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2012年6月 1日 (金)

郷土のリーダー

少しもやっては居るが、いい天気らしい。朝の気温18度。
5月は何か身辺が騒がしかった気がするが、何とか過去になった。
月の初めと終わりでは随分日の長さが違ったように思えるが、こんなことも影響しているのかも知れない。

昨日買って来て読んでいる”文芸春秋SPECIAL"で各県地方紙の選んだ郷土のリーダーという項目で、滋賀県が豊臣秀次を選び、山口県が毛利重就を選んでいる。面白いなと観じている。
リーダーというのだから、勿論その観点で選ばれたのだろう。地方紙の見識が知られる気がする。

先般私がこのブログで取り上げた、朝幕の意向を一致して一時的にしろ向かわしめた長井雅楽も全国的な視野からしても、リーダーの資格十分といえそうだ。
ただ攘夷尊王倒幕と変転する世論を鎮めるには、甘過ぎたとは云えないことも無い。
時間も短過ぎた。

この本で知らされた宇喜多秀家(豊臣5大老の一人、関ヶ原で西軍一番の働きをし、逃れて薩摩に一時かくまわれ、6年後の1606年八丈島に配流となる)の子孫が明治になって70数家族も連綿と続き、いまだに第15代の当主がこの誌上で発言されていることに、奇異に打たれながらも安堵する思いである。

歴史はかくも非情であっても、スパンを永く取れば、やはり妥当な線に落ち着くものか。
宇喜多氏のスパンは3世紀後だったという訳だろう。
ついでにいえば、石田三成の子孫にしても女系ではあるが、半ば公にされつつも、現存して居られることを物の本で読んだことがある。

三百年のスパンと云ったが、何月前かにこのブログに書いた、吉川広家の無念さが、はらされたのも三百年後だった。

過去を振り返るといろいろ面白いことがある。
先日も新聞の読書欄でこんな投書をした人があった。
私のいつか書いたブログと内容があまりにも酷似しているのに驚いた。
場所が違うだけである。どこの地方でもこんな行事があったのだなあ。

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2012年6月 2日 (土)

妹の三回忌

今朝の気温はとうとう20度。いよいよ夏の気候である。
庭に居ることが多い家内は虫に刺されてか顔が痒いといっている。そんな時期に早くもなった訳で、いいことばかりでは無い。

今日は横浜や東京から甥や姪達がやって来て、妹の3回忌をやる。事故にあったすぐ近所のお寺の中に墓がある。

もう2年もたったか、いや2年も永く生きたか、不思議な思いは今なおつのる。


事故でさえなければ、死ぬる訳が無いと思っていたほど、元気な奴だった。
死ぬるまで百姓をして、農作物を抱えたまま自動車にはねられた。本人も野菜も道路上に散乱した。
兵隊が戦野で弾丸に打ち倒された様な感じである。
壮烈な戦死と云わなければ、表現が足りないほどだ。

92歳になって人の法事に出席するなど面映いことである。もうこれを最後にしたいのだが、尊敬置かざる義父母の年忌もやがてやってくるだろうしなあ。

法事を終わりお墓参りも終わり、およばれも終わって、宛先短い別れの途に着く。
遠く離れて近しい縁戚といえども、なかなか再度逢うことは難しい現代である。
心奥を去来する空しさはどうにも救い様は無い。

吉香公園に立ち寄り菖蒲池を覗く。未だ少し早く百花繚乱とまでは行かない。
足早に別れを告げて去る。
帰宅したのは午後4時近くなっていた。

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2012年6月 3日 (日)

隣近所

小雨の中を8時から町内の溝さらえ。私が一番早く10分前に出て舛の蓋を取ったりがたがたと始める。
間もなく音を聞きつけて隣の奥さんなど次々と現れる。
案外賑やかなものである。
滅多にお目にかからないので珍しい若い人も居たり、日頃口もきかない隣人に会えて有意義である。
大勢だから30分もしないうちにバタバタと終わってしまう。一番早く出た私は一番早く姿を消す。

