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2013年2月 2日 (土)

昔も今ももうすぐなくなってしまう

夜中に雨が降ったらしい。

今朝の気温は9度ともう春だ。

インフルエンザが流行っているらしい。イの1番にやられた私はもう大丈夫だろうが、マスクは怠らないようにしている。上京する前に予防接種して行ったのだったが、掛からぬと云うものでは無いらしい。

咳は酷く、耳はとうとう聞こえなくなるし、食欲は何週間も無くなるし、影響は大きかった。

予防してなかったら死んだかも知れない。

昼前灯油をガソリンスタンドに買いに行く。自動販売だが、店員さんが見かねて車への上げ下ろしを手伝ってくれる。親切な若者である。

家の前の階段はてすりに助けられながら、もって上がる、これが大変になった。

帰宅したら、折から灯油販売の車がスピーカーの大きな声で、注油してあげるからタンクを出しなさいと、こちらの後ろ姿をみかけたかのようにどなる。リッター@¥169.といっている。

私の買って来たのは@¥97.となっている。

えらい違いだなあ!聞き違いかな。

日本うなぎが絶滅の怖れが出て来たと云う。おまえもか。

現在のふかふかした泡の様な蒲焼きにうんざりしている私だが、随分昔から在来種は居ないものと思っていた。

しっかりした美味しい肉厚の感触は、もういなかにいても味わうことは出来ないかも知れない。

孟宗竹の筒をダブに沈めて安直に取って食っていた我が家でも、爆撃と日本改造で戦後はお目にもかからなくなってしまった。金輪際あの時代は帰って来はしないだろう。

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2013年2月 3日 (日)

東京事情

先日の映画「東京家族」を見て、感興はそれほど湧かなかった原因を今思い返している。

昨年末押し迫って、私ら夫婦も娘の家族を訪ねて、飛行機で上京した。

娘の出迎えに疎漏はなかった。しかしラッシュの時間を外して、夜の8時過ぎ、羽田から首都高速を世田谷の先までタクシーで走った。

結果は1時間少々かかって、¥12000.取られた。

安い航空料金で来たのだったが、こちらの方が遥かに高く付いた。

娘の話では、今の東京は自家用車で気安く走れる所ではないとのことであった。

旧友に逢ったり、アップルストア、松陰神社や桂太郎の墓、スカイツリー、新東京駅など予定した場所は娘の案内で、宿まで用意してもらって、全部タクシーで走り回った。

予定以上はなかったが、全くスケジュール通りちゃんと東京見物を済まして来た。

東京家族の老夫婦は、予定はもちあわせて、いなかったようだが、近寄るべき都会では、東京はすでになくなっていた。作者もそれを云いたかったに違いない。

今北京がスモッグに悩まされているという。

丁度十年前私達も北京を訪れたことがあったが、すでにスモッグは市中を漂い始めていた。もう対策が遅過ぎたといってよい。

こちら夜の東京は美しくよく晴れて、交通事情こそ悪かったが、十分観光にたえた。

その東京もオリンピックなどと叫んでいる。

現状の交通事情では無理だと感ぜらるを得ない。

他山の石もそう遠くはない、

オリンピックなどというものは、冬季と同じく本来の理想通り、美しい広々とした環境のもとスポーツオンリイでやるべきであり、商業主義を排除すべきだと思うがどうだろう。

それとも毎回同じ施設を使ってギリシャでやるとか。

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2013年2月 4日 (月)

春雨

朝起きると外はしょぼしょぼと雨、いよいよ春だな。

あの軽業芸の市川団十郎が66歳で死んだ。改めて寿命の不可解さを感ずる。

もう少し生かしておけばと思ったりするがどうにもならない。

もちろん歌舞伎に興味だけはもってたけど、貧乏で金もなければ暇もない身では、どうどうと表口から見物に出かけたことは一度も無い。。

タダの立ち見席から、奈落の底の舞台を、時々見下ろしたことがあっただけの、遥か何十年も昔の思い出だけが、私の歌舞伎経験である。

でもテレビや映画のおかげで、歌舞伎を齧ること位は出来る現世である。

名優の死を惜しがって悪いと云うこともあるまい。

玄関の温度計は7度を表示している。降るとも降らぬとも分らぬ雨、春雨じゃ濡れて行こうと、小さな庭先をぐるぐる歩く。酔狂なことだなあ!

