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2012年9月14日 (金)

俺は忘恩の徒か


朝食の時家内が”一露”さんのことお孫さんという人が書いてるよと呟くように云う。
7年前に亡くなったんだねえとも。
そう云えば何時の頃か年賀状も来なくなったし、消息は絶え果てていた。

丹念に暇に任せて読んでいる古い新聞をつまんで来て私にほらここにと見せてくれる。
”こだま”という投書欄らしきところに一番最後の方に書いてある。全部読まなければ気づかない場所である。
やはり亡くなっていたか。
祖父のくれた俳句1首というのが載せてある。私の知己一露さんに間違いない。
お孫さんは周南市に居られるらしいし、名前も何もその存在すら心当たりは何も無い。

山崎君のように北海道にいても、お孫さんのインドからのメール1本で翌日にはその死を知る事が出来ても、隣の市のことでも消息を知る術がなければ、7年経ってやっと偶然に知らされることになる。

一露さんは中学1年のとき既に最上級の5年生で神様であった。
当時は歩いて通学していたから、学校まで1里の道、どうしたって付かず離れずにならざるをえない。
鉄拳制裁の激しい時代だったから,上級生は皆怖かった。しかしこの人は優しい先輩だった。
同じ道を登校する、後に私の家内の恩師になった一露さんの同級生は、とくによく下級生にビンタを張っていた。
規律酷しい人だった。親しげに側によれるような存在では無かった。

一つ離れた部落だったが、戦後帰還してすぐマラリアが再発して、取りあえず近くのお医者さんにということで診て貰った。
彼も南支帰りの軍医だったので(終戦直前桂林に居た私の部隊は一時南支軍に編入されていた),正にお手の物で簡単に治してくれた。

戦地で結核で倒れて、担架で帰国した私はその治療が永く彼のお世話にならなくてはならなかった。

といっても帰国したときは家は爆撃でなくなり、人に貸していた小さな家を補修して,母と弟妹3人で住んでいた中に割り込んだのだから、住む所の無い人と同じであった。
堪え兼ねて、無謀にも三月目に上京した。幸いに外務省嘱託で進駐軍のCivil Censership Detachmentに職を得た。
そのうちだんだん結核が酷くなって、鉄道病院の山県先生にこのままでは死ぬぞといわれたりした。
たった三月で退職して帰郷せざるをえなかった。
そのあげくに頼れるものはこの一露先生だけだった。

結核患者を雇ってくれる所はどこにもなかった。幸い一露先生のお父さんが農業会の役員で自分の所へと誘ってくれた。私の亡くなってた親父と同級で親しかったらしく、特に目をかけてくれたわけだった。
考えてみると戦後の私の行く道を親子で開いてくれてた恩人であった。

簡単に音信不通で済まされる方ではなかった。今思い出すと汗顔,穴にでも入りたい思いである。

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