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2013年8月 1日 (木)

頼もしい若者たち

むしむしと朝からたまらない。9時現在私の部屋は33度を超えている。湿度も軽く70%以上。

若いということはひどいもので、甲子園を目指して激闘をつづけている。

広島県は瀬戸内と新庄が二日間に渡って戦い,最後は1-0で瀬戸内が決着を付けた。

息を呑むとはこのことだろう。両チームの健闘は言うに及ばず、就中瀬戸内山岡、新庄田口の両投手の力投は称賛に値する。今後の大成長を期待するものである。

今日もお医者へ、治療時間ががだんだん短くなる。傷跡も1箇所だけになる。後1週間か。

浄化槽のモーターがもう寿命だからと取り替えに来る。

廿日市市の東の外れだから、未だに下水道の施設はない。

端というのはどこの場合でも後回しは致し方ないのか。

日の当たる所でぽたぽたと汗を顔からまき散らしながら作業を続けている。

辛抱強い子だなあ。感激した。

早くひやいお茶を出してやれと家内に大声で指図する。

隣の佐伯区に最近出来たらしい回転寿司やさんに行き、昼食をとる。大変美味しい。

本拠は今治らしいから、ネタは直送だろう。

店の名前を聞いた所方言で”凄い”という言葉らしい。難しくて老人には憶えて居れない。

ほん近くだから植物園に行ったときは立ち寄ることにしよう。

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2013年8月 2日 (金)

ひっそりと去って行きたい

連日凄い蒸し暑さ,頭がおかしくなりそうである。

朝早くから次々と医者めぐり,家内もリウマチ医者に正午出かける。

もう医者の目から逃れることはできない。

老人とは医者を肥やす為に有ると云われそうである。

東京の娘も大したことがない私の怪我を見て安心して昼の新幹線で帰って行った。

心配してくれるものが居ることは何より嬉しい。

これが最後かなといつもながら別れは切ない。

昨日近所の人が亡くなった。私より6歳若い。

老人部落みたいなものだから、つぎつぎ欠けて行く。大げさな弔いをする人はとみに減った。

今日明日が知れないもの同士だから,大仰な儀式はだれも嫌である。

ひっそりと去るのが一番よい。

私は既に献体してから十年以上になる。大学病院には申し訳ないが、自分ではどうにもならない。もう少し待ってもらうようである。

ひっそりとは私が遺言した様なもので結構満足しているのだが。

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2013年8月 4日 (日)

盆踊り大会

昨夜はすぐ近く4、5百メートル先の公園で部落の盆踊り大会が開かれた。

見に行くつもりで居たが、夜になるとやはり足許が不安で取りやめにする。残念だが仕方がない。転ばぬ先の杖と云うから、出かけぬのが一番よい。

子供の時代から青年になるまで、郷里に居たときはいつも仲間をリードしたものだったが、もう年には勝てない。

戦後でも一時郷里の青年会の世話役に指名され奔走したりしたことが,私の日記から読み取れる。

戦後は盆踊りも疲弊の一途を辿るだけだった。

私が世話を止めた頃からいつの間にかなくなったと思う。

今年当たりここの盆踊りは支度が大げさで驚かされたが、当夜ご無沙汰したのだから批判する余地はない。

しかし私がここの町内会長をしていた時にはもう開催されてたから、20年以上続いているのでは。

新興の部落では古い方かもしれない。7,8年前には音頭も出来たし、割と賑やかである。

こんな些細なことから郷土愛は育って来る。

迷路の多いセセッコマしい部落だが、生まれ育ったものにはこれでも郷里というわけだから。

この土地に腰を据えてから丁度40年になる。

日々を辿れば決して短くはない。郷里に居たときの倍にもなる。

転々とした生活だったが、この地の生活抜きには私の生涯はない。

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2013年8月 6日 (火)

原爆で別れたおっちゃん

今日はおっちゃんの日である。

もう何度もこのブログに彼のことは書いた。忘れようは無い。

私は戦場へ旅立つ年即ち昭和16年の元日の朝、宮島の弥山の頂上で彼と二人でご来光を拝んだ。

今思えば何で選ばれたごとく,5歳も離れた年上のおさな友達とご来光を拝むことになったのか、理解が出来ない。

昭和15年12月23日だったか、私は徴兵入隊のため満州国の新京から郷里の岩國に帰宅したばかりであった。召集部隊はハガキで満洲ハの53部隊、というだけで兵科も分らず場所も誰にも理解出来るものでは無かった。