少しは暖かさを感ずる喜びが、心を突き上げているのかも知れない。

家内が又マーマレードを作って、娘のうちにやると云うので、15個ばかりの夏みかんの身を取り出して作ってもらう。

もちろん大半の仕事は家内任せだが、皮を剝いて身を取り出すのは結構お手伝いにはなる。

炊き上げるには半日は掛かる。とても私にはできない。

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2013年2月 7日 (木)

地球の不安要因

右耳の再手術後別に異状はない。

管を入れたのだから、鼓膜に穴があいたままなのだろうが、不思議な気もする。

現代医学は素人には理解出来そうにない。

もう長くない命だから、仮に問題があっても当座が凌げれば良しとすると云うことか。

朝気温は5度とまぎれもない初春のあたたかさ、多少の波乱はあっても一年で最高の季節の始まりである。

今朝の新聞では約30トンの惑星が地球と月の間を通り抜けるという記事がのっている。

絶対ぶっつかることはないから大丈夫とある。

剣呑な話だがほんとに大丈夫なのかなと思ったり。

昨日のソロモン海のマグニチュード8の大地震の日本への影響は、津波は最高20cmくらいで、影響はなかった。

が何せいろいろ起きるから、安穏と云うわけに行かないこの地球住まい、逃げることも大事かも知れないが、まああきらめが肝心だな。

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2013年2月 9日 (土)

立つ鳥跡を濁さず

朝は零度と冷たい。夏みかんは昨夕南に着いた由。今朝既に食べてるとか。

放っておけば昨年のごとく春先には大量を腐らすと、家内は大心配していたが、娘等が何とか消化してくれそうだ。一応一安心。

鞠子は上手に果物も作っていたが、農作業のベテランだったから土の培養が違っていたのであろう。

やはり根本は土だろう。訳の分からぬ庭木の中に、唐突に植えられた果木にサー美味しい実を付けよと言っても無理な相談だろうな。

皮は固く厚いし、酸っぱくて甘みは乏しく、汁気も少ない。

ジャムにするのが精一杯の用途であろうか。

老体での管理は無理なので、来年は切り倒そうかと家内も言い出した。

仕方がなさそうだな。

松ももう管理が難しくなって、シルバーの厄介になっている。私と一緒にこの世を終わらしてはどうだろうかと気にしているこの頃である。

跡を濁さずと云うことは大変なことだと思い知る毎日である。

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2013年2月10日 (日)

田中角栄

雲が殆ど見えない快晴の朝。

昨日本屋で文庫本の列から、「田中角栄」という新刊本を見つけて買って帰る。

稀代の傑物だった彼の素顔を知りたくなったからである。

ロッキード事件で懲役4年の一審判決を受けたまま、審議未了でこの世を去った。

その豪放な施策と大胆な金権腐敗の政治を造り出した張本人とも云うべき人物だと私は理解しているのだが、織田信長ではないが、こんなのが一人二人といなければ、世の中は変らない。

彼は私より2歳年上で、早くから政治家を志した一種の天才であろう。

彼が39歳で郵政大臣になり、党三役になるなど、活躍をはじめたころ、私はある事業の資金繰りに困って、政治家の伝手を求めて、赤坂界隈をうろつき回ったことがあった。

私は結局当時通産次官だった中川俊思代議士の世話になったりしたが、当時政治記者どもが有力な手がかりとして、角栄を勧めてくれたりしたものだ。唯事業地盤が違っていたのでコネを得ることが出来なかった。

評判のいい頼りになる政治家として、人気が顕著な代議士であった。

彼の毀誉褒貶の大きさは、昭和はおろか現代を通じて及ぶものが無いほどであるが、やはり戦後の混乱をうまく利用した風雲児であろう。

この本の著者は朝日新聞の新米政治記者としての、初期から角栄番をさせられ、その死に至るまで関係があったと云うのだから、かれをよくしる希有の存在と云うべきであろう。

微に入り細に入り、絵本太功記を読むように面白い。

角栄を今太閤と呼ぶなどしたことがあったが、政治と云えども敵味方入り乱れて、政戦と呼ぶくらい、昔の戦国時代と違うところはない。

奇しくも死後20年経ったのだそうな、一読の価値は十分あると見たがどうだろう。

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2013年2月12日 (火)