昨晩の下剤が効いて、沢山の便が出る。割と固いから出辛いようだ。
食欲がいいからよくたまっているらしい。
しかし下剤に頼らなければいけないなんて困るなあ。
薬のネット辞書では常用していると、そのうち効かなくなると書いてある。

今日の産経に安楽死のコラムが載っている。2千年前のローマ皇帝が口にした言葉だそうだが、コラムの末尾にある通り云うは安く行うは難しで未だに、法律すら2、3の国でしか出来て居らず、日本などは助成でもすると犯罪を構成する。
2千年相も変わらずとある。
万人が望んでいても実現困難な問題なのだろうな。
それにしても生きることに飽きることが一番大事な問題だが、私の場合それは何時のことだろう。

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2012年6月 5日 (火)

武力なき平和がつづくか

暖かくなったせいか乾癬が痒みを増す。四六時中気になり出した。身体中もう掻き傷だらけである。
時々iPadで顔を写してみるのだが、益々醜悪になって目をそむける。
我ながら嫌な老人である。

台風3号が早くも沖縄南方を過ぎて明日にでも伊豆諸島に達するという。相当猛烈な風というが、列島を少し離れて北上しているというのが有り難い。

今平清盛というのをNHKでやっていて、わが町の厳島を目玉にしているから騒々しい。
子供の頃からのイメージと大分違った清盛らしい。
私の子供頃は為朝とか、悪源太義平といった源氏方の若武者が贔屓だった。
絵本や雑誌でも、武者絵にしろ合戦絵巻にしろ、白旗が人気だった。

愚管抄という古い本を見ると、保元・平治と相次ぐ争乱も、中央の政治権力の朝廷と公家の争いに巻き込まれたかたちの、京都付近という小さな地域での、源平の肉親の血を血で洗う争いになっている。

清盛は人望があったのか、一族の結束がよかったのか、多勢という背景で最後は圧倒したようである。
源義朝の最後は十名ばかりの供を従えて、徒歩で尾張の知多まで逃げ延び、力つきて自ら死を選んだようになっている。
保元の乱頼って来た父為義を殺した報いもあり、源氏の勢力を自壊させていたのが、最大の要因だった。

頼朝の再起はこの教訓を生かし、武士の棟梁となっても関東の地を離れることなく、公家の支配をはねのけて、6百年の武家統治の基を作ったといわれる。

武力というのは古今東西政治の世界の基本である。西欧勢力の今日までの世界制覇も武力以外の何ものでもない。
中国が今目覚めて武力増強に努めている。これはこれで良しとしなければならない。

折から防衛大臣に森本という民間人が登用された。私の知らない人だから批判は避けるが、日本とても世界に顔を出す以上人並みの武力を持たねばならない。人様を頼っていたのでは何事も出来ないことが、ここ半世紀思い知らされて来ている。
敗戦の日から1世紀がまもなく到達する。アメリカの傘の下で次の世紀も大丈夫なのか。

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2012年6月 6日 (水)

世論が揺れる原発論議

白い千切れ雲が空一杯、天気はよさそうだ。
広島総合病院に行く日で目覚めが5時前になる。普段と違ってしゃきっとしてもう眠くない。
別に用事はないからパソコンの新聞読みからということになる。

原発なしでは、電気料金は2、3倍にになるというのが先ず目に入る。
添付した産経netのコラム論調のように原発の種は残しておくべきだというのもある。

今正に政府は原発全廃への舵取りをしているように見える。
私には判らないが、進歩は人類生存の基本であることを忘れてはならないのでは。

広島総合病院皮膚科に一番乗り、診察までiPhoneで読書。待つ時間は一向に苦にならない。
血液検査のため遅くなる。帰宅したのは10時過ぎ。

雲が多くて金星の太陽表面通過はとうとう見ることが出来なかった。ただテレビでちゃんと報道してくれるから別に問題は無い。けっこうな時代である。

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2012年6月 8日 (金)

