« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »

2012年4月 1日 (日)

不甲斐なき草莽の一生

あまり暖かく感じないうちに4月になってしまった。
今朝の最低温度はコンピューターは6度と現地温度を表示して居るが、我が家の温度計は8時現在8度を指している。
まあこれで暖かい方だろうか、老人の感ずる感覚が常識はずれなのかも知れない。
家内も今朝寒いと言ってたから、私だけの感覚でもないのだが。

ストーブはまだまだ要る。仕方がないな此の老人家庭では。
石油ストーブの外に毎朝エアコンを回してるから、電気料が14000円も掛かっている。
平均値の倍だと家内がぼやいている。
とても省エネなんて言って居られない。ひどい家庭だなうちは。

便秘の下剤の後遺症で、今朝もまだ無色透明な粘液が肛門からにじみ出る。
便所でぎばってもそれ以外は何も出ない。
下剤がよく効いて腹の中を一掃したらしい。昨日も医者が腹を押してくれたけど、痛くも苦しくも何でもなかった。
それでもおむつが要る。全く赤ちゃんといっしょだ。
すぐ側に子や孫がいなくて幸いだ。あざけり笑われてさぞ情けないことだろう。

不甲斐ない永い永い一生である。比較してはいけないことだが、ロス・バニュスで処刑された山下奉文が、立ち会いの僧侶に語ったされる言葉が私の書籍に残っている。
東条の対米開戦に反対して、中央を追われ、シンガポール攻略に起用されたまま、日本に凱旋する一日の余裕もなくフィリッピン総司令官として部下の戦争責任を問われ絞首刑とされた。
もともと第3聯隊長時代部下に居た安藤大尉など2.26事件首謀者などを育成した責任から、中央からは外されていた。不幸なさだめだった。

昭和17年私が陸軍少尉に任官して間もなく、山下奉文が直上方面軍司令官として赴任されて来た。
どんなに奮起したことか、対ソ戦盤石とすら思った。丸二年後私も部隊が中支に転用されたので、昭和19年4月満洲を去ったが、山下大将は9月フィリッピンに転任、敗戦処理を任された。
あのまま満洲に残っていたらどうだったろう。ソ連の枯葉を巻く快進撃が許されたかどうか、その上での割腹自殺なら武人の本懐だったろうと彼の心情を今更のごとく偲ぶものである。
英雄にしてその末路があまりにも侘しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月 2日 (月)

商魂に乗せられる庶民

ネットでは2度、うちの温度計は4度、どちらにしても冷たい朝。
全体にうすもやに包まれてはいるが、明るいし、いい天気だ。
ビルマはともかくスーチーさんが勝利を収めたらしいが、補選だから体勢を変えるものではなさそうだ。
中国も言論抑圧はきびしそうだし、まだまだアジアの安定は遠い。

私の生涯にあったように、強権による世論誘導もうまく行けばの話で、結局無理は通らない。
いずれも往年の血で争う所までは、いくら北朝鮮が意地張ったところで、進展しないだろうし、大衆の知恵に帰着するしかないだろう。
我々日本人が昔とった浅慮な行動だけは戒めとして覚えていて欲しいものである。

デオデオに行き2TBのHDを買って来る。
早速パソコンにセットして、録画してある映画を移し変えようとしたが、ファイルが大き過ぎて駄目だという。
何を寝ぼけてるんだと怒り心頭、どうしても駄目なので、トラブル処理にかける。
もう一度配線からやり直せという。手順に後先がどうやらあるらしい。

最近のHDはテレビにも、レコーダーにも繋げる便利がいいものらしいが、これが起きるから困る。
便利よくして却って煩わしくする。
いやだいやだ。
結局4時間半かかってやっとこさ20個の映画166GBを移し替え完了。
何事も楽じゃあない。
2TBというのはさすがに太いね、166GBがどこに入ったのかわからない。うまく機能するのかしら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月 3日 (火)

麻里布の浦今昔

春の嵐はこのことを言うのか、猛烈な雨と風、窓ガラスを叩く。
風速30メートルのところも近くにあったとか。
午後にはどこかへ去って、曇り空のまま静かになる。
家内も私もちゃんと寝床にはいったまま過ごすことになる。