国を賭しての賭け

0度の朝、まだ寒さはつづく。

妙なもので、春先になると先の無いこの老耄でも明るさがともった様な気持ちになるから不思議である。

といって、寿命の永さに変化はないはずだが。

北朝鮮が核実験をやったらしい。今度は10キロトンらしいから本格的もいいところだ。

国連も騒ぎ立てるだろうが、アメリカが果たして実力行使出来るかどうかだ。

このまま引き下がれば、緊張を引きずったまま永い永い交渉がつづくことになるだろう。

大した国である北朝鮮は。というよりキンジツセイ一族の執念というべきか。

先々どうなるか、金一族の滅亡はあっても民族の滅亡は無い。

一か八か、この賭けどう出るだろう。

左顧右眄に忙しいどこかの国の為政者達に爪の垢でも呑ませてやりたいものである。

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2013年2月13日 (水)

とかく、人の世は住み難い

広島総合病院耳鼻科に出かける。相変わらず一番乗りである。

今回は事前の兆候に悪しきものは何も無い。

来月まで薬は服用しながら様子を見ることになる。

帰宅後、その足で楽々園に出かけて、店店を廻り歩く。寒さもあってか人も車もまるで少ない。

老人のいこいにはもってこいだった。

昨日年金機構から改定通知書なるものを寄越す。5年以前は時効だそうだ。手前5年分は毎年度ごとの源泉所得税通知票が送られている。

これで申告しろと云うわけ。

2月15日を前にして送って来る。さても抜け目の無い所行だなあ。

5年分合算して申告しろと云うのか。

この老耄に今更どう処置しろと云うのだろう。

こうしたことは畢竟生きてるから降り掛かる業みたいなものか。古来、とかく、人の世は住みにくいを常とすとはいうが。

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2013年2月14日 (木)

ゴミを捨てるにも知恵が必要

ビデオテープ28個を棄てるのにこんなに苦労するとは思わなかった。

今は有料の薄い緑色のポリ袋に入れて棄てなければ、収集車が持って帰ってくれないから、大黒様のように只袋に入れて、肩に担いで持って行くようには出来ない。

袋が破れてテープがバラバラに散乱したら目も当てられない。

全く恐る恐るの扱いである。

寒空にはげ頭が冷え上がって痛い。脳しんとうでも起こすのではと心配しながらやっと集積所まで往復した。

テープはまだ500個以上は残っている。生きているうちにとても棄てきれないであろう。

子孫に迷惑をかけるが仕方がない。

改めて綿密に袋の容積を計算して、1袋20個ずつ入れることにして,1度に40個づつ棄てることに入れ方を少し変えた。実験してみて大丈夫なことが分った。今後はその割合で進捗するであろう。

それにしてもかなりかかるなあ。月に一日だけのチャンスだから、忘れないようにもしなくてはならない。

最近はゴミの棄て方にも随分知恵がいるようである。

案外良いことかも知れない。

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2013年2月15日 (金)

傷害保険の効用

昨日はiPhoneのボイスメモで親友神村君と東京で出会った時、3時間ばかり雑談した模様を聞き直す。

ただ喋るだけではほとんど記憶に残らないが、こうして逐一録音していると、当日の風景まで思い出して新鮮である。

昨日逢って話をした様な錯覚が今も頭に残っている。

寿司屋や喫茶店の中での録音だったから、騒がしかったし、あまり期待していなかったのだが、予想外に鮮明に会話を捕らえていたのには驚いた。

孫娘がベルギー留学の時持たせた私の使い慣れたボイスレコーダーよりは余程良い録音状態だった、性能が進化したのであろうか。或はアイホンがすぐれているのだろうか。

耳が悪くなる位だから、三半器官も悪いのだろう、部屋の中でもよろけることが多くて、危なくて仕方がない。無意識の動作だからこれは危ないぞと、神経を逆立てているのだが、どうしようもないらしい。

