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2012年5月 2日 (水)

MACとWINDOWSの使い分け

5時前に目覚める。病院に行く日なのでそのまま起きる。顔を洗ったり支度をはじめる。
連休のど真ん中で来いと云われて予約したのだが、大丈夫かいなとこちらが心配。おまけに雨が昨夜から降り続いている。
車で行くのだからあまり気にはならないが、車を返上したら難しいことになるだろうな。

ノートが一つ増えて、4台のパソコンを駆使している身だが、便利が良いのか悪いのかよく判らない。頭の回転がもう一つになったから、往々にして間違える。アップルとウインドウズでは別だと知っててもつい身体が憶えていたままに、キーボードを叩いたりして初手から動かない。

しょっぱな、ウインドウズには保存方法が二通りあるとは思わず、ビデオを大量に読み込んで、いざ外付けHDに移し替えようとしたが受け付けない。
2TBのHDをわざわざ買って来たのに、受け入れられないで困ったが、FAT32は4GB以上のファイルはだめだと何かに書いてあり気づく。
フォーマットを変えればいいということで、決着はついたが、XPと違って7は何かと制約が多いようで、マックのライオン同様初手は苦労が絶えない。
ウインドウズはXPと7、マックはタイガーとライオンの使い分けは楽ではない。それぞれ一つづつ組み込ませているのだが、昔やったようにパーティションするのがいいのかなあと思ったり、今迷っている所である。

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2012年5月 3日 (木)

草津の地蔵さんとうとう見つけた

最近頓に喧しくなった感じの憲法改正論議の、今日は憲法記念日であり即私達の63回目の結婚記念日でもある。
こんなに長く続くことは珍しいことだろうから、何はともあれ素直に喜びたい。
よれよれに近づいたが、それでも誰の助けも借らず、生活しているのだから幸運というほかは無い。

苦しいことも人並みにないことはないが、前向きにそれを生きる糧としている。
ごく僅かな余命だろうが、積極的に生き、最後を全うしたいものである。

昨日までの雨が上がって、折からの広島フラワーフェスティバルを祝福するがごとく、好天気になった。平和大通りを中心にさぞ賑わうことだろう。ゆっくりテレビで拝見しよう。
お祭り好きだった母に駆り出されて、見物に出かけていたのが最後になった。母が亡くなってから生で見ることは絶えてなくなった。

今更どうしようもないが、私は親に似ず何をとっても不肖の子であった。

小百合等夫婦が庭の手入れにやってきてくれる。若いから手際がいい。昼前には終わる。
結婚記念日だから寿司を食いに連れて行くと行って佐伯区まで出かける。
新しい綺麗な店である。客が多く奥の特別室に通される。
食事を終わると私が話題にした草津の地蔵さんの所在を知っているからと、連れて行かれることになる。草津の街のど真ん中にあって、幼き日の私の記憶とはまるで違っている。
ただ同じなのは草津駅から5,600米のところだということだけらしい。山道を辿った覚えはまるで現状に合わない。現在でも信仰を集めていらっしゃり、お祭りには参拝客も多いという。
80年の時の移り変わりと思う以外にない。
敬虔な祈りを捧げて、堂前を去る。

長年追い求めて来た地蔵尊がこれだったのかと、今更懐かしい母の姿を思い浮かべるのである。
 
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2012年5月 5日 (土)

大正15年の草津地蔵さん

朝5時に起きてパソコンをいじる。
昨夜寝る前に呑んだ下剤が効き始めるのではないかと、気になったらしい。
しかし起き出してみると、一向に腹がにがり始めるとか予兆はまるでない。

一昨日訪ねた地蔵さんのことが又気になり出す。
母はどうして汽車、電車を乗り継いでわざわざこの草津の地蔵さんに連れて参ったのであろうか。
私の故家の1キロぐらい離れたところに桜地蔵という今は著名なお地蔵さんがある。
お祭りには引きも切らずに参拝客がある。

