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2012年3月 2日 (金)

私の開き直り

朝起きると外は霧雨模様、生暖かい空気がいままでにない。気温は9度となっている。
えらい変り様である。

こんな時は風邪を引きやすいから剣呑である。油断はならない。
今週は連日雨か曇か良くない日が続くらしい。

最近胃腸がよくなったのか、食事がおいしい。
従って割と良く食べる。便通もよい。出入りがいいということである。
この分では心臓が参らない限りなかなか死にそうにはない。
寒さを通過したので元気が出て来たのかもしれない。

昨日の日記にも書いたように、丁度20歳で働き始めた。即ち自分の力で糊口をしのぎ始めたということである。そして翌年からは軍隊に入ってお国の為に身を捧げることになった。
以後丸6年半国のため働かされた。自由な青春というのは20歳の9ヶ月だけといえるかもしれない。今の若者と同列に考えて欲しくない所以のものである。
私は永く生きる権利がある様な気がする。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その51)

船中ではこれまで共に苦労した同僚、友人、知人との別離を惜しむ風景があちこちで見受けられた。
憐れを留めたのは引揚船で内地に帰ったら黙って別れる約束の仮の夫婦の別離であった。私達は昔の考えで内地に帰る玄関は下関であったから、安東で”下関結婚”と云って何時か破局を迎える仮の夫婦をそう呼んでいた。彼等は内地帰還と同時に別れる条件で結びついた契約結婚みたいなものだった。理由として、外地で戦後生きる為の辛酸をともにした上、いつ内地に帰れるか判らない事情、孤独の生活に耐えられなかったり、徴用逃れだったりいろいろあろうが男女の結びつきは本当に早いものだった。
こんな約束でもお互いに独り身であれば、後は愛情がきめることであるが、男女の一方か双方がその配偶者である夫や妻を内地に残し、大陸に来て仮の夫婦となった連中の場合が問題である。従って中年層が多かった。
同じ班で仮のの夫婦と思われていたS夫婦が船隅でひそひそと話していた。奥さんと思われていた女は涙に濡れ、真っ赤に腫れた瞼を押さえて嗚咽している風景には、全くやりきれないものを感じていた私だった。

船の中には又県市町村の被災地図が揃えてあった。私はこれから帰る実家が戦災に僅かに離れて居たのでほっとした。阪本もT姉妹も田舎で戦災に関わりないようでお互いに祝福し合った。それにしても、安東在住者の引揚連中は夫々親戚、知人を訪ねて、これから落ち着く先を求めなければならないかと思えば全く気の毒な気がした。

新円切替が既に3月に行われていたことは船中で初めて知り唖然とした。全く浦島太郎と云った状況で、新しく変った新日本の姿を早く覚えたかった。甲板に出て、明日は別れる筈の阪本と名残を惜しんだ。満天の星が輝き一行の帰還を祝福している様な気がしてきた。安東を出て40余日、二人で切り抜けてきた引揚コースの苦労が甦って固い握手に互いの心を労うのであった。

翌朝博多港の沖合に停泊した船は、病人だけを小舟で上陸させると更に検便等の検査が船上で行われ、博多の街を目前に船上でもう一泊することになった。

翌11月16日、船は早朝に錨を上げて港の桟橋に横付けとなり、下船が開始された。船が波止場に近づいた頃、もうすっかり内地に慣れ切っているような米兵が数人、赤く髪を染めた日本人の女とふざけている様子が目の前に飛び込んで来た。無邪気に手を振る米兵と、無言で受ける引揚者の対照的な眼に嫌な予感がしたが、これが敗戦日本の現実の姿であろうと言い聞かせながらも、願わくは錯覚だと思いたい気持ちであった。

上陸第一歩、踏みしめる内地の土は5年振りに身も心も甦る様な感激を覚えるのであった。“国破れて山河あり” とは正に私の実感であった。引揚援護局の構内にも内地ならではの潤いのある木々の緑が見受けられて懐かしさ一杯となった。

D.D.Tの白い消毒薬を頭から浴びる人間消毒に始まる引揚者受け入れの諸手続きも、故郷に帰る為の儀式と思えば苦にもならなかった。
有住老人が近づいて来た。“お別れだね、腫れ物の具合はどうだい。” ”有住さん、ありがとう” 私は彼に心からお礼を言った。
実際、彼に据えてもらった灸のお陰で痛みも膿みも押し出した結果治ったのだ。

先に釜山の収容所で私は携行していた荷物を返却したので、もとの風呂敷一つの荷物となっていた。最後に援護局より新円千円と毛布一枚、そして郷里のK市までの乗車券切符が支給された。

援護局で一日掛かりの引揚完了手続きを済ました私達は、労苦を共にした同行の一人一人に再会を約して別れを告げた。
その夜、引揚者で満員の夜行列車にやっと乗る事が出来た私が、故郷の駅にたどり着いたのが翌11月17日の朝、5時半であった。
数えてみると、安東を出発して実に43日間の長旅は、気力を使い果たした根性だけの行動であった。祖国に帰らなければならないという念願が、引揚者の心を奮い立たせたのであろう。

私は今、K駅より私の家まで歩いて帰りつつあった。朝早いので店は戸を落としてはいたが、昔ながらの道は5年前のそのままに残っていた。銭湯、果物店を左に、床屋から始まる町内の建物が”お帰りなさい”と微笑んでいるようだった。(つづく)
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