転んで死んだ老婆までいるのだから、寝てるのが一番。

今日はこの時ならぬ嵐で最悪の一日になった。
が、少年の頃はこの日は一年中で一番楽しい日であった。
神武天皇祭といって、祝日になっていた。当然学校は休みである。
朝早くから準備して、筵や弁当を持って裏のエンゲシという丁度百米の山に登った。
大人から子供まで家を留守にして総出ででかけた。

山頂部が禿げ山で走り回るにはもってこいだった。大人は踊りやゲームに興じ、子供は陣取りなどして山中を走り回った。腹が減ったら弁当を食うという趣向である。
開花時期と重なり、みんなうきうきしていた。花より団子で一日へとへとになるまで遊んだものだった。

今顧みて、此の眺望の良い景色を顧みることもなく、遊びに夢中だったことが一寸ばかり悔やまれる。
此の浦は麻里布の浦と言われる万葉集にも数点の著名な古歌を残している景観の地である。
現在では下からでは埋め立てられ建物などが建て込んでいて、とてもそのよすがはみられないが、此のエンゲシから沖を望めばまだまだ捨てたものでは無い。

昔はこの日の行事を山上がりと言った。何故だか知らない。山登りなら1歩1歩えっさえっさと歩いて登るイメージだが、上がるとなると飛び上がるか、ふわーっと浮き上がるか、正に忍術のイメージである。
錦帯橋空港が出来たら、古い真帆片帆の麻里布の浦に変って、新しい近代的な麻里布の浦が喧伝されることになるかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月 4日 (水)

年寄りの冷や水

昨日の天気に打って変わって上天気、気温6度と申し分ない。
1時間早く起きて総合病院行きの支度をする。
滞ることは何もない。
今日から新しく秋本医師の担当となる。診察を終わると市役所に廻り、広響の22日の演奏会の切符を購入して帰る。

帰宅してから暫くはやはり疲れるのかいつも眠くなる。一寝入りという訳である。

老人にも老人なりの慣れというものが身に付いて来るものらしい。相変わらず立ち居振る舞いのうちに絶えずバランスが崩れてよろける。とっさに近くのものに身を寄せ捕まり転倒を防ぐ。だんだんうまくなって来て最近では怪我をすることがうんと少なくなった。
初老の時はまだ若い時の気持ちが底深く残っているから、行動がどうしてもあらましであった。若い時の身体は少々の打撃にもへこたれない。老衰して来ると、皮膚が薄くなり、血管ももろくなり。筋肉も小さくなり、骨ももろくなる。同じ打撃でも、生ずる結果がまるで違うというわけである。最近そのことがよく分かったから、動作もつとめてゆっくりするし、身体もそれなり順応して動く。

考えれば当然のことである。年寄りの冷や水なんて昔は何のことか判らなかった。年寄りは年寄りらしくしろという諺だが、勉強不足で今頃になって深刻に気づく。
考えれば自動車運転のごときも、不遜な振る舞いだろうなあ。
いろいろ生活の都合もあってなかなか止められない。事故でもやったら踏ん切りが付くのかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月 7日 (土)

煩わしい電話だが

未だ少し老人にはこたえる朝の冷たさだが、もう春たけなわの感じは否めない。
昨日は風の中を一寸の時間市内の桜土手まで行ってみた。まだ満開までは行ってないが、もう十分賑やかだった。
観客はまばらで弁当をひろげる物好きはぽつりぽつりだった。
まあ家の中ばかりいて、花一つ眺めずにこの世にさらばしてはあまりに淋しいと、ともかくちょっと花見をしたわけだった。

今朝も体感温度は5度と出ているが、風はほとんどなくまあいい天気。
口惜しいがまだストーブを焚いて、部屋を少し暖める。厚着はしていても、面の皮や手足はやはり冷たい。老いの哀しさである。

昨夜遅く家内にその友達の高木さんから電話が入る。わざと受話器を取らなかったのだが、着信の電話番号を見て家内があわててこちらから電話を入れる。
最近宣伝のしつこい電話が多く、うるさいので着信電話番号を見ては無視することが多い。
ところがこうした間違いも起きる。
幼い時からの友達だから、話し始めると長い。

独り身の気安さから、次から次へと、伯母さんや姉さんなど何人もの看護、看病を仕上げた人だが、皆亡くなって、さあ楽になったと思った途端、こんどは自分の体調がおかしくなって、思うに任せぬ日々を過ごしているらしい。損な役回りをしたことになるらしい。
人の運命、いいことをした報いはいいことにとばかりとはならない。
彼女の今後どうなるのだろうか、人ごとならずとも気にかかる。

時期的に又乾癬が活動し始めたか、身体のあちこちが痒い。手の届かぬ所が多いから貧乏揺すりになる。
老耄の貧乏揺すりーー漫画だな!

