中学校5年間と、兵役初年兵の1年間は鉄拳制裁がまかりとおった。珍しくも何でもなかった。

明治維新から半世紀そこそこ、荒々しい遺風はまだまだはっきり残っていた。

こうして思い出してみると、子供の頃も尽きない経験をしている。とても書き尽くせない、よく忘れたなどというのは嘘である。

簡単には語れない親たちの秘話などもちゃんとおぼえているものである。

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2013年10月 7日 (月)

幼年期の遊び

小学校上学年になって、山野を駆け巡ったことは間違いないのだが、単に運動の為にそうしたのではない。

当時少年たちの間に女郎蜘蛛をたたかわす、遊びが流行していて、夏になると庭先に飼って、盛んに喧嘩をさせて楽しんだものである。

その蜘蛛を探しに山野を駆け巡った。

歩くと10キロも先の岩国山に達したことも何度かある。

(岩国山は万葉集に出て来る”周防なる 岩国山を こえむ日は たむけよくせよ あらきその道”と歌われるくらいの山道だった)

もう夢中だった。

勝った方が相手をえば(糸)でぐるぐる巻きにし、身動き出来ぬ相手の血液を吸い取って殺してしまう少し残酷なものである。

一本の木の枝の上に両方をを載せ、指で尻を押してけしかけるのである。

素早く、しかも八本の手をいっぱいにひろげ、えばを尻から飛ばして相手をからめる、昔の宮本武蔵と鎖がまの名人との戦いに似た豪快なものである。

いつの間にか廃れてしまった。後年暇ができて、暫く飼ったことがあるが、少年のときの興味が無くそのうちいなくなったのでやめてしまった。

ウイキペディアで調べてみると、どうやら私が少年のころ飼ってたのはコガネグモというらしい。

大人もコガネグモを女郎蜘蛛と呼んでたから、こちらの方言ということだろう。

女郎蜘蛛とは手足の模様は似ているが、全体の色合いが違っている。コガネグモは横縞の白黒がはっきりし、身体は成長すると少し黄色がかった。

いかにも精悍な姿をしているから、喧嘩蜘蛛にふさわしいのは断然コガネグモの方である。

下級学年なら例の”パッチイ”だった。これも随分子供を夢中にさせた。しかしこちらは町場の子等の遊びであった。

悪いけど女の子の遊びは知らない。妹は居たが、男女の区別も厳しく、まだ興味のない頃であった。

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2013年10月 8日 (火)

岩國の明治維新戦争の由来

慶長5年の関ヶ原の役で、事実上の毛利軍総大将だった吉川広家は、敢えて不名誉な徳川内応の策を採用し、軍を動かさず、徳川の勝利を導き出した。

吉川広家は関ヶ原の論功行賞で、とりつぶし裁定の毛利を救うため、岩國3万石に逼塞して、明治維新まで260年間雪辱の日を待った。

内外からの批判は朝鮮の役に勇将とうたわれた吉川広家には堪え難きものだったろう。

広家が騎馬修練の途次、江戸隠密から3代将軍家光の英邁さを聞かされ、嘆息して思わず騎乗したまま、鞭を落としたとされる、鞭捨小路は母校旧岩國中学校(元養老館)の正門前を今も走っている。

爾来吉川氏は富国強兵の道を励んだ。

麻里布、川下、尾津地区の干拓は早早に手が付けられた。

錦川が堆積した土砂は干潮時にはすでに今のこれらの部落は海浜と化していたことだろう。

遥か数キロに渡る沖合まで、いかに悠揚たる眺めであったことだろうか。

麻里布の浦は万葉の昔から、船舶の停泊の好適地として数々の名歌を残している。

遠く東国から呼び寄せられた防人たちの外敵防御遠征への途次、偶々目にしたこの美しい景色を妻子へ見せたい思いが、込められていることは間違いない。

今万葉の景観はもうどこにも残されていない。

しかし幕末には石高を6万石と倍増せしめていた。

小藩といえども倒幕の精神はゆるぎもしなかった。

明治維新の原動力として十分長州藩とともに役割を果たした。

幼時、おとぎ話のように近在の老爺から大竹戦争の話を聞かされたものである。

武士だけでなく国の総力を挙げて戦う意気込みをわけのわからぬまま聞かされた。

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2013年10月 9日 (水)

紛争になる原因

最近韓国との間がぎくしゃくして面白くない。

隣のうちとのトラブルは昔も今もまことに始末が悪い。

4、50年も前には、経済的に援助したりして友好国の筈だったが、今は歴史の認識が違うということが主なトラブルの原因らしい。

最近のことはそれぞれ実績を元にして話し合ってるのだから、その実績の見方の問題だろう。

世の中には為を思ってする好意的なことも反対に誤解されることも少なくない。

伊藤博文なんかもその部類とおもわれる。かれが朝鮮総督になってそれほど悪政を敷いたともおもわれない。むしろ逆だったのでは、支配される側からみればいつも相手は敵だから仕方がないが。