只集合場所は広島袋町小学校とあった。そして昭和16年1月25日午前9時と指定されていた。

この通知は10月には勤務先の新京の満洲鉱山株式会社に届いていた。

12月はじめ新京在住の山口高商同級生が市内の料亭青柳で忘年会をやったとき、集まるもの19名、そのうち同じ部隊に徴集されたものが5名もいて驚いた。(新京に居なかったものを含めて同級生7名が同じ部隊に入隊した)

おっちゃんは大晦日の朝,ふっとうちに来て、私を誘って広島に連れ出した。

もう何年も会ったことがなく、彼がどこでどうしているかも知らなかった。

私が遠く満洲に居て年末に帰ることはおそらく私の母に聞いたに違いないが,確かめていないので何とも言えないし,未だに不思議である。

彼は勤め先の広島市役所に行き,休日の勤務場所の製図室に案内した。これが自分の持ち場だとて、斜面になった製図机に座ってみせたりした。書きかけの図面ものっかっていたと記憶している。

彼が何時どこで勉強してこんな職業に就いたのか知らなかった。

夜遅く宮島に渡り,山登りを始めた。もちろん登山者は他にも沢山居た。

無事ご来光を山頂の岩から拝むことが出来た。

何時死んでも良いと覚悟させられた。

4年後の昭和20年の今日、原爆で広島市は粉砕された。

彼は恐らく通勤途中だっただろうが、彼の母や兄弟の懸命の捜索にも拘らず発見されなかった。

先年私が調べた所名簿には載っていたが,引取先が不明となっていた。

現に市役所の吏員だったのだから、死体はどこかで確認されたのだろうが、肉親には確認されることがなかったということか。

年々私が気になってくるのは、どうしたことだろう。未だに彼の魂魄が現世をさまよっているということなのだろうか。

私の4歳頃、我が家の納屋に主人が戦死した親子が住んでいた。

母親は帝人の女工さんで、朝早くから夕方遅くまで通っていた。

長女と長男は既に小学校高学年だったし、そのうち長女は仕事に出始め,長男は町の配管業者に丁稚奉公に入った、

おっちゃん一人が留守番だった。

遊び相手はいつも幼い私だった。このごろ5歳も違えば大人と子供の違いである。

幼稚園なんてない頃だから、いやでも遊び相手にされるわけである。

彼の言いなりにつきしたがった。

講談本が好きで,彼が読み終わると私が読み始める.読めない字や意味は彼が丁寧に教えてくれる。

漢字には送り仮名がついているから、全部ひらがなばかりと一緒である。

彼が読み終わると,駅の売店に行き、新しい本を買ってくる。勿論私はそのけつに付いて歩く。

小学校に入っても3年間続いた。

昭和4年親父がメキシコから帰国して,納屋を壊して蔵を建てるといって、彼等親子は立ち退かされた。

大きくなってもときどき彼と会って映画など見に行ったりしたが,縁は随分薄くなった。

年も違ったし、中学、高商と私の人生コースとは離れ過ぎていた。

ただ住居だけが近かったから、親同士は親密だったかも知れない。

しかし、この大晦日の一日は夢幻に近い。

しかしはっきりと憶えている。頂上の石段を踏み損ねて足を痛めた痛さも憶えている。

そして4年後の夏8月6日一瞬の光とともに彼はこの世から消え去ってしまった。

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2013年8月 7日 (水)

ワープロの素晴らしさなんとか残せぬものか

今朝は家内も血液検査結果を聞きに行くといって、せいこう外科に一諸に出かける。

帰路その足で近所のレストランで食事を済ます。

午後古いワープロの修理を頼みに出かけたのだが,肝心なメーカーが止めていなくなっていた。

あらかじめ地図で検索して出かけたのだったが,もう3年も前にうちがここに居ますよと新しい住人はおっしゃる。

パソコン地図もいい加減なものだなと呆れる。

往復1時間位無駄な時間を使ったから、猛暑と両方で頭に来る。

何とかパソコンに変換したファイルも残っていたので支障は無いが、いいワープロで昨年まで時々使っていたのにと残念である。

パソコンの万能に押されたとはいえ、日本語ワードプロセッサーの素晴らしさは消えて無くなるには惜し過ぎる。なんとか復起しないものかと祈る思いなのだが。

商品としていくら素晴らしくても値段の点で現在のパソコンには太刀打ち出来ない。

芸術品みたいなものか。

必要量からいってとても問題にならない。

故障したからと云ってゴミにしてしまうのはなんとも残念至極。

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2013年8月 9日 (金)

