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2012年3月11日 (日)

父はやはり偉かった

東北大震災一年目、復興は議論がやたら多くて思うようには進んでいない感じ。
阪神よりは大分遅れそうだ。
無残な痕ばかりが映し出されて、住民の姿が哀れである。

昔から何度も何度もやられているのだが、同じ人が経験をするのでないから、いつも新鮮である。
常に後は大混乱が残る。人間の世界の宿命か。
狭い日本だから逃げ場はない。観念する以外に道はない。

サンフレッチェ好調に緒戦を飾る。終始ボール支配がよく、浦和レッズのロングパスによく堪えて得点を許さなかった。今季はやりそうな気配である。3万人近く押し寄せたという。若いものは元気がいいなあ。

今朝は少し冷えて0.5度の夜明けだったが、日が射し始めて幾分暖かくなりそうだ。一寸風が強いな。
老人の一番気になる所だ。

数日前古いものをいろいろ整理していたら、戦前の我が家の写真が少し遠景でぼけ気味だが出て来た。
母屋は大正13年にメキシコから帰国して間もなく建てたものだが、数え年5歳の時だったが、建築の現場を良くちょろちょろして大工の頭領高崎さんに取り合ってもらった覚えがある。

昭和10年頃に蔵を隣に建て、大きな屋根付きのふたやが便利よかった。
昭和12年から山口、満洲と私は家を離れたから、なじみはそんなに深くない。
戦地から帰って見ると米軍の空爆を受けて、壊滅し、終戦の翌年帰宅したのだったがまだごみの山だった。
かなり大きかった思い出があったが写真はそれを表示して見せてくれる。
親父は独力でこれらの資産を作った。やはりえらかったなあと不肖の子の私のふがいなさが情けなくなる。

(写真は古い順から大正13年建築当初の家の前で当時の家族、次は昭和15年頃の屋敷全体、下は戦後蔵の影で壊廃を免れた元貸家ここに永く住む)

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