当時盛んに東洋に手をのばしていたロシアに丸め込まれたかも知れない政治情勢にあった。

日本かロシアか二者択一の渦中にあった。

ただ古い歴史まで遡ると、豊臣秀吉の朝鮮出兵は日本側の研究者にも明らかに狂人の沙汰というものが少なからず居る。

お隣の毛沢東にしても老年痴呆症的文化大革命の提唱で国を大混乱に陥れてしまい、国民に今でも世論の乱れを生んでいる。

第一人者の狂気は影響が大きい。狂気だから必ず誰かが気づいて止めるものだが、第一人者となると命をかけなければ諫言も出来ない。

徳川家康はえらかった、無謀と知ってたから始めから口を出さなかった。そして秀吉死後収拾するや、敵国を見事に友好国に変えてしまった。

策謀多き人として人気はないが、三百年も続く平和国家を作り上げるということは、並みの策謀や予見とはいえない。

老いるということは経験を積むということでもあるが、耄碌するということでもある。

また時々経験にそくしていいことを言う場合もあるが、狂った思い込みに落ち入る場合もある。

気をつけなければならない。

現状は第一人者の狂気なんて言うのではないが、思い込み違いが多分に伺える。

戦犯者も祭った靖国神社に総理が参拝しては行けないなどと口出しすることは明らかに結末の付かない争点である。戦争の責任を取らされて殺された彼等戦犯は、1億国民の代表責任を取らされて死を甘んじて受けた。共に国に殉じようとした国民が悔悟の意思表示をして何故悪い、なぜおかしいか。

彼等にしてみれば一時的にその衝にあてがわれただけで、他に逃げ場は無かった。

戦争を起こした罪だというなら、連合国側にも五分の罪がある。

戦いに至る永い永い歴史的経緯がある。

欧米のインド、支那を含む明らかな侵略まで遡らねばならない。

平和な国だった日本を驚かせたのはまぎれも無いアメリカの武力的強要だった。

そもそも戦犯なる議論がおかしい。

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2013年10月10日 (木)