草津にお参りしたのは確か小学校1年生の時である。年号で云えば大正15年だろう。
この年私は頭痛に悩まされて、しばしば学校を休み、2学期にはとうとう休学してしまったとのことだった。
この休学期間に母は誰かに霊験新たかなとでも聞いて、わざわざ草津まで連れて参ったのだろう。その霊験からか頭痛が治まったのかもしれない。3学期には復学しているから。

近所の桜地蔵さんには、時に願でも掛けるのか連続して朝早く参ったりしていたものだが、こちらを差し置いてまで草津に連れて参ったことが一寸腑に落ちない。
もっとも桜地蔵は当時は未だ路傍に転がっていらっしゃったかもしれない。私自身戦後になってあれっとその存在に気づいたくらいだから。中学時代は毎日歩いてすぐ側を通学のため通った筈だが、お参りした記憶など全然ない。今は立派な社屋に参道まで付いて、少し位置が変っては居るが。

ともあれ母が生きていたとき聞いておけばなんでもないことだが、聞かなかったばかりに気がかりになってしまった。

終点宮島口で汽車から電車に乗り換えて、草津で降りたことは確かに子供でも憶えていた。山道をぞろぞろと沢山の参拝客に混じってお参りした。そんなに遠くはなかった。しかしお宮の姿はまるで覚えが無い。人家はそんなにはなかったとおもうから、現在のたたずまいとはまるで違っている。
電車駅もどんなだったか、電車がどんなだったか憶えていない。
もう夢を見ていると変わりはない。

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2012年5月 7日 (月)

老人の愚痴は身から出た錆

昨日は家内に誘われて植物園に出かける。連休最後の日だから入園者は多い。
絶好の時期だからどの植物も生き生きしている。
いつも今頃目に付く楓の並木道の新緑が眩しい。

しかし体力の低下は如何ともし難い。山の通路は半分歩いて、おしまいにする。
車に戻るとほっとする。車だけが救いの気持ちである。

ゴールデンウイークが去って、さー仕事と云っても、新聞が休んでくれるとツンボ桟敷に置かれたみたいで、落ち着かない。
毎日の食事といっしょで、長年習い性となった日々の行事は、一寸でも抜けると、張り合いがなくていけない。
それでも丁寧に毎日見ているかとなると、全く逆なのだが、所詮俺はあまのじゃくなのだな。

そこへ行くと家内は立派である。新聞は丹念に隅から隅までいつまでも読んでいる。
細かい出来事など見つけて私にことさら教えたりする。
テレビの議会報道もつけ放しているし、流行の時事対談など朝から熱心に見ている。
政治批判も時に口からのぞきでる。

近年口の締まりが悪くなって涎が盛んに垂れる。無意識にだから始末が悪い。尻からの排泄は出にくくて困っているのに、上の方からは涙も鼻水もその上涎まで意に反して出るとは、思っても見なかった。
老人は世の中にしゃしゃり出る資格はもうどこにもない。今気づいたことではないが駄目を押された感じで情けない。

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2012年5月 9日 (水)

囲碁ソフトと対局

午前中買い物に出る。デオデオで頭の体操をと思って囲碁のソフトを買う。
昔持っていた名前のソフトだが、今はWINDOWSしかないので、OSがマックだし古いソフトはもう使えないし、ソフトを使うことも10年ばかりなかった。
WINDOWSのノートを今年の始め手に入れてたので、思い出してやる気になった。

弟が街の同好会の世話をしたりして、随分強くなっているらしいが、先般行ったときパソコンはあまりやらないが囲碁だけは記録までしているということだった。
折角便利なものがあるのだから、私も棋譜を記録しながら訓練を再開することにした。

今日は早速インストールして対局してみた。一局だけだが先番で20目ほど勝った。
まだ頭の方は大丈夫だなと感ずる。
もっとも定石を知らず、思いつくまま打つのだから、コンピューターが戸惑った節も見えなくもない。負ける時は大敗するというのが、従来からのしきたりではあったが。

一人遊びするには囲碁、将棋はもってこいの競技といえる。最近では専門の棋士でもコンピューターに負けたりする時代だから、もちろん馬鹿には出来ない。

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2012年5月10日 (木)