ワープロ生き返せるか

昨日は家内が竹島さんを見舞に広島市民病院に行くというので,私はカシオサービスセンターにワープロの修理持ち込みに出かけることにする。

午前10時過ぎ家を出る。

病院まで家内を置いて、すぐカシオに出かける。ビルの守衛さんが親切な人で、車はその前に置かせてもらって、エレベーターまでつれて行ってくれる。

カシオの人も親切で,いろいろ見てくれて、やはり本格的な修理が必要だと受け付けて本社送りにしてくれる。

帰りは今度はその社員が下の守衛室まで付いて来て、ことわってくれるということだったが、守衛さんが留守で言葉を交わすことなく後にする。

ワープロを何とか生きかえらすことが出来るかも知れない。

希望が繋げただけでもうれしい。

昼飯は家内と一緒に途中のアルパークで済まして帰宅。

竹島さんも膝の手術はうまく行ったらしいが、アフターケアを別の医者でやることになりしばらくかかるという。

今日はせいこう外科と内藤内科と朝から医者めぐり。

盆前とあってどの医者もお客で一杯、昼めしの時間を遥かに過ぎてしまう。

盆休みも結構人騒がせな行事だなあ。

そのうち全国的なラッシュは始まるし。

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2013年8月10日 (土)

やはり車はオートマになるか

1年定期自動車検診の通知が数日前あったので、木元自動車に作業をお願いしておく。

年間僅かしか乗っていないので,悪い所はどこもない。

毎日医者通いに使っているので,車に取っては悪くない筈だ。

代車はオートマにして貰う、やはり運転が楽だ。

しかしこんなのに乗り付けると今度はクラッチ付きは運転出来なくなるだろうな。

現に孫たちは私の車には片から乗ろうとしない。

ブレーキを踏むと車も止まるがエンジンも止まるからどうしても同時にクラッチを踏む操作が必要である。口で言えば簡単だが、人間一挙2動作はしかく簡単では無い。

若い時随分泣かされたものだ。軍隊だから容赦なく叩かれた。

今で言えば暴行を受けたわけだ。いいのか悪いのかはよく判らない。

点検は夕方には終わる。6千円ばかり払ってもらって帰る。

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2013年8月15日 (木)

私の終戦記念日

珍しく霧の深い朝。やっと天候に移ろいが生じたかな。

夕立でも来て欲しい。

終戦69回目の日である。

何も知らずに中華民国湖南省祁陽県の山茶花林の中に居た、終日珍しく敵機が姿を見せず、住民が何故か豚を殺して料理し我々を接待してくれた。

17日昼部隊本部から隊長呼び出し伝令を受けた。

なにごとならんと数キロ離れた本部に集合すると,部隊長から”停戦になった。所期の目的地武漢に向かい急進すべし”というものだった。今までの夜間行動を止め,昼間行動でよろしいということでもあった。

内容は何かはっきりしない。敵情があるかも知れないが,強行突破しろということが付け加えられた。

停戦と云われても終戦の自覚は起き得なかった。

事実行動開始当日の夕刻には,衡山というところで、敵に包囲攻撃を受けていた,守備隊を救援、敵を排除しなければならなかった。

その前年8月から12月まで駐留していた、湘潭県板塘にキャンプを張ったのは夜9時過ぎであった。

ここでその晩住民に歓迎の宴を張られたことは,以前このブログにも書いた。

翌日長沙で止められて、降伏させられ、武装解除を受けるとは想像もしていなかった。

敗戦の傷痕が滲みるのは、遥か後日のことであった。

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2013年8月16日 (金)

明治の元勲たちに繋がれている私

酷暑は変わらず。熱中症にて死ぬる老人が少なくないようだ。

自然淘汰というべきかもしれない。弱者には辛い日々だ。

今更でもあるまいが、今伊藤博文の小説,伝記など3冊取り揃えて入手し,暇に任せて読んでいる。

明治維新に府県制を確立したのは,伊藤博文だったのか、私は木戸孝允と思っていたが,木戸は版籍奉還を指導し、府県制度は伊藤の仕事だったらしい。

民主政治を現実のものとした功績は小さくない。

明治憲法、そして帝国議会此れ等はなんといっても彼の主導であった。

やはり彼なくして明治は語れない。

彼が宮島に関心が深かったことも今知った。観光精神が強かったらしい。

折にふれ宮島を例に出して、外人の呼び込みを計り、観光に力を入れて外貨獲得を志したなど,現在に通づる精神の持ち主でもあったようだ。

今その宮島を前にしてひぐらしをしている私,桂公園を朝な夕な目の前にして、その桂太郎と同じくこの私まで歴史の紐につながれていることを改めて感ぜらるを得ない。

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2013年8月20日 (火)