カープの前田健太投手がノーヒットノーランで昨夜横浜ベイスターズを破った。カープには外木場義郎という完全試合一度、ノーヒットノーラン二度と言う名投手が歴史上に名を残している。まだ自慢するわけにはいかないが、立派なものである。
既に沢村賞にも一昨年だったか輝いている。ますます精進してカープを優勝に導いて欲しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月 8日 (日)

妹の同窓会出席

今朝は放射冷却のせいか気温3度と寒い。日中には気温が上がると予報は云っている。
花見には絶好の天気だから観光地はさぞ賑わうだろう。
最近は桜の名所が激増した。遠くまで出かけないで済むのが良い。

あまり聞いた口は云えない私である。
つい先年まで奥州の方まで三春の滝桜など追っかけ歩いた。
信州高遠の桜も凄かったなあ。
函館にも、洞爺湖畔にも、遅咲きの桜が咲いていた。
城と桜ではやはり姫路城だろうか、桜の多さでは弘前や熊本もいいが、何と言ってもお城の姿が。会津のそれは6層の天守が不思議だった。桜もほどほどだったな。

もうこの年齢では断念する以外にない。もちろん思い残すことはないが。

室木からの連絡で、敦ちゃんが13日東京からこちらに来るという。主目的は最後の同窓会だそうだ。
早い最後だな。最後というから驚いて遠路はるばる出て来る気になったのだろう。
未だ80になっていないのだから、最後はないだろうに。

私は90歳まで続けた。殆ど休むことなく出続けた。
高商の同窓会など最後の3回は皆私が事務処理をした。自慢臭いが本当だから仕方がない。
もう一つ云えば、出席回数も第1回(卒業後20年目)から第35回(最終回)までダントツ最高だった。
もっともトップで並んでいた横山博君が34回の年に亡くなったからでもあるのだが。
まあ、長生きしなければ駄目なことではある。

最近はやたら学校数が増えているが、同窓会はどうなんだろう。
愛校精神なんてものは、古くさいかな。同窓会という言葉もあまり聞かない気がするのだけど。
統計などというものは無いだろうから、もちろんなんともいえない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月 9日 (月)

ささやかなお花見

今朝は9度まで気温が上がっている。外に出ても、どこか底暖かい。
家内が植物園に行ってみようかという。足は大丈夫かと私が聞く。まあなんとかなるだろうの返事。
このままでは歩けなくなるとの危機感がさせるのか。

乾癬の痒みが益々激しい。もう宿痾ともいうべきか。思い至れば何事も手が付かなくなるし、つける薬はないようだ。
桜花がその懊悩を解いてくれるだろうか。

10時半植物園に行く。
やはり天気がいいから人が多い。あまり沢山は無い桜類だけれど、満開のものが多い。もっとも種類によっては芽を吹いたばかりの木もある。植物園たる所以だから仕方がない。
家内も私もゆっくりゆっくり歩くのだから、時間はかかり放題。
私も杖の付き方がだんだんうまくなったようだ。
場内の食堂に入ってうなぎ飯を食う。久しぶりだから美味しかった。
老人にちょうど良い量だったから尚よかった。
すっかりつかれて1時過ぎ帰宅、さっそく一寝入りということになる。
Img_2090


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月10日 (火)

私の先祖そして吉川広家

今朝は12度にものぼっている。天気が悪くなるらしい。
宮島も今うっすらと島影を映しているばかり。
昨今寝苦しい夜がつづく。乾癬のせいばかりではなさそうなのだが、理由は判然とはしない。

今中路啓太の「うつけの采配」というのを読んでいるのだが、あまり面白くなくてなかなか進まない。
吉川広家についての歴史小説だが、どうも広家の人物像が定かには見えない。
誇張もありそうだ。

広家とはなんといっても関ヶ原の合戦で、小早川秀秋とともに、徳川方に寝返ったことで有名である。
小早川秀秋は自軍1万5千を石田三成の西軍に向けて突撃せしめたのだから、まだはっきりしていたが、吉川広家は毛利全軍の先頭に居座って、釘付けにし戦闘参加を避けたのだから、無策の策というわけだろうか。