わがまつごいよいよ近づきたるか

囲碁ソフトと第2局を戦う。白番で28目勝つ。
こんどのソフトはあまり強くないらしいな。手加減なしにぽんぽん打ってこれでは仕方がない。
頭の体操だからまあこれでいいか。

午後家内が近くのデパートに行くというのでお供をする。
私はかねて念願だった首なし地蔵さんを探しに行くべく、電車で隣の駅まで行き、案内板に従って山に登る。
石段がずっと続いている。なかなかの急坂で息が切れる。
途中から井口小学校の校庭を抜けなければならない。
無用の者の立ち入りを禁じた表札が掛かっているが、ここ迄来ている以上しかたが無い。
校庭に居る生徒等に教えてもらって、正門を出て右へ百米ぐらい右に行ってやっとお堂にたどり着く。
説明板をよみ、お堂の中を覗き込む。二体あって小さい方が首が無い。
昔は険岨な山道の頂上だったらしく、既に立派な住宅団地化した建物などで塞がれては居るが、道路越しに見られる沖合の風景は、さぞかしであったのだろうと察せられる。

おそらくは道祖神として、旅人をなぐさめたものであろうかと、昔をしのぶのであった。
ものの本によれば、この界隈は箱根にも匹敵する山陽道の難所として著名であったらしい。

先日は幼時お世話になったかも知れない、草津の地蔵さんを訪ね、今回は何故だか心が求めて止まなかった首なし地蔵さんにお参り出来、わがこと終われりの感しきりなるを覚えるのだある。

死というものの、こわさを、いや一寸違うかな、不可思議さを手探っている感じがしてならない。いよいよまつごが近いのであろうか。 Img_2110_6

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2012年5月11日 (金)

井口の首なし地蔵さん

昨晩は足を風呂に入ってよく揉んでおいたから、いつものけいれんも来ず楽に寝られた。
しかし百メートル足らずの山登りでも今朝は足が重い。
肝心の首なし地蔵さんは外受けしないと見え、隅の方にこっそりとひそんでおられる。
不運は未来永劫つきまとうということか。

昨日はお地蔵さんが井口小学校のすぐそばにあることから、小学校の生徒さんに終始お世話になった。特に山から降りるところなど手をつないでもらったりする始末。杖は勿論付いていたがちょっとでも気を許すとつまづきかねない道のりだった。長い長い石段だったなあ。

こころみに、google検索してみると、首なし地蔵に関する項目は200もあるのではなかろうか。就中備後府中市の首なし地蔵が有名らしい。その投稿が凄く多い。
この井口の首なし地蔵さんは一件だけだった。私のこのブログをgoogleが取り上げてくれると二件になるわけだが。

幼かった日、母が朝早く暗いうちに起き出して、毎日のように近所の桜地蔵さんにお参りしていた後ろ姿を見て育った私には、ことさらの尊崇の気持ちはないまでも、自然と頭が下がる思いのお地蔵さんなのである。まして草津の地蔵さんには先日も書いたように、頭痛を治していただいたのかも知れないのだから。Img_2108


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2012年5月12日 (土)

私の頭痛

ここの所母のことがよく思い出されるのだが、どうしてだろう。
青年時から母のひざ許を去って暮らしたことの方が多かった私だが、幼時には内気で臆病で、心身ともひ弱だった。
小学校入学早々頭痛がひどくて、2学期はとうとう休学してしまった。
母の心配は絶頂に達していたと思われる。
昭和元年(大正15年)がその年だが、長男だった私は母が21歳で生んだ最初の子だったし、父はメキシコに在留していて、別居していたときだから、一人で病弱な子を育てあぐんだことと思われる。

その一つの手だてが、草津の地蔵さん参りだとはうなづけるのである。よくも遠方の未だに名も知れない地蔵尊に頼ったものである。

ともあれ、その貧弱な子だった私が、この92歳まで元気で生き延びて来られたのであろうか不思議でならない。そして今も死にかかわりそうな病気は持ち合わせては居ない。
頭痛というのは幼時から76歳で仕事を置くまで持病であって、時に寝込んだりしたこともあった。
しかし隠居後はもう絶えてなくなった。