錦帯橋空港開港決まる

本格的な雨になった。一日降り続くだろうとの予測。ぼつぼつ梅雨入りの声も聞けそうだ。

昨今の若者達の騒々しいテレビを見ていると、もう復古は不可能だなとの思いがしきりにする。
身内の物でもはらはらして私の存在を危ぶんでいる姿が感ぜられる。
姿を消すべき時期が到来していることは夙に気づいているのだが、こればかりは天運に任す以外に無い。

錦帯橋空港が12月に開港されるという。後半年か!生きられれば是非利用したい。
若い頃大分行きの空便があった。離陸して上がって降りたらもう大分だった、10分もかかったかな。当時は朝出て夕方着く距離だった。別府温泉を堪能したことはいうまでもない。あれから何十年になるだろう。
今度は東京行きだ。娘や孫達にも簡単に逢えることになりそうだ。待ち遠しいことである。

岩國には大きな滑走路があるのだから、利用しない手は無い。
平時は大いに民間でも利用すれば良い。飛び立つ瞬間の数分だけ、滑走路を走るだけだ。そして降りる時と。
ハワイへももう何度か特設便が飛んでいる。私の弟らも何時だったか利用して、友邦人にあったりしている。

夕方には案の定梅雨入り宣言が出る。雨は降り続いている。
夜サッカーを見る。日本の強さに呆れる。
前半に4得点、相手にシュートチャンスを全く与えない。驚いたなあ。
けっきょく6−0で勝ち、相性の良くないヨルダンもオマーンに続いて無失点で凌いだ。
次は4日後オーストラリアに出かけてアウエイでの対戦だが、このメンバーなら心配は要らないだろう。

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2012年6月 9日 (土)

本当の忠臣蔵

最近はテレビを見るとえらく疲れる。同じ見るのでも力が入るからだろうか。
朝起きる時の眠気が明らかに違うから判る。

昨夜のアジアサッカーの対ヨルダン戦は安心して見られたが、それでも緊張して見ていたのであろうか。

今朝は気温がほぼ20度に達している。それでも体感温度は外気に触れるとひやっとしてまだ夏の盛りの温度では無い。

昨日はデパートに行ったついでに、本屋で”これが本当の忠臣蔵”という本を買う。
帰宅して一気に読了する。いい本だった。

やはり誰にも知られずに隠密行動した訳でないことがよく判ったし、それは無理なことだった。
脱落者も日が経つにつれて、つぎつぎ発生した。大石もその知人への手紙で悔やんでいる。
討ち入り道具をはじめ、衣装などにいたるまで考えて、準備万端よく整え、その資料もちゃんと存在しているようだ。そのため何よりも七百両近くの金が必要だった。
奥方瑤泉院の化粧料というものを大石が管理し使用したものであり、足らざるところは自分が負担して、既に6両あまりの赤字状態になっていたらしい。
決行時期も11月には奥方の耳にも達していたようだ。

もう限界に達していたということだった。
決行日の12月14日は上野介の所在の確認を2ヶ所からとっている。
決行まで2年間、する方もされる方も、永い永い時間だっただろう。
片や準備万端疎漏無く、片や待ちくたびれて、おろそかというよりもう無いものと安堵していた。

吉良の上杉方の助っ人も僅か3名、しかも小林平八郎など逃げんとして捕らえられ斬られている。吉良方討ち死に17名、手負い19名と明らかにしるされている。
赤穂側は近松勘六が重傷を負った以外は、討ち死にするものもなく、服装にも負傷なき様準備の良さが目立った。
上野介も炭小屋でみつかり、数名のその家来とともに戦い、竹林唯七の槍で刺され、間十次郎が首級を挙げたようになっている。

