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2012年8月 1日 (水)

戦争が取り持つ縁

二つの台風がゆっくり日本の南を廻っている。影響と云えばかんかん照りの暑さである。
風は未だ届かない。

一昨日何の気なしにfacebookに誘い込まれて登録したのだが、すぐさま友達というのを何人も探し出してくれた。
中にベルギーから帰ったばかりの孫の名前や山崎君の孫嬢の名前も候補に挙がっている。知ってる人だからいいかと二人にチェックして置いた。

途端にインドに居る山崎君の方から早速アクセスを戴く。
3人のおじいさんの初盆で今日帰国するという。同じ年に3人の祖父を亡くしたとは珍しい。
山崎君は私より一つ年下だが同じ戦場で同じ釜の飯を食った仲であるが、外の人は知らない。
山崎君の死をいの一番に知らせてくれたのは、見も知らない彼女だった。私がいつかブログで彼のことを書いていたのを彼女が検索して探し出したわけであった。パソコンのお陰以外に無い。

九十何年の生涯だからこんな珍しい因縁に巡り会える。
戦友で今文通があるのはもう金沢の加藤君一人である。戦後沢山いた戦友達も次々この世から姿を消した。
今たまたま一人の戦争を知らない孫嬢がつないでくれるとは有り難いことである。

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2012年8月 2日 (木)

要介護認定ということ

台風9号、10号とも中国大陸に向かって飛去った。変った台風である。
熱気は残されて暑い,暑い。

昨日は市役所に家内と一緒に出向いて、介護を申し込む。
住宅の手すりを設備するのにどうしてもその要介護認定がいるらしい。
来週月曜日に自宅にその専門の人が来てくれることになった。
転ばぬ先の杖というから,我が家もその防備体勢は整えておかねばならない。

先日もパソコン台の位置を変える作業をしていた所、傾いた台に挟まれて手を怪我してしまった。
さして大事には至らなかったが、老人の四面は正に楚歌である。用心するに越したことは無いと思い立った次第。

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2012年8月 3日 (金)

政局判断を誤るなかれ

毎日の猛暑を避ける為に、居場所に苦労する始末であるが、思い起こすと今寝起きしているこの場所は、私が生まれる50年足らず前に、幕府軍と長州軍の戦った戦場であった。
敗れて退却する幕府軍が町に火を掛けたため、この廿日市の市街は焼け落ちてしまい、同時に最終的な敗戦が決まった場所であった。

戦国の世には、精鋭の名を轟かした井伊を始め紀州徳川など15万の大軍も、西洋式に身軽に軍装を固めた、1万の長州軍に対し,甲冑姿の重装備ではこの暑さの前に先ず戦意をなくしたであろう。

もう古戦場と云うべきだろうが、私の若い自分には戦跡を示す,言い伝えや武具などの遺品の出土が伝えられたものである。

この愚かしさをいえば、その70年後の日米開戦はもっともっとその上を行くものであった。

いずれもその政局を誤認したことが敗因と云える。

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2012年8月 4日 (土)

男子柔道遂に金に届かず

台風11号が早くも小笠原付近に現れている。今年も台風は早くから日本を目指しているかに見える。

オリンピック柔道はとうとう女子の金メタル1個に終わった。
大相撲と同じで格闘技は技ではなくて力である。本来の姿に帰ったとも云える。力があっての技である。
本末転倒している日本柔道の行く末を世界が教えてくれてるかのようだ。
いずれこの世界から綺麗な技で一本取るといった古来の柔道の姿は消え去るであろう。
巴投げ、背負い投げなど本来の華麗な投げ技は体勢をくずす為に多用されるばかりで、決まり技になることなど殆ど見られなかった。

そこへ行くと、技一本の体操では総合個人優勝の内村航平の演技は見事だった。
鍛え抜かれた技を恐れること無く断行しつづけた。

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2012年8月 6日 (月)

心臓さん,永く良く働いてくれたね、ありがとう

原爆記念日の今日,幸い雨にもならず,焼け付く様な日照りもなく、野田総理も臨席して滞り無く式典が行なわれた。

丁度介護認定の為の調査の人が市役所から来られる事になっていたので、それなりの準備をして待つ。
1時間以上いろいろ聞かれたりお調べいただいて、後日のお返事をいただくことになる。