今になって思うと、気の弱さが余分の負担を頭に掛け過ぎていたのかもしれない。
仕事が無くなって、その負担がなくなり、頭の血管の緊張が無くなり、頭痛が無くなったという図式だろう。

小学校入学は頭痛を患うほどの子供の私に取っては重圧だったわけだ。
次にひどかったのは破産して、友人の会社に拾われ、その重責を担わされたとき屢々発生した。
応急手当てし我慢しながら、凌ぎ切った。
家族のものも発病になれ応急によく対策をとってくれた。

頭痛は私にとって一種の警報であると今では自覚するに至っている。
今度来る時は死の予告かも知れない。

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2012年5月13日 (日)

保育児童の運動をテレビで見て

今朝のテレビをふと見やると、保育児童に体操がいいといって寝転がってなにやらぶっつかりあわせている。
そういえば、今の時代は車社会で、一歩外へ出れば危険が一杯だし、部屋の中ばかりで子供を育てれば運動量は知れたものになる。当然のなりゆきなんだ。
せめてもの手段だろう。

昔は子供が多かったし、親は忙しいし、どの子も野放しであった。
私の毎日は学校以外は近くの小川や山野が遊び場であった。
近郷近在を駆け回った。いつもゆく平家山やえんげしは百米そこそこの平山である。絶好の眺望の良い遊技場であった。危険も何も無かった。
今の子供にくらべてどれほどか恵まれた環境に育ったと云えよう。
この長寿の根源もそれなくしては語れない。

保育園の広間でのごろ寝が果たして長寿の役に立つのだろうか、背筋が薄ら寒くなる様な世相を感じたのは私一人だけではあるまい。
将来人類過剰の末のせめぎ合いは避けられない。
戦争手段に訴えるほどのこともなく、自然淘汰されるのは、こうしたひ弱い育て方をされる民族ではなかろうか、心配である。

政府は今児童教育に大きな金を使わんとしている。
単純に金を配るのでなく、空き家の増えた山村に連れて行って、自然の中でのびのびと生活し、勉強させたらどうだろう。道路も交通手段もものすごく便利になっている。
やらせる気さえあれば簡単に出来る筈である。筋肉だけ鍛えたのでは完全な人間にはなれない。
心身ともに健康にならなければだめなことは判り切った論理ではないのか。

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2012年5月15日 (火)

長井雅樂の毀誉褒貶

下剤の効果が15時間経ってやっと出る。
下剤を飲まないと出ないという状態になって来たらしい。

奈良本辰也の”もう一つの維新”というのを読み始める。
長井雅楽の伝記である。
航海遠略策を説いて、朝幕の間を周旋し、和宮御降嫁、日米和親条約の実現に寄与しながら、攘夷を崩されぬ孝明帝の叡慮に朝議が一変して攘夷に決するや先頭に立って攘夷決行に走った、長州の変節はその要を握った長井雅楽に責任を負わさざるを得なかった。

長井雅楽も身分から云えば150石の下級に位置する。高杉の半分くらいである。
藩主の抜擢で国政を任され長州を代弁し、最後は責任を取らされることにはなったが、幕末の傑物だったことは間違いない。
吉田松陰をはじめ一方では安政の大獄に連座して数多の犠牲を強いられ、攘夷決行を先駆けて又々犠牲を多発した。長州の維新の苦悩の始まりを担ったとも云える、長井雅樂の生涯である。

長州の維新時の活躍は下層武士のそれであった。いかに自由闊達に夫々がその能力を発揮出来たか、それを登用した藩主の偉大さが伺える。

彼は上申書に朝廷謗詞似寄りの言葉があったとして切腹して果てるのだが、片や藩論を独力でくつがえし、自己意志で統一してみせた、高杉晋作とその運命の対比の不思議さを感ずる。

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2012年5月18日 (金)

