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2013年6月 1日 (土)

要介護認定更新

いつ降り出してもおかしくない気配の空。

これでは庭師さんも来てくれないだろう。もう3、4日待ちぼうけ食らっている。

4日から旅行するから一寸気がかりである。

家内は気ぜわしく庭にもぐり込んで徒長した枝を切り落としている。待ちきれんのだろう。

昼前から出かけて食事と買い物を済ます。

家内は庭に植える草花を沢山買う。植える場所があるのかいなと不思議である。

市役所から介護認定の継続申請を出せと云って来る。7月で更新だそうな。

時々動けなくなったりするけど,未だ旅に行けるほど元気である。

身障者用駐車場を使わしてもらっているのだから,更新はしておかないといけないな。

病気が長続きしないから,自分でもどう判断したら良いか、まあ先様にお任せするしかないな。

要介護者と云っても,要支援1というクラスである。偉そうな顔はできない。

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2013年6月 2日 (日)

町内会

朝8時前から町内の溝掃除、排水舛にたまった土砂や木の葉を取りのける。

そのうち皆出て来て手伝ってくれる。ものの30分もすると終わる。

少し息が切れる。

道路の向こう側の人たちは皆若い。始めてあう人が多い。赤ちゃんまで居る。

こんなときでないと外に出ることがないから,初対面が多くなる。

変わった世の中になったものである。

福原さん大藤さんがなくなり、40年で、うちが一番古くなった。

80歳の時町内会長を仰せつかり、町内百軒をを駆けずり回った頃は,何でもなかったが、あっという間の10幾年だったなあ。こんなに身体がいうことを聞かなくなるとは。

来年はもう深い排水舛の底の泥をとることはできないだろう。

待ちに待ったシルバー植木屋さんが4日に来ると云う、旅行に出るので,留守にやってもらっても困るので、7日以降にして貰うことになる。

今日の新聞で認知症患者462万人、予備軍400万人と報道されている。

あまりの数字に恐ろしくなってしまう。このままでは日本は滅びてしまうのではという気すらする。

もちろん人ごとでは無い。この私でも物忘れの進みは日々早まっている。

嫌なことだな,早く来い死神様!

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2013年6月 3日 (月)

明日は旅立ち,開戦前夜のように

思いがけず快晴。朝から20度という勢い。

昨日いろいろ動き回ったから疲れてよく眠った。目覚めたら7時半。

明日からの準備もあるし今日も

忙しそうだ。

要介護のことで市役所から電話が入る。書き換えの話なのでこちらからすぐ出向く。

改めて要支援の申請書を出すように言われ書いて出す。家内のも書いて出したらいいだろうと云われその通りにする。

来る10日の午前中調査に行くからと云われる。

そのときデイサービス先の紹介もするからとのことだった。

普通の老人並みの待遇を受けるわけである。

所詮、わざわざお上の手を煩わすわけである。すまないね。

病院やお医者さんに散々お世話になった上,介護サービスとやら、もったいなくて涙がこぼれる思いである。なんと幸福な国なんだろう。

外に出るとかんかんと今日はもう暑い。

帰路ガソリンスタンドに立ち寄り,ガソリンを満タンにする。こちらは誰の手を借りることもない。

午後3時まで午睡。

家内の準備にいろいろ口を出す。いらないことだが。

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2013年6月 6日 (木)

出雲大社参拝無事成し遂げる

8月4日(火)晴

朝空は白い靄の様な雲に覆われてはいるが、青空も覗いているし,雨の心配はない。

どうやらいい旅行日和である。

六時前目覚めてもう眠れない。

出発は10時半か11時と決めているので急いだりはしない。

車だから持って行けるものは皆持って行くつもり、鞄が沢山要るな。

出発車のメーターキロ数表示は43552である。

途中2度休憩して、15時丁度に宿の国際ホテルに入る。メーターは43736表示。

すぐ温泉に浸かり疲れを取り,昼寝。

6時から食事、カニづくしの豪華な夕食、堪能。

6月5日(水)晴

昨日も今日も快晴、出雲大社参拝に出かける。

さすがにそんじょそこらのお宮とは格が違う。参拝客の多さ、宮域の広さ、イベントの数の多さ、いささか驚嘆する。

歴史博物館も拝見したが、日本の古代王朝がどう転んだかわからない、曰くが感ぜられる。

出土品の多さ,記録の多様さ、まだまだ出てきそうな雲行きすら感じた。

古代日本を大和王朝一色に染め込め得なかった力を、この出雲王朝に感ずるものは私一人ではなかったと思う。

稲佐の浜の相撲で、国ゆずりを決したと云う神話も面白い。

この浜にも降り立ってみたが,古風な岩が汀にぽつねんとあるだけで,かたりかけるものは何もない。

2千年を経た今、歴史の真実を確かめる手段はない。

只空しい。

周遊キロ数121km

6月6日(木)晴

午前9時ゆっくりの宿立ちをして、宍道ICから高速道路に入る。

来た道を走るのだからなんでもない。2度3度休憩して,出口の宮島SAに着いたのが12時半、食事を済ませ,そのままゲイトから一般道に出て我が家に帰宅。

午後12時55分だった。本日のキロ数は180km,

メーター表示は44037だった。

最初の日は緊張もあったか酷く疲れたが、慣れるに従って楽になり、今現在まだ十分の余力がありそうだ。こうしてブログを書き始めたくらいだから。

最初の日はiPhoneで書き始めたのだが、字が小さいのと、目の疲れなどで途中で投げ出してしまった。iPadでも試したのだが、インターネットに入って読むことは出来たが,投稿はさすがに3GやLTEでは駄目なことが分った。

