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2012年3月 1日 (木)

新京の冬の思い出

朝の気温5度と初春の気候申し分ない。
曇り空で天気はもう一つ冴えないが、春だから仕方がないだろう。

昨日の続きを書くつもりではなかったが、穏やかなこの暖かさに心和み、あの頃の鮮烈な気候風土を思い出さずにはいられなくなった。新京では9月の28日には零下二度の朝とあり、翌日29日には零下3度と、初寒波襲来を報じている。康徳7年(昭和15年)10月9日の新聞では国都に初雪と写真入りで伝えている。

南国育ちの私は驚く以上に震え上がった。夏衣装を脱ごうか脱ぐまいか、躊躇している時に突然の冬の到来である。北満の変わり身は早かった。瀬戸内に住んで来た私の想像を遥かに超えていた。

10月には会社横の空き地にプールが作られ水を入れて凍らし、スケートリンクが出来上がった。生まれて初めてスケートなるものを見よう見まねで始めた。
病高じて、大同公園の池に張った氷を滑り、児玉公園の特設リンクにもはるばる参上したりした。
20歳といえば私も若くはつらつとしていた。なんでもやらなければ損だと思っていた。
放送劇団に入っていたから、放送局の人は勿論、何の縁だか知らないが日本大使館の人とも懇意になって家庭招待を受けたりした。

学生時代、因循姑息だった私の突然変異だった。
よほど新京の風土が私に合ってたらしい。僅か1年にも満たない生活がいきいきと今に甦る。

今書いているこの昭和15年は西暦で云えば1940年、皇紀では2600年という節目に当たる年であった。
世界一高い放送塔東京スカイツリー(634米)が昨日完成した。早くも名所化している。オープンは5月になるらしい。
永い間かかった岩國バイパスの廿日市高架道路も今日から開通する。最近は走ることもないのでどんな感じか知る由もない。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その50)

○引揚船

この埠頭で引揚船を待っての焦燥の生活が始まった。ここに勤務している連絡員の話では数日前に引揚船が出港したらしく、それまでの引揚者全員を輸送し、倉庫はガランとしていた。さすがに建物は天井が高く広々としていた。その中で一行を虚しい気持ちにしたのは次の船が10日後か、1ヶ月後に到着するか見当がつかなかったからである。

ここ迄来たからには気長に船を待てば何時か帰れる筈ではあるが、引揚船の姿を求めて毎日海を眺め、海面の果てに日の出を迎え、夕闇に諦めてねぐらに帰る日課は、これまで引き回されて来た引揚の為の行動的なものと比べるとあまりにも退屈であった。

集団自治の為の炊事、掃除以外の作業の外には特にやることもなく、次第に疲れた様な表情でぼんやり過ごす事が多くなった。
こんなある日、連絡員からの使役で若い男7人が市内に糧秣受け取りに行く事となった。大型トラックに乗った私達は、このトラックの助手席に1名、荷台に2名の韓国兵士が乗り込んで来たのにびっくりした。鬱積した気分の発散に街へでもと考えた私達が恐怖の念を起こしたのも当然だった。そう云えば、この収容所に到着してから釜山の街の治安も対日感情もよくないということを聞いた事があった。収容所を隔離した理由の一つもそれであろう。特に食糧事情は良くないらしいとの話をしながら久しぶりに見る街を珍しく眺めながら、とある倉庫で米俵をトラックに積み込んだ。

帰りが大変だった。勿論トラックに米が積まれている事は通行の人にも判るのだが、まさかと思っていた暴民に襲われた。警官が乗っている理由もやっと判った。走っているトラックに飛び掛かる者、先の尖った竹棒でボデー越しに米俵を突く者、乗っていた私達に石を投げる者、危険を感じて私達は米俵の後ろに隠れて難を逃れた。遂に二人の警官が空に向けて威嚇発砲した。怯んで逃げる者、竹棒で突かれて車外に溢れた米粒を拾う者、食糧事情が悪い事は判るが終戦以来略奪の現場を数多く見て来た私でも、面と向かって攻撃されたのは初めてであった。這々の体で逃げ帰った私達は収容所の構内に入ってほっとした。戦争の影響は1年半たっても未だ残っていたとの実感であった。

数日して次の引揚一行が到着し倉庫はいっぱいになった。奥田一家、小田原さん夫妻と再会してお互いの無事を確認した。晩秋の朝夕はめっきり寒くなって、焦燥の気持ちに拍車をかけ、海上遥かに引揚船の出現を求めて、波止場にたたずむ引揚者の群れは増えて行った。

待望の引揚船が到着したのはそれから間もなくであった。
“オーイ、船が見えるぞー!” ある朝、この叫び声にみんなが飛び起きた。
朝もやの中に日の丸の国旗を翻しながら、その雄姿を現して来た祖国日本の引揚船、”うわー!”というどよめきが起こった。誰の眼にも光るものがあった。まもなく船は岸壁に横付けになった。
いよいよ内地に帰る日が来たのだ。出迎えの船も待っている。私も誰彼となく握手してこの喜びを共にせずには居られなかった。
携帯品をまとめ、倉庫を綺麗に片付けて、次ぎに来る引揚者のためにより良き収容所であるよう最後の清掃をした。
その日の夕方、引揚船は収容者全員を乗せて出港した。目的地は”博多港”。(つづく)
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