音戸の瀬戸と清盛展

音戸の瀬戸にゆく。久しぶりの遠出である。
今は呉に行くにもほとんど高速道路で行かれるから、簡単だった。
最初ETCカードを入れ忘れて走ったりして、料金を現金払いしたりしたが、呉の料金所でカードがあるからといって差し出したら、変更してくれ150円安くなった。

呉道路は公団道路だったかなあ。

音戸の新しい大橋は建設中で、見るべきものはなかったが、音戸に渡って清盛展を見に行った。
水戸の慶喜展に比べると質素なものだったが、まあ熱意は劣らぬものがあったかもしれない。
ブームに乗って団体客なども多かった。
帰りは阿賀に出て、休山トンネルを抜けて帰ったがこの方が楽だったようだ。
走行総距離97km,4時間ちょっとの旅だった。
やや緊張疲れしたかも
しれない。
音戸の瀬戸
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清盛展
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清盛塚
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2012年5月19日 (土)

私は転々と職を変えた、それが良かった!

毎朝同じように気温15度がつづく。老人には最適の気温と云えるかも知れない。
恵まれ過ぎた思いに包まれている。
昨日の音戸行きも何でもないほど身体に別状は無い。

今朝の食事の夫婦の語らいの中に出て来た舅が95歳で亡くなったが、私もそれに追いつけるかも知れない今の雲行きである。舅は92歳ではもう寝て切りだったから。

昨日テレビでやってたが、どこやらの職場で同じ仕事をしていた20台から40台の社員5名が肝臓管がんで亡くなったというのがあった。こんな若さで同じ癌に冒されるなど明らかに職場の何かが原因であるとおもわれる。

私は戦争のお陰で兵隊の6年間を入れて、満洲で普通のサラリーマン、戦後、外務省嘱託、農協職員、デパート経営又普通の会社員、そして今度は自営のクリーニング業、傍らクーリングタワー洗浄剤販売と洗浄業、鍵複製業などなど、業種まことに多岐、友人達もあきれていたほどであった。
おかげで身体に支障を来すことはなかった。
ただクリーニング業は汚れ物を化学洗浄剤で洗うのだから、家内が病気に倒れるということが起きた。
原因が那辺にあったかわからないが、長く続ける仕事では無いと判断して、3年くらいで打ち切った。

偶然にも、のめり込んだ仕事は何一つなかったから、癌が育つ環境に居合わせなかったことになった。
私の叔父が50歳半ばでがんで死んでいるから、癌の因子を私自身は持ち合わせてはいる筈である。
未だ余命がありそうだから、癌に掛かって最後はお陀仏なのかも知れないが、ともかくも百歳近くまで生きた。
世間の荒波に翻弄された割には、こうした幸運も待ち構えているということである。

午前中デオデオに行く。招待案内が来ていたから、その中で必要なものを買い求める為にであった。
案内状に釣られて押すな押すなの盛況である。
決めていたものを店員に聞いて探したが、もう売り切れてほとんどない。
仕方なく似た様なものを探して3点ばかり買う。
勘定場も行列でいっぱい、やっと抜け出すとやれやれと帰路につく。
売り出しなんて効果があるもんだなあと改めて感心する。
目玉商品なんて餌だから、あっという間にさらわれてしまう、判っちゃ居るけどひっかかるんだなあ。
開店間もなくはいったつもりだったが、老耄の足ではとても若者に太刀打ちは出来なかった。

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2012年5月20日 (日)

永い人生にはこんな幸運もある

天候は暖かいが雲が多く良いとは云えない。明日の金環日食も心配だ。百年に一度というのだから見てみたいがどうなんだろう。
目をやられる恐れがあるとテレビで盛んに云ってるから、見ない方がいいのかもしれないが。

明日は家内の目の手術の準備があるし、千代がやって来ると云うし、何となく私も忙しそうだ。
日食は朝8時半頃らしいから、時間の案配はつくだろうが。
そうだ明日は銀行にも行かなければならない。
老人はもう機敏には頭も身体も動かない。それだけに前々から準備が必要という訳。