ともかく念願の出雲大社参拝が果たせたことは嬉しい。

私にとっては、1938年3月の18歳の時自転車を駆使して,岩國から参拝したのをきっかけに、数度目、75年目の今回だった。

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75年前の大鳥居の姿

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2013年6月 7日 (金)

介護保険のための医師の診察

せいこう胃腸科からはがきが来ている。例の介護保険の医者所見を書かねばならぬから,診断が必要、診察を受けに来るようにとの電話を再三したがかからないとある。

気の毒なことをしたな。

昨日早速電話したが,午後は休診でかからなかった。今朝電話することにする。

老人は暇なようでもいろいろと所用が起きる。生きている因果か。

せいこうさんから9時ちょっきりに電話がかかる。お詫びを言って,午後3時に夫婦で伺いますからとお返事申し上げる。

先鞭を付けられた、老人は兎角動作が鈍いから。

今日も一応時間の隙は無くなった。

昼の一寸した合間に買い物を近所のスーパーで済ます。ここも今日は多いねえ。

涼しい風が吹いて,外は気持ちがいい。

午後3時せいこう外科に行き、診察など受ける。

物忘れがひどくなったことで、先生の紹介を受け、赤十字病院でその機械的診断を受けることとなった。

帰宅して5時近くなって,赤十字病院からその日取りと準備物件など知らせて来る。

段取りの早さに驚く。

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2013年6月 9日 (日)

日本人の心も身体も変わった

九州の方は大雨だそうだから,間もなくこちらにもやってくるだろう。なんとなく そんな気配だ。

出雲から帰って、あまりにも好天気過ぎたから,庭の木々が心配だったが,今朝よく見ると水不足など素知らぬ風に,新芽を延ばし皆元気そうである。根元にはまだまだ水気十分と見える。

明日植木屋さんが来て,剪定してくれればもっと楽に息が出来るのではなかろうか。

素人の浅はかな考えかな。

今朝iPhoneのFacebookに村井さんが子供さんがポニーの背中に乗っている写真を載せている。

元気な子供らしい。じいさんの山崎君の再来かな、彼も運動神経が抜群だった。

私は軍隊で始めて馬に乗ったから,24歳だったかな。もちろん普通の馬から乗り始めたのだが,部隊の馬は挽馬用の支那馬(所謂ポニー)ばかりだった。

小さくて却って安定が悪かったなあ。

この部隊とは2ヶ月の縁だったから、あまり想い出もない。ただ兵隊の素質が素晴らしく良かった。

生き物を扱う部隊だから,そのせいだろうか、いや殆ど信州出身の兵隊だったからそちらもあるし。

ついでに今思いついたことを書けば、70年前の大戦後の日本はやはり完全に肉体も精神も変わったと感じている。

戦争までの世代は、徳川3百年の鎖国と武家社会の封建制度が心も身体もその隅々まで浸透して、そのままの姿で戦った。

降伏することは恥だ許されないという武士道は終わった。降伏の有り難さも生き残った国民全部が知った。

今後は他国と同じように劣勢と見ればすぐ手を上げるだろう。命を捨てるなど馬鹿馬鹿しくて出来るかという時代になったと思う。

スポーツと同じである。只ルールはないが結果は同じである。

生き物は死ぬるという決まりがある。だから死の恐れと哀悼が心の底にありながら,武器をふりかざした。最期は死であると思った。

これからはスポーツだから死は無いと同じである。

死がなければ勝っても負けても負担は重くなる。得なことはどちらにもないという理屈なのだが。

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2013年6月10日 (月)

介護認定と庭木の剪定作業

何とか雨は免れそうだ。8時前には植木屋さんが見える。早速車を置き換えて車庫に入れて貰い,私の車は道路に引き出す。

外出が出来るように、また9時半市役所から介護認定に来宅する駐車余裕を残す為である。

植木屋さんの仕事は大きな松があるために簡単では無さそうだ。

ソテツも家を建てた時藤本の妹婿が株分けして植えてくれたもので,松と同じく40年になる。

これも切ってもらいたかったのだが今回のことにはならないと云う。

ばさばさと木の枝を落とすようにはいかないらしい。

庭のことは家内の仕事である.私は口を差し挟まないことにしている。

せっせと毎日草を取り水をやり,枝を落とし,草花を植えている。そのいとおしそうな姿は子育てに似ている。

私の出る幕では当然ない。 

9時半丁度市役所から介護調査に2名の方が見える。家内と二人それぞれに諮問が発せられる。

11時少し前にやっと終わって帰られる。

折から庭木の剪定で3名の職人が作業に精出して居られて、家内は内外と応接に忙しそうであった。

午後食事の後1時間ばかり午睡、眠りから覚めてみると,職人さん達は後片付けをしている,概ね終わったらしい。

松もその他の植木もとことん刈り込まれて、みすぼらしくなっている。

私などのやる剪定とは格段の相違、全く容赦なしと言った態。

もの言わぬ庭木達に成り代わって、恐れ入りましたと思わず洩らす一息入れ。

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2013年6月11日 (火)