風呂の改修工事と近くの温泉

昨日から始まった風呂場の改修工事、家の中のことだから大変な騒音だ。

連日の猛暑の中だから、職人さんには悪いけど,ふすまを閉じてクーラーに身を任せるいがいにない。

10日の予定だが、案じていた通り,風呂に入れないしシャワーも浴びることが出来ない。

暑い盛りにこれはたまらない。

近所に温泉スタイルの浴場が出来たというので取りあえず,スーパーに出かけたついでに見て帰る。

2,3回はお世話になることになりそうだ。

今晩は取りあえず行水で済ますことにする。

田舎育ちだから2度や3度は行水の経験がないことはない。

ただ目下1月前に怪我した傷跡が未だに治らず,包帯が取れないので,その処置がいるようだ。

すっきりというわけには勿論いかない。

遠方の温泉まで出かけなくても,招待券を貰ったし近所のその最近出来た”ほの湯”という浴場を利用すればなんとかなりそうだ。

まあよしとするか。

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2013年8月22日 (木)

今日もほの湯という温泉

家内が”ほの湯”に今日も行くというので、仕方なく付いて行く。

今日は少し遅く行き、昼飯を中で食うことにする。

試してみなければいいか悪いか判断出来ないから。

風呂は結構いろいろあって,面白いが温泉とはちょっと違うな。最も大事な雰囲気がない。

やっぱり変わった風呂屋というところか。

食堂も格別変わりはない。味も中の下といったところか。

しかし普通の日なのに人の多さに少し驚く。

年寄りが多いかと思ったがそうでもない。若い人も朝から随分多い。

勤務が多様化したせいだろうか。

家内の話では女の方も随分多いそうだ。

食堂ではやはり家族づれが多かった。

特定の人ばかりということではないことが分った。いいことだ,長続きするかもしれないな。

案内プロに休日や土日は混むとあるが、朝からこの分では盛況といってよい。

風呂場の工事はコンクリート打ちまでは終わった。

3日あけてTOTOのユニットバスが座るわけだが、少し今度のは狭いかな。

老人向けには出来てるらしいが。

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2013年8月24日 (土)

当たるか死期の予測

とうとう大雨になった。島根県は特にひどいらしい。江津では一日で200ミリも降ったと云う。

雨の中をほの湯温泉に行く。土曜日だから雨なんか物ともせず,若い人が多い。

やっとなれて,よろよろすることもなくなった。

お湯の深さすら視覚とはことなるから、初日は踏み損ねてよろけたりしたが、きょうはもう大丈夫だった。

便利な装置が沢山付いているが、もう欲張らないで、普段通りにお湯につかって引き揚げる。

今日も昼飯はここで済ます。

家内の手間を少しでも少なくしてやるつもりなのだが、わかってくれるかしら。

今日は業者は誰も来ない。明日は日曜、月曜日にはいよいよ風呂の取り付けとなる。

私は日赤に行って認知症の精密検査を受ける。

長女が立ち会ってくれることになっている。

私に取って天下分け目みたいなものだ。

最近の心臓の衰えは急激で自分でもはっきり自覚出来る。認知症は大丈夫だが、ばたっと逝きそうな予測はしきりにする。

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2013年8月25日 (日)

サンケイの記事から

昨日のサンケイに下記添付した記事が載っていた。

現在新聞テレビで度々ヘリが墜落して住民に損害や恐怖を与えている,普天間付近では止めてくれという様な記事が何度も掲載され非難の矛先が向けられている。

表面的には落ちたことが悪い、だから飛ばさない方が良いと受け取られる記事である。

飛行機が悪いとか,ヘリコプターが悪いということでは無さそうである。ただオスプレイに限ってはこのヘリコプターはジャーナリズムのお気に召さぬらしいが。

私にはこの理屈がよく判らない。

元来自動車、汽車、飛行機、船などあらゆる文明の利器と云われるものは、皆危険な側面を持っている。

永年研究を重ね改造し、いいものにしあげつつあることは周知の通りである。

それでも事故はつきものと云える。

否定するものはいないだろう。

性能だけでなく運転技術の問題もある。天候など客観的な条件もある。

唯飛行機やヘリコプターはどこに落ちるか予測困難だからというわけか、新聞テレビが非難の声を高くする。

そこへ行くと、このサンケイの記事はどういうことになるのだろう。

落ちた沖縄の山林火災が大変なのか、落ちた米軍飛行士の命が大切だったのか。

この飛行士は東北大震災には進んで救済に尽力した。それでも不幸な墜落事故に遭わなければならなかった。

なんでもかでも、自己の都合で人を非難するのは止めてもらいたい。

就中天下の公器ともいえる、新聞テレビで声高に唱えられると、国民は戦争時代と同じく、不用意に同調させられるからである。

(添付記事はサンケイより)