思いついたらぱっぱとやるというのは、若い時の話である。

買ったモータース屋から車検の案内が来る。もう10年を越えている。
何度目の車検だろう。近所の私と同い年の藤井さんは免許証を返上すると云って居られるらしい。
私はまだその気にはならない。
もう一度別府に行って温泉に浸かってみたいと思っているほどだ。

これまで生きて来たのだから、そちらの心配はいらぬことだが、ふと軍隊時代週番巡察をさせられた日に、巡察途中で腹がにがり初めて動けなくなったことを思いだした。
交代をお願いして休んだのだが、専属の軍医の診断では胃けいれんということで、モルヒネかなんかの注射をして貰って官舎で寝ていた。

翌々日中隊の演習で出ていたと云って第2中隊付きの桃木軍医がやってきて、もう治ったよという私に、いいから俺に腹を見せろという。
診て貰うと指で腹をあちこち探っていたが突然痛みが走った。途端にあっこれは盲腸だ、すぐ入院だという。
陸軍病院に運び込まれて翌日手術、すでに手遅れで盲腸が破れ腹膜炎を併発していた。
2ヶ月間の入院治療となった。

今は簡単な治療で済むようになったが、当時はまだ遅れると悪化して死ぬるものも多かった。
私の学生当時同級で親しかった浅井君も音楽会で独唱した翌々日盲腸炎で亡くなった。

桃木軍医はよその中隊の軍医でそれほど親しくもなかった。任務の大きな東斐徳地区5ヶ部隊の週番勤務途中降板を誰からか聞いて、わざわざ心配して来てくれたのだろう。
結果的には彼のお節介で私は命を永らえた。
命を拾うというのはこういうことを云うのだろう。

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2012年5月22日 (火)

専門医とは

今日、家内の目の手術日、千代が来てくれてるので、最初に連れて行くだけで私の仕事は終り。
半分で済んだがその代わり大量のムービーテーブのダビングをおうせつかってしまう。

ダビングなるものは、正味その通りの時間をようするから正に時間との戦いである。
暇なものでないとどうしようもない。
いいところに目を付けられたものである。

やりはじめてみると、一日が簡単に過ぎ去ってしまう。
えらいことになったかな、忸怩たる思いが今胸をおもくしはじめている。

家内の手術はえらく早く終って、昼寝から覚めて下に降りてみると、もう帰って来て横になっている。
午後ちょっとの時間で、7、8人かたずけたらしい。
やはり名医らしいな。
専門と云うのはこうしたことをさす言葉だろう。

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2012年5月24日 (木)

ブログに助けられる

10時半私は三島歯科へ。千代はその車で帰京の途に着く。ご苦労さんでした。ちょっとの間でも助かりました。
何と言っても老人ばかりの家庭は不如意なことが多くて、手助けが要り過ぎるようですから。

3人から2人になると、静けさが身に滲みるようである。
ベルギーに居る孫娘に返事のメールを入れる。
このブログにも読者からコメントがいろいろ入っていて、楽しい。

元来口べただから、喋ることは得意でなかったし、いまは舌の回りが悪くて家内でも、何を言ってるのか判らないと、愚痴ている。
だから往々にしてとんちんかんな返事が帰って来る。

耳は遠くなるし、言語不鮮明ではまともな会話は出来ない。
其処に行くと、文字というのはいいなあ。正確に意思の伝達ができる。
老いてもブログが止められない理由である。

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2012年5月25日 (金)

ベルギーに居る孫娘とこともなげな会話

しとしとと本格的な雨が庭先を濡らしている。木々は皆生色豊かなりと云った風情。
夏みかんが隙間も無いほど白い可憐な花をつけている。ことしは豊作になるかな。

右胸が毎朝起きがけに痛みが出て、1週間続いている。少し痛みの位置が上に上がって肩の付近になっている。家内は肋間神経痛だろうという。
一寸違う自覚もあるのだが、医者に行くほどのことは無い。痛み止めでも呑むことにするか。

朝決まって目覚ましになっている雀の鳴き声が最近頓に減った感じがする。
数が減ったのだろうか、都市化の波で彼等も生活が苦しくなったのだろうか。
なににしても定型が減じて、世の移ろいを今更に感じる。

孫の行っているベルギーの大学は来月にはもう夏休みに入り、学年が終わるのだそうだ。
従って孫も留学の1年を終わって帰国することになるよし。
帰国する前モロッコを見て帰るという。
若い者って奇抜な考えをするんだなあ。女の子がどうしてモロッコなの。

盆には我が家に来らすからと、娘は約束して昨日帰って行った。
土産話がしっかり聞けそうだ。

この地方のニュースでアナウンサーが云ってたように今朝は寒い。気温は16度だったのだが雨のせいか。
部屋の中でも上着を着るほどである。
午後になっても雨は止まない。ほんとの五月雨だな。

昨日出したメールに朝子から早速返事が届いた。7月の中旬か下旬には帰るという。お土産話も用意するらしい。小さい頃のビデオのダビングを彼女も期待しているらしい。
精出さなければならないようだな。

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2012年5月26日 (土)

光雲去来なるようになる

雨はもうやんでるが、空は灰色のまま日射しも洩れない。
気温15度とやや涼しい。
昨夜下剤を飲んだから今日は下げる筈だが、8時半現在まだ予兆は無い。
不思議な腹だな!

やはり神経痛だったか、痛み止め一発でどうやら治まったらしい。いつもなら朝起きるとき痛みが走り、胸が暫く痛むのだが今朝はそれがない。

又昔の話だが、戦後やっと郷里に帰り着いて1ヶ月も経っていない時だった。
ある日猛烈な高熱に襲われた。歯の根が合わぬ程震えて真夏というのに寒くて布団を被って寝込んでしまった。母があわてたな。
何せ日本でお目にかかる様な症状では無いから。40度くらい出たのでは。
1キロ足らずの所に、村井先生という南支派遣軍の軍医上がりの医者が丁度復員していらっしゃった。
うちへ来て貰うと早速これはマラリヤだと一発診断、キニーネかなにかの注射で簡単に治してくれた。

爾来この命の恩人先生とは生涯の付き合いが続いた。
出征中は随分マラリヤ患者は多く、私も部下を2人死なせているが、私自身は予防薬も呑んでは居たが、全然罹ったことがなく、忘れていたほどだった。
まさか兵役を終わってから発病するなんて思っても見なかった。

南京で血を吐いて、結核初期だといわれ担架で上海まで運ばれ、やっと帰り船で故郷に帰れば、我が家はすでに爆撃でなくなり、その上のこの発病である。一時はどうなるかと、私も母も入れこんだりしたのだが、世の中なんとかなるもんだなあ。

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2012年5月27日 (日)

マウス談義

明るい曇り空である。若干弱い光だが世上一般を照らしている。
昼過ぎには夏空になるのでは。

2、3日前デオデオで弾み買いしたワイヤレスマウスが思いがけず便利がいいので驚き、どのパソコンでも使い始めた。
たったの¥1000-だったのだが、マックにもウインドウズにも実にスムースに動き、使いやすい。

今までマックは6千円もする純正のマウスをイライラする感じで使っていたのだが、こちらはまるきり落ち着きが違う。始めウインドウズのワイヤレス用にと使っていたのだが、非常に使いやすいのでマックでもと思って今日使い始めた訳だが、実に具合がいい。
別に宣伝の片棒を担ぐ気はないが、ELECOMのM-D20DRというマウスだ。
嬉しさのあまりと云っておこうか。

USBに部品を射し込むだけで、マックでもウインドウズでもどちらでも働く。
もうこれで決まりだな。
マウスが6個も7個もゴロゴロしているのだが仕方がない。

iPadのおかげで、もうマウスを使う時代が遠のきつつある現状だが、指タップも楽なようだが、使い勝手の悪い所もいろいろあって、パソコンはやはりマウスそれももうワイヤレスに決まり、時にノートの場合は指タップで処理したり。
若い人はもう少し進歩した使い方をしているのだろうが、老人はまあこんな所がせいぜいといったところか。

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2012年5月28日 (月)