私の通った二つのトンネル

台風3号が四国沖に接近中である。

未だ時期が早いからまともに本土上陸はないだろうが,雨はこぼして行くかも知れない。

空梅雨の折からちょうど良い。

気温が毎日高いから,体調がなかなか元に戻らない。

疲れがたまって,身体の動きが鈍くなる。このままでは真夏には身体が動かなくなるのではと思ったりする。

暑くても寒くてもいけないものだな。

特に思考力が急激に鈍くなった気がする。精神的な萎えがひどい。外部から強い刺激でも受けないとだめかもしれない。

出雲行きは自分で自分を刺激したつもりだったのだが,順調であり過ぎてあまり効果はなかった。

苦しみを乗り越えてと云う過程がないとだめならしい。

午後になると晴れて来て,台風の影響はまぬがれたらしい。

そして暑気が強くなった。

出雲の旅の写真を、昨日は神村君に今日は千代さんに見て貰いたくて、10枚ばかりづつ郵送する。

先般通った広島県と島根県の境の大万木トンネルは全長4878mとあった。道理で長かったわけである。

今までいつも通っていた赤名トンネルは調べてみると998mとある。5分の一である。

科学の進歩は何気なく,長足な便利さをもたらす。

しかし未来永劫続くものと勘違いしてはいけないのではと思う。

いつか寿命が尽きるときが来るのではと。

赤名トンネルが開通したのが私の44歳の年1964年であり,今年開通した大万木トンネルは49年後の私の93歳の年ということになる。思えば長く生きて来たもんだ。

ついでに言えば18歳の時にはトンネルは無く赤名峠(標高554m)を越えるしかなかった。

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2013年6月12日 (水)

友あり、遠方より電話

うってかわっていい天気になった。6時を過ぎたばかりというのに日射しが強い。

7時には気温が24度に上っている。やはりもう夏だな。

もうこれでは長袖のシャツでは無理だなと思うのだが、両方の手首の赤黒い内出血状態はなかなか治らない。

気にならないと云えばうそになりそうだ。

血管が脆くなって、ちょっとこすっただけですぐ内出血する。気づかぬ間にだから、自分でも持て余している。

もう血管がぼろぼろになっているんだろう。

脳内出血でもすれば,一発でお陀仏なんだが、頭蓋骨は案外頑丈なのかも知れない。

長女の所へささやかな出雲土産を持って出かける。

還暦祝いをして貰ったと云って,赤いちゃんちゃんこを着て,子や孫等に取り囲まれて悦に入っている写真を見せられる。

我が子がもう定年を過ぎんとしている。

年を取るのは皆一緒なんだ。

子の将来,孫の将来、どうなることやら、他人事と片づけるわけにはゆかない。

しかしそれぞれ固有の運命を背負って、夫々の道を歩む、外からはどうしようもないことなのか。

庭で水を撒いていると,東京の神村君から電話と云う。家内が子機を持って出て来て庭で話をする。

私が送った出雲の写真に反応したわけである。

久しぶりだから,10分ばかり話す。元気一杯というわけには行かないが、まあなんとかぼつぼつ暮らしているという状況に私と変わりは無さそうだ。

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2013年6月13日 (木)

同期生会出席率第1位

今朝も一番にビデオカセット百個を台車に乗せて棄てに行く。

自分の一生を自分で閉じて行く。

撒いた種は自分で苅る。故人はいいこと言うなあ。

いずれにしろ自分一人だけの感慨である。

所詮人の生涯を確信を貫いて終わるものはいないだろう。ましてや若き日の数年間を念願の仕事を棄てて、兵役に身を投ぜらるを得なかった我々世代にには不可能なことであった。

運や天に任せて一生を終わったものに、毀誉褒貶は単なる成り行きにしか過ぎない。

私の友達の中にも、いかにも身を細くして悔いをあらわに生涯をさも自分の至らなさのごとくして、終えて行ったものも多いが、私に言わしめれば何も自己を卑下するには当たらない。それなりの生き様こそ問題だと思っている。

私は唯一誇りに感じているのは、母校の同期生会を最終的に世話しきって終わりに出来たことである。

卒業以来丁度20年目に新聞社を経営していた脇昂君が第1回の同期生会を持ちかけて来た。昭和35年(1950)のことである。喜んで参集した。参集者38名、恩師3名の参加を得た。爾来5回までは数年置きに6回以後は毎年各地持ち回りで開催を続けた。

各地区に幹事を設け世話せしめた。私は当初から広島地区の幹事を仰せつかった。

2007年広島で7回目の第33回大会を引き受けた。便利の良い広島駅隣接のグランビア・ホテルを会場にした。参加者は6名だった。 

翌年は小郡と決まったが,幹事が急逝して私が幹事を継続しなければならなくなった。

何度か現地に足を運んで準備を終え,何とか開催にこぎ着けた.出席者5名だった。九州,大阪は居たが地元山口や東京は一人も居なかった。

当然翌年の開催は難航した。通常は東京方面の順番である。幹事が居ないでは話にならない。

結局島根の元県会議長土田好治君が引き受けてくれて、益田市の温泉で開催することになった。

事務万端私が引き受けた.3年連続だった。

案内状ももう30名を割っていた。何でもなかった。

そして当日2009年6月集まったのは土田君夫妻と私夫婦の2組だけだった。

もう継続は無理だし意味なかった。

二人合議の末同窓会(さざん会)解散を宣言した。

勿論残余の会員にもその通知を配り了承を取った。

翌年大阪で全同窓会の全国大会があったので,大阪地区のものと土田君と私が参加し最期の旧交を温めた。

35回のうち私は31回出席をした。熱海など会費の掛かる所は、当時破産状態に追い込まれていた私は遠慮せざるをなかった。倒産状態の事業に関係していたときなど,宿泊を辞退して帰宅したことまである。