案の定老獪な家康がそんな策を評価する訳が無い。
御大将毛利輝元が大阪にあって西軍の指揮をとったとしての責任だけが追及され、内応の功は無視されてしまった。
同じ戦場で戦った島津は領国に変化は無かったが、毛利は五分の一に減らされてしまった。
吉川広家は出雲から岩國へ移され、初代藩主となった。地位は毛利の重役と云った身分に甘んじなければならなかった。

私の祖先はこの地に何時の頃からか住んでいたようだ。昔聞いた祖父の話では、明治になって戸籍を起こすとき、祖先のいた地名を姓にしたらしいということだったが、それ以外口伝も何も証明するものは何も無い。
曾祖父の大きな自然石の墓があって、時折連れて参らされた覚えはあるが、私の従弟がいつの間にか取りのけて新しい墓地を作っていた。
この自然石の墓の姓名が先祖の根拠と云える筈だが、今はそれすら記憶の外には残っていない。
私の幼い時に聞いた話では、この曾祖父は殿様即ち吉川侯のお馬番の仕事をしていたということだった。だから常時身近く殿様に仕えていたことになる。
その曰くもあってか大きな自然石の石碑の様な墓になったのだろうか。

ともあれ、吉川広家について私の思い入れはこんなところにあるのだが、朝鮮の役では随分働いたらしく、碧蹄館では立花宗茂や小早川隆景の下で隆景に勝ち過ぎたと云わしめた戦をし、蔚山では大群に包囲され飢えに苦しんだ加藤、浅野らの日本軍1万を、救援に向かい、抜け駆けして渡河敵陣に突っ込み撃退してその危急を救い、加藤清正にその恩義忘るべからずと感謝されたが、石田三成の讒訴により、却って抜け駆けを罰せられ領地を削られたと史書にも、この小説にも書き記されているのが最大の根拠かも知れない。


未だ読み始めて半ばにやっと到達、批判する資格は勿論無いが、幕末長州三家老の首を携えて、幕府との談判に応じ、扇子一つで槍の中を往来した吉川監物といい、この関ヶ原の決戦を左右した広家といい、風雲を起こした人たちが、私の近くにもいたという感慨は今痛切に残る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月13日 (金)

去り行きし同窓の仲間たち

今朝も昨日と同じ気温、同じ曇り空がつづく。
誰かが云ったように春の空はからっとした好天気にはなりにくいもんだね。

手許の本だなの隅の方に黄色く薄汚れた同窓会名簿がある。ふと気がついてぱらぱらとめくってみる。
丁度40年前の名簿である。
えらいもので、同級生でも一流企業の部長クラスが何人もいる。重役も数人いる。
別に他人のことを詮索する性分でもなかったので、同窓会においても距離を置くことは無かったが、今思えばよほど何かがあって素早く昇進したのだろうなと気づく。

学生時代2、3の一目置く連中がいることは居たが、まあどんぐりの背比べといったところだった。皆勉学より遊ぶ方が忙しかった。それがそのまま社会に通用したようでも無い。
特におかしな奴が、常務取締役などとなっていると笑いが込み上げて来る。

ごく最近は名簿を買ったって、住所録みたいなものだから,買っても仕方が無いから買わないが、40年も前になると、肩書きから住所までくわしく載せてある。

今頃のは紙質も体裁もいいが、40年前のものは黄変して塵紙にもならないくらい,力を入れてページを繰ることは勿論出来ない。
ほとんど手を通さなったから形も崩れていない。
しかし格別競い合った思い出は無いが、名前から沸き上がって来る若き日の面影がいとおしい。
くだらん書物を乱読するより,ひろがる宇宙を感じて妙味があると言えるかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月15日 (日)

末の妹との再会

目が早く醒めたから7時前には起き出す。
気温8度、もう春は争えない。

午前10時岩國へ向けて家を出る。車の多さを予想して出かけたが、桜ももう終わりに近く時間も少し早かったか、それほどでもなく、1時間で到着。
ひさしぶりに妹の顔を見れた。一番末の妹だから改めて聞けば17も違う。まだまだ元気である。
それにしても同期の同窓会に80名も集まったというから驚く。

終戦時小学校3年だった言うのだから、私が戦地から帰った時は、赤の他人に見えたことだろう。
私も全然視野になかったように感じている。
戦後県下の小学生の音楽大会に出席した時付き添いで一緒に、3時間も掛けて会場まで朝早くから出席したことを覚えているのだが、ピアノが左程好きでなかったのに出さされて、思い出したくない程嫌な思いをしたという。
散々な出来だったのだろう。出来が良くなかったことは私にもその印象が残っている。