防ぐ手だてはどうやらできるだけゆっくり動作することらしい。

これが公衆の中では、結構難しい。他人との調子がまるで合わないからである。

人の多い所には顔を出すなということでもある。

今は着膨れしているから、ものに打ち当たっても、くろじりになるだけで怪我までにはいたらない。

暖かくなり、薄着になると、またぞろ怪我の絶え間が無くなるかなと、今から心配している所である。

幸い傷害保険には保険会社の岡本さんが一方的に入れてくれているので、もう2度世話になったが、最終的には受取金の方が多くなるかも知れないな。

もっともこれはこの歳まで運転を止めない私に、岡本さんが無理矢理押し付けた保険なのだが、火災保険と違っていくら入っても複数相殺し合うことが無いから、損にはならないらしい。

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2013年2月16日 (土)

人智の及ばないこと

気温2度、でも少し寒いかな。

ロシアに約10トンの隕石が降って、千人の人が怪我をしたと報じられている。やっぱり地球は一つなのだ。どこに何が起こるかわからない。

北朝鮮の核実験で世界が揺れているが、いずれ早かれ遅かれ世界中核武装は防げない問題と思われてしようがない。そのうち韓国も日本も追い込まれてしまうのではあるまいか。

留める方策はアメリカにも国連にももうなさそうだ。

核大国のロシアはもとより、中国、フランス、イギリスなど保有国は鳴りを潜めて、出方を伺っている。

使わないとは言ってないよとの意思表示である。

これでは北朝鮮を抑止する力は無い。

思うに北朝鮮は先の先まで見通している。賢明だというわけである。

イラク戦争では、嘘の情報に振り回されて、米国は大犠牲を強いられた。

二度とは国民が許さないだろう。

世はコンピューターの時代である。しかし戦術の基本は先制攻撃にある。真珠湾の教訓は70年前も今も変わらない。下手するとボタン一つで終わってしまうかも知れない。

その魅力に取り付かれ、実行可能なのは小国のみである。

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2013年2月17日 (日)

イソップ物語を思い出せ

ようやく春めいて来るとなんとなく元気が出て来た感じがする。

痛い痛いとリウマチの痛さをこぼしながらも、どこか近くの温泉へでも出かけたくなるらしく、旅行社のチラシ類を見ながら家内が私の意欲を確かめる。

妹達を誘って何人かで行けば言いだろうにと云えば、其処までは気が進まぬらしい。

なんとかかんとか言って、うべなわない。

とうとうほだされて、念願だった平戸とその付近の島々の見物の入った2日間旅行が、老人にも無理が無さそうだし、いいだろうということになった。博多までは新幹線であり、唐津経由で平戸へ渡り、生月島より九十九島を眺め、陸路を佐世保に行き一泊、翌日有明クルーズをして熊本城見学、柳川の水路遊覧を済まして博多よりまた新幹線というわけ。

二日目の行程は過去何度か行っているので珍しくはないが、内容が変わった趣向で面白いかもしれない。

ロシアに落ちた隕石は10トンでなくて1万トンだという、広島原爆の30倍もの威力があると伝えている。人口まばらなロシアでも1200人の負傷者が発生したと云う。

落ちどころが悪ければ、東京やニューヨークとなるかもしれない。

防ぎ様は無い。

北朝鮮、度重なる大地震、大津波、そして隕石、まさに累卵の危うさの地球ではないか。

制裁などは止めて、むしろ温風を与えたらどうか。

貧困に追い込まずに、安楽な生活を与えれば、いくら、軍備精強な北朝鮮と云えど、国民は進んで死地に突進する愚を避けるであろう。

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2013年2月18日 (月)

神の警告

夜半からかかなりの雨である。

ロシアに1万トンの隕石が落下したと思ったら、時を置かず、今度は13万トンの小惑星が宇宙衛星と地球の間をすり抜けて行ったと云う。

もし地球にぶっつかったら、東京都の半分がちぎれて飛んで行くことになるとNASAは報じている。

爬虫類が全滅した歴史を地球は既に経験している。

何時の日か同じ経験を人類も経験しなくてはならない。

運命共同体のこの人類が只牆にせめぎあっていいものか、神の警告とは受けとめられないのか。

 