継続は楽ではなかった。それでも同期生中第1位の出席率だった。

これもひとえに長寿のなせる技だろうか。

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2013年6月14日 (金)

私の父、そしてその死

人は誰しも死を前にして,自分の来し方を振り返るだろう。

満足して終えるものが何人いるだろうか。

私は両親から見て全く不肖の子である。

母から見れば期待はずれ,父からみれば俺の子ではないのではと疑われたかも知れない。

両親とも多少は部落でも大きな方の農家の3男であり,3女であった。

武士でもそうだが、3男ともなれば冷や飯食いで、相続権はないし一家の労働力以外の何ものでもない。

明治14年生まれの父は自立の道を選び,当時始まった海外移民を選択した。

1902年だったと云う。満21歳だった。脊椎カリエスの後遺症があったから兵役は免れたらしい。

父の長兄は間もなく始まった日露戦争に従軍し,金鵄勲章功8級を貰い残していた。

アメリカ移民を志したらしいが、船が難破したか、海賊に略奪されたか,メキシコに連れて行かれたと云う。先ず手始めが鉱山労働者として使われた。当時世界一の銀産出国のメキシコだった。

奴隷まがいの酷使に堪え兼ねて,同僚の日本人と二人で脱出した。

山野を彷徨してやっと,米国国境まで辿り着いたが、逃亡者では入れてもらえない。

国境のメヒカリというところで綿花労働者として働くことになった。

渡航してから、十数年やっと認められて,3000エーカーの綿花畑の支配人に登用された。

1918年母は写真結婚で合意し,7月渡航して、メヒカリで父と家庭を持った。

父37歳、母21歳だったようだ。

2年後私が生まれ、更に2年後妹が生まれると,両親は子等の教育は日本でと一旦帰国することとなった。

父の甥篠原實、母の弟沖広萬を日本から呼び寄せて手伝わしていたので,この二人に仕事を譲って大正11年(1922)帰国した。

翌々年弟繁が生まれ,家を建築し田畠山林沼沢を買い漁った後,再び今度は父のみ単身で大正13年(1924)再渡航した。

父の思い切った決断の感ぜられる処置である。

昭和3年(1928)10月4日弟繁が急性肺炎で急死した。

母が自信を失ったか,父の帰国を要請した感じがするのだが,翌々年(1930)4月に父は沢山の荷物を抱えて帰国して来た.大きなスプリング・ダブルベッドやハーレーの大きなオートバイまで添えられていた。

今度は再渡航の意志ははじめからなかったようだ。

黙々と農作業に打ち込む父の姿が続いた。

牛も2頭飼った、田畠もあちこちと買い足した。

私の上級学校進学も快く許してくれた。

妹をいじめて怒られたり、いくらかの農作業の手伝いを怠けたりして怒られた経験以外、理不尽な怒られ方をしたことは一度もない。

18歳のときの出雲自転車旅行も父の理解があって実現出来た。

そして2年後大旱魃が部落を遅い,当時生産組合長をしていた父は昼夜を忘れて給水に尽くし,過労に倒れた。

大きな錦川の水が涸れ,八幡堰が単なる水たまりと化したほどだった。

昭和14年(1939)11月23日父は永眠した。私の卒業半年前であった。

既に9月に満洲鉱山(株)に就職が内定していたので、父の喜ぶ顔は生前見ることは出来ていたが,授業中危篤の電報に驚いて帰郷の途に着き、枕辺に臨んだ時にはもう意識がなかった。

心配性ではない私は,祖母や叔母達の反対を押し切って,卒業そこそこに渡満の途に着いた。何とかなるだろうと思っていた。Photo

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2013年6月15日 (土)

ひどくなる物忘れ

待望の雨がやって来た。

農村の人たちの喜びの顔が見えるようだ。

私の日記を見ても,2日の日曜日の道路掃除の日時々僅かな雨が降って以来だ。

凡そ2週間ぶりである。これではさすがにたまらない。

しっかりふれふれ。

空を見上げると,灰色の空がぼんやりで、逞しい黒雲は見えない。大丈夫かなと少し心配になる。

雨の音はぽたぽたと確かなのだが。

2,3日前から家内がカードを入れた財布がなくなったと家捜しをしている。

昨日はとうとう私まで駆り出される。

無いものは仕方がない,再発行してもらえというのだが、今日は生憎土曜日だし,金融機関は休みだが,デパートは大丈夫だから雨の中を出かけなければならない。ご苦労なことである。

