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2012年12月 6日 (木)

今に残る「海行かば・・」の心情

私が17歳になった年、盧溝橋で日本軍と支那軍とが火ぶたを切った。

日支事変の始まりである。もちろん満州事変の延長位の気持ちしか私達国民は持ち合わせていなかった。

世界戦争に繋がるなどとは誰一人思ったものはいなかっただろう。

戦いは広がる一方で、間もなく在学している学校の配属将校が何時出征したのか知らぬ間に,戦死の広報が伝えられ,友人等とともに夜留守宅にお悔やみに上がったりした。

その年の暮れだったか、年明けだったかには母の従弟が白木の箱になって帰って来た。

私をよくいじめていた悪童の一人だった。

身辺は騒然とした来た。いやでも2,3年先には我が身に降り掛かる徴兵義務がある。

中学校時代はいい加減にやっていた軍事教練も次第に真剣にならざるを得なかった。

徴兵検査の結果、いよいよ入営の日が昭和16年1月25日満洲ハの53部隊と決まって、そのハガキが届けられた瞬間、死の覚悟は当然のごとく出来ていた。

天皇の御ために死ぬのだから、どうしても宮城に別れを告げたいと、1月6日その下宿に泊めて貰う予定の友人神村義夫君と一緒に上京した。

神社にお参りすると同じ敬虔な気持ちであった。私一人、二重橋のたもとまで行って拝礼した。

そのまま離れ難く、歩いてお堀端を一周し四谷から新宿まで歩いた記憶が残っている。

もちろん途中九段坂を登って、靖国神社にも感慨を込めて礼拝した。

志と違い数多くの英霊の中で,空しく生き残って馬齢を重ねる事になったが、初心を忘れた事は一度も無い。

神村君も激戦地ニューギニアの戦場に生き残って,今在京して同じように死を待ちかねている。その彼にも、今回の岩國空港開港記念の上京は、最後のお別れを言う良い機会になりそうである。

宮城にも当然お別れのまなざしは送る事になる。

90数年、脈々と繋がり続けた日本人の血が,私を駆り立てて来たことを今更ながら感ぜずにはおられない。

“海行かばみづくかばね,山ゆかば草むすかばね,大君のへにこそ死なめ、かえりみはせじ”

のうたは、万葉の防人と同じく戦中派にも生き甲斐だったというべきか。

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