運命の岐路

朝大型ゴミとして数十年前に使っていた、古い大型のファンヒーターを、家内と二人でえっちらと捨てに行く。

長年倉庫の隅で眠っていた。重くて老人には移動が出来なかった。

古くても機能が落ちてるわけではないのだが、大き過ぎて、しかたがなかった。

パソコンやワープロの古い型が、機能は完全だが何台もあちこちに眠っている。

いずれは処理しなくてはならない。今回一応捨てる対象にしたのだが、古い記録など見る為に惜しくなって見送った。

生きている自分があるかぎり、むつかしいものだな。

何時死んでもおかしくない人生を不思議に生き抜いて93年、どこかにこの運命の岐路がなかったか、ときどきふっと考えることがある。

戦後平和な時代を迎えてからは、生死の岐路なんてまるで見当たらない。

軍隊で憶えた自動車運転技術を駆使して、遠く九州を商用で経巡った1970年代、もう50歳を越えていた。

年齢の不安と道路事情(高速道路は無かった)の困難さが気になり、料金掛け捨ての生命保険3千万円に加入したりした。

料金の高さと、商売の安定化があって、2年で止めたけど、平和時の生命の不安などこれぐらいのものだろう。

私も可愛い妻や子がいるのだから、死に急ぎする様な馬鹿な真似はしない。ただなんとなく不安がつきまとっとていた。

あれからでも何十年、今度は正真正銘の寿命だ.天が与えてくれるのだから天しか知らない。

その天が居るのか居ないのか、これもわからない。これでは困るのだが仕方がない。

一昨年旧友河北省一君の手記をこのブログに連載した。

彼が自ら自分の運命を切り拓いた手記に感動しながら。

彼は明日シベリアに連れて行かれるという晩、友人と二人で軍隊の脱出を決意した。

部隊が無条件に戦いもせずに、降伏していたのが気に食わなかった。

もちろん上官も同僚も沢山見守る中での脱出行である。見つかれば死は間違いない。

満州国新京南部の無人の広野を夢中で走った。

大まかな警備しかしてないソ連軍だから助かった。

そして幸いにも逃げ込んだ部落が邦人たちが収容されていた区域であった。

さしあたり食う心配は無かった。

しかしそこらの邦人も明日への手段も目的も持ち合わせ様が無かった。

彼は友人と別れて、朝鮮経由で逃げる最短コースを選んだ。これが簡単では無かった。

朝鮮人は既に敵と化していた。ソ連人や支那人より怖いかも知れない。

鴨緑江畔での苦難の1年の逃避行がつづいた。

やっと沿岸伝いに小舟で海路を南鮮まで下った。

思い起こすのも苦痛だった。

彼は帰国後刻苦勉励して第1回公認会計士試験に合格し、先年亡くなるまで真摯な穏やかな一生を遂げた。

私も会社を創立する時相談に乗ってくれたりした。わざわざ遠路熊本から厭いもしないで。

彼は私への友情から、暇に任せて書いたその手記を私にくれたのだった。

お互いに運命の岐路を乗り越えたという共感が、友情を深めた。

かれも山口高商の同期生であった。

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2013年10月11日 (金)

私のためいき

家内がここのところ腹具合がよくないという。痛みは無いのだが下痢気味と云ってしばしばトイレに向かう。

かかりつけのせいこう胃腸科で検査してもらえというのだが、返事が重くてこたえない。

症状が軽いからその気にならないのだろうが、側で見ているものには心配だ。

永い間苦労を掛けたから、仇を取られている気がしないでもない。

全く同じものを同じ量食べていて、私は何でも無いのだから不思議だ。

ただコレステロールが高いと云って、薬をやたらと飲む。差があるとすれば、薬の違いと呑む量かもしれない。

その他は炊事、洗濯、買い物、掃除、庭の手入れ、草取りとめまぐるしく、せっせと身体を動かしているから、私よりうんと元気なんだが。

近くに居る長女は停年までは働くと云うから後4、5年は当てに出来ない。小さい孫が5人も居るのだから、とてもじい、ばあ、までは手が回らないだろうし。

もっとも子供は5年もたてば勝手に遊び始めるから楽な筈だが。

まあ、何とかなるだろう。今まで通り天に任せる以外に無いな。

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2013年10月12日 (土)

部落のお祭りと私の偶想

お祭りのしめ縄は班長さんが1週間も前に張っている。今朝老夫婦でてんがいをつけてまわる。

天気がよくなってよかった。早過ぎて濡らしてしまったおうちもあったようだ。

町内によっては全然なわをはらないし、お祭りにそっぽを向いた地域もある。宗教的行事と捕らえれば、知らぬ顔をするのもよいだろう。

私は昔から宗教とは思っていなかったし、いまでもそうだ。ただ村落共同体に住む、部落行事だと思ってここに移住して来た始めから、黙って参加している。

自由と云えば自由だが、最近のごとく不慮の災害が頻発する国土の中で、超然と一人生き抜くことが出来るというのであろうか。

その時になって仲間顔しても遅いのでは。

得手勝手と自由を勘違いしている。自由は必ず責任と義務を伴う、一面不自由な考え方なのだ。

言い換えれば、自由は言葉があるだけで、実態は無いと同じだ。

得手勝手は厳しい社会生活ではまかり通ることは出来ない。反発が何倍も激しいだろう。時には法律という罠もある。

氏神様は神主もいないささやかなほこらである。いつごろからあるのかは知らない。地名が冠してあるのだから、地名が出来たときかも知れない。

何百年か、何千年か海が陸地になったときからかかもしれない。

後ろの標高7百米の極楽寺山の頂上近くに貝殻の化石層を娘が見つけたことがある。私も一面昔は海の底だったのかと驚いた。

宗教なんて人間が考え出した単なる理屈にすぎない。

人類だけの紛争の種をまき続けている。

なんでも謙虚に、古来続けられたものを理屈を付けずに、うけつぐのもいいことではないのか。

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2013年10月13日 (日)

豊臣秀吉の大芝居

今日はお祭りの日で家内は起きるとすぐから気ぜわしそうである。いつも子供神輿がやって来ると、お花を寄付するのが年中行事化している。僅かなおはなでも郷土の喜びにあやかりたい気持ちなのであろうか。私は何もいったことはない。

先日私は豊臣秀吉の朝鮮征伐は狂気の仕業と書いたのだったが、今月の文芸春秋を見ると、”秀吉の朝鮮出兵は愚策ではない”と村井立正大学教授の論文が載っている。

それによるとかなり先を見据えた世界制覇の野望を蔵したものということである。

私ごとき浅学非才のものが意見を挟む余地はないが、大いに参考にはなる。

とすると彼に余命がもう何年かあったとすると、ある程度の成果が上がったかも知れなかった。

ただ慶長の役はかなりの苦戦を強いられたから、敗退の結果を招いたかも知れない。

徳川家康の収束は見事だったことに変わりはないだろう。

同じ文春の別項で”豊臣秀頼はやっぱり秀吉の子ではない”という服部九州大学教授の論文も載っている。

淀君の受胎時期が秀吉の名護屋在住時期で同居していないというのである。

不倫の所産ということであれば種が誰かということになる。

ともあれ秀吉とてまるで察しの付かないことではないだろう。

十数名もの側室を置いて、後継に恵まれないと云う事実は、彼を絶望させ狂気を発生してもおかしくはなかった。主君織田家に繋がる淀の子なら不足はないと覚悟したのではと思ったりする。