どこかに落としたか、拾われても悪用の被害はないだろう。

過去にも二度三度あることだし心配はしていない。届けておきさえすれば問題ないことだ。

それよりも物忘れの頻度,深刻さが気になって来たぞ。こちらはもう防ぎ様はない。

今朝ふと見るとデスクトップの絵が,大昔子供の頃の思い出の詰まった私の家屋敷の白黒写真である。

戦争に行って居る間に,爆撃を食らって二度と見ることはなかった。

懐かしく表示時間を長くしようと、環境設定に入ると途端に画面が消えて他の絵になってしまう。

デフォルトが15分にしたあったから、どんどん変わるわけである。

写真集を探したが沢山あって見つからない。諦める。

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2013年6月16日 (日)

私の忘れ得ぬ人ー横山博君

2009.11.7 横山博君が死んだ。

翌年7月には私の実妹が交通事故で死んだ。

爾来ばたばたと旧友、知己,親戚と今生の別れがひっきりなしに続いている。

病床に居るわけでもないのに,命旦夕に迫る思いがしてならない。

脅迫観念というものであろうか。

思えばこの横山君とはどうした因縁に結ばれたものであろうか、とうとうその死の殆ど前日まで交際が絶えることがなかった。

大した用事でもないのに屢々電話がかかり,家族の相談にまでも預からしめられた。

昭和35年(1960) 彼は私が数人の知人と組んで始めた事業が倒産したと知るや、いち早く一時仕事を手伝っていた知人宅まで追っかけて来て、自分と一緒に仕事をせんかと誘いをかけて来た。

トーメンと提携しての仕事が出来そうなので,手伝ってくれというのだ。

旧交を忘れない彼に喜んで応じて、早速彼の仕事を手伝うことになった。

昭和35年(1960)12月のことだった。

翌年1月年明けから勤めることになり、大進産業と云う未だ小さな従業員10名足らずの彼の会社に奉職した。

ポリエチレン加工品販売から始まって、各種洗剤、ポリウレタン製品、そして輸入クリーニング器械に至るまでどんどん事業を拡張して行った。

私は担当していた、イタリアから輸入したクリーニング器械の販売が好調な上,その性能に惚れて、独立したクリーニング業経営を横山に願い出た所,彼が快諾したので、彼の資金応援を得て,早速広島市内中心部に店舗を開設して開始した。昭和40年(1965)7月だった。

銀行からの援助を得て次々2店舗を1年足らずの間に増設し、好調を維持し、大進産業自身も店舗を開設して、私に経営を委託してくれた。

昭和44年(1969)4月全投資額の回収を終わったので,家内の伯父に事業全部を売却、あらかじめ予定していた鍵の複製販売事業をキーサービスとの商号で開始した。

まだ日本も東京で始まったばかりであった。

同年3月には既に会社を設立していて、市内に本店を構えると同時に,福屋を始め福山、徳山、山口、長崎、熊本、倉敷、北九州、福岡,久留米にそれぞれ百貨店などの店舗を借用して,一挙に事業を拡大して行った。順調に利益を上げていた。

しかし今度は昭和48年(1973)のオイルショックが痛かった。ガソリン、人件費の急上昇が販売利益を阻害した。しかも類似した事業者が急増した。

早速撤退を開始した。

事業を他企業に譲渡したり,店員に無償譲渡するなど全部廃業して本店のみを残した。

本店は家内に任せた。

私は昭和53年(1978)4月、古巣の横山君のところのかって担当部門だった洗浄剤部門を、再度担当して委託業務として仕事を始めた。

昭和55年(1980)2月、横山君からの要望により,再度社員として復帰することになり,専務職をあてがわれた。

大進産業本社ビルを新築することになり、私の中学生のときの同級生だった平本俊秋君に頼んで格安で工事をして貰った。

12月からは早速そちらで勤務することになった。

一階はクリーニング店舗だった。

相変わらず主力はクリーニング業だった。私の提案で衣類のリフォームも既に始めていたが,これもすこぶる好調だった。

昭和58年9月、5月に通勤途中で車にはねられる事故にあい、体調不良も相まって退職させてもらった。

昭和59年3月、大進産業を通じて委託契約だった洗浄剤部門の業務をメーカーの正和工業と私個人との契約として存続した。

尚この仕事は昭和61年(1986) に実務さしていた原田孟氏にメーカーの了承を得て無償譲渡した。

公的には横山君と縁が切れたことになったが,私的交際は益々激しく、絶えることはなかった。

彼が大規模クリーニング工場を建て、その経営に知恵を貸す羽目になったり、後にこれも廃業して貸しマンション建築にも相談させられたり、えんえんと20数年に亘り、無い知恵を絞り出させられた。

平成2年(1990)11月には中日友好協会のすすめるツアーに彼等夫妻と私達夫婦も揃って参加したりした。

そもそも彼とのこの縁は一学校の寄宿寮の一室から始まった。

昭和12年4月、お互い見ず知らずの少年が、この日から共に学び食らい眠る生活をすることになった。

私は17歳、彼は19歳だった。彼はその風格から「おっさん」とあだ名された。

卒業と同時に、就職したのは彼はトーメンの上海支店、私は新京の満洲鉱山であった。行く道は遠かった。

しかし翌年からの兵役は、奇しくも同じ戦場での戦いだった。二度すれ違った。

一度は衡陽であった。中国で日本が一番苦戦した戦場の一つである。私は部下とともに、昭和20年1月1日この日ここで夜明けを迎え、新春を祝した。その数百米も離れていない所に彼の職場自動車廠があったし、彼も居た。

