« 同期生会出席率第1位 | トップページ | ひどくなる物忘れ »

2013年6月14日 (金)

私の父、そしてその死

人は誰しも死を前にして,自分の来し方を振り返るだろう。

満足して終えるものが何人いるだろうか。

私は両親から見て全く不肖の子である。

母から見れば期待はずれ,父からみれば俺の子ではないのではと疑われたかも知れない。

両親とも多少は部落でも大きな方の農家の3男であり,3女であった。

武士でもそうだが、3男ともなれば冷や飯食いで、相続権はないし一家の労働力以外の何ものでもない。

明治14年生まれの父は自立の道を選び,当時始まった海外移民を選択した。

1902年だったと云う。満21歳だった。脊椎カリエスの後遺症があったから兵役は免れたらしい。

父の長兄は間もなく始まった日露戦争に従軍し,金鵄勲章功8級を貰い残していた。

アメリカ移民を志したらしいが、船が難破したか、海賊に略奪されたか,メキシコに連れて行かれたと云う。先ず手始めが鉱山労働者として使われた。当時世界一の銀産出国のメキシコだった。

奴隷まがいの酷使に堪え兼ねて,同僚の日本人と二人で脱出した。

山野を彷徨してやっと,米国国境まで辿り着いたが、逃亡者では入れてもらえない。

国境のメヒカリというところで綿花労働者として働くことになった。

渡航してから、十数年やっと認められて,3000エーカーの綿花畑の支配人に登用された。

1918年母は写真結婚で合意し,7月渡航して、メヒカリで父と家庭を持った。

父37歳、母21歳だったようだ。

2年後私が生まれ、更に2年後妹が生まれると,両親は子等の教育は日本でと一旦帰国することとなった。

父の甥篠原實、母の弟沖広萬を日本から呼び寄せて手伝わしていたので,この二人に仕事を譲って大正11年(1922)帰国した。

翌々年弟繁が生まれ,家を建築し田畠山林沼沢を買い漁った後,再び今度は父のみ単身で大正13年(1924)再渡航した。

父の思い切った決断の感ぜられる処置である。

昭和3年(1928)10月4日弟繁が急性肺炎で急死した。

母が自信を失ったか,父の帰国を要請した感じがするのだが,翌々年(1930)4月に父は沢山の荷物を抱えて帰国して来た.大きなスプリング・ダブルベッドやハーレーの大きなオートバイまで添えられていた。

今度は再渡航の意志ははじめからなかったようだ。

黙々と農作業に打ち込む父の姿が続いた。

牛も2頭飼った、田畠もあちこちと買い足した。

私の上級学校進学も快く許してくれた。

妹をいじめて怒られたり、いくらかの農作業の手伝いを怠けたりして怒られた経験以外、理不尽な怒られ方をしたことは一度もない。

18歳のときの出雲自転車旅行も父の理解があって実現出来た。

そして2年後大旱魃が部落を遅い,当時生産組合長をしていた父は昼夜を忘れて給水に尽くし,過労に倒れた。

大きな錦川の水が涸れ,八幡堰が単なる水たまりと化したほどだった。

昭和14年(1939)11月23日父は永眠した。私の卒業半年前であった。

既に9月に満洲鉱山(株)に就職が内定していたので、父の喜ぶ顔は生前見ることは出来ていたが,授業中危篤の電報に驚いて帰郷の途に着き、枕辺に臨んだ時にはもう意識がなかった。

心配性ではない私は,祖母や叔母達の反対を押し切って,卒業そこそこに渡満の途に着いた。何とかなるだろうと思っていた。Photo

|

« 同期生会出席率第1位 | トップページ | ひどくなる物忘れ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/57591733

この記事へのトラックバック一覧です: 私の父、そしてその死:

« 同期生会出席率第1位 | トップページ | ひどくなる物忘れ »