父が亡くなった時はまだ赤ん坊だったし、他人の様な私が家の頭領だし、事業失敗など重なって、彼女を恵まれた環境で嫁に行かせることが出来なくなり、苦労な生涯を今日まで過ごさせた責任の一半は私にもあるようで、いつになっても逢うたびに重い負担を感ずる、悲しい相性の妹である。
一番可愛がって呉れてやっていた、私のすぐ下の妹が一昨年交通事故でなくなったので、親を失ったと同じ気持ちらしかった。
私と別れてあと、5キロ先にある、その墓参りに出かけた。一生の別れにならなければよいが、私達縁の薄い兄妹である。

帰路、錦帯橋をおとづれ、上流の橋から下流の橋へと、車で橋の回りを一周して、もう殆ど散った桜を見物して廻る。午後3時近かったので左程渋滞に関わることなく助かった。
家内も私も足が痛く、長歩きは無理だったので、やむなく取った措置だったが、うまく行ってよかった。

もちろん車窓から眺めるだけだから写真の1枚も撮ることは出来なかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月17日 (火)

歴史の不思議さ

同じ様な朝が続く。雲が深くいい天気になるとは思われない。
岩國ゆきの疲れがひどい。もう人との付き合いにもつかれるらしい。
今朝からまたぐっすり眠れてしまう。最近はやることと云ったら日記を付けブログを書くだけだが、それすらも意欲がわかなくなってしまった。
自分では今すぐ息が止まる気配は感じないが、もう灯火が消えるのは間もないだろう。
自然の力をうすうす感じている。

昼頃今田勇君の奥さんから手紙をいただく。予感通り今田君の訃報だった。2月10日前立腺がんが原因とある。
食物を受け付けなくなったとある。山崎君の最後と同じである。
やはり食えなくなったらおしまいか。よく憶えておこう。

今田さんの奥さんにはすぐ悔やみ状を書く。私が二度に亘って彼に送ったブログ集を、今でも読んでいるとのこと、記載してある。
同窓会にはいつも山口から駆けつけてくれて、快活な声を響かせていたのに、やはり見掛だけではわからない。
岩國小学校時代野球部のバッテリーを組んでいたといって、生前いつも案じて話題に載せていた神村義夫君にも一応知らせてやろう。

今田君が書き残したニューギニア戦記を一昨年殆ど一年に亘り、私のブログに掲載させていただき、いまだに多くの反響をもらっていることも忘れる事ができない。

今読了したばかりの「うつけの采配」という吉川広家にまつわる小説、苦しみ抜いた末の決断だったことがよく分かる。やはり並の武将ではなかったと感ずる。
歴史というものは不思議なものである。関ヶ原の一戦は結局徳川3百年の治世を作り上げた。
吉川広家の決断、予期通りには運ばなかったが、3百年後には予期せぬ幕府倒壊の原因に繋がったことも事実といわねばなるまい。

今田君等のニューギニア戦記がいつ史上に浮かび上がるか、もちろん予想出来ないと私は今思い至るのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月18日 (水)

うつけ(吉川広家)の采配と私の理解

毎朝同じ気温12度がつづく。
起き抜けにちょっと冷たい感じがないわけでもないが、心地よい今が一番いい季節ではある。
まもなくうんざりする程暑くなる日々の到来が待ち構えているのだが。

昨日までいろいろ書いたが、吉川広家についての私の関心は今に始まったことではない。
母校岩國中学の正門の前の道路は当時は鞭捨て小路と呼ばれていた。
広家が騎乗してこの小路にさしかかったとき、江戸に遣わしていた忍びの者から、今度世襲した3代将軍家光が凡庸な将軍ではないとの報告を受け、がっかりして嘆息し、思わず手にした鞭を落としたと言われる由来が残されている。

関ヶ原の一戦で毛利におとがめなしの約束を破られたため、自身の褒賞として与えられた防長2ヶ国を返上し、毛利氏存続を願い出ざるをえなかった無念さを何時の日かと狙っていて、遂に果たし得ないことを悟ったという逸話のようである。

毎日校門を出入りする少年の頃の記憶は誠に深く生々しい。私には岩國初代藩主広家の名も消えて無くなる態のものでは無かった。

何故吉川広家が徳川に内応せざるを得なかったのか、この小説は私の疑問にやっとまっとうに答えてくれたようである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月19日 (木)