もう一度は柳州である。終戦の年、ガソリンがなくて戦えなくなり,代替燃料のアルコール製造の技術を学びに私は桂林からやって来て、2週間滞在した。彼はその部隊に所属して居た。唯彼は任務が食糧調達という大仕事で、付近に出歩いていて寸暇もなかったらしい。

お互い存在すら知らないときだから、現実にばったり顔をあわす以外に知り様はなかった。

そして生きてるか死んでるか分らぬ戦後、昭和23年のある日彼が突然私を訪ねて来てくれたことがあった。

商売の都合で岩國に来た時、誰からか聞いて、私の職場に元気な顔を見せた。

その時か或はいつか、新しく事業を始める話を彼に打ち明けていたのであろう、かれもそれを気遣っていたらしい。

きっかけは思いも掛けぬ所からやってきたわけだった。

爾来ほぼ70年にわたる縁故である。

もしあの世が在るのなら、どうしても逢いたい最初の人である。

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2013年6月18日 (火)

同郷の人、やはりどこか違うんだなあ

家内のカード3枚がいくら探しても出て来ないので、とうとう二つは電話で紛失届を出し、郵便局のカードだけ出かけて 行って、再発行をお願いする。

未だ悪用はされていないらしいから、外で落としたり盗難とは考え難い。やはり物忘れか。

私も大分以前うっかりしてゴミ籠に落ち込んだまま廃棄したことがあって、後に気がついて4枚ばかりカードを再発行してもらったことがあった。それとも違うらしいのだが、忘れるということはもうどうしようもない。

だんだんおかしくなるな。

老いるとはこのことをいう。避けて通ることは出来ない。

広島ガスの宗村正弘営業課長と担当の原田さんが今日来宅、風呂場建設の件やっと妥結、8月頃工事にかかる予定とすることになった。細部に未だつめる所があるが、大約133万円かかりそうだ。

宗村さんは岩国出身で私同郷だと云う。室木の原田に長く住んでいるとのこと。

郷里のすぐ近くだなつかしい。

長男の子が女の子で可愛い。facebookに沢山の写真を寄せている。まだ若いけどおじいさんなのだ。

長寿時代のおかげで世代が錯綜して、うっかりすると時代の経過を忘れそうだ。

朝から曇っていたが夕刻未だ降って来ない。うっとうしい一日だった。

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2013年6月19日 (水)

最期は人も物も皆ゴミだ

資源ゴミの特別回収日、ポリ袋に入れて雑誌など一括して棄てに行く。裸で棄ててるのが多いが、濡れたらどうなるのだろう。

予報では今沖縄の南方に居る台風4号の影響で大雨になると云う。 

午前9時半横殴りの雨が降り始める、いよいよ始まりかな。ゴミはもう捨てた後だからしかたない。

身体は動かせる時動かした方がいいとは、わかってるつもりだったが、分っては居なかったようだ。

布団や毛布、こたつ掛け、敷きなどなど、季節の移り変わりとともに、入れ替えがいやでも必要だ。

家内がやってくれてるから、知らなかったが案外大変だ。シーツを外したり洗って付け替えたり、余分な付随仕事もある。

家内が病気でダウンしたから、手助けするつもりが案外楽ではない。

私も若くはないから、息を切らしながらやる以外ない。

この先どうなるやら、そっちの方が不安になって来た。

私のゴミといっても、戦争で全部なくなり、それ以後4回も転居したのだから、その都度整理し今の家を建ててからは丁度40年である。知れたものである。

その気になれば簡単なはずなのだが、ゴミ同然のものでも、人には分らぬ愛着がある。

これが一番重要である。愛着を吹ききることは容易ではない。

やはり死ぬ間際までどうしようもないことだと思わざるを得ない。

昨日も工事をすれば産業廃棄物が沢山出るからいっしょにすててもいいですよといってくれたが、それもいい、お願いしようかな。

最終的には子や孫にまかさざるをえないが、幸い文句が出そうには無いので安心していいらしい。

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2013年6月21日 (金)

私のiPhoneの真価

雨の中を広島総合病院に行く。耳鼻科と皮膚科の診療が相次いである。

10時半には終わって、ガソリン給油までして帰宅する。

家内は電車でリウマチ診療所に出かけていない.お互いに忙しいことである。

診察の待ち時間にはiPhoneのi文庫から漱石の虞美人草を読み返している。うんと若い学生の頃か、読んだことのある懐かしい小説である。

人事の葛藤が面白く最期は悲劇で終わる漱石特有の皮肉を込めた人生哀歌だが、感想は今も昔も変わらない。

只人間生活様式の違いはもう歴然として、今頃の若者には理解出来ない物があるだろう。

私には未だよく判る。

だから退屈な時間が面白く、なんなく過ごせる。

病院の中ではネットには入れない。AirStashを持参したのだがそれでも駄目だ。読む物には不自由しないが、ネットに入れないのはやはり残念だ。

昨日も内科の看護婦さんが、そばに寄って来て私の読んでる物見せくれと云う。もう一人の年増の看護婦がこの人はブログを書いてるのよと、口を出す。それも見せてという、出してやった画面を熱心に読む。

丁度暇な時間帯だからよかったが、要らぬ邪魔をした。

彼等が忙しく私は退屈なときこそ好機なんだ。こっそりと誰にも邪魔されず、邪魔もせず、それこそこのiPhoneの真価だ。

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2013年6月22日 (土)