捕まえた家来に確かめて上野介と確認したとある。
ドラマなどとは随分と違うようだ。

一番興味のあった寺坂吉右衛門はその後日書き置きにも、殿の舎弟の浅野大学への報告を言いつかって、討ち入り終わり次第現場を立ち去ったのが事実らしく、主人の吉田忠左衛門ですら知らず、後に怒っている詞書がある。

南部坂の別れなどは皆作り話であり、奥方瑤泉院はすでに親元の浅野三次藩屋敷に幽閉されていて、その世話役の落合某に計画の一切が届けられていた。

万事用意周到これこそが大石の見識であり、単なる仇討ちとはいえない、公儀の矛盾を捕らえた、政治的抗議ともいうべき快挙だった。

この本を通覧してみて、いよいよ大石内蔵助の統率者としての偉さを痛感するものである。

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2012年6月11日 (月)

”満州国”はえそらごとだったか?

新聞休刊日を忘れて、門まで出たりする。
忘れっぽくなったのは、今に始まったことではない。最近は新聞を深読みすることはあまり無くなったが、それでも全然ないとなると何だか調子が悪い。昨日はカープが逆転して勝ったし、若い堂林やベテランの前田が活躍したし、やはり記事が早く見たかった。

身体の痒みが大分治まった気がする。薬を飲むのを控えたせいか、気のせいかよく判らない。
昨日は腹がたってきたので、決まった時間に飲む薬を一時中止してみた。5種類も毎晩呑むのに抵抗を感じたからだ。それに朝も昼も1錠づつ呑むようになっているのだから。

先日書店で買って来た歴史街道という雑誌が、”満洲建国の真実”というのを特集している。
今更と思いながらも、私に取っては人生の向かう道を満洲に求めたそもそもの経緯もあって、関心が深く読んでみなくてはならなかった。

呆れるほど柔らかな記事で満たされている。
とても特集などともったいを付けるほどの読み物では無かった。
ただ今頃満洲が記事にするほど話題になるのだろうかとちょっと不思議な思いにとらわれた。

満洲遺児の問題もほとんど話題から遠のいた。戦後70年経験者も老いさらばえたし、ほとんど地球上から去って行った。
訪ねてみても、空から覗いても、往年の形跡はものすごい変化の影で偲ぶべき姿を見せない。
事実を体験した私には、虚偽を語るに似てうとましい。

歴史は日々風化し、何よりもあの香臭のかけらも残らないとは。
後数十年もしたら、この国のことは人口にも登らなくなるのだろうか。

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2012年6月13日 (水)

市民税の申告が必要だった

昨日市役所から市民税の納付書が通知されてその額の多さに驚いた。年金収入は昨年と同じなのに、税額は殆ど倍である。
そんな馬鹿なと一覧して頭に来た。

よくよくその記載内容を見ると、収入は同じでも社会保険料と基礎控除しか控除額が記入してない。
ははー、これはおかしいなとすぐ気がついた。
所得税の申告の時、年金だけの所得者は申告するに及ばないと、税務署で、申告用紙を1月に貰いに行ったら、係員がわざわざ親切に教えてくれた。それでも申告して源泉で徴収されている人の返還分がある人は出してもいいよということだった。
私の場合は計算すると、医療控除が10万以上もあったり、孫の生命保険を負担したりしたので、返還されるかとも思い、記入してみると案に相違して、更に税金を追加納入しなければならない。折角申告しないでいいというのだから申告を止めてそのままにしていた。

市民税で報復を受けるとは思わなかった。なるほど説明書きを良く読むと、市民税は別に申告しなさいと書いてある。
これだなと気がつく。

今日早速市役所の課税課に行き、遅ればせながら申告する。
結果昨年とほぼ同じ額に減額されることになった。
税務署に申告する明細書類をそのまま準備し、印鑑まで持参して行ったので、窓口で簡単に申告さしてもらって片がついた。やれやれである。
百枚もある医療費の領収書を改めてバタバタと計算して確認してくれる係員には感謝あるのみだった。