夫婦とも未だ元気なので介護認定は駄目で,包括支援ということになりそうだ。
要は手すりをあちこちにつけるだけのことだから、それで十分な訳で了承する。

先日介護を申し込んだのを,ブログで書いたら、結構”いいね”とメッセージを何人も戴いた。
寝込んで手取り足取りではない,手すりを付けて歩きやすくするというのだから、共感しやすいのであろう。
暑さのせいもあってか、心臓の働きの衰えは自覚出来るほど激しい。一日も休まず90年間使ったのだから無理無いねと我ながら心臓に同情の態。
ある日すとっと止まって、誰にも気づかれず死にたいね。

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2012年8月 8日 (水)

世界恐慌のはしくれか

広島総合病院に出かける。爪割れがひどいので液体の塗り薬の強いのを付ける事になる。
外には変ったことはないが、乾癬の病状は依然として一進一退である。

現在の政局を眺めると、なにか締まりのない事甚だしい。朝令暮改とは云えないかも知れないが,野党を含めて政権要路の方針がコロコロ変わる。この分では国家の方向が定まる訳が無い。

経済の低迷は世界を挙げて久しい。日本の企業は低開発国を便りに息抜きしていて、愛すべき同胞は職途を失って苦しんでいる。

時局は若干違うが、昭和初年には浜口雄幸の襲撃事件に始まった,財界の大物団琢磨、井上準之助の相次ぐ暗殺、そして遂に昭和7年の犬養総理を始めとする5.15事件の大殺戮が始まり、2.26事件、満洲事変と転がり落ちるように世界大戦へまっしぐらに突き進んだ。

きっかけは何時の時代でも、小さい。
けだるい政治情勢がいつまでも続くと,思いがけない暗雲を醸成するようだ。
世界情勢は今まぎれもなく発火寸前をしめしている。

国連も前の国際連盟の末期のごとく権威を失いつつある。どこから火を吹くかも判らない。
世界の情勢は瞬時に連動する時代である。我が国もいつおかしくなるかわからない。
過去を偲び現在を思うと,心配の種は限りなく多い。

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2012年8月 9日 (木)

老人至福の時間帯

夜中に深夜放送に起こされる。宮川アナのレスリング48キロ級で金メタルと叫ぶ声が目を覚まさせた。
急いでテレビのスイッチを入れてみると、日の丸の上がった表彰式である。君が代が荘重に流れる。
田村亮子以来久しぶりに聞く快挙である。小原日登美という年増の選手である。
予期しなかった事なので驚く。

次は63キロ級の伊調だという。こちらは2階連続金メダルの強豪である。3連覇は間違いあるまい。
そのまま朝の5時過ぎまでテレビを見る。
こちらは予想通り文句なしの金だったが、老骨やはり、2時間の休息時間の観覧には疲れたな。

なんで柔道は弱くてレスリングが強いのだろう。
男子サッカーはメキシコに接戦の末敗れ、決勝には行かれなかった。切れ味が少し悪かったな。

夕方東京から娘と末の孫が元気にやって来る。
家内が炊事はいやだからと,途中のデパートで出迎えて長女等も読んで会食する。
酒は駄目だから、ノンアルコールビールで乾杯する。最近ますます味が良くなって,ビールと殆ど飲み心地は変わらない。

子や孫が元気なのは当たり前だが、こちらがまともなのは後幾日だろう。
ともかくちゃんとうまいものを食べて2時間も歓談した。至福の時間帯だった。

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2012年8月10日 (金)

留学も人生の一つの道

孫には食事の合間に何度も繰り返して欧州の話を聞く。
女でもすっかり逞しくなったというのだろう、考え方がしっかりしている。
もう去年までの彼女では無いようだ。

学問はさすがに異国語のはざま、留学先を誤ったとの後悔もあるようだが、それだけに経験は生半可では無い。
ベルギーだからこそ、独仏蘭英墺伊洪瑞チェッコ、モロッコまでも行けた。
有り難い,絶好のチャンスだと思わざるを得ない。

ベルギーという国そのものが母国語を持たない。主としてオランダ、フランス、それにドイツ、イギリス語圏が混じり合う。日常の生活すら簡単ではなさそうである。
シンガポールに似ているなと直感的に思った。国民は案外国際ずれして,何でも察し合って通じさすという趣があるようだ。EU本部が置かれているのも、そのせいかもしれない。
これを有利と取るか,不利と取るか,気持ちの問題にしか過ぎない。
学ぶものには無価値は無い。

明日は娘が同窓に逢うとの事で,その後皆で宮島の水中花火の観覧に出かける予定と云う。孫も仲間に入れて貰えるらしい。
短い再会だが、今は電話、メールなど連絡手段は豊富だから、心残りなどという事はない。
元気な,成長した孫が見られ、一瞬でも確かめられてよかった。

今早朝吉田沙保里がレスリングで3個目の金メダルに輝いた、彼女もオリンピック3連覇である。凄い。
サッカーのなでしこジャパンは惜しくもアメリカに1−2で善戦虚しく敗れ銀に終わった。これとても運命の神のいたずら次第でどう転ぶか判らない試合だった。
前半不調だった日本勢もようやく本来の姿を取り戻したかのようである。

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2012年8月11日 (土)

オスプレイ有用論

空を飛ぶということは、鳥には何でもないことであるが、地上の一般動物は憧れてはいても翼を工夫しなければ飛べなかった。ライト兄弟が前世紀初頭に成功して以来,何千何万人の犠牲の上に今日の航空機の隆盛を来している。
誰もその発展を危険だからといって、止めようとするものは居なかった。
輸送という主な手段の外,戦争にも盛んに使われて,技術が格段に進歩し、単なる空飛ぶ手段では無くなっている。
元来人類が考えたものと違った使い道を歩んだからこんなことになってしまった。

今又オスプレイなどという、どこからでも飛び立ち、どこにでも飛び降りる画期的な飛行機が開発され、盛んな議論に包まれている。
たまたま軍事目的優先に開発されたので,反対の世論は内外に凄まじい。
馬鹿げたことである。

平和国家を自称する日本当たりが、この人口稠密な狭い国土で大量に使用すれば、産業振興に格段の活気を与える事になるのではと思ったりする。
地震を始め災害多発国日本の予想される首都圏や関西,名古屋など人口集中地域などの不慮の災害時には交通マヒはもう当然免れ得ない。
現在最大の緊急輸送手段であるオスプレイこそ万一に備えて準備すべきではないのか。
全国至る所にある砂浜や河川敷など何時でも利用出来るのでは。
日本で作れないのなら,大量発注して国の隅々まで輸送網を張りめぐらせば、利便の大きさは想像を絶するものがありそうだ。

ただ残念ながら現在経済性は無いに等しい。民間に任せたのでは拡充は難しい。
政府即ち税金に頼る以外不可能だろう。
この利器を準備する事は米軍に頼るか,自衛隊に保持させるか、現在は国の決意にかかっている。

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2012年8月12日 (日)

家族

昼前婿が車で迎えに来る。
飲酒運転を嫌う娘が、私が運転して来ると宴会にならないと、婿をいつも寄越すわけである。
婿はアルコールは呑まないので送り迎えに危険は無い。

一陣の風が吹き去った様な、いつもの静かな昨夜だったが、今日になってみると、孫達は多産質と見え、いまそれぞれおなかに居る子を含めると赤ちゃん5人になる。
こんな多産家族になるとは私も予想していなかった。

今居る3人でも騒々しくて大変である。ビルだからいいが、私の家のように木造家屋だと家鳴りがするであろう。
宴会があらかた済むと、また大嵐になる。
老人はもはや無用と席を立ち,婿についでに送ってもらうようお願いする。

家に帰り着くと、なんだか疲れたようで,腹もふとまったし、ぐっすりと1時間ばかり熟睡する。
世話はやけるだろうが,老人はまことにたわいない。
赤ちゃん達も私らの帰った後で寝かしつけられて、それからがゆっくり円満な家族会議になるのだろう。

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2012年8月14日 (火)

Nifty-serveの時代

日本海に東西に横たわっていた前線が下がって来たということで、列島全体が雨雲の中にすっぽり包まれている。
わが町もざあざあと降りしきる雨の中、けぶる靄一色に夜明けはいつになるのやら。
時折雷鳴まで轟く。

こんな日に努めに出る身は憐れである。高見の見物は申し訳ないな。
婿等は盆に影響されない職場である。
他人の休日を横目に粛々と公務に専念ということか。

昨日何の気なしに、iPadを弄くり回しているうちに、懐かしいniftyserveという題目のページにはまり込んだ。
懐かしいと云えば,私は人後に落ちない思い出深いつながりを感じていた。
そもそもコンピューターの何たるものかまるで知らない,一介の商店主だった私は、生まれつき機械好きな性格から,難しそうだが面白そうだなとはまり始めた。

もう74歳になっていた。
まだパソコンは買っていなかったから、店で使っているワープロで案内されるままにniftyserveに入り込んで,会員登録してしまった。会費は月¥2000.だった。これは今も変わらないらしいが。
私の記録によれば1994.8.18とある。もうまる18年になるわけである。

そのうちforumというのがあり、質疑応答が繰り返されているのを見かけて、大変参考になる事象がぴしぴしと私の乏しい頭脳を刺激した。いつの間にか私もその輪の中にはまっていた。
懇切に私の疑問にあちこちから回答や示唆が与えられた。

マニュアルの外に新しい便法が繰り広げられた。
半年ぐらいしてアップルの大きな初期のパソコンを買った。プリンター付きで約40万円かかった。秋葉原から送ってもらった。1週間もしないうちに、スイッチが入らなくなった。販売先に電話して文句をいうと、送料先払いで送り返せといわれる。騙されたかなと思ったが,仕方がないので云われる通りにすると間もなく新しい機械が送られて来た。

恐る恐る手を伸ばしたが今度はマニュアル通りうまく行く。やれやれ一安心、これ位安堵した事はいまだにない。
爾来とっかえひっかえ何台目になるか数えきれない。
今手許に電線をつないで並べているのは,マック2台、ウインドウズ2台だが、安直なiPadもかなりの役割を果たしてくれている。

最初の頃はInternetに入るのが大変だった。自動的にという現在の方式は未だ無かったから一々電話をかけるのから始めなければならない。掛かった瞬間から時計が時間を刻み始める。
古い交信記録を見ると、何をやったか判らないうちに29分とか14分とか表示されて来る。
一々電話料に加算されるわけである。

2001年9月やっとスーパーネット制度となって、固定化された。
機械もどんどん良くなって、ネットに入る手段なんか、もう手動する事はない。

電話を掛けてる時代は、その電話は独占しているから,不便な事この上ない。
とても30分50分と長時間使用はいくら個人でも困る事が起きて,自然と夜の寝静まった時刻に追いやられた。
ADSLから光ファイバーと我が家も直ちに追随した。
1994~2001間の毎月の電話料金の明細表がちゃんと未だに残されている。
今昔の感に堪えないしだいである。

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2012年8月15日 (水)

運転免許と老齢講習

雲に閉ざされた空のお陰で、灼熱の太陽は免れそうだ。
うちのお墓も今年は掃除にも出かけられないのだが、墓に入る方が手っ取り早いような趣なので、盆明けにでもしなくては仕方がない。
まして先祖の墓まではもう出かける気力が無い。

昨日は警察から老齢運転講習の命令書が通達された、早速いつもお願いしている早稲田運転教習所に電話して予約する。来月の10日ということになった。これを通過しないと運転免許証が貰えないのだから仕方がない。私は普段軽自動車のクラッチ付きを乗り回しているのだが、講習ではオートクラッチでもいいからと返事をしておく。どうせ講習使用車は中型車なのだから,私の間尺に合わないのは一緒である。

徴兵で関東軍の自動車聯隊に入隊させられ、初手から車の運転を無理矢理叩き込まれた。ほんとに助教の信号手旗でいやというほど所かまわず叩かれておぼえた自動車運転だった。
戦後バイクなるものをいち早く買って,乗り回していたら運転免許を取れと云われたのがきっかけで、隣町まで人のスクーターを借りて臨時試験場に行き、コースをくるっと廻って免許証をもらった。

そのまま勤め先はおろか、札幌の友人に招かれて北海道を走り回ったときは,その友人にあんたは運転が出来るのだからと、登別や洞爺湖の方を走り回された。
後で免許証が違うのではと云われて気づき、普通免許を取り直すため1週間教習所に通ったことがあった。

何時の事だったか更新時期を忘れて,3日過ぎていたらもう駄目だといわれ、改めて試験を受けて取り直させられた。
70年も乗ってるのだから,随分警察に奉仕させられていると思っているのだが、思い過ごしかな。

この前のときから認知症の検査みたいな試験がある。老人は本来健忘症のきらいがある。もちろん私も人並みにある。
良い機会だから喜んで受けるつもりである。
もう駄目だと云われれば素直に受ける覚悟はとっくに出来ている。

近所の同年の人が,免許証を返上したと云って,息子や娘の運転で出歩いている。
私は残念ながら自分が返上したら家内共々歩くしかない。もっともうちと背中合わせの家の主人が個人タクシーをやっていらっしゃるから、いざという時は助かるが。

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2012年8月17日 (金)

爪とは意外

5時過ぎには目覚める。
雲は多いが東天の隙間から太陽がちょろっと顔を出している。
明け方はすっかり涼しくなった。昨夜の蒸し暑さが嘘のようである。
すっきりと冴え渡った朝の空気はもう秋のものである。
宮島山形の寝観音の姿がすぐ手の届く所にある。

最近困ったなと思う事が多くなった。予想外に力がなくなった。特に爪の力がこれほどまでに衰えるとは思っていなかった。もうジュースやビールの缶入りの栓は爪の先で持ち上げるなどできない。爪が負けてことにならない、一寸した事で爪の先が割れる。

足の爪もすっかり変形してしまって,まともな方向を向いているのが少なくなった。うっかり切り忘れたりすると枝別れが出来たりして、始末が悪くなる。だから最近は私の手も足も指先をくるんだ粘着テープで,異様な姿になってしまった。
爪切りは毎日の習慣になった。そしてテープ巻きも。

もっとも私の爪は乾癬のせいかもしれない。あまり聞かない話だし、20年前乾癬がひどくなった時,いち早く指の関節炎になって猛烈に痛みそのとき指ごと変形した。今は変形したまま固くなって痛みは無いが,その余波ともいえる爪の変形のようでもある。
我ながら呆れるほど永いスパンの病気ではある。
難病というのがあるが、さしづめこれも一種の難病かも知れない。

90年を越えて生きているから,一応健康な身体ということになるかもしれないが、よく考えると若いときは結核にもやられたし、マラリヤ、赤痢、肺炎など人並みの病気は大抵経験した。自分ではよくここまで生きられたと思っているくらいである。ほとんどが医学のお陰であろう。

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2012年8月18日 (土)

弱小国日本と見られたか

尖閣諸島に香港から中国人が我が領土だと呼称しながら十数名がやってきて、捕らえられ強制送還させられた。
竹島には韓国大統領が我が国の領土と宣言して上陸して帰った。
先に国後島でもソ連の大統領が断りも無く訪問している。

ここに来て話し合ったごとく日本を徴発している。
70年弱腰を続けている日本の,居眠り具合を確かめているがごとくである。
沖縄をはじめ、日本国民が米国の占領を飽きて来て,独り立ちしたいなと思い始めた矢先である。

米国も中東に首を突っ込んで碌な結末を結んでいないし,シリア、イランなど力の及ばない焦りを感じくるしんでいる。
もうアメリカ時代も終わった感じである。
日米同盟の発動はまずあるまいとタカをくくられたのであろうか。

平和平和と朝夕祈り続けていても、聞き届けてくれる神は居なさそうである。
無人島は取られても,人の住む領土までは冒さないであろうと思ったが、北海道でも対馬でも土地の買いあさりという手を使って、侵略がもくらまれているともきく。

私は若い時代よく人に騙されたが、やはり油断の鳴らない動物である事は何時の時代も変わらないようだ。

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2012年8月19日 (日)

国難

蒸し暑さは変らない。
涼しくて気持ちがよいのは早朝だけのようである。8時を過ぎるともういけない。

私の幼かった頃,排日侮日という言葉が流行った。何の事かよく判らなかったが、日を追うに従って騒がしくなって来たのでおぼろげながら意味を理解し始めた事を覚えている。国難ともいわれた。

手許の日本史年表を繰ってみると、明治維新の明治元年が1868年である。敗戦の年が1945年だった。
黒船が浦賀沖に現れたのは1853年、今竹島や尖閣島に外国が侵入しはじめた。終戦から67年目である。
ぼつぼつ日本革新ののろしが挙げられそうな気配になってきたのを感ずるのは私一人か。
歴史は古今東西不思議と繰り返すものである。

高校野球はベストエイトが出そろったが、決勝に進むのはどこか。皆目予想が立たない。
ともかく接戦が続き,思いがけない弾みが勝負を決めそうだ。

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2012年8月22日 (水)

残留日本兵と私の責任

昨日本屋で探してもらってなかった”残留日本兵”という中公新書本をアマゾンに発注する。
行く先短くなってふと気がかりなことだったからである。
終戦後間もなく部隊は全員捕虜となり,湖南省の賀勝橋というところで、地方民家に収容される身となった。
間もなく国共内戦のとばっちりをうけて、中国側から兵員募集がかかり、私の隊からも中村軍曹以下7名が応募して入隊して行った。

1年近くしてやっと帰還命令が下り,揚子江を半月掛けて民舟で下り,上海から鹿児島に送られ6月7日やっと帰国を果たしたのだが、当然前記の7名は居なかった。
帰国してからの私の身辺は異常であった。家も田畠も爆撃で蹂躙されていて、住むにも食うにも助けを求めなければならなかった。
職場は満洲にあったから,敗戦と同時に消滅していた。一介のルンペンに等しかった。

人ごとではなかったから、彼等7名のこと、時に思い出す事はあったが、捜索の手段を尽くす事は無かった。
ただ、どこからかすでに彼等は無事帰国しているよとの風の便りのごとき伝言には接していたが,確認はしなかったし,その余裕もなかった。

こうして、70年経とうとしている。
残留日本兵などという言葉を聞くと、ぐざと胸を刺される思いである。
敗戦のショックで、部下の離隊を信念を持って引き止める余裕は私には既になかった。
かりそめにも1隊の指揮官として、その責務を果たし得なかったのではなかったか。
せめて何時の日かその帰還、生存の確認をすべきではなかったか。
忸怩たる思いは今日尚続いている。

物の本などによると、国共内戦には多くの日本兵が両陣営に加わって,同士討ちすら演じたと聞いている。
悲惨としかいいようがない。当然命を落とした兵は多数に登るだろう。
もしそのような事になっていたとでもすると、私の責任は軽くない。
とりあえずこの本は何を書いているか見てみたくなったわけである。

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2012年8月24日 (金)

錦帯橋空港から東京行き

12月岩國から東京までの往復航空予約をする。
迷惑な話だが、千代の家に3日間お世話にならないといけない。それとも一日位ホテルにでもするか。東京で何をするか予定は無い。
神村にもう一度電話してみるかもしれない。
ここ1、2年の間に10人以上同期生が死んだ。東京近辺にももう彼しか居ない。

先だって(去年)宮城の回りをほっつき歩いたし、見物する気になる所はもうない。
もう一度世田谷の松陰神社にお参りでもするかな。今居る地元に関係の深い桂太郎の墓にも、すぐ側だと聞いてるからお参りしてもいいな。

よれよれのじじいの考える事はこのくらいのものだろう。
もっとも寿命が未だ残っていればの話だが。

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2012年8月25日 (土)

散水談義

まだ真夏日が続く。早朝の涼しさが僅かに秋を感じさすばかり。
家内が千代さんに電話して12月の東京行きを告げる。

東京滞在に付いては、老いては子に従えの格言通り、子供に任せるのがいいらしい。
曲がりなりにでも飛行機に乗りさえすればいい。後は野となれ山となれだ。
要らぬ心配は止めよう。

正午近く外に出ると、燦々たる陽光に目がくらむ。青空には転々と真っ白な千切れ雲が二つ三つと浮かんでいる。
もう何日日和が続くのだろう。途中から堪え兼ねて庭木に水やりを始めたのだが,もう5回以上になってると思う。
もしかしたら、今頃枯れ葉が目立つ庭になってた事だろう。
特に沢山水をかけてやっている夏みかんは青々と実も葉も気持ちがよいくらい光っている。

4時半まだ日は高いが,隣の屋根が影を作ってくれて、水を撒くにはちょうど良い。
何より薮蚊が出ないからと思ったのだが、今日は4、5匹出おった。皆たたき殺したがやはり痕が痒い。
家内は少し暗くなってやれというのだが、暗くなると全部の蚊の総攻撃に逢うからたまったものではない。
日頃何もしない私にも、多少の経験智はある。