死の直前五大老を眼前に据え、秀頼の将来を懇願し誓書を書かした大げさな振る舞いは、芝居がかっているだけに、そうした疑問が強まる。

秀吉でもそうしたか、或は秀吉だからそうしたであろう、いずれにしろ理にかなう所行とは言えそうだ。

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2013年10月15日 (火)

三朝温泉行き

10月14日(月)晴

朝8時半きっかりに婿たちが車で迎えにやってくる。

早速乗り込むとあとはまっしぐら、高速道を走って山陽道から岡山ー米子道を蒜山まで行き、蒜山ICで降りて取りあえず昼食。

蒜山高原を抜けて、三朝温泉には午後3時前には到着。

連休最後の日とあってか、高原では人車の多さに呆れる。

ハイキングする老若男女の多さに一驚。もよおしでもあったのだろうか。

三朝では岩崎と云う立派なホテルに入る。

温泉も多彩で立派である。ただ私には岩を沢山あしらった温泉がなんとなく怖い。

婿に手を引かれてあちこち移動する始末。体裁が悪いが仕方がない。

三朝はラジウム温泉だとかで、古来有名である。

開業以来850年になるという。1160年代ということで、正に平安朝末期に創業せられたというのだから、桁違いの古さである。

三徳川の両岸には新古大小の旅館ホテルが重なり合っている。河の中まで温泉が囲われている。

やはり歴史が刻まれた景観だと言える。

10月15日(火)曇

台風26号の影響で雲が多く、昨日と変って日射しは無く、却って涼しく過ごし良い。

朝食後婿等の案内で旅館街を散歩する。

彼等はもう4度目だそうで、地理にはすこぶる明るい。

十分堪能して廻る。古跡も随所に見られる。

幼いとき郷土の山の中腹に大きな「ミササ」の立て看板があったことの意味を、今改めて思い知る。

1世紀も前に、私のふるさと岩國に宣伝の目印が立てられていたということである。

帰路は勝山城の見える勝山に立ち寄り食事をする。

西藏という風雅な酒蔵を改造した食堂で昼飯を食べる。婿の気の利いたもてなしである。

久世から高速道に入り、後は一気に帰路へ。

久しぶりに中国道の山並みを堪能する。紅葉はまだはやかったが、それでも山容の美しさは格別であった。

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上の写真で見えるように、野口雨情の詩や記念碑があったり、昭和3年には“三朝小唄”という映画が制作・上映せられたとも表示がある。

 

古いということは違った歴史を持っているということである。未だ無声映画の時代である。

(尚google検索で三朝小唄を見れば昔の葭町二三吉の歌が聞こえて来るだろう)

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2013年10月18日 (金)

もう風邪が!

今朝は12度まで気温が下がり、さすがに寒い。

身体が付いて行けない感じだ。

若いものには丁度いい温度だろうが。

つい先頃まで暑い暑いとこぼしていたのに。

ストーヴも仕方なしに倉庫から引っ張り出す。

あまりにも早すぎる気がするが、これが老いというものだろう。

家内の友達の竹島さんが家内とお昼に逢う約束をしていたが、風邪を引いたので出られないからと、偶々電話に出た私に告げる。

もう風邪が出始めたか。

老いぼれには一番怖い病気である。うつ されてはたまらないから、お心使い私からもありがとうと云いたい。

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2013年10月19日 (土)

