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2012年11月20日 (火)

私の生死の哲学

家内が嘔吐、下痢を今朝したらしい。風邪が入ったかなと云っている。
元来胃腸が弱いので心配である。
食事も量はほとんど私と同じである。調子を合わせているのかと思ったりするのだが、私より9つも若いのだから,もう少し元気よく食べてくれないと困る。
私は尻からの下剤が効いて,昨日また腹の中を一掃した。
ほとんど5日置きに下剤のお世話になることになってしまった。
それで胃腸の状態はまことに良好である。
自力で出来ないがもう仕方がない。
食う事出す事、いずれも大事な機能である。息をついている限り続けないと淋しい。
何のため生きてるのか自問することもあるが、別にことさら求めた気はしない。
戦争中危機一髪のときも神は私を生き残した。いつのときもあなた任せである。
苦しみだけはごめんだと思っていたが、それも今となっては仕方がないかなと思い始めている。
十年も前に死体を大学の研究に供する決心をしたのと同様に,最後までの生き様を良い悪いに関係なく人様の眼前に晒してやろうというわけである。
難しく云えば、私の生死の哲学ということか。

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