Photo

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2013年8月26日 (月)

一瞬の死も待つ間は永い

昔語りで済まないが、私は義弟が国鉄社員(いや戦前からだから、官吏の職員だったと云わなければならない)として誇り高き技術者だったから、鉄橋は洪水位では流されることはないと自慢され、何十年も信じて来た。

事実あの有名な昭和25年のキジア台風のとき、錦帯橋とその下流の橋は皆流された。国鉄の鉄橋だけが毅然として残っていた。200年以上も存在し続けた錦帯橋すらもたなかったのに。

私は救恤品を背負って、この橋を渡りトンネルをくぐって、災害に崩れた叔母のうちまで歩いて届けた。

勿論鉄橋は大丈夫でも線路はずたずたで汽車は走っては居なかった。

ところが、昨日の大雨で三江線の鉄橋の橋脚が流されて,鉄橋がぶらんとなっている写真を始めて見せつけられた。

民営になったからだとは言わないが、私の信念は崩壊した。

生きていたら義弟も嘆いたことだろう。

今日長女に付き添われて、日赤に行き、精神内科の診察を受ける。

数分前に聞いたことを忘れると云う自分でも不思議な具合で、検査してもらったらやはり実証が現れた。

再来月MRIやその他の本格的検査を受けることになってしまった。

客観的にももう人生の終末に届いた感じである。

軍隊時代と同じく死が怖いなんて気は全然しない。

でも短刀を胸に突きつけられたら,痛さを感じてふるえあがるだろうな。

やはりその場にならないとわからないことだろう。

午前9時から午後1時まで娘には気の毒をした。

待つ身の本人がすっかり参ったのだから、娘は大変だったろうな。

すまなかったなあ!

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2013年8月27日 (火)

お風呂の改造やっと終わる

昨日待合室で待たされた約3時間がこたえたか、尻回りが今朝もむずむずと痛む。

何時呼び出しの合図が出るか分らず、うろうろと動き回るわけにも行かず、電示板をにらみながら、窮屈な椅子に掛け放しだから、なれないだけにほんとに参った。

2時間も3時間も待たすのならもう少し程度の良い椅子にしろと叫びそうになったくらい。

昨日は遅くまで浴槽の施設などで、職人さんたちは働いていた。一段落ついたところだろうが、今日が総仕上げというわけだ。

やはり風呂だから工事時期を考えないといけなかった。

最悪の時期を選んだわけだった。まだ温泉利用と云う手が幸いにもあったからよかったが、この猛暑の中シャワーも浴びられないとはほんと苦痛だった。

今晩の楽しみは深い。

夕方6時半やっと風呂に入る。ちょっと狭いかな。

でも極楽極楽だ。一番風呂で十分堪能する。

幸い今日は猛暑も一過して、涼しい風が通り抜けてくれる。

寝る前にもう一度湯を抜きかえて、浸かることにする、何もかも新しくてキラキラ輝いている。正に温泉気分だ。

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2013年8月28日 (水)

祈る日々

昼はスーパーで買って来たサンドイッチで済ます。

家内も10日間職人たちとの折衝で疲れたのだろう。

今日はすっかり元気を失っている。

85のばあさんに食事家事一切やらしてるんだから、無理もないわけだ。

私が動き難くなったら、もう老老介護は不可能だな。

長女も幼い5人の孫たちに手を焼いてるふうだから、割り込むことは先ず無理だろう。

少し頭が痛くなって来たぞと、昨今思うことしきり。

うんと健康でいるか、死ぬるか、どちらかなら円満に過ごせるだろうが。

今日なんか昼風呂に入って、極楽そのものなのだが。

神よ、このしあわせを一日でもながく。

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2013年8月29日 (木)

