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2012年3月 3日 (土)

我が家のお雛様は御退屈

今8度と私のiPhoneが気温を教えてくれる。寝ていても外の気配が分かる仕組みである。
気味が悪い程だ。

今日はお雛様の節句である。元旦についで一番覚えやすい日である。
井伊大老が暗殺された日くらいで、別に良い思い出などないが、この小さい私の家の片隅に、長女が誕生した時に祝ってくれた館付きの雛飾りが未だに残っている。
何十年も出してみたこともないから、風化して形骸を留めていないかも知れない。

私は青春を軍隊で失ったから結婚したのは30歳である、従って長女が生まれたのもその2年後で、もうあれから還暦を迎える訳だ。
恐らくその翌年の3月に妻の里から贈られたものだが、記念の写真だけが今に残っている。
日本はまだ復興の緒についたばかりだったが、よくもこんな贅沢なものが出来たものだった。

家内は朝近くのデパートに出かけて、昼飯がおかげで遅くなる。足が痛いとこぼしている。誰のせいでもないのに。
天気は今日も冴えないが、暖かいだけいい。

河北君も長生きする権利があったのに、何故早く逝ったのだろう。
私のブログの目玉もやっと終わりに近い。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その52)

35、再会の感激

5年前に日々丸の旗に埋まって、”征って参ります” と挨拶した町の国旗掲揚台が、今は侘しげに朝もやの中に突っ立っていた。そして生まれて20年見慣れた隣組のあの家、この店が懐かしく迫って来た。
晩秋の早朝、未だ人ッ気の無い街は静寂そのもの、この静寂にも敗戦で押しつぶされた様な哀愁が漂っているように感じられた。

これも昨日博多に帰還後、気力の無い周囲の人々の雰囲気を反映した結果だろうか。

勝手知ったる我が家の格子作りの潜り戸の前に立った。遂に5年ぶりに帰って来たのだ。これまで我が家の前に佇む姿を何回想像したことだろう。胸いっぱいに溢れる様な感激が走った。

ドン、ドンと戸を叩いた。何の返事も無かった。ドン、ドン、ドンともう一度叩いた。”はーい”と返事があった。間違いなく母の声だった。やはり元気で居たのだと思うと思わず瞼が潤んで来るようだった。

もう一回叩いて潜り戸に頬を寄せて”ただいま!”と叫んだ。この瞬間に1年間の安東での夜を思い出していた。あの夜、寝鼻をドンドン叩く音につられて小田原さんが”オーイ、誰だ” と返事したのが原因で、ソ連兵に踏み込まれ、略奪を受けた記憶が甦って来た。あれ以来聞く戸を叩く音であった。
でも今回は懐かしい懐かしい母が出迎えてくれる筈の合図だった。

戸の向こう側に母の気配を感じた。二重戸の奥の大戸が開いて母の寝間着姿が現れた。格子戸を境に私を見つめた母は”帰ったのかい” といいながら内側から戸を開き、おそるおそる私の足許を眺めていた。幽霊ではなかろうかとの気持ちで、信じられないように足を眺めたのであろう。

”ただいま”と言ったきり私は動かなかったし、母も私を見つめて何も言わなかった。でも白くなった髪は寝起きのせいもあり、5年振りに逢えば老けてやつれて見えるのだった。終戦前後の内地の労苦が大変だったと聞いては居たが、顔を見ただけで5年間の変化を大体察知出来るようだった。

丹前姿の父が、赤い寝間着の妹が、そして二階からどてら姿の弟が下りて来た。久しぶりにくつろぐ居間の、暖かみのある家族の雰囲気が私の心を和やかに落ち着かせてくれた。5年間の距離感は全然なかった。一番目立ったことといえば出生のとき四歳だった妹が九歳に成長しているくらいだった。積もる話はいっぱい有るが何から話していいか判らなかった。
聞かれた事に返事をしているうちに時間はたち、母の懐かしい手作りの味噌汁で揃って朝食をとると父は店へ、弟と妹は学校へ出かけて行った。ここでは5年前と変らぬ生活のリズムが今日も繰り返されていた。

久しぶりに和服に着替え、母が湧かしてくれた風呂に2ヶ月振りの引揚の垢を落とした。考えてみると入浴も終戦後何回あったろうか? こうして落ち着いてゆっくりした気分になると、戦後次第に別れて行った友人、知人の安否が気に掛かって来る。みんな元気でいてくれればよいがと祈る様な気持ちだった。私の消息は先月コロ島より引揚帰国した有働さんが連絡されて安東に居た事は知っていたと母の話で、彼も元気に帰ったのかとほっとしたが、彼が警察官だったことは全く知らなかった。その夜、どこで工面したのか日本酒の付いた食膳で一家水入らずの団欒の中で、生きていてよかった、よくぞ生きながらえたとの実感を噛み締めた。

とにもかくにも私は故国に、故郷に帰って来た。軍隊に入隊、大陸に渡って5年、そしてソ連軍の宣戦布告、引揚までの苦悩に満ちた毎日、幾多の思い出を胸に秘めて夢に見た祖国に帰って来たのだ。帰って来た祖国は敗戦のどん底に喘いでいた。みんなが祖国再建のため働かねばならない時期でもあった。戦地より帰って来た除隊兵や、海外よりの引揚者の面倒を見る制度は、形式的にはあっても実際的には敗戦国の身で求める方も無理である事は判り切った事であった。私も休養なり、気持ちの整理が終われば直ちに働かねばならないのだ。
しかし現実には働く仕事も少なかった。ただ、どんな仕事をしても生きてゆける自信だけは付いた。これもこの1年有余の試練の賜物であった。遅まきながら私も、私の仕事を求めてこれからの人生の計画に取りかからねばならなかった。(つづく)
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コメント

こんにちは。私の祖父も徴兵で満州に行き、終戦を知らずにソ連軍と交戦し、右腕を負傷して捕虜になった後に仲間とともに新京で脱走、日本人会を頼り身を寄せて豆腐売りや蒸しパン売りなどで生計を立てていたそうです。その後、八露軍に徴用され、野戦病院で料理を作る給仕として従軍後、昭和28年に復員したとのことです。河北さんの手記を拝見して祖父の人生と重ね合わせながら毎回楽しみに拝読しております。sinomanさんに置かれましてはどうかお体にお気をつけてお過ごしくださいませ。

投稿: tsukuba3 | 2012年3月 3日 (土) 18時06分

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