記録保存の大変さ

日本晴れと云っていい、朝から上天気で気温も17度と絶好である。
こんな日は仕事にも気合いが入るだろうな。もうあの日が二度と来ないのは残念である。

陛下がおそろいで隣の山口県に来て居られる。ロンドン帰りから間もなくの御旅である。お元気なことだが病後のお疲れは無いのだろうか。
私の弟と同じ年生まれの陛下だが、現役のお仕事ご苦労さんと云わずには居れない。
弟は早々と職をはなれ、老後の楽しみに未だにゴルフのパターを振るっている。
陛下にももう楽をさせてあげたい。

先般娘に頼まれた10年前のイタリア旅行のDVDへのダビングを一日掛かって仕上げる。
8ミリテープ2本ぎっしりの約4時間のテープだから大変である。
ツァーで参加したものだが、家内とその妹2名、それに娘の4人組だ。
まあよくも念入りに撮ったものである。ガイドの説明も上手、下手はあるが、よく入っていて後から見る私には非常に助かる。

十年前だから皆元気溌剌としている。やっぱり違うな。
海外などは元気なうちに行って来ないと駄目だな。あんなに動き回ったり、おしゃべりも出来ないだろう。
DVDだから保存が又少し長く出来るだろう。
又8ミリテープのムービーが未だ健在だったから良かった。

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2012年5月30日 (水)

ビデオテープの末路

時間の制限はないので、気の向くままにやってもらえばいいと千代は言って帰ったのだが、こちらの寿命もあるので、そんなにゆっくりした気にはなれない。
ムービーのダビングも持参したものはあらかた終わってしまった。

ビデオテープの方も、気の向かないものが多くて、やる気になれない。
後はぼつぼつやるしかないか。

娘の所ではビデオコーダーが故郷して使えず、どちらかといえばテープの方をといってたが、その意に反するが仕方がない。
テープコーダーはもう新発売はないだろうし、作られても買う人が居ないとあれば消え去るのみだ。我が家の1000本のテープもその意味でははかなき運命である。
我が家のテープコーダーは2台健在だからまだ暫くは大丈夫なのだが。

考えてみると私の様な人は沢山居ると思われるが、誰も責任を取ってくれるではなし、無駄な消費だったし、大量なゴミが予期されることになったものだ。
同じことがCDやDVDにも云えるし、ブルーレイにしたところで先行き永くないのでは。

CDは昨年以来殆ど捨てた。個人記録はほとんどないから別に惜しむ気持ちも起きないが、それでも孫達の幼き日の遊び声などごく最近まで懐かしんだものだった。

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2012年5月31日 (木)

又便秘に苦しむ

又昨日から便秘に苦しんだ日になった。下剤は却って嘔吐につながり、夜に入ってから猛烈に吐き、夕食をそのまま全部吐き出してしまった。
下剤も一諸に吐き出したとみえ、排便の気配は一向に見えない。
下剤を飲んだのは12時間も前なのにこんなことってあるのだろうか。

やむを得ず今度は、今朝7時過ぎに肛門から挿入する下剤を射し込む。
4時間ぐらいしてやっと大量の便が排泄される。やれやれである。
正に悪戦苦闘の二日間だった。

もう私の腸は消化は良くしてくれるのだが、蠕動は殆どしないのではないかと疑うほどである。

ともかくも昼前になってやっと片付いたので、後は勿論爽快そのものである。
家内のお供をして買い物に出かける。花好きな家内は沢山の草花の鉢を買って帰る。
車がないと出来ない芸当である。車を運転してやるだけでも、家内は助かっている訳である。
だんだん身体が曲がり、手も足も力がなくなってきている。
車がなかったらもうどうにもならない老夫婦である。

老人には時々とんでもない落とし穴があるので、油断は出来ない。
こんな日が何時まで続くのやら。

すぐ近所出身の新藤兼人さんが昨日亡くなった。
百歳だそうだ。最後まで仕事をしていたというのだから、恐ろしいくらいのもんだ。
何もしないで日を過ごすのに忙しい凡人には、日をかすにはもったいない。

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