私の不注意だから文句のいいようは無いが、やっぱり老人には住みにくい世の中である。

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2012年6月14日 (木)

訳の分からない日

市役所から昨日申告した市民税の保険料控除の証明書が古い年度だから駄目だと云って来る。
いろいろ探したが外には無いし、保険会社に電話する。保険会社ではそんなことは無いというので、市役所の担当に電話してもらってやっと解決がつく。変なこと!庶民が困る様な法律を作るな,喝!!
1時間も大騒ぎしたぞっ。

3日ばかり又便通が無い。下剤を挿入する。少し下腹がにがるが、暫くしておさまれば何ともない。依然として便通が無い。
どうなってるんだ,俺の腹は!

近所の家内の友達の、殆ど私と同い年のばあさんが、便が詰まって腹を切る手術をされたと,何時だったか聞いて居るのだが、俺もそれかなといささか心配である。
とうとう土壇場まで来たのかもしれない。

このブログ太平楽もぼちぼつ終焉となるのか。

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2012年6月15日 (金)

市役所通いが忙しい

第一生命の一括払い保険料の控除の件で,再度市役所に出かけることとなる。1000000円という保険料だから、控除証明のあるのを忘れていた。
開門一番に入ったので,担当者は私の姿を見かけるや、すぐ窓口に出て来てくれる。
書類を訂正して,消印を押す。控除限度が35000円だから、保険料が100万増えようと、1100円控除が増えるだけ。
税額では100円の減額である。足代にもならなかった。

放っておいてもどうてことは無かった。ところが今日又市役所から今年度は治療費の負担が3割になりますからと通知が来る。
所得が140万円以上になるからというのである。

今度はあれだなと合点が行く、配偶者や保険料など控除を受けなかったから当然の報いである。
またまた窓口は違うが市役所に出かけずばならない。
老人は毎日病気をしている様なものだから、医療費も1割と3割ではまるきり違う。
次から次えとえらいことになるもんであるなあ。

午後家内が食うものが無いというから,又スーパーに一緒に買い物。
ひとつひとつ、何でも無いことでないんだな,老人には。

下剤が全然効く気配をみせない。俺の腹は果たして空なのだろうか。

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2012年6月16日 (土)

老人の世迷い言

雨降りの夜明け。
今読んでいる歴史街道という雑誌に改めて刺激を受けた訳ではあるまいが、満洲国土建設は惜しかったなと未だに思い出す。

欧米列強の領土拡張に我も負けじと、明治維新をくぐり抜けた自信をそのままに、国家の勢威を発展させようと志した若者達の行き過ぎではあったが、未だに羨むべき構想の下に、計画そのものは素晴らしく,実行も着々と進んでいた。

軍部の独断専行を阻止出来ていれば,現実に王道楽土が実現していたかも知れないと,未だに思っている。
現に中国は国力の大半をこの満洲の産業基盤に依存して,世界に雄飛している。

それにしても児玉源太郎、後藤新平、山本条太郎等人材がいたのだなあ。

昨今の国内の政治経済情勢をみると、正に牆内にせめぎ合いて,外寇を忘れているのではあるまいかという気すらする。
奮起せよ若者と言いたくなる。

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2012年6月19日 (火)

台風も手加減か

台風4号が今朝既に種子島にやって来ている。時速45キロというのだから快速である。
おかげで降りっぱなしの雨が続いている。まだ風はほとんどない。暴風圏内には未だ入らないらしい。
それにしても6月の台風が日本直撃というのは珍しい。

午後4時雨は上がって空が明るくなり青空も見える。どうやら台風は逃げてくれたらしい。
空気がぐっと暑くなる。雨は去ったが熱気は残された。風はほとんど届かなかった。

ここのところ身体の痒みがどこへ行ったのか,すこぶる快調である。月初めに旬日ばかり続いた身体の痒さが嘘みたいである。
何だったのだろうか,変ったものを食った覚えは無いがやはり食あたりだったのかも知れない。
両腕から腹に掛けてのじんましんはかなりひどかった。

便秘気味だったのも,一昨日の下剤ですっかり排泄出来て快調である。

ところが今度は家内のリウマチがひどくなって、指の先が痛いらしく炊事に難儀してこぼしている。
現在人と違って私の様な戦中派は炊事は無縁のもので手助けにはならない。
あたふたと見守るしか能がない。
固いかぼちゃを包丁で割ってやったところが、うっかり手許をかすめた刃先が傷つけてくれる。

もう役に立つことは何も無い。

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2012年6月21日 (木)

梅雨の真骨頂

台風5号が引き続いて来ていたが,日本に届く前に熱帯低気圧になった。しかし雨は大量に持ち込むらしく相変わらず九州はその最前線で苦闘を続けている。
当地も夜中からかなり激しく降り続いているので、川や谷のそばは大変だ。

家内が昨夜から膝が痛くなり歩きにくいと言う。痛み止めを飲んで寝たがさして効果はなさそう。
今日は終日寝て過ごすという。
そう云った口のしたから、医者に連れて行けと言われてせいこう外科に出かける。痛み止めの注射を尻にされたらしい。
その足で食堂へ,済ますと今度はスーパーへ相も変わらずである。

もっともこれがなくなれば我が家は動きが取れなくなる。死の宿同然だろう。

昼に食ったうな重は甘過ぎて、うんざり。若い者でもあんなに甘くてはいやらしいのでは。
うなぎの蒲焼きはうまく出来ていたのだが、たれがね!

雨はいちおう午には上がる。どんよりは続いて,熱帯低気圧の割には涼しい。

家内も私も午後はもう起きてる気力はない。

午後3時午睡からさめてみると又しょぼしょぼ降っている。
梅雨の真骨頂というところか。

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2012年6月22日 (金)

戦前戦後という言葉、もう古典か

少し風があって涼しい朝だ。
痛み止めが効いて家内は正座は出来ないが,立ち居に支障はなさそうだ。
昨日は気が動顛するほど驚いたが、今朝はなんとなくほっとする。

今日デオデオの紙屋町の新館がオープンし,八丁堀の天満屋がつぶれた後にヤマダ電機が新装開店する。広島は正に全国1、2位の電気店の大激突である。正に歴史的な見ものというべきだろう。
百貨店の凋落はもう十数年も続いて,復興の兆しは見えないが、やはり衣類の時代は去って,電気など新時代製品と食料品の販売品目の天下は揺るぎなくつづく。

頂点に達した自動車は国内ではもう発展は望むべくもないが、世界的にはまだまだ余地が大きい。
建設業といい,産業シフトが大きく変わるのは、もう一国の問題では無い,致し方のないことである。
戦前から今日、こんなに世の中が変わるとは,夢にも出て来ないことがらだった。
戦前戦後なんて言葉事態もう古典かもしれない。

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2012年6月26日 (火)

又又広島草津のお地蔵さん

相変わらずの気温20度前後で始まる毎日が続いている。
老人にはまことに都合の良い気候である。時々降って来る雨も出歩くことの少ない私には何の文句も無い。
かんかん照りがつづく真夏を考えると今が最高の過ごしよいシーズンだろう。

先月も訪ねた草津のお地蔵さんの件だが、私の子供の時の記憶とはあまりにもかけ離れた場所だけにどうしてもしっくりしない。
未だに訪ねる気持ちが続いているのだが、あの時そもそもどうして宮島電車で草津駅まで行ったのだろうと疑問もあった。
調べてみると宮島線が開通したのは1924年と記録されている。私が生まれたのは1920年、この時は未だ出来ていない。しかし行ったのは小学校1年生だから,1926年になるわけだ。恐らく母は誰からか電車開通を聞き知ったに違いない。
なにしろアメリカ帰りのハイカラマダムだったから、当時新聞やラジオはとっていなかったが、聞き耳は早かった筈だ。
その好奇心もあってお参りしたのかも知れない。