(次に産經新聞の記事を載せる)

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2013年2月19日 (火)

私の勲章

一昨日時ならぬ時間に、若重君の奥さんから電話を戴いた。

取り次いだ家内から受話器を受け取りながらはてなと思った。

家内が「若重さんがなくなったとよ」というからである。

私はすでに彼が亡くなったと云うこと誰かから聞いて、ブログにまで書いた筈だのに変だなと、奥さんの言葉にしばらく戸惑った。

いつですかと聞くと4ヶ月前だとおっしゃる、間違いではなかったとほっと一息。

私も例外でなく最近では物忘れが激しい。どうして2度も死亡通知を聞く羽目になったのだろう、一瞬夢でも見たのであろうかと驚いた。

ブログに書いたことははっきり覚えているから、話し終わってすぐブログを調べ、家内を問いただした所、すぐ分った。

昨年末の早い時期に死亡兼新年欠礼の通知をいただき、友人の相次ぐ死亡に驚いて又もかとブログに感想をのせたことがあった。

と云うのは、山口の今田君の死を先ず奥さんの電話で知り、東京の田淵君の死亡通知、川上君の死亡は確か情報誌からと重層した。

其処へ今度は若重君の死亡通知だった。

奥さんはそのブログを読まれた息子さんから最近その内容を聞かされ、お礼の気持ちから電話されたわけだった。

ブログにも書いたように彼とは同郷の親戚だし、同年のいわば幼馴染みであった。

中学時代は競争相手でもあった。同じクラスで彼は海軍へ私は商業の道をこころざした。

終戦後の彼は中電に入り、中電工の常務として功なり名を遂げた。

近くに居ても仕事が違い過ぎて、同窓会以外はほとんど逢う機会は無かった。

陰ながら彼の出世を羨みながら、喝采を贈った。

一方田淵君の方は、彼が日本紙業のえらさんをやってる時、商品売り込みのためいろいろ世話になってたし、岩中時代、高商時代と8年間も同時代に親しく付き合っていたので、すぐ弔文を送った。そして折り返しの長いお電話を奥さんから頂戴した。

しかし相次ぐ親友達の死は、早くお前も死ねという暗示かとも受け取らざるを得なかった。

丁度今年の8月岩國民間空港の話が確定的になった。

この空港はそもそも私の妻の先祖の土地、養魚場などが軍に強制買収され、幼少の頃の彼女は両親の仕事を手伝わされた因縁の場所として、家中の団欒にしばしば出て来る話題の一つだった。

また一時空港の民間利用が始まって、私も同僚を誘って、1958年1月にここから大分に飛び、別府に遊んだことがあった。

早速準備して、昨年末岩國空港から上京して親友神村君一家の人たちと今生のお別れを済ますことが出来た。

中学時代から8年間も席を並べて学んだ3人だったが、予期していたこととは云え、先立った田淵君の欠落を二人で偲び悲しんだ。

妻や子供等から見れば私の異常な執心(神村君に会いたいという)がふしぎだったらしいが、今思えば、誇るべき親友の多さだけが、私の勲章であった。

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2013年2月20日 (水)

ブログの効用

珍しく朝から快晴。日射しも暖かく心地よい。

市民税の申告も終わってやれやれである。

年老いて何もせぬ環境に身を置く癖がついて、税申告などと云う何時間もまたされたあげく、くどくどと些細なことまで追及されると、世の中が嫌になるくらいだ。

税負担に付いても、一つの家計で暮らしている夫婦二人の家庭で、税負担が別れてみたり一つになったりして、負担の案配がおかしいと私は感じている。

今回の申告でその疑問をぶっつけたのだが、こちらがその申請をすれば良いと分って早速今日電話でその要請をした。

ブログの効用で、このブログも子供等がちょいちょい見て居るらしく、私等夫婦の動静も自然と察してもらえるというわけである。

先ほども東京の娘が、平戸へ行くなら付いて行ってもいいよと電話をかけてくる。

彼女は度々家内の旅づれで欧州各地を旅行して喜ばれている。

付いて行ってくれれば、勿論心強い。

家内は旅行社に電話していたが、旅行日程は確定しているとのことで一応日付だけ後日通報することで申し込んだらしい。

娘はわざわざ飛行機で前日やってくることになるのだが。

便利は良いが金の掛かることである。それだけの値打ちがある旅になればいいが。

ここのところ家内も小学校以来の友達から毎日のように電話を受け、いささか持て余し気味のようである。

彼女等は私より9歳も年下なのだが、老い先の心細さがそうさせるのだろうか。

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2013年2月21日 (木)

人類は生き残るか

4月7日の阪急ツアーで平戸方面の一泊旅行が決まった。千代が付き添ってくれると云うことで、旅行社も了承してくれた。

同じ阪急ツアーの2010年4月のみちのく花紀行で會津で転んで怪我をしたことがあって、それ以来無理な旅行は慎んで来た。

あの時は、なにより1300段の立石寺の参詣が尾を引いた。

今回実現すれば久しぶりのツアーである。

長女の婿がちょいちょい近回りは連れて行ってくれるから、旅行の楽しみに不自由はしていないが、ツアーともなると多くの他人様に迷惑をかけることになるから、それなりの覚悟がいるわけである。

今頃の若い人は、私の時代の若者の様な悲愴感を持って海外へ出かけることはないようだ。

勿論戦争をしに行くのでないから、当然ではあるが、しかし先般のアフリカの事件のように、用心が必要なことは変らない。

戦争とは殺し合いだから、事実2百万もの日本人が死んだ。相手方はその倍は死んだろうから、数では比較にならない。

そんな戦争でも死なないで生き残ったものが多数いるのだから、人間とはしぶとい生物ではある。

今度の隕石なんかでも、爬虫類は殆ど全滅したが、人類はまだまだ生き残るだろうなと思わずには居られない。

戦争はほとんど若者ばかりが死ぬが、自然災害は老若男女を問わない。公平と云えば公平である。

しかし生き残ると云うことがどれほどのものか、横着な発言かも知らないが、それほど有り難くも嬉しくもないものであることは実感出来た。

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2013年2月22日 (金)

北国の大雪

市役所から後期高齢者保険料の徴収変更の用紙を送って来たので早速書いて出しておく。家族の分だけの変更などというのは例が少ないのか、記入要領が分り難い。いい加減にして出しておく。家族の名前など記入する欄などどこにもない、これで分るのだろうか。

永年事務経験のある私でも理解し難いことが、いろいろ出て来る、厄介なものだな法律とは。

珍しくここ2、3日腰が痛い。湿布するが治らない.一昨日は痛み止めを飲んで止まっていたが、今日は又痛い。仕方がないので、有り合わせの痛み止めを又飲んでおく。

 

北国では大雪でなんと5m15cmも積もった所があるという。事実家など押しつぶされたり大変な被害らしい。

やはり自然の力は恐ろしい。

ここらでは10cmも降ると大渋滞を起こし、仕事にならなくなるのだが、5mなどと云われると、まさに想像を絶して言葉も出ない。

こんなことがあると、いつも北国の人たちの苦労を思う。そしてこの身に引きくらべての運のよさを思い返す。

友人の札幌の山崎君がよく雪の風景写真を送ってくれてたが、良いことばかりではない雪の写真も、彼が居なくなったので見る機会も聞く機会もなくなった。

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2013年2月23日 (土)

おっちゃんの思い出

「おっちゃん」の思い出が又私の頭から疼き出す。

検索と云う手段があるから、昔日記に書いたことがある彼とのことが、簡単に取り出せる。

あの中で書いた様に、彼は小学校高等科を卒業して就職、私は3年後(私は当時小学3年だったから)進学の道を行き、何年も郷里から離れた。

当然お互いが交わる機会はうんと減っていた。

しかし彼は私がうちに戻っている時、飄然と私の前にしばしば現れた。

私の記録している日記にも、忘れて思い出せないものが度々出て来る。

専門学校1年のときの夏休みに、自分のものでもない他所のダブのポンポラを揚げて、二人でうなぎを取ったなど全然覚えがない。しかし私の日記にちゃんと書いている。

泥棒したことである。焼いて食べたのであろうか。そこまでは書いてない。

正月休みにはよくやってきたことは憶えている。彼だけでなくその他の滅多に来ない友人たちでもよく訪ねて来て、友人たちの鉢合わせになったりした。田舎の事だから人恋しいのである。

昭和15年の元旦に新天座に映画を見に連れて行かれた。何を見たかは書いてないからわからない。しかし彼は給料取り、私はまだ学生、当然かれのおごりだろう。

現在の様に電話や携帯などという便利の交際手段はない。手紙は返事を聞くまでには1週間以上掛かって間に合わない。いきおい訪ねるのが手っとり早いというわけである。

私自身も良くちょろちょろして、結婚した後でも正月3ヶ日はおろか、4日も5日も,家庭を顧みず家内に泣かれた覚えがある。ちゃんと日記に書いている。

彼は春休み、夏休みなどにもよく現れた。

しかし昭和15年も暮れに、軍隊に入るため1週間前に満洲から帰郷した年末31日に彼が私を広島に連れ出し、自分の職場まで案内し、初日の出を宮島の弥山頂上で拝もうと、引っぱり歩いた行動はどうしても不思議である。

もちろん家族には私の帰国を知らせていただろうから、そちらから情報を入手したのであろうが、広島に通っている身でいつ知ったのであろうか誰に聞いても分からなかった。

彼も最後の別れなどとは思っていなかっただろうし、原爆など考えた事もなかっただろう。

小さいときから肉親の如く育んだ私への思いがそうさせたとしか思い様がないし,霊感などというものが働いたのであろうか。

幼時の想い出がほとんどだから日取りなどは定かではない。彼の名前も「よしお」が本名だけど、漢字がどれになるか、聞いた事がないのでわからない。

私が気づいたときは、彼の家族は私のうちの別棟の納屋に住んでいた。

従って、両方の屋根がくっついて居て,その下に大きな通路があり、井戸も風呂も共用していた。

もちろんこの通路の両側には扉があって夜分は閂で閉ざされる。国道に面した扉は開き戸で、庭に面した扉は格子の引き戸だった。

子供には境界はないので、勝手に行き来していた。時には食事も彼のうちでよばれたりした。

小学校入学より先か後かも分からない。がともかく私より5つ年上の「おっちゃん」は何かにつけて私の先生であった。

彼には私が”おばさん”と呼んでた彼の母親と姉と兄がいた。おばさん以外は私には遠い存在だった。

いつもおっちゃんのけつについてその真似事をして、育ったようなものであった。

彼は物凄い読書家だった。その小遣いはほとんど豆本(手帳程度の大きさの講談本)に費やされたのではないかと思われる。読み終わると、私にくれて新しいのを駅まで行って売店で買い、又読み始めるの繰り返しだった。

大きな声で読まされた、そして内容を教えてくれた。

友達はいなかったのではと思う。彼が誰かと遊ぶことなど気づいた事がない。

こうして私が4年になった頃彼は高等科を卒業して何処かに就職(確かおばさんの伝手で帝人岩国工場だったと思う)し、私の父が帰国して来たので、納屋を明け渡して貰い、彼ら一家とはお別れした。

おっちゃんもやさしかったが、おばさんはもっとやさしかった。私をミーちゃんと猫を呼ぶ様な声で呼んだ。

この事は後に昭和14年8月21日の日記に、随筆風の思い出記として長文を書き残している。

この中でおばさんのご主人は戦争で亡くなっておられ、人絹工場で働きながら3人の子を育てて居られたことが記されている。

うちに居られた当時が一番苦しかった時代ではなかろうか。

ともあれ彼と道はすっかり別れて、彼は職場に、私は中学,専門学校と進み、どちらかというと私は彼を殆ど顧みる事などなかった。それでも前記のように、夏休みなど彼が水泳に誘ったり、うなぎをよそのダブ(養魚場)に取りに行ったり、したことが私の日記に出て来る。

私が学校が休みになるとひょっこり現れて、遊びに誘ったらしい。

昭和15年1月1日彼は例によって年賀に訪れて、私を近くの新天座という映画館に誘い出した。

その年の暮れ12月31日入営のため満洲から帰郷していた私を誘い出し、広島に連れて行った。

彼はどこでどうしたのか、勉強して広島市役所の建築設計の仕事に就いていた。

年末休みの役所の中の職場に案内し、やりかけの設計図のかかった設計机を示して得意げに説明したりした。

彼がこの職にたどり着いた道のりは知らないが、正規の学校も出ずにここまで来た彼に敬意は払わずにはいられなかった。

その帰路飲みに行き、夜になって小網町の遊廓に連れて行かれた。命を捨てに行く弟の様な友に贈るはなむけとでも思ったのだろうか。

宮島の弥山に登り初日の出を拝もうという段取りの、待ち時間としての1時間ばかりであった。

二度と生きて今生で会う事はないと思ったかどうか、彼のにじみ出る好意に甘んじて受け従う私だった。

予定取り山に登り、日の出を待った。

暗闇の中を上り下りするので足をくじいたりして大変だった。

しかし、彼とはこれが永遠の別れとなった。

5年後私が中支戦場をうろついているころ、彼は昭和20年8月6日8時15分原爆で還らぬ人となった。

兵役は免れていたのだろうが、戦は戦場だけではなかった。

相生橋付近を歩いていたのを見た人がいたと、後日おばさんから聞いた。

私を可愛い弟として最後まで気にしていたに違いないと思うのだが、死に近かった私の方がこの歳,70年近くも永く生きている。

人間の運命なんてかくも不可解なものである。

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2013年2月26日 (火)

五分五分ということ

少し春めいてはきたが、いつまでも寒い日が続く。

北国では大雪がつづいている。解ける間が無く降り続けるのだから大変らしい。

同じ日本列島でも北と南では随分違うんだな。

天候には勝てない、老いのそれと一緒で無力感いっぱい。

札幌の山崎君が生きているときは、雪の便りも聞けたが、今は聞くよすがはテレビ以外に無い。

日記を読み返すと、彼が死んでから、つぎつぎと今度は同窓の友が相次いで死んだ。

川上、今田、若重、田淵と机を並べた親友ばかりである。昨今まで言葉を交わした仲間だった。

そして婿の父親のつい先だっての死、今度は俺の番とついそこまでやってきている。

ところで安倍さんだが、なんとか アメリカに押しまくられずにすんだ。

このまま人気を維持することができれば、参議院も勝利することができるのだが。

国境線の島々の問題、日本の政治の緩みにつけ込んで提起されたが、これもこの内閣の命運を決めそうだ。

難しい前途になることに変わりはない。

プーチンが五分五分といったとか。

問題が起きると云うことは何事も五分五分の言分から起きることが多い。

絶対と思うことでも駆け引きによっては五分の後退を得策とすることは、古来の歴史的事実が証明している。

隣人と永年に亘って好誼を保とうとすれば、相手を傷つけてはいけない。

目先の損得にこだわることは一番のマイナスだ。

譲るべき所は譲ると云う国民の雅量が欲しい。

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2013年2月27日 (水)

今年始めての岩國行き

今朝は気温6度と急に跳ね上がる。一面の高曇り、雨になるかも知れない。

ここのところ寝起きに腰がなんとなく痛い。ぼつぼつ動けなくなる前兆かも知れない。

なんとなく長生きしてしまったのだが、4月に平戸行きの1泊旅行を阪急交通に申し込んだ手前、元気を出さなければならない。

千代が付き添ってくれるからなんとかなるだろう。

2年前の奥州旅行までは、なんとも感じていなかった遠方への旅行が、こんなに立ちふさがって見えるのはどうしたことだろうか。

朝家内が突然うぐいすが来ていると云って二階に上がってくる。窓越しに眺めるが私には見えない。

敏感な鳥だから窓を開けるわけに行かない。鳴く音が聞こえなくてはどうにもならない。

もう春が来てることはわかってるよ。

昼前から岩國の義弟の所に井上からの預かりものなどを届けに行く。葬式や法事のお返しなどである。

義弟は出かけておらず、光子さんと世間話で時間を過ごす。

5時頃帰宅。車の往来が激しい。高速道路料金が安くなったせいだろうか。

しかし情けなくもこの位の運転でかなり疲れる。どうしても一寝入りしなければいけない。

気温は14度と全く春のそれ。良い時期になったなあ。

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