虫さされには人により,耐性があるらしく、家内は平気である。私はまるきりだめ。
いつかあじさいの影からすずめ蜂に家内が襲われた事があったが、キンカンを塗っただけで何ともなかった。
私だったら恐らく寝込む所だろう。

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2012年8月26日 (日)

nifty-serve回顧

強い台風15号が沖縄に接近しているというのに,今朝の眩い太陽はどうだ。
窓から射し込む光は暑い熱の束である。あわててカーテンを閉ざす。

深夜便で例月行われる五木寛之の県別音楽懐古談話で偶々広島県がとりあげられる。
数々拾い上げられる褒め言葉に頬の筋肉がゆるむ。そんなに誉められていいのかいな。
”かもめの水兵さん”は広島出身の作家だったか。初耳である。

webニュースで1969年始めて月に着陸したアームストロング船長が82歳で死去したと知らされた。歴史的人物だったが、割と早く亡くなったなあとの思いである。

ブラウザーの@niftyが nifty-serve と言った時代の通信フォーラム回顧をやっている。
私にもパソコン入門の思い出が深いだけに,先日もこのブログに載せたように、懐かしくて仕方がない。
随分勉強になったとおもっている。当初はワープロで入会したのだが、1994年アップルのパソコンを買って独学を始めた直後だったから,マックのフォーラムで教えを乞うことに必死であった。

25周年といっているが、webの時間の流れは凄いから、遥か昔のことのようで、思い出しても取り留めが無い。
登録はしてみたが、年齢が年齢だけに会話にならないのではと思っている。

Internetの波にのみ込まれて、フォーラムというシステムは崩壊したが、今懐かしさを持ち出されると、facebookなどより余程真剣で面白かったし役立っていたと思う。
私などは当初実名で投書し,身辺事情を語って恐れなど無かった。
1994年当時の私の投稿文のコピーを見ると,皆実名で書き結んでいる。

厄介な世の中になったものである。なんでこんなに不自由になったのだろう。

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2012年8月27日 (月)

人も家も老果てる

朝一番,広島総合病院の眼科に出かける。診察開始1時間前、まだ誰もいない。窓口も暗い。
おもむろにiPhoneを取り出して,本読みを始める。
1時間くらいの待ち時間がちょうどよい。

今日が丁度最後の手術から1年目である。経過良好の診断結果,次の診察日は来年2月だという。
眼科は予後がながいのだなあ。有り難い事だが。

帰宅してちょっとふらふらするので体調悪しと感じ、取っ手をあちこちに急ぐ必要があるなと感じ、建築業者のサービスセンターに電話し、来て貰う事にする。
午後3時、メーカーと下請けの人とが一緒に見える。
2時間ばかり相談する。やはり介護支援センターに連絡して,ケアマネージャーの指示を受けた方がよいということで、明日市の支援センターに電話して処置してもらう事にする。

丁度建築から40年目だから、かなり大掛かりな工事になりそうである。
人間も建物も老体に変わりはないわけだな。

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2012年8月29日 (水)

戦争の記憶と記録

昨日の夕方から一晩中時々雨風になる。台風15号の影響である。
熱気も持ち込んで来ているから朝から蒸し暑い。
応接間の古いクーラーで部屋通しに冷房をかけても効果は少ない。
今日の夕方にはデオデオが来て新しいクーラーをつけてくれるので、それまでの辛抱だ。
老いるという事はこれほどまでに耐える事が難しいものか。

昨日はせいこう胃腸科に行き下剤を取り替えてもらう。
今までのは効き過ぎるので調節可能な点滴方式の自分で量が加減が出来る薬だとの事。
早速昨夜試してみたのだが,結果は今日でないとわからない。
午前10時現在まだ兆候は見えない。

“残留日本兵”という本を読む。やはり大まかに全日本にまたがるもので民間人を含めて記載はされているが、しょせん局部的な詳細さは知り様が無い。あの戦後の混乱期、存在する記録まで灰にして、滅亡自棄の道へ誰しもまっしぐらに突き進んだ。いまさらもう覆水は盆に返らない。

人間といえども1兵は1兵だ。チリアクタと何ら変わりはない。関係者の記録意識が無ければ,存在を後世に記す事は不可能である。
いつだったか政府の戦史保存所に私の所属部隊の行動日誌を調べるべく問い合わせた事がある。
同期の友人だった部隊の副官が書類行李を提げて、二日市の終戦事務局に出頭した事を私は覚えていたし、少なくとも陣中日誌の束は残っていると確信していたのだが、そんなものはありません。恐らく焼却されたのでしょうということであった。

