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2013年3月 9日 (土)

親父のコダックカメラ

Photo

  (雪の赤名峠を行く私)

連日の好天気にかげりが出て来たか、いや黄砂が飛んで来たのかも知れない。

気象庁の発表でも、PM2.5と一緒に、黄砂の飛来を告げている。

福岡がひどいらしい。

朝の気温は9度、昨日は10度だったから、連日春の気候に間違いは無い。

昼中は20度近くなるのだろうか。

昭和20年8月14日の米軍の空爆で、我が家は一瞬のうちに壊滅した。

ほそぼそと残っていただろう父の記録も無くなった。

私が21年6月に生還したとき、廃材と化した我が家を見て、敗戦を実感するとともに、もう何もかも再出発するしか道は無いなと覚悟させられた。

今から取り上げようとしているコダックカメラも空爆で破壊されたか、二度と私の眼前に現れることはなかった。

93歳と云うこの年齢になって、却って一頃の私より幼時の記憶が、広がった気がする。

頭の隅の方の細胞に、押し刻まれたイメージの存在を意識することが出来る。大正13年(1924) 家の新築時、たき火を囲んで親父と施工者の高崎棟梁との談笑の間、数え年5歳の私は彼等の手から手へたらい回しされた。

新しい家に移って、古い家は貸家になった。最初はさんぶいちのおばあさんだった。続いて村重のハワイ帰りの老夫婦が家を新築する間、借りて住んで居られた。

よく私を可愛がってくれ、珍しい洋風のベッドの上で飛んだり跳ねたりした。

次は川戸さん一家であった。私より年上の姉弟がいて、時々はいじめられたりしたが、あまり相手にはしてもらえなかった。

その次が先日も書いたおっちゃん一家である。

昭和9年(1934) 3月、顔かたちになんの覚えも無い親父がアメリカから帰って来た。

持ち帰った土産物がどんどん送られて来た。

大きなトランクにコーヒーの大きな缶詰がいっぱい、大きなオートバイが一台。これらは忘れられない。

この狭い日本で、ろくでもないでこぼこ道路をなんでこんな大きなオートバイで走るつもりなんだろうと、皆呆れた覚えがある。

私が注文したマーブル(ガラス玉の遊び道具)も忘れずに一箱入れてあった。これは当時流行した子供の遊びだった。

後で気づいたのだが、そのときコダックカメラとフィルムが何本かあったことだ。

昭和13年(1938) 3月下旬、神村君と二人で自転車で出雲大社参拝を決行した。

其の紀行は別稿「私の出雲自転車旅行」に詳細載せている。(ホームページ「語り継ぐ戦争の記憶と昭和の声」)

先日神村君にあったとき、彼が突然「あのコダックカメラは凄かったなあ」といい、あのおかげで記録が残ったと云った。

思いがけない彼の言葉だった。私すら忘れていたのに、彼がそれをこの今口にするとは。

親父はふだんから無口の木念仁だし、カメラを弄くり回す人とは別人だった。

唯単に思いつきで買ったものに過ぎなかったと思う。

だから誰も使うことも無くそこら中を転がり廻っていたのだろう。

旅行に行くにあたってふと気がついて、私が持ち出した。フィルムも持ち帰ったまま何本も残っていたからもったいないなとおもったのだろう。

操作など親父にならった。記憶力は確かな親父だった。

カメラはほとんど役には立たなかった。昔のカメラはシャッター一発では無かった。シャッターを押して1、2秒置かねばならなかった。もちろん2度押しの場合もある。

大体フィルムの感度が今のものとは雲泥の差があった。

だから光度不足で真っ黒だったり、ぶれて分けがわからなかったり。

僅か数枚だけが助かったというお粗末だった。

其のカメラも終戦前日の空襲で家もろとも壊滅した。

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