又旧友を思い出す

Img073 朝晩、涼しい。やっと季節を取り戻したか。

もう午前9時になろうかというに日射しがない。雨にでもなろうかというのか。

台風15号は未だ遠い、台湾の北部にかかっているのだが。

世の中には奇跡と云う言葉がある。偶然にある瞬間起こる場合に使われる。

逆に起きて当たり前のことが、とうとう起きなかった場合は何と言うのだろう。

私は3年間ごく親しく付き合った学友で斉藤七郎君がいる。

同じクラスで同じサ行の名字のせいで、座席も近く入学してすぐ仲良しになった。

おっとりしてやさしく山口弁丸出しで取っ付きやすかった。

彼のうちは市内の中心部にあり、かなりの資産家だったと見え、店子に喫茶店や旅館などがあったようだ。

彼に呼ばれて出入りするうちに、自然に気安くそれらの店を利用出来たので分った。

山口という所は田舎町で、見るべき所はまるでなかった。学生と兵隊がやたらと目立った。

彼も私も人並みの学生でガリ勉を嫌い、社会勉強にいそしんだ方だった。

音楽は二人とも好きだった、といっても聞く方だが。

試験勉強などは夜引けた後の喫茶店に後門から入り込んで、勝手にクラシックレコードを引き出して、聞きながら勉強したりした。

卒業後の進路は彼は朝鮮へ、私は満洲と違った職場を選んだ。

しかし不思議に徴兵で選ばれた部隊は同じ満洲斐徳の自動車第三聯隊だった。

逢える機会はある筈だった。

軍隊と云えども私的な時間がまるきりなかったわけではない。しかし逢うことはなかった。

初年兵の間は忙し過ぎて無理だった。お互いに人のことどころではなかった。

彼は私と同じく幹部候補生の資格はもちろん有していた。が試験場でもその他の機会でも彼と遭遇することはなかった。

応募は自由だから、志願しなければ当然幹部候補生になることは出来なかった。

私の同郷の先輩で同期だった人が、受験しなかったことも知っている。

徴兵期間が長期化することを嫌ったわけである。

しかし私達同期兵は大東亜戦争勃発により、満期除隊ということはなくなった。

戦争が終結するまで皆一律に勤務させられた。

私は将校として、彼等は一兵卒として。

斉藤君は後日聞いた所では戦死ということだった。自動車兵が戦死するのは空襲の弾が当たるくらいのものである。が運悪く彼は途中で他の部隊に転属させられたとのことだった。

運命が二人を近くから遠くへ引き離してしまった。

数年前同窓会のことで、母校を訪れたとき、学長に案内されてその図書館を見学した際、”あなたの同期の卒業生の斉藤七郎さんの卒業記念アルバムです”と、手渡しされてびっくりした。学長は学校の後輩だからうやうやしかった。

彼の遺品のアルバムを彼の姪御さんが、粗末にしてはもったいないからと図書館に寄付されたとのことだった。

分厚いアルバムを手に、おお、斉藤君と握りしめざるを得なかった。

もちろん中には彼の写真も私の写真も又同級生たちのも皆納められている。

この因縁はなんなのだろう。

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2013年8月30日 (金)

いろいろな贈り物

千代さんから梨や金時イモなど沢山送って来る。

毎年のように送って来る品物である。

いつまでも心楽しましてくれるおくりものに熱く胸の内がうるむ。

台風15号の影響もあってか、西日本一帯が凄い大雨となっている。

1時間に50ミリ60ミリが何でもなく降り撒かれる。

やはり今年は天候がおかしい。

東北に行ったり、東京に行く、北海道にも行く、そして西日本である。

思うままに日本中を駆け巡る。

まあいいだろう。

人類だけが暴力を振るうのでないことがよくわかったよ。

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2013年8月31日 (土)

運転も引退か

朝から小止みなく降り続いている。

台風15号が熱帯低気圧になったというのだから仕方がないだろう。少しは軽くなったということだもん。

もちろん若い人と同じように対応出来るわけはないのだから、あくまでもじーっとしている以外に方法はない。

局地的に豪雨が凄いらしく、気をつけるようにメールはもらうがどうしようもない。

何がきてもさほどのこともなくて済んでいるこの地方はいい所だな。

神のせめてものおかごというものだろう。

治療に1ヶ月以上も掛かった腕の傷もようやく完治した。醜いキッポが残っているが、老人だからそう目立つものでもない。

長く掛かるのはやはりつらい。

最近はものすごく動作を遅くして気をつけているのだが、運転まで鈍くなって皆様の邪魔になっているふうだ。

引退を覚悟しなければならないかなあ。

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