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2013年5月29日 (水)

井伊家の世田谷代官の日記から

梅雨入りを伝えられただけのことはあって,今朝もかなりの勢いで降り続いている。

昨日も雨の中を,楽々園に出かけ,買い物や食事を済ました。

家内も食事の支度から始末までするのがつらくなったらしい。愚痴が多くなった。

聞くのがいやだから,外食を誘うようにしている。

昨日はざるそばであった。

たまに食えばおいしい。

本屋で「世田谷代官が見た幕末の江戸」という本を買って帰る。

世田谷が井伊の領地だったとは知らなかった。江戸時代家光の代から,明治維新まで井伊大老家の台所を支え続けたわけだったらしい。そして大場家も終始代官として律儀に努めたようだ。

世襲制度時代のことだから珍しいことではないが、男の子が居なければ養子を迎えなければならず、世襲が転々として苦労していることはこの家も同じのようである。

桜田門外の変前後からこの主人公の日記が始まっていることは興味がある。

明治に入って73歳でなくなるまで代官を補佐した主婦の日記ということで歴史的な意義がある。

ついでだが、徳川慶喜が政権を返上した後,井伊氏も官軍に味方し一緒に江戸攻めに東上して来たとはしらなかった。

世田谷の代官もさぞ困っただろうな。天皇の行幸を迎えに品川まで出迎えたとある。

江戸時代の日本人の意識の不思議さが思い知らされる。

庶民の書き物だから、底にある単純なアイデンティティを感ぜざるを得ない。

最近よく思うのだが、米軍は日本が降伏のシグナルを何度も挙げていたあの8月の14日に何故あんな大量爆撃を、しかも民間人の沢山乗っている駅の列車を目がけて実行したのだろうか、戦争だから人道もくそもあるものかと,米軍は思っていたのか。

その真意が知りたい。戦後確かに日本難民を救済する手段を沢山講じてくれた。

日本人の恨みを随分和らげてくれたことは事実である。

だが原爆といい、この爆撃といい、人道を云々する米軍の行為とはどうしてもつながらない。

やはりお題目と現実とはいくら余裕のあった勝利者でも違っても仕方がないということか。

大戦後もアメリカは数々の強引な戦争を実行して来た。いつも同じ様な大義名分を唱えて。

大量の犠牲を強いて,結局はその名分通りに行ったとは思えない。

私だけがそう思っているのだろうか。

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コメント

以前、テレビで原爆搭載機に搭乗していた、元アメリカ兵は「何処に原爆を投下するかは我々の気分で決めることができた」と話していた(皇居も候補地だった)。日本人を侮辱するために、シンボルである富士山を赤く染めてやろうという作戦もあったとか。
資料として保存するために映像記録の準備をして、原爆を投下した。日本人を被曝実験したとしか思えない。日本も戦争に負けるのをわかっていながら、情報操作したり余裕をアピールするために大相撲を敢行したらしい。「ギブ ミー チョコ」と言いながらアメリカ兵を追いかけている子ども達の姿とは…

投稿: しろまる姫 | 2013年5月29日 (水) 11時49分

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