今昔温泉談義

今朝は15度と少し戻す。大分違うな。

温泉へでも行こうかなと思っていたが、今朝土曜日だと気づいて止める。

人が休みを喜んで出かける所へ、よぼよぼしたのが割り込んだりしては迷惑だ。

旅疲れが2、3日続いたがやっと取れた。といっても若者のそれとは違う。眠くてだるいのは旅の前と一緒だ。

三朝と云う温泉へ行ってみて、古さの違う温泉とはこうだったのかと、いろいろ勉強になった。

何もかも近代化へ突き進んで、温泉もその一つで、私の家の近くにも一つ立派なのが出来ている。

いい悪いは分らないが、銭金では評価出来ない何ものかがある。

名前に騙されてはいけないようだ。

随分昔、大阪万博を見に実母と舅を連れて、車で出かけたことがある。

帰りに山陰道を利用したのはいいが篠山あたりで道を間違え、暗くなり始めて通りすがりの湯村と云う温泉に泊まったことがある。

道路ばたに煙が吹き上げ、釜が据えてあり卵がたくさんころがっている。

とっつきの鄙びた古い宿におとないをいれて、泊めてもらった。

大きなカニづくしの豪勢な料理だった。母は食いきれないでもったいないからと、別包みして翌日の朝又食ったりした。

舅はなんども板の廊下を踏み鳴らして風呂に通った。凄く気に入ったようだった。

今思うとこんなのが温泉というものではなかったのか、現在の温泉はやはり違う。

そんなにどこにもある様なものと違うと、頭の奥底で誰かの声が聞こえて仕方がない。

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2013年10月20日 (日)

お隣とは仲良くした方がよい

今朝は16度と少し戻した。雲が覆っているから、いい天気にはならないだろう。

宮島はすっぽり雲の中である。

今朝朝食時家内が熱心に見ているテレビのどの番組か知らないが、盛んに韓国問題を学者風らしい連中が議論している。

最近急に仲が悪くなったんだなあと奇異な感じである。

全く似た者同士の国だし、私の若い時代は同じ国民だったし学友もかなりいた。

竹島で仲が悪くなったのだろうが、あんな人も住めない島などくれてやればいい。

敗戦国の日本は都合の悪いことは多いのだが仕方がないね。我々が撒いた種だから、文句はしっかり聞かしてもらうよ。

アメリカ人は笑っているよ。人の威光を被ってえらそうにするなと。

今の国民は戦犯たちだけが戦争をおっぱじめたとおもってるかもしれないが、そんなことはない。新聞テレビなどは先頭に立って太鼓を叩いた。

国民全部と云っても良い。

無条件降伏だから、どうしようもない。

時には韓国の言いなりになって仲良くしたらどうかね。ドラマだけ仲良くしてもつまらない。

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2013年10月21日 (月)

私達の結婚式

朝快晴。

気温は14度。日が窓一杯に差し込んで来る。今日は暑くなりそうな感じ。

絶好のシーズンだが、私には持病のかんせんが又活発になり始めたか、一昨日から無性に体全体が痒い。

終日寝ても起きてもいらいらと痒くてたまらない。

湿疹があちこと発症しているらしい。手の届かぬ背中が一番ひどいからよけいいらつく。

肝心なチガソンも効かないのか。永く呑み続けているから効力がなくなるのだろうか。

ふと思い出して、このパソコンに記録されている私の日記を久しぶりに開いた。

1950年(昭和25年)私達夫婦はある近所の知人(妻の遠い親戚筋)の紹介で結婚した。

一人親の母が兵隊から帰って来た私の連れ合いをあちこちと手を回して探していた。

永い軍隊生活で、しかも敗戦、捕虜生活の末の(栄養失調からくる肺結核にも冒されていた)、家も職も、何もかも失っての帰郷だったから、希望も気力もある筈が無かった。

日記でも前途の希望らしき言葉は何一つ見えない。

おまけに結婚式の当日、何を怒ったのか知らないが、両叔父の間の段取りかなにかの食い違いだったかだろう、激怒して大声を発したとある。

当時だから簡単に、爆撃で崩れ残った小さな茅屋に、最小限の親戚を集めて、総勢10人ばかりの披露宴式場であった。

もちろん写真など取りもしないが、なにも証拠品は残っていない。

両家のものたちの座る場所もなく、婿たる私の席は無かった。

後から考えるとまことに奇妙で、叔父たちの言分では、嫁入りだからこれで良いと云う結論だった。

沢山の見物人が庭に押し掛けていたが、果たして満足したであろうか。

軍隊ではひとかどの部隊を指揮して戦って来たと云う自負もあり、もう30歳という成人意識もあり、経験の無いこととは云え、夫婦生活への期待などはかけらもなかった。

妻はその日から我が家のものというだけの、極めてかわいそうな存在だった。

「結婚生活に対する抱負もあまりにもなさ過ぎた。無為無策。一か月経った此の頃漸くそれに思い当たり、心漸く慄然たるものを感ずる。」という1ヶ月後の日記所感がそれを物語っている。

現実には波瀾万丈の毎日を過ごしながら、63年も過ぎた。

その日その日を生きるに追われて他を顧みる余裕が無かったというのが実相だろう。

妻はじーっと我慢強くついてきた。

えらかったのは彼女だった。

 