私の部下7名の消息は残念ながら、私の死と同時に史上から消え去るのだろう。

話題は変わるが、今日のテレビニュースで広島原爆の生存者が書き残した原爆証言など書簡類をデジタル保存する事になったといっている。一々コンンピューターに打ち直すわけである。生半可では無い量の資料を改め保存するという事は、
かほどに大変な官民の努力と意志が必要なことなのである。

デオデオがクーラーの付け替えに来る。予定より1時間早い。今日はさいわい涼しいが、早いに越したことは無い。
1時間足らずで取り替え完了。試運転もして帰って行く。
さすがに18畳用だけに能力が違うらしい。あっという間に温度が下がって気持ちよい。
冬は60度の温度が出るらしい。石油ストーブとも別れる事が出来るかも。

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2012年8月30日 (木)

叫んでも技術の進化は止まらない

森本国防大臣が沖縄に出向いてオスプレイの説明説得をしているそうな。ご苦労な事である。
10回や20回落ちたからといって、鳥でも猿でも落ちる空だから落ちて当たり前ではないのか。
なら落ちる様なものは止めてしまえとは行かないではないのか。世界中の馬鹿どもが戦争に使って勝利をものにし、世界中が利用し恩恵をこうむっている、今日文句を言うものは一人も居ない。

オスプレイはいつかもこのブログで書いたように,進歩したヘリコプターに過ぎない。
ヘリコプターとなると何時が発祥の時期なのか誰も知らないくらい古いと云われている。
地面からすっと飛び上がるのだからえらいものである。
そして毎日のように私の頭上を飛び交っている。

昔私がまだ小学校に上がっていないころ、おばあさんの家に連れられて行った。
その頃未だ見た事も無い飛行機が近くの藤生の海岸に降りたから見に行こうと,おばあさんが弁当をこしらえて私らを連れ出した。
大きなフロートの付いた水上飛行機だった。翼は確か上下二枚で勿論プロペラ機であった。
噂を聞きつけて近郷から押すなの見物人である。いくら待っても海辺から飛び立たない,待ちくたびれてそのまま手を引かれて、とぼとぼ家に帰った。
この飛行機は日本では1917年に始めて完成し,初飛行は私の3歳のとき1923年と歴史の本に書いてある。
この日は私の5歳か6歳の頃だと思われる。今はもう、その記録がどこにあるかしらない。

子供心に空を飛ぶなんてすごいなあと感嘆した。
飛び上がるのも凄いが,海の上を滑走して飛び上がるとは、これまた凄いと思わないものはいなかった。
しかしこの便利なものも戦争には役に立たなくて発達が遅れた。
戦争で性能が格段に進歩した陸上滑走の現在の飛行機の後塵を拝し続けている。
海は自由で広い、何とかならないかと思うが,フロートがお荷物だし、波という現象が邪魔をする。

平和の時代に欲しいのはヘリコプターであり水上飛行機である。
なんとか技術向上を図り、ヤメロヤメロばかり云わないで、大いに前向きに取り組むわけに行かないのか。

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2012年8月31日 (金)

死の前兆

寝る前に呑めと云われている下剤だけど、よく忘れてうまい事予定通り運ばない。
時ならぬ時腹が渋り始めて、よそ様の店のトイレを借りたりする事が、最近ちょくちょく起きるようになった。
薬の聞く時間が7時間から12時間というのもよくない。私の場合は15、6時間も先になる。
当てにするには長過ぎる。

老人というものはやっぱりだらしないものだな。
見る見るうちにだらしなくなっちゃって情けない。
背中は曲がるし,足はよたよたするし、その上便所まで人をあてにするようじゃあやっぱり人としての値打ちはなさそうだ。

神様もうぼちぼち消してもらいたいと思うことしきり。
有り難いけどもう十分すぎるほど生きた。

昨日だったか,夢の中にお迎えの親達が現れるとテレビでやっていた。
昔そんなことも時々あったが,最近はトンとそんなこともない。
ただやたら道に迷って困る夢,断崖をやむを得ず滑り下るゆめなど、ハラハラドキドキの夢は良く見る。
何の前兆だろうか。

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