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2012年7月 4日 (水)

古き因習が一時期去ったことがあった

自分の年齢が1世紀近くなって来ると、やはり何か不思議な思いに取り付かれることがよくある。
自分の生まれた頃が何しろ遠くなり,明治維新などといっても、その先50年くらいのところではないか、昔というにはあたらないと考えたりする。

私の祖父は嘉永2年即ち1849年生まれで,明治9年に相続している。随分やんちゃな親父だったと聞いている。
大正14年隠居して家督を長男の私の伯父に譲り,10年経って亡くなった。即ち1934年85歳で死去したということである。だから私の小学校時代絶えず目にしていたゆったりと優しい老爺の姿しか印象に残っていない。最後まで元気で杖を引く姿や寝込んだ姿はまるで覚えが無い。私にしても、いくらかでもその血筋を受け継いでいるはずである。
一人息子だったと聞いていて事実大叔父、大叔母なんてものはいない。

父は昭和5年に分家して,9年目の14年には死去している。無理な労働がたたったのかも知れないが、少なくとも59歳で病死した父の血を私はあまり受け継いでいない気がするのである。

祖父の子は4男1女だが、孫となると日米に分散して何十人になるのか、戦争の影響もあって数えることは出来ない。
ざっと数えても40人前後とおもわれる。凄いものである。

ついでに挙げると私の母方も多産系だから、2男4女の兄弟姉妹の次世代は40は下らないと思われるのである。
人口爆発といってよい時代だったんだなあと感慨も深い。こちらも半数以上が米大陸に根拠しているので詳細はわからない。

私自身戸籍謄本には「墨西哥国下加州メキシカリ町ニ於イテ出生」となっている。
父が約30年間移民として暮らしている間に2人向こうで生まれ,日本に帰国してから3人生まれている。

藤沢周平の小説を読むと、江戸時代次三男以下の男子は随分と冷や飯を食わされたごとく書かれているが、事実武士ばかりでなく庶民に至るまで,家督相続人以外は身の処し方が大変だったらしい。

私の家も本家分家の争いが、父の代には陰湿に続いていたらしい。その原因は家を建てるにあたり,家の下の土地のみ分与されただけで、家も独力で建てて全然援助を受けて居らず、弟として家に貢献した功労などは無視されたという言分らしかった。
当時だから兄弟平等に相続権があるなどということは勿論無かった。

海外雄飛などと言葉は美しいが、どの家庭でも家を継ぐもの以外の生活の糧をえらすには海外進出しか無かったのである。
江戸時代は国民の数が飽和点に達し、間引きなどが公然と行われたといわれているが、老人も云わず語らず消去されなければならなかった。

私の周囲にはその証拠になる現象が判然と実存しているのである。
もし古き世習がそのまま続いていたら,人口爆発など起きる道理は無かったであろう。

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