新婚旅行も組合の国重理事さんが中電の山口湯田療養所に宿をとってくれ、一泊旅行(米持参)をしただけで終わった。

結婚50年目(2000年)に妻の発案でハワイツアーに参加した。旅行社が気を利かしたのか、一晩金婚式と称して祝ってくれた。

彼女の誇らしい一夜だったか。

写真(上)山口の公園にて/1950.6(下)ホノルルの公園にて/2000.1Photo

Photo_2

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2013年10月22日 (火)

他の風土を見て己の幸せを思う

快晴、中天には一片の雲なし。

気温16度、早朝にしてはやや高いか。

先般大被害を受けた伊豆大島、死者は30名を超えん勢い。続けて27号、28号が油断ならない位置に北上を続けている。

いつも台風時話題になる小笠原と並ぶ、日本の最前線だが、今度ばかりは並みの台風とは違ったのか。

日本列島の宿命、自然災害は甘んじて受けるほかは無いが、特に前途ある若き人の死は避けたいものだ。

天気が良いせいか体調も比較的よい。

部屋回りの掃除や片付けをせっせとやる。

もう10kgを超えると提げるのは困難だから、こんな日に挑戦するしかない。

冬支度のストーブ類、一つ一つ倉庫から運び出す。

曽遊の地ハルピンのスモッグ被害が伝えられる。このところ北京といい、東北の地といい、大変らしい。皆人間が撒いた種だから甘んじて受けるほかは無い。

あの広い広野を背景にして、考え難い現象だと思うのだが、空気というものは停滞が本性なのか。

流動して止まないものと理解していたのだが。

それにしても今日の空の青さはどうだ。

今更にこの風土に生きる幸せを痛感する。

雨による災害を書いてると、災害国日本だから、昔京都付近を襲った大災害をふと思い出す。確か百何十名かの筈である。

念のため古い日記を取り出してみると、

昭和26年(1951年)7月12日(木)に次の記事があった。

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昨晩鞄の中に入れて置いた万年筆が折れていた夢を見た。で今これを書くために出して見るとどうもなってはいない。馬鹿らしい夢を見たものである。しかし確認しようと出して見るから叉妙である。

朝鮮動乱の大芝居も開城の休戦会談でどうやら幕をなりそうである。会議の模様比較的良い。

一昨昨日と一昨日猛烈に雨を降らした低気圧は昨日は京都付近を襲い、極めて急激に襲ったため甚大なる損害が出た模様で、ある部落は家屋は全滅、死者、行方不明百数十名を数える惨事を引き起こした。相変わらずの出来事で、人間と人間との戦い同様、人間と自然の戦いもいつ果てるべくもない。

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2013年10月23日 (水)

台風2個同時襲来か

台風27号は未だ沖縄南方をゆっくり北上中で、ここら当たりは嵐の前の静けさで、去就はさだかにはならない。

28号も今朝の予報では勢力を強めて大型化しているらしい。

日本列島を包み込み、今年最大の災害になるかも知れない。

個々に身を守るしか無いか。

忘れもしない平成3年(1991)9月27日の台風19号は広島を直撃し、私の会社の店も破壊し尽くした。3日間自宅の電気も付かず、市販の電気式電話機を使っていたので、電話も不通。娘等はどうしたのかと心配してやって来る始末。

結局私も仕事を辞める決心をせざるを得なかった。

もうあれから20年以上も経つのか。

ぼつぼつ来る順番かも知れない。

老いさらばえて、もう逃げる気力は無い。もし来たらそれこそ討ち死にの時期だ。

もともと自然の力に勝てると思ったことは一度も無い。

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2013年10月24日 (木)

病院とのおつきあい

昨日の午後1時長女の付き添いで赤十字病院にMRIなどの検査に出かける。前回のつづきの神経症の本検査である。

磁性波検査というのだそうだが、30分間猛烈な音の連続に驚く。あらかじめ耳に栓をしてはじめたのだが、そんなものまるで関係ない。

その後心電図や血圧などの検査がつづいたが、足の血圧検査の痛さには参った。

一検査終わった所で、近くのマンションに住んでいる孫が生後8ヶ月の赤ちゃんを抱いて見舞いに来る、私達夫婦にあいたいということだった。

この孫ももう32歳になると云う。彼女も生まれて間もない頃、家内が娘(母親)の出勤の間牛乳を呑ましながら、その子を育てたことがある。

特に幼稚園時代、通園の送り迎えするなど、私達夫婦で親代わりとなって面倒を見た、その懐かしさが残っているのだろう。

幼いときからよく気がつく子だったが、子を持って知る親の恩ということもあるのか、祖父母に対するまなざしは今も変わらない。

5時に全部終わったが、帰りの車はもう嵐の中、帰りを急ぐ勤め人たちで久しぶりに混雑し、往時の哀歓をを思い出した。

この状況では明日も明後日も只では済まないぞと緊張がつづく。

10月24日(木)雨

夜は窓を閉め切って寝たから雨風の音は聞こえなかったが、今朝起きてみると庭先はしとどの雨。気温はいつも通り16度。

正に台風びよりである。

明日の赤十字行きは電話で断っておけと、昨日は娘がしきって言ってたが、今朝は家内が改めて督促する。

午後3時から4時まででないと受け付けてくれないと案内書にかいてあるので、その時間までまたねばならない。

忘れると又厄介なことになるし。

台風様は庶民にあくまでも非情である。

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2013年10月25日 (金)

