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2013年8月 6日 (火)

原爆で別れたおっちゃん

今日はおっちゃんの日である。

もう何度もこのブログに彼のことは書いた。忘れようは無い。

私は戦場へ旅立つ年即ち昭和16年の元日の朝、宮島の弥山の頂上で彼と二人でご来光を拝んだ。

今思えば何で選ばれたごとく,5歳も離れた年上のおさな友達とご来光を拝むことになったのか、理解が出来ない。

昭和15年12月23日だったか、私は徴兵入隊のため満州国の新京から郷里の岩國に帰宅したばかりであった。召集部隊はハガキで満洲ハの53部隊、というだけで兵科も分らず場所も誰にも理解出来るものでは無かった。

只集合場所は広島袋町小学校とあった。そして昭和16年1月25日午前9時と指定されていた。

この通知は10月には勤務先の新京の満洲鉱山株式会社に届いていた。

12月はじめ新京在住の山口高商同級生が市内の料亭青柳で忘年会をやったとき、集まるもの19名、そのうち同じ部隊に徴集されたものが5名もいて驚いた。(新京に居なかったものを含めて同級生7名が同じ部隊に入隊した)

おっちゃんは大晦日の朝,ふっとうちに来て、私を誘って広島に連れ出した。

もう何年も会ったことがなく、彼がどこでどうしているかも知らなかった。

私が遠く満洲に居て年末に帰ることはおそらく私の母に聞いたに違いないが,確かめていないので何とも言えないし,未だに不思議である。

彼は勤め先の広島市役所に行き,休日の勤務場所の製図室に案内した。これが自分の持ち場だとて、斜面になった製図机に座ってみせたりした。書きかけの図面ものっかっていたと記憶している。

彼が何時どこで勉強してこんな職業に就いたのか知らなかった。

夜遅く宮島に渡り,山登りを始めた。もちろん登山者は他にも沢山居た。

無事ご来光を山頂の岩から拝むことが出来た。

何時死んでも良いと覚悟させられた。

4年後の昭和20年の今日、原爆で広島市は粉砕された。

彼は恐らく通勤途中だっただろうが、彼の母や兄弟の懸命の捜索にも拘らず発見されなかった。

先年私が調べた所名簿には載っていたが,引取先が不明となっていた。

現に市役所の吏員だったのだから、死体はどこかで確認されたのだろうが、肉親には確認されることがなかったということか。

年々私が気になってくるのは、どうしたことだろう。未だに彼の魂魄が現世をさまよっているということなのだろうか。

私の4歳頃、我が家の納屋に主人が戦死した親子が住んでいた。

母親は帝人の女工さんで、朝早くから夕方遅くまで通っていた。

長女と長男は既に小学校高学年だったし、そのうち長女は仕事に出始め,長男は町の配管業者に丁稚奉公に入った、

おっちゃん一人が留守番だった。

遊び相手はいつも幼い私だった。このごろ5歳も違えば大人と子供の違いである。

幼稚園なんてない頃だから、いやでも遊び相手にされるわけである。

彼の言いなりにつきしたがった。

講談本が好きで,彼が読み終わると私が読み始める.読めない字や意味は彼が丁寧に教えてくれる。

漢字には送り仮名がついているから、全部ひらがなばかりと一緒である。

彼が読み終わると,駅の売店に行き、新しい本を買ってくる。勿論私はそのけつに付いて歩く。

小学校に入っても3年間続いた。

昭和4年親父がメキシコから帰国して,納屋を壊して蔵を建てるといって、彼等親子は立ち退かされた。

大きくなってもときどき彼と会って映画など見に行ったりしたが,縁は随分薄くなった。

年も違ったし、中学、高商と私の人生コースとは離れ過ぎていた。

ただ住居だけが近かったから、親同士は親密だったかも知れない。

しかし、この大晦日の一日は夢幻に近い。

しかしはっきりと憶えている。頂上の石段を踏み損ねて足を痛めた痛さも憶えている。

そして4年後の夏8月6日一瞬の光とともに彼はこの世から消え去ってしまった。

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コメント

当たり前の生活が一番幸せ。

投稿: | 2013年8月 6日 (火) 17時59分

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