身辺雑記

気温又少し上がって温い。
カラスの鳴き声がやかましい。外を見ると前の家々のテレビアンテナに数十羽のカラスが群れ騒いでいる。ベランダに出てしばらくにらめっこする。
そのうちちりじりに散らかり飛び去って行った。
なんでかわからないが、ごみでもつつくつもりかもしれなかった。

一瞬ヒッチコックの”鳥”を連想した。
カラスは真っ黒なだけに数多くなるとやはり不気味である。
ここのところカラスの鳴き声がいつもやかましい。近辺の山に巣でもあるのだろうか。

猪も狸もとみに増えて人家の周囲を徘徊していると聞く。
人間の出す残飯が増えているということか。
なんとなく気になる世相である。

午後家内と一緒に今日解禁になった造幣局の八重桜の見物に出かける。よく知って観光客の数は少なくない。
年々桜も大きくなり見栄えがしてくる。私らも何年振りかでの対面である。
前にはほとんど全部の木の回りを歩いたものだが、今日はもういけない、2列歩いただけでおしまいにする。
思った以上心臓が弱っているらしい。

帰りには車を置かせてもらった手前、スーパーで買い物をすませて帰宅する。
これも今生の見納めになることだろう。


Img_2095_2


Img_2099


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月21日 (土)

私も三春の滝桜を偲びながら

今朝は気温15度、曇り空だが昼中には20度を超すという。
昨日千代に電話した所、昨日晴子が元気で帰って来たといい、早速今日はヨガ教室に出向いたいる由。
水戸には行かずに晴子を成田に迎えに行けと圭さんに言われたから、その通りにしたとのこと。

清盛景気で宮島には老人はなかなか出かけられない。混雑に巻き込まれ、怪我でもしたら大変だから。
音戸でもいろいろ記念行事があるらしい、その音戸に家内が行ってみたいという。
車だから行けないことは無いが、日曜、祭日はやはり駄目だろう。
昔はよく出かけたものだが、呉という街も場所を訪ねるとなると、案外窮屈な街だからなあ。
今頃は気ままにのんびりとうろうろ出来る所は植物園くらいしかなさそうだ。

今晩NHKが三春の滝桜を特集放送するそうだ。2年前の4月22日雪の中で満開のこの桜を眺めたことがある。
白河の関を越える当たりから雪になり、車窓から北国の変わった風景を眺めながら到達したのだったが、結構沢山の観光客で足許は悪く大変な思いをしたものだった。

夜桜というのだから、又違った感じになるだろうが、樹齢千年この老木の霊魂は移り変わる人間の世界を如何に観じているだろうか。

7時半から始まった放送で改めて当時をしのび、今回は雪の中ではなかったなとほっとする。
種から育てた子供が3万本もあって全国で植え育てられているなどとは思っても見なかった。
人間というものは不思議な感覚を持っているんだなとあらためて感心する。
Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月22日 (日)

謹啓「安房守」どの

今朝はとうとう気温16度の夜明けである。夜中でも珍しく暑苦しかった。
午前2時過ぎ、大きなどーんと云う音に起こされる。家鳴りはしたが、揺れらしいものは無い。
地震ではないようだが、なんだと飛び起きる。
電気を付けてあちこち見回る。
家内のところも電気が付いているので、声をかけてみる。今のは何だ!
雷ではないの、家内は冷静である。
いっぺん限りの雷鳴なんてあるだろうか。30分位電気をつけて、外を覗いたりしたが、雨も降らず音もせず、何事も起こらない。あきらめて寝る。

1997年12月私は”老人のつぶやき”と題して、当時の通信フォーラムに顔を出した。
いつだったか戦後すぐ捕虜収容所周辺で虎が出て、身体一面噛まれて瀕死の住民が担ぎ込まれた。治療に当たったは勿論だが、ついでに住民達と力を合わせて、山の巻き狩りをした。結果は空振りだったが、いわゆる”けものみち”の立派さに肝をつぶした。
この話をフォーラムに書いたのだが、途端に”安房守”なる人物にいかにも眉唾な話だと反撃された。
戦後近くの”岳陽”に留学して住んだことがあるが、そんな話は聞いたことが無い。そんなに田舎である筈が無いというのである。