老人の交通事情

台風は何とか海上遥か南方で東の方向に首を振ったので直撃は免れたらしいが、雨の方は前線にそって降るので、いっこう構わず降り続いている。

大雨警報も出ているし、今日一杯はやはり老人には行動不如意と云えよう。28日に変更してもらって助かった。

予報ではいい天気になりそうだから安心だ。

私は自分で歩けるから、杖をつくようになったのはここ2年にもならないだろう。

最初は外人がステッキを振り回すように、一種の見栄だろうと思っていたのだが、今年になってから何時だったか腰が抜けると云う現象が起きた。

あれ以来怖くなって、杖を離さぬことになってしまった。

雨降りは傘も持たねばならぬから、いやである。

左手は割と力が入れ難いので、杖はどうしても右手になる。

今頃になって不自由さをかこつようになってしまった。

赤十字病院にも、何時行ってもいい見舞なら自分の車で行くのだが、時間が決められている診察予約だから、駐車場に入るのに何時入れるか分らないでは困るのである。

今回は最初から駐車は己斐の娘のところにお願いして、そこからタクシーをずっと利用して来た。

28日もそうするつもりである。

何しろ5叉路の一角にあるこの病院は、昔から駐車場に入るには難儀をした。

たまに行くものにはどこから近づけばいいかそれすら苦労する。

タクシーを利用する所以である。

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2013年10月26日 (土)

老骨とふたり連れの愛車

昨日は午後家内の買い出しを手伝って、市役所近くまで行く。雨はすっかり止んでいたが、車の多さに驚く。

嵐が去ったので、皆勇んで出て来たのであろうか。

郵便局に年賀状の予約をさせられたので、去年出さなかった年賀状を思い出して、持参して交換してもらう。

もう年賀状でもない年齢なのに、予約した後から果たして出すべきか思い迷っている現状だ。

寝たり起きたりの毎日なのに元気ですかもないものだ。

今年くらい台風が再三やって来てくれると、地震の次に台風だね。火事は随分少なくなったから3番目でいいだろう。

やさしい親父ばかりだから、4番目はなしでもいいだろう。

いや、地震、台風、火事、女房がいいだろう。私の所も滅多に無いけど時たまこわいことがある。

私も長生きだが、車も長生きだなとふと思う。まだ4万キロ一寸だから元気である。

何時買ったのだったか、思い出せない。日記を調べると1999年の8月12日となっている。

もう14年を過ぎている。道理で悪相になったな。子供等は乗るのを嫌がる。

エンジンや足回りは快調そのものであるのに。

6年間軍隊で教わり、しぼられたのだから、運転は荒いことは認めざるを得ない。あちこち傷だらけである。

3年に一度の免許検査の予備試験には、自動車学校の教官が、運転が荒っぽいと驚いている。

しかし人にぶっつけたりはしない。腕には自信があるのだが、人は信用しないなあ。

仕方が無いな此の歳では。

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2013年10月27日 (日)

巨人の強さ

何日ぶりかであろう、いい天気。

気温10度、と、今季初。やや寒い。

プロ野球の日本一決戦が昨夜始まった。楽天が気力で来たが、やはり巨人には歯が立たない。

今年は巨人は抑えが盤石だ。

就中、広島広陵高校出身の西村がいい。自信なさげに投げるが、彼のフォークボールは天下一品である。打てるものは先ず居ない。

巨人はシーズン中6回までにリードすれば、60勝3敗だとか、巨人自身としても古今最強のチームと言っても良さそうだ。

今まで王、長島時代ですら、私も聞いたことが無い。

星野監督が言うように野球は得点0では勝てない。不世出の田中将大投手でも無得点ではどうしようもない。

カープ同様、勝つチャンスはせいぜい一試合しかなさそうだ。

前回も球場が嘆いたと云うが、今回もその通りになりそうだ。

私の腰抜け現象が激しくなって来た。どうしてか分らない。

そのうち立ち上がれなくなるかもしれない。

老化するといろいろなことが起きるもんだな。これも宿命の一つだろう。あきらめるよりないな。

最近気づいたことだが、パソコン機器の音響がよくなったようだ。

オーディオ装置に負けない美しい音色が出る。

アップルのイヤホンで聞く音楽は以前からよかったが、最近はUSBで繋げる格安のスピーカーでも悪くない。

アップルもウインドウズも変わりない。えらいことだ。

音楽マニアにはこよなく嬉しい。

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2013年10月28日 (月)

私のMRI診断結果

正に日本晴れ。こんな言い方はだんだん出来なくなるだろうな。

本来十月と云えば日本で一番さわやかないい季節をさしていたが、今年は台風に何度も全土が晒されて、災害月となってしまった。

NHKでの解説で今年の10月は台風襲来10回とここ数十年間で一番多かったといっている。

午後1時半から日赤精神内科でMRI検査などの検査診断結果を担当の荒木博士から聞かされる。

別に病気と云えるものはなにもない。忘れっぽいのは年齢相応のもので、防ぎ様は無い。必要なことはメモを取るようにしなさいということだった。

私の使っているiPhoneでも、メモとリマインダーの二つのソフトを用意している。

一億総忘れの時代になったとでもいうのかな。

社会現象だと言われればしかたがない。

頭の中悪い所がどこにもないとはえらいことになってしまった。

簡単にはパタッと死ぬるわけには行かないかも知れない。

しかし、心臓が弱っているのは事実だから救いはそちらだろう。

夕方空が曇って来て、快晴も明るいうちに終わってしまった。

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2013年10月29日 (火)

アップルの凄さ

アップルがOSをバージョンアップしてOSX10.9に変わった。従来なら何千円か掛かって、自分でインストールというのが定型だが、有り余る利益にものを言わせてか、無償で勝手にインストールしてしまった。有無を言わせずである。

1時間半くらい呆然と成り行きを見ていた。

凄いものだな。何百何千万もの相手に無償でとはさすがに驚いた。

今までapple機のOS愛称には猛獣の名前が付けられ、今度はライオンより弱いものにならざるを得んなと、固唾をのんでたのだが、思いがけず会社の近郊の地名Mavericksというものになった。

謙虚と云うか、この会社の意図の那辺にあるか、凡人の私にはまるで理解出来ない。

ぼつぼつ紅葉のシーズンである。日の暮れるのが早くなったのが難だが、近郊の名所をやはり見たくなる。

人間の郷愁みたいなものだな。桜花と違って期間が永いのもよい。

山野を歩くと云うのは、もう駄目だが、車を止めて見渡すというのは未だ可能だ。

どこがいいかな!

どこかそのうち出かけて来るとしよう。

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2013年10月30日 (水)

植物園庭をせっせと歩く

るるぶの検索をやってると、津和野ホテルというのが目につく。LAN設備がととのってるらしい。

匹見峡や人丸遺跡を見歩いて、このホテルに泊まってみることにして、ネット予約をしておく。

行けるかどうか、家内はせせら笑っているが。

もう何事もこの歳ではフィフティ・フィフティだから、決心しなければ始まらない。いつでも中止出来る無責任さが許される。

家内が昼前になって、植物園に行こうと云う。

私は歩く目的で行く事にする。

今回から老人も子供と同じ料金を払わなければならない。無料という特権はなくなった。

財政のせいだろうが、多少でも役に立つのなら結構なことだ。

せっせと園庭を歩き回る。お宮なんかの境内よりはずっと歩き良い。

車いすの身障者が今日は多かったなあ。こちらは歩かないのだから、本来の花と空気を楽しむわけか。

私だけ家の中は一つも入らず、外ばかり歩き回って、腹が空いたので食堂にやっと入る。

時々腰が抜けたけど、どうにか目的を果たして帰宅。

後は寝るのみ。

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2013年10月31日 (木)

野球の神様川上哲治の死

野球の神様川上哲治が死んだ。私と同年生まれだ。昭和9年夏中国地方代表の呉港中学が甲子園で決勝を争って勝った相手の熊本工業の確かピッテャーだったのが川上だった。強打者として著名になったのはプロ野球が出来て巨人に入ってからだった。

中学生時代に早くも熊工の川上投手として、私さえ知ってる名前だった。

プロ野球草創期に強打者として急に著名になった、打撃ベストテンの常連だった。

戦争で何年かの中断を挟んでも変わることは無かった。

戦争が終わり、プロ野球復活で先頭を切って巨人軍、就中川上の名は衰えることは無かった。

一時存続を危ぶまれたプロ野球を、国民のものとした彼の選手監督時代を通じて、彼の功績の偉大さを忘れる事はできない。

野球の神様の尊称も、当然受けてしかるべきだろう。

彼ほどの名選手にして老衰死という。私ごときにその時期の到来は正に近きにあり、安心を与えてくれてまことにあり難い。

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