ボケ老人では無かった

台風4号は昨日午後九州の西方まで来て消滅した。上陸したら一気呵成にこの地方を襲ったんだろうが、これも天佑かな。

思いがけないことが起きるから、専門家の予報官と云えども油断ならない。

今回は良かった。

おかげで雨も上がったらしい。

家内は植物園に菖蒲を見に行こうなどと私を誘う。

昨日病院で7時半に診察室前について、窓口が閉まっている時、耳鼻科と隣の皮膚科と両方に診察予約券を受付籠に入れておいた。

前回耳鼻科の先生が、私のカルテを見て、もう一度次ぎに診させて下さいとおっしゃりながら、6月21日に皮膚科があるからその前にしましょうとおっしゃった。

わざわざ私の手間を省いて下さったわけだった。

8時半から診察が始まって、皮膚科の看護婦さんが私を呼んで,貴方は9時半なのにもう出てるけど間違いではと聞きに来る。経緯を話すと納得、耳鼻科が予定通り終わると,終わりましたと連絡する、するとすぐ皮膚科の呼び出し、うまくいったなとほくそ笑む私。

なにごとも分り合うということが大事。

ボケ老人と思われた所を,逆転出来たわけ。

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2013年6月23日 (日)

娘等も出雲参り

日曜日はどこにも出ない.老人の生活原則と心得る。

天気もよくないから浮かれ出る気にもなれないが。

さりとてうちにいても退屈だ。

昨日買って来たSonund it!をいじってみる。午前中いっぱいかかっても物に出来ない。

もうこれしきのソフトが思っても、暫く進むともう始めがどうだったか思い出さない。

一寸の間も記憶が残らなくなった。もう駄目だな。

あれこれといじくることが多くて老人の手には負えない感じだ。

今日の所はmedia playerで何とかごまかす。

録音しておきたい音楽があったので。

東京の娘が飛行機で出雲から鳥取,天橋立まで次女を連れてツアーに来て,昨日帰京したが、雨に3日間濡れ通したと報告が来る。私達は雨どころか雲さえなかった3日間だったのに、それは悪かったなである。

しかし楽しいいい旅行だったという。若いからなあ。

三朝温泉が特に良かったと言う。私は残念ながら、あそこは何度も側を通ったが縁がなかった。

子供の頃から有名な温泉だが、道路から外れてるからどうも縁がない。

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2013年6月25日 (火)

今の世の中、なんでも無いものはない

朝一番に昨日壊した棚を細かく廃材にしてゴミとして棄てに行く。

結構重いので大変だ。

心臓の弱りを痛感。もうくたばってもいいと思いながら行くのだが,なかなか思い通りには行かない。

昨日ガス会社の原田さんがTOTOの人を連れて来てサイズ取りをして帰る。見積もり価格の件で折り合いがつかなたったので,TOTOの新型にして貰って,133万9千円で決着したのだったが、正確な寸法取りはまだだった。

間口が15センチ狭くなると云うがしかたがない。奥行きはほとんど同じである。

それでも井上のマンションのより大分大きいという。老人二人こじんまりした方がいいのでは。

工事着手は8月になるとか。

死に際に風呂だけ良くしてもどうってことないが、家内が希望するのだから逆らう訳には行かない。

せいぜい身体を綺麗に保ち,子や孫達に嫌われないようにすることも大切なことだろう。

室内の物干竿にいつまでも洋服類が掛かっている,少し気になっていたのだが、家内は簡易衣装掛けとでも呼ぶべきか,カバーの付いたそれを買いに出かける。

2千円もしないのに驚く。

帰宅してから組み立てを始める.案外面倒である。2時間もかかってやっと立ち上がる。

安いだけにちゃちなものだが、10着位コートがかかりそうで、まあ整理には役立ちそうだ。

最近はなんでもありだなあ。

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2013年6月26日 (水)

忘れた頃にやって来る自然災害

朝からかなりの雨、市内で昨日土砂崩れがあって、人の死が伝えられている。そう遠くない所だから心配である。

何年か前にも近くで大きな土砂崩れが起きた。

新開発の激しいわが町だから当然起きるべくして起きたのかも知れない。

自然災害は人間の盲点をついてくる、よく回りを見渡して自分で守る工夫をする以外に道はないな。

よく考えてみると、日本は狭い島国だから、山河は同居している。

古来雨のたびに河は山を削り,平地を作っている。

人間はその恩恵を多分に受けてくらしている。文句を言える筋合いはない。

私のように長く生きてると、つい先だって流れ出た平地の上に,沢山の団地が出来ている。

大丈夫なのかいなと密かに心配である。

現実には雨ばかり降るとは限らない。逆に日照りで枯渇して,岩のような地形に変化することもありうる。

半世紀、ひと世紀何でもなく過ぎる。過去は忘れ去られる。

世の中、そんな物では無いかなあ、お立ち会い。

地震とか、火山噴火、津波とか大きな災害ならいざしらず、自然崩壊ともなると、百年、二百年いやそれ以上のスパンで考えないと駄目である。凡そ私などの出る幕ではなさそうだ。

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2013年6月28日 (金)