こちらは敗戦後の捕虜の身、動きは取れないが医者も居れば鍛冶屋も運転手もいる。何でも揃っている招集部隊の端くれである。持ち込まれた救急患者にも勿論応対した。
邪魔者ではあったろうが、現地の人たちには喜ばれ大事にされた。
残念ながら虎の姿はこちらが見た訳ではない。患者の首筋からせ中に掛けての、かみ傷、爪傷とその男の証言を信じただけである。私が見た奇異な動物では5,60cmもあるハリネズミには驚いた。これには武漢三鎮の百キロ近くの山里といえども、辺境と隣り合わせを感じざるを得なかった。中国大陸は桁違いに広く大きいのであった。
反論には反論をもってした。

久しぶりに昨日彼のホームページに入ってみた。
ものすごい量の世界各国の写真集である。よほどのお金持ちと見え、留学先もあちこちとあり、時間と余裕を持ち合わせた幸福な御仁とみえる。’安房守”だから千葉にお住みなのだろうが、山口や高杉晋作もお好きらしい。
写真や紀行集ものせてある。関連があるので私も拝借した。
便利な世の中でもある。

一回限りの論争だったが、私より3、40年後輩だろう。私が未だ生きているのだから、彼も勿論健在である。
メール友とは云えないが、不思議な間柄といえる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月23日 (月)

三井化学の爆発と広響演奏会

今朝の朝刊トップに”三井化学で爆発一人死亡”と大きく報道されている。午前2時15分だから私が驚いて飛び起きた時間である。家内は雷だろうとこともなげに云ったが、1回限りで雨も降っていないし、変だなと思って電気を付け放し30分ぐらい起きていた。とうとう判らずじまいだったのが、やっと判明した。
地図で計ってみると、我が家から宮島水道を通して丁度20kmで現場と対面している。我が家が標高で云えば40mぐらいのところで露出しているから、音波が直撃したのだろう。
大きな音響で家が震えたのがよく判った。福島の原発爆発などもあったりして、最近の爆発事故は戦争中を思い起こさす。
2、30年前あの現場に数日籠って配管洗浄を請け負ってやったことがる。広々とした清潔な工場だったが、死者がでるとは。
昨日広響の廿日市定期公演を聞きに出かけた。ちょっと遅かったので駐車が出来ず、地方事務所の駐車場に置くことになって随分歩かされる。
最初ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ピアノは原田英代というジュネーブなど国際コンクール優勝経験が豊富である。さすがに女とは云えない程の逞しい弾きぶりに驚く。
後半のブラームスの交響曲第2番がおとなしい曲だけに、こちらの方が印象が強かった。
将来有望な新鋭というべきだろう。

ブラームスはあのカラヤンが戦後はじめて来日したとき、広島公会堂でベルリンフィルの演奏を聴いた。指揮しているのか調子に合わせているのか判らないカラヤンの眠りながらの指揮にも関わらず、堂々のスケール大きなベルリンフィルの演奏だった。それに引き換え今度の飯森範親は現在若手の間で流行の、はでなアクションの指揮振りで、音響だけがやけに喧しく聞こえて、騒々しい。眠くなる様な、流れる様なブラームスと思っていたが少し違ったな。
こういうのを若々しいというのであろう。

広響も随分うまくなっていると思うが、音のアンバランスが無かったとは云えないようだ。
流れる様な美しい音色がもっと欲しい。どちらもそんな曲ではなかったっけ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月27日 (金)

法律というザル

小沢無罪判決、政治は益々不可解。もっとも法律などというものは、自分等で作るものだから、角栄が云ったと伝えられるように、法の境目を軽業師のように渡り歩くことは、掌中の珠の如きものらしい。
ちゃんと逃げ道が用意されている節がなきにしもあらずといったところか。
秘書は秘書、本人は本人、正に同体ではない。そして二人の間に証文のありようはずがない。
事実はやはり神のみぞ知り、人智の及ぶ所にあらず。

私も法律を犯した経験は無数にある、罰を受けなかったのは、捕まらなかっただけの話である。
戦場で人を殺した、罪にならなくても良心は痛み、悔いはいつまでも残っている。
法というものの浅はかさを嘆きたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月28日 (土)

親友神村義夫君

昨夜の下剤が効いて今朝は軟便が少々。薬が無ければ駄目だとは情けない。

東京に居る神村義夫君に電話する。
今田君の死を告げると感慨深げである。途端に幼少時の思い出話が口をついて出始める。
待ちきれなかった彼の最後の饒舌だろう。
あいづちを打ついとまもない。

