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2012年4月10日 (火)

私の先祖そして吉川広家

今朝は12度にものぼっている。天気が悪くなるらしい。
宮島も今うっすらと島影を映しているばかり。
昨今寝苦しい夜がつづく。乾癬のせいばかりではなさそうなのだが、理由は判然とはしない。

今中路啓太の「うつけの采配」というのを読んでいるのだが、あまり面白くなくてなかなか進まない。
吉川広家についての歴史小説だが、どうも広家の人物像が定かには見えない。
誇張もありそうだ。

広家とはなんといっても関ヶ原の合戦で、小早川秀秋とともに、徳川方に寝返ったことで有名である。
小早川秀秋は自軍1万5千を石田三成の西軍に向けて突撃せしめたのだから、まだはっきりしていたが、吉川広家は毛利全軍の先頭に居座って、釘付けにし戦闘参加を避けたのだから、無策の策というわけだろうか。

案の定老獪な家康がそんな策を評価する訳が無い。
御大将毛利輝元が大阪にあって西軍の指揮をとったとしての責任だけが追及され、内応の功は無視されてしまった。
同じ戦場で戦った島津は領国に変化は無かったが、毛利は五分の一に減らされてしまった。
吉川広家は出雲から岩國へ移され、初代藩主となった。地位は毛利の重役と云った身分に甘んじなければならなかった。

私の祖先はこの地に何時の頃からか住んでいたようだ。昔聞いた祖父の話では、明治になって戸籍を起こすとき、祖先のいた地名を姓にしたらしいということだったが、それ以外口伝も何も証明するものは何も無い。
曾祖父の大きな自然石の墓があって、時折連れて参らされた覚えはあるが、私の従弟がいつの間にか取りのけて新しい墓地を作っていた。
この自然石の墓の姓名が先祖の根拠と云える筈だが、今はそれすら記憶の外には残っていない。
私の幼い時に聞いた話では、この曾祖父は殿様即ち吉川侯のお馬番の仕事をしていたということだった。だから常時身近く殿様に仕えていたことになる。
その曰くもあってか大きな自然石の石碑の様な墓になったのだろうか。

ともあれ、吉川広家について私の思い入れはこんなところにあるのだが、朝鮮の役では随分働いたらしく、碧蹄館では立花宗茂や小早川隆景の下で隆景に勝ち過ぎたと云わしめた戦をし、蔚山では大群に包囲され飢えに苦しんだ加藤、浅野らの日本軍1万を、救援に向かい、抜け駆けして渡河敵陣に突っ込み撃退してその危急を救い、加藤清正にその恩義忘るべからずと感謝されたが、石田三成の讒訴により、却って抜け駆けを罰せられ領地を削られたと史書にも、この小説にも書き記されているのが最大の根拠かも知れない。


未だ読み始めて半ばにやっと到達、批判する資格は勿論無いが、幕末長州三家老の首を携えて、幕府との談判に応じ、扇子一つで槍の中を往来した吉川監物といい、この関ヶ原の決戦を左右した広家といい、風雲を起こした人たちが、私の近くにもいたという感慨は今痛切に残る。

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