浦島太郎の見た世界

昨日の足の後遺症が残って歩くと痛い。びっこを引かざるを得ない。

9時過ぎがス会社の原田さん等が車で迎えに来る。

TOTOのショウルームに案内する為である。

現物見本を見ながら詳細をつめて行くわけである。

コンピューターを駆使して,色調や形式を表示して行く。新しい商法だなあと感心する。

こちらの希望を叶えて,見積もり図ががっちり出来上がり,そのまま印刷されて契約書附図となる。

もう安心である。後は任せて途中最寄りのデパートに降ろしてもらって食事をする。家内が永い買い物を済ませて、やっとタクシーを拾って帰宅する。

コンピューターは商業の世界をまるで変えてしまった。

無為徒食している間に、日々テレビに映し出される生活日常は、奥深い所でこんなにもなっているのかと今更ながら驚嘆する。僅々十数年間のことである。

こともなげに立ち働く若者達の姿、なにがこんなにもと、正に90老人には浦島太郎の世界の実現を肌で感ぜらるを得なかった。

帰路宇品付近の変貌の姿も脅威に受けとめた。

明治大正昭和に掛けて,大陸進出の起点であり終点であり続けた,宇品港の姿も,往時を偲ぶよすがとてもうない。

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2013年6月29日 (土)

私の道楽

足の痛みが軽くなった。機を失せずの手当が効いたのだろうか。

傷の付近を押さえても左程痛くない。歩いてもぎくっとくる痛みが乏しくなった。

もう2,3日の辛抱だな。

岩國空港の搭乗率が相変わらず70%前後と好調ならしい。8月には又格安料金を設定するとか。

料金が安くなれば当然利用しやすい、客が増えれば又安く出来る。相乗効果と云える。

又東京に行って来るかのう、というと、家内が未だ見る所があるのと答える。

さてどこを見るかの、探すのが一苦労になった。

私はパソコンを習い始めたのは1983年63歳のときである。爾来丁度満30年になる。

次女が勤め先のお払い箱になったパソコンを家に持ち帰って勉強しているのを見て,俺にもやらしてみろと娘に教えてもらいながらいじらしてもらった。

なにしろコンピューター言語というのをマスターしなければ始まらなかった。

確か音楽のカセットテープに保存するのだった。ソフトも本屋で詰め碁のそれを買って来て始めた。

小さい子供の遊び道具と一緒である。

そのうちワープロというのが出始めた。1985年娘が買ってくれと云うから、電器屋さんのダイイチでリコー・マイリポートとというのを買った。2月9日に注文して4月17日やっと手に入った。二〇数万円した。

表示窓には一行出るだけである。文章を書くには短過ぎて、全体像は頭の中で憶えておかなければならない。

相当な記憶力が必要だった。

5年経ち,ワープロブームになった。1990年天満屋デパートからカシオ・ワープロというのを買った。

これは本格的なもので、会社の会計は勿論私的な日記、各種目録など利用出来る物はなんでもやった。

1994年にはパソコン通信をするためNTTに交換機を取り付けらした。そしてすぐプロバイダーのNIFTYに入会し、インターネット利用を始めた。

電話線利用だから電話料がドンドンかさんだ。

ワープロは保存容量があまりにも少な過ぎた。フロッピー一枚せいぜい1.2Mbitである。

パソコンを買わざるを得なかった。

千代の婿のすすめでAPPLE LC575というのを35万円位出して,1994.10.8 秋葉原から通信販売で購入した。

私の道楽の始めはこうしたことだった。私ももう74歳になっていた。

学ぶのはもっぱら雑誌やパソコン通信だった。皆丁寧に教えてくれたなあ。

晩学を哀れむ友愛精神が豊富な仲間達だった。

然し金がかかったなあ!毎年100万円以上出費した。

家内の苦情が絶えなかった。

我が家の金食い虫だった。

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2013年6月30日 (日)

日記、それは空しいものか

高曇りの空、梅雨前線が日本列島に並んでいるのだからどうしようもない。

しかし息苦しくないいい気候だ。一年中で一番いい季節だと私は思っている。

昨日は私のパソコン歴に付いて書いたが,正直な所こんなに半世紀を貫いて,付き合うことになろうとは思っても居なかった。

ともかくも万人の思っていることと同じで、何よりも便利が良い。

そして記憶力抜群で、必要な時すぐ引き出して利用が出来るなんて、素晴らしいとしか言いようがない。

私は18歳のときから日記を付けているが、これも確かな記録である。しかし今となっては膨大で必要が起きた時探すのには少々の手間ひまではどうにもならない。

パソコンに入れておけば一発である。

早い機会にそのことに気づいた。

古い日記は全部ワープロ&パソコンに入れた。かなりの時間がかかった。

1980年代の初めからは、日記帳に書くのは止めて,ワープロ,パソコンと最初からこちらで書き保存する。

年々まとめて印刷して、本来の日記帳にはしている。

そして特に必要なことは年表を作って拾い出した。

家内などは大いにこれを得としている。

人生は日常の繰り返しだから、古い記録が何よりの参考になる。

時には忘れてはいけない重要な案件も記録から引き出せる。

ただ個人の記録だから,他人様にはなんの役にも立たない。少し世の中のことなど、ついでに記録しておけばよかったかなと思わぬでもない。

私が死ねば膨大な記録もゴミにしか過ぎない。膨大と云っても電子記録だから目方は知れている。

やはり、なんとなく空しい。

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