記憶ではこの草津以外に考えられないのだが、海岸からすぐ山地が続く地形だから、山道を歩いた記憶は間違いない筈だ。
80年であんなに賑やかな街路に変貌したのだろうか。
しかも電車駅から500米以内と近過ぎる。
子供の足でも1キロ以上は歩いた記憶がある。

ウイキペディアで調べても群馬の草津に遮られて,広島の草津などいくら探しても出て来ない。
知れる古老も少ないだろうし,今となっては手遅れというほかは無いのか。

最近の新聞で目についたことだが,揚子江のイルカが絶滅したとあった。70年前簡単に目の前を群れをなして泳いでいたあの巨体がである。
時の移ろいは何が起こっても仕方の無いことか。

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2012年6月27日 (水)

乗り物の旅にも隔世の感

ここらは雨になっていないが、南九州から四国に掛けて随分と降っているらしい。梅雨だもんな。
相変わらずうっとうしい。

昨夜の下剤が効いて,今朝早くから便通。
効き過ぎた感じだし、薬もなくなったのでせいこう胃腸科に行く。
医師の先生といろいろ話しているうちに,薬の使い方が間違っていると言われる。
いろいろ拝聴しているうちに全く間違った使い方をしていることに気がつく。

今度は少し軽い薬を取りあえず1週間分いただく。毎晩寝る前に呑むのだそうである。
そして毎日普通の便が出るのが良いというわけ。
やはり面倒でも毎日排泄はしなければいけないらしい。

最近は食事の量も少ないし、そのせいで3日に一度でいいかなと思っていた私の判断が間違っていたようだ。

千代が8月9日に朝子を伴って来宅すると言う。一泊はホテル泊まりの予約便だという。
聞いてびっくり、それが安いのだ。今頃は旅行でも変なのがあるのだな。3日間ですぐ帰らないといけないのだともいう。
こちらは別にかまわないのだが、乗り物が新幹線だというのだから不思議だ。

隔世の感と言えば、昭和16年12月1日大東亜戦勃発の直前、東京世田谷から富士の演習場へ時速10㎞で部隊移動した。大磯でキャンプを張って1泊した。
自動車で2日掛かった訳である。
正に世迷い言になるな。


野田総理はとうとう小沢の抵抗を振り切って消費税法案を衆議院を通過さした。何方もどっちという気がしないでもないが、まあいいだろう,アメリカなどでは多いことらしいから。
今の時代は誰がやっても明治時代の様なリ−ダーシップは取り得ない時代だろう。

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2012年6月29日 (金)

オスプレイを見てみたい

後一日で今年も半分が終わらんとしていますと深夜便のナレーターが叫んでいる。
うとうととしている間にもう午前6時を大分過ぎている。
時の流れは鉄砲水のように圧倒的である。

曾孫まで居る私にも父が居たことがある。亡くなってからもう72年にもなるのだから恐ろしい。
親父が晩婚だったからそうなったのだが、今時三十、四十で結婚するのは珍しくないから、私の様な間尺に合わない年齢差のものが多くなるかもしれない。
ふと思い出すと,つい先だってと思っていても半世紀前だったりする。

竹馬の友だった近所の幼な馴染みを十歳にならぬ前バタバタと二人失った。
衝撃の我が人生のスタートだった。
間もなく徴兵年齢に達し6年間も青春をまるまる戦場で浪費した。気息奄々の戦病者の群れも、悶死している死骸の山も見せられた。

辛うじて血を吐きながら帰還しても、世の中がまるきり変わり、家も勤め先もなくなり、我が行く道を探して右往左往している間に過ぎ去って後はもう一瀉千里だった。詳細は思い出し様も無い。

古きことほどよく憶えている現在の心境は、90年の生涯が長かったか短かったか,早かったか遅かったか判断が出来にくいほどである。

平和などとお題目みたいに呟いている世の中だが、平和だから幸福というわけでもない。
それに世界はお世辞にも平和だとは言えない。銃火飛び交い,連日どこかで戦死者を出している。

オスプレイなどという想像したこともないような新鋭飛行機が,我が古里岩國に近くやって来るらしい。
小学生の頃藤生の浜辺に水上飛行機が降り立ったと聞き,元気な祖母が音頭を取って、弁当をこしらえ家族総ぐるみで1里の道を歩いて見物に出かけたことがあったけど、あれから八十年も経った訳か。

私も今年の暮れ飛行機で岩國から上京する予定にしているが、同じ飛行場だから窓からあの特異な姿を眺めることが出来るかも知れない。
楽しみである。
大連の飛行場で多数の戦闘機の配列を横目に飛び立ったことが数年前あったが、戦争で痛めつけられた私には,飛行機は生涯忘れ去ることは出来ない関心事なのである。

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2012年6月30日 (土)

爆音が懐かしい

小雨がしとしとと梅雨の雨らしく降り続いている。
これが本来の梅雨だと言わんばかりに。

一昨年90歳の年を最後に,例年行っていた同窓会ももう解散して、今頃になると心待ちにしたものだったがもう一人の友からも声が掛からない。
原因の一つはみんなツンボになって,電話でも話が通じないということである。
手紙は書ける筈だが、その意欲がないのだな。第一ポストまではどうしても届けなければ飛んで行ってはくれない。歩くという前提条件がある。

同窓ではないが昨年亡くなった山崎君はこまめにシーズンの折々、札幌から突然電話をくれたりしたが、あんな男は同級生にはいないのか。

老人というのは一種の病人だから,元気といっても先ず半人前も無い。
経験をつんで知識は豊富だが,実行が出来ないから,有害な雑音にしかならない。
雑音と言えば最近は飛行機の爆音も嫌われてるらしい。
戦争中は私の家内などは逃げ隠くれしたらしいが、戦場では爆音も砲声もあって当たり前だった。
当たれば仕方がないが先ず当たることは無かった。現に生きているのだから。

今読んでいる”湖南戦記”のシ江作戦のように、大軍に包囲され山上に取り残されて,空から地上から雨霰と打ち込まれては先ず生き残ることは難しいが、それでも生き延びた兵士もいるとある。

私もあの前の年あの近くに居たから,地勢はある程度判っている。無限にといっていいほど日本の山と同じ様な山が延々と続いている。
深いなどと簡単に言える程度のものでは無い。戦場にもまるで向いていない。

私も討伐と称して,一箇小隊で向かったことがあったが,これは駄目だとすぐ悟った。
同じ様な山が重なり合って,森林は深く,隠れるに容易で攻めるに難しく、行けども行けども同じ地形で、慣れたものでもまぎれやすく、簡単に進攻出来る地形では無い。4,5キロも行って中止して引き返した。

その中で2個師団強で戦ったのだから無謀である。
先方は早くから数倍の兵力で、待ち構えて陣を敷いている。道はうねうねと山間を曲がりくねってどこまでも続いて人馬以外は通さない。横広く散開するわけにはいかない。両側の山からは丸見えである。飛行機もなしで戦えるわけがない。

湘桂作戦中日本軍の飛行機を見たのは緒戦の1ヶ月くらいで、後は爆音とみれば全部敵機であった。
連日連夜敵機に蹂躙された。それでもなかなか弾は当たらないから戦線は拡大され,逐次奥深く追い込んで行ったのは日本軍の底力だった。

しかしシ江に待ち構えた敵軍はアメリカ装備の最新鋭軍だった。従来の敵とは違っていたし,地の利は大いに敵に味方した。落下傘部隊まで降下させて日本軍を包囲した。
敵にしてみれば負ける道理は無かったといってよい。
作戦指導した参謀部の無知から発生したものだった。
知恵の戦いではアメリカの方がはるかに合理的ですぐれていた。
史上に残る支那派遣軍唯一の敗戦であった。

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