その口調からすると、元気そうである。が、よちよち歩きしか出来ないので、家からは殆ど出ないという。
彼のはマンションだから人目がうるさいのだろうな。

もっとも私も人目は少なくても、歩いて出ることはほとんどない。
出る時はどんなに近くても車である。
近所の人からは居るのか居ないのかわからない私の存在だが、私も近所のことを知ることは無い。


先日の三井化学の爆発は思った以上にひどかったのだなあ。周辺2.5km範囲が爆風で窓ガラス、屋根瓦などに被害が続出したという。新聞で見ると私が出入りした場所付近らしい。一期一会みたいな縁の不思議さを感ずる。

国破れて山河ありというが、海軍の基地だった岩國も再三の空爆で焦土と化した地区が多かった。裏山から望む我が家があった周辺は穴だらけで、さながら湖沼地帯のようであった。
そして2、30年経つと都市化が急に進んだ。今度はまるで違った町場に変った。
山容も樹木が生い茂り、往年の禿げ山はなくなり、懐かしい峰々ももう区別がつかなくなった。

年々再々変わり身の早さは、人も自然も同じである。
驚き、慌てる、我が思いのおろかさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月29日 (日)

老人の感覚

昨日の快晴に続いて、幾分雲は多いが雨雲ではない。いい天気が続く。
ゴールデンウイークと何時から云い始めたか、今年は特に長そうだ。
相変わらずの交通ラッシュそして事故。車社会の弊害きわまれりと云った所。
ガソリンが尽きなければ収まりはつきそうにない。
人間社会に大いに貢献したのもこの地下資源だから、利害相半ばし後戻りはもう出来ないが、尽きる所まで行けばあとはどうなるのだろう。

電化と云った所で原子力依存も疑問だらけであり、後退こそすれ進化は望めそうも無い。
地下資源枯渇は電化にも当然影響が大きい。

老人にはゴールデンウイークほど困りものはない。公共機関や銀行、病院は休むし、交通は逼迫するし、いいことは一つもない。政府の施策の片手落ちの一つと思えてならない。

消費税論議は依然喧しいが、10%一律というのでなく、昔の物品税のごとく、変化さしてはどうか。
米は無税、自動車は50%という風に。どちらも10%というのは明らかにおかしい。
政治というのはこうした区別をつけることをいうのではないのか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月30日 (月)

老人のつぶやき

老いのせいか今年の4月は春たけなわなどという言葉が馴染まない気がした。
ストーブも月の半ばを過ぎても、ちょいちょいお世話にならなければならず、月の初めは風邪で苦しまされ、中程には便秘で苦労した。

未だに体調はもう一つだが、一歩一歩終末に近づいている人生の流れを、人ごとのように感ぜられるのも面白い。

老人だからといってやることがないわけではない。ダイキに行ってホースのつなぎ金具を買って来て、庭の水まきをしたり、16GBのSDをヤマダ電機で買って来て、パソコンのメモリーを増設したり、こそこそとできる仕事はこなしている。
昨日はついでに日本柔道選手権もテレビで見る。90キロ級の加藤博剛選手が、つぎつぎに大きな選手を破って優勝するという、本来の柔術の伝統を見せてくれてうれしい。最近ではこんなことは快挙と云えるのではないかな。

人間不思議なもので、自分自身の幼少時代はほとんど憶えていないが、周囲というか関連したことなど憶えていることがある。昭和6年小学校6年生のとき、鉄道大臣になった江木翼という人が、その前後だろうと思うが私の本家に一二度来たことを知っている。多分選挙運動だったのだろうと思うが。民政党の知恵袋といわれ、総裁候補と嘱望された人だが、病の為職を辞し、翌7年亡くなった。政治好きだった伯父が後年折にふれ、残念がってその名を口にしていたものである。
そして余談だが、私は小学校卒業時高橋奨学賞という成績優秀の褒美の大漢和辞典を戴いた。
この高橋なる人物も小学校の先輩で鉄道省のえらさんだったらしい。
何か奇縁を感ずるのである。
この辞書は今でも時々参考にひもどいたりしている。表紙はとっくの昔取れてしまい、背中は有り合わせの布で補修し、見る影は無いが、私にとっては生涯の伴侶である。外に漢和辞書を買ったことは無い。
Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »