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2012年3月 1日 (木)

新京の冬の思い出

朝の気温5度と初春の気候申し分ない。
曇り空で天気はもう一つ冴えないが、春だから仕方がないだろう。

昨日の続きを書くつもりではなかったが、穏やかなこの暖かさに心和み、あの頃の鮮烈な気候風土を思い出さずにはいられなくなった。新京では9月の28日には零下二度の朝とあり、翌日29日には零下3度と、初寒波襲来を報じている。康徳7年(昭和15年)10月9日の新聞では国都に初雪と写真入りで伝えている。

南国育ちの私は驚く以上に震え上がった。夏衣装を脱ごうか脱ぐまいか、躊躇している時に突然の冬の到来である。北満の変わり身は早かった。瀬戸内に住んで来た私の想像を遥かに超えていた。

10月には会社横の空き地にプールが作られ水を入れて凍らし、スケートリンクが出来上がった。生まれて初めてスケートなるものを見よう見まねで始めた。
病高じて、大同公園の池に張った氷を滑り、児玉公園の特設リンクにもはるばる参上したりした。
20歳といえば私も若くはつらつとしていた。なんでもやらなければ損だと思っていた。
放送劇団に入っていたから、放送局の人は勿論、何の縁だか知らないが日本大使館の人とも懇意になって家庭招待を受けたりした。

学生時代、因循姑息だった私の突然変異だった。
よほど新京の風土が私に合ってたらしい。僅か1年にも満たない生活がいきいきと今に甦る。

今書いているこの昭和15年は西暦で云えば1940年、皇紀では2600年という節目に当たる年であった。
世界一高い放送塔東京スカイツリー(634米)が昨日完成した。早くも名所化している。オープンは5月になるらしい。
永い間かかった岩國バイパスの廿日市高架道路も今日から開通する。最近は走ることもないのでどんな感じか知る由もない。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その50)

○引揚船

この埠頭で引揚船を待っての焦燥の生活が始まった。ここに勤務している連絡員の話では数日前に引揚船が出港したらしく、それまでの引揚者全員を輸送し、倉庫はガランとしていた。さすがに建物は天井が高く広々としていた。その中で一行を虚しい気持ちにしたのは次の船が10日後か、1ヶ月後に到着するか見当がつかなかったからである。

ここ迄来たからには気長に船を待てば何時か帰れる筈ではあるが、引揚船の姿を求めて毎日海を眺め、海面の果てに日の出を迎え、夕闇に諦めてねぐらに帰る日課は、これまで引き回されて来た引揚の為の行動的なものと比べるとあまりにも退屈であった。

集団自治の為の炊事、掃除以外の作業の外には特にやることもなく、次第に疲れた様な表情でぼんやり過ごす事が多くなった。
こんなある日、連絡員からの使役で若い男7人が市内に糧秣受け取りに行く事となった。大型トラックに乗った私達は、このトラックの助手席に1名、荷台に2名の韓国兵士が乗り込んで来たのにびっくりした。鬱積した気分の発散に街へでもと考えた私達が恐怖の念を起こしたのも当然だった。そう云えば、この収容所に到着してから釜山の街の治安も対日感情もよくないということを聞いた事があった。収容所を隔離した理由の一つもそれであろう。特に食糧事情は良くないらしいとの話をしながら久しぶりに見る街を珍しく眺めながら、とある倉庫で米俵をトラックに積み込んだ。

帰りが大変だった。勿論トラックに米が積まれている事は通行の人にも判るのだが、まさかと思っていた暴民に襲われた。警官が乗っている理由もやっと判った。走っているトラックに飛び掛かる者、先の尖った竹棒でボデー越しに米俵を突く者、乗っていた私達に石を投げる者、危険を感じて私達は米俵の後ろに隠れて難を逃れた。遂に二人の警官が空に向けて威嚇発砲した。怯んで逃げる者、竹棒で突かれて車外に溢れた米粒を拾う者、食糧事情が悪い事は判るが終戦以来略奪の現場を数多く見て来た私でも、面と向かって攻撃されたのは初めてであった。這々の体で逃げ帰った私達は収容所の構内に入ってほっとした。戦争の影響は1年半たっても未だ残っていたとの実感であった。

数日して次の引揚一行が到着し倉庫はいっぱいになった。奥田一家、小田原さん夫妻と再会してお互いの無事を確認した。晩秋の朝夕はめっきり寒くなって、焦燥の気持ちに拍車をかけ、海上遥かに引揚船の出現を求めて、波止場にたたずむ引揚者の群れは増えて行った。

待望の引揚船が到着したのはそれから間もなくであった。
“オーイ、船が見えるぞー!” ある朝、この叫び声にみんなが飛び起きた。
朝もやの中に日の丸の国旗を翻しながら、その雄姿を現して来た祖国日本の引揚船、”うわー!”というどよめきが起こった。誰の眼にも光るものがあった。まもなく船は岸壁に横付けになった。
いよいよ内地に帰る日が来たのだ。出迎えの船も待っている。私も誰彼となく握手してこの喜びを共にせずには居られなかった。
携帯品をまとめ、倉庫を綺麗に片付けて、次ぎに来る引揚者のためにより良き収容所であるよう最後の清掃をした。
その日の夕方、引揚船は収容者全員を乗せて出港した。目的地は”博多港”。(つづく)
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2012年3月 2日 (金)

私の開き直り

朝起きると外は霧雨模様、生暖かい空気がいままでにない。気温は9度となっている。
えらい変り様である。

こんな時は風邪を引きやすいから剣呑である。油断はならない。
今週は連日雨か曇か良くない日が続くらしい。

最近胃腸がよくなったのか、食事がおいしい。
従って割と良く食べる。便通もよい。出入りがいいということである。
この分では心臓が参らない限りなかなか死にそうにはない。
寒さを通過したので元気が出て来たのかもしれない。

昨日の日記にも書いたように、丁度20歳で働き始めた。即ち自分の力で糊口をしのぎ始めたということである。そして翌年からは軍隊に入ってお国の為に身を捧げることになった。
以後丸6年半国のため働かされた。自由な青春というのは20歳の9ヶ月だけといえるかもしれない。今の若者と同列に考えて欲しくない所以のものである。
私は永く生きる権利がある様な気がする。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その51)

船中ではこれまで共に苦労した同僚、友人、知人との別離を惜しむ風景があちこちで見受けられた。
憐れを留めたのは引揚船で内地に帰ったら黙って別れる約束の仮の夫婦の別離であった。私達は昔の考えで内地に帰る玄関は下関であったから、安東で”下関結婚”と云って何時か破局を迎える仮の夫婦をそう呼んでいた。彼等は内地帰還と同時に別れる条件で結びついた契約結婚みたいなものだった。理由として、外地で戦後生きる為の辛酸をともにした上、いつ内地に帰れるか判らない事情、孤独の生活に耐えられなかったり、徴用逃れだったりいろいろあろうが男女の結びつきは本当に早いものだった。
こんな約束でもお互いに独り身であれば、後は愛情がきめることであるが、男女の一方か双方がその配偶者である夫や妻を内地に残し、大陸に来て仮の夫婦となった連中の場合が問題である。従って中年層が多かった。
同じ班で仮のの夫婦と思われていたS夫婦が船隅でひそひそと話していた。奥さんと思われていた女は涙に濡れ、真っ赤に腫れた瞼を押さえて嗚咽している風景には、全くやりきれないものを感じていた私だった。

船の中には又県市町村の被災地図が揃えてあった。私はこれから帰る実家が戦災に僅かに離れて居たのでほっとした。阪本もT姉妹も田舎で戦災に関わりないようでお互いに祝福し合った。それにしても、安東在住者の引揚連中は夫々親戚、知人を訪ねて、これから落ち着く先を求めなければならないかと思えば全く気の毒な気がした。

新円切替が既に3月に行われていたことは船中で初めて知り唖然とした。全く浦島太郎と云った状況で、新しく変った新日本の姿を早く覚えたかった。甲板に出て、明日は別れる筈の阪本と名残を惜しんだ。満天の星が輝き一行の帰還を祝福している様な気がしてきた。安東を出て40余日、二人で切り抜けてきた引揚コースの苦労が甦って固い握手に互いの心を労うのであった。

翌朝博多港の沖合に停泊した船は、病人だけを小舟で上陸させると更に検便等の検査が船上で行われ、博多の街を目前に船上でもう一泊することになった。

翌11月16日、船は早朝に錨を上げて港の桟橋に横付けとなり、下船が開始された。船が波止場に近づいた頃、もうすっかり内地に慣れ切っているような米兵が数人、赤く髪を染めた日本人の女とふざけている様子が目の前に飛び込んで来た。無邪気に手を振る米兵と、無言で受ける引揚者の対照的な眼に嫌な予感がしたが、これが敗戦日本の現実の姿であろうと言い聞かせながらも、願わくは錯覚だと思いたい気持ちであった。

上陸第一歩、踏みしめる内地の土は5年振りに身も心も甦る様な感激を覚えるのであった。“国破れて山河あり” とは正に私の実感であった。引揚援護局の構内にも内地ならではの潤いのある木々の緑が見受けられて懐かしさ一杯となった。

D.D.Tの白い消毒薬を頭から浴びる人間消毒に始まる引揚者受け入れの諸手続きも、故郷に帰る為の儀式と思えば苦にもならなかった。
有住老人が近づいて来た。“お別れだね、腫れ物の具合はどうだい。” ”有住さん、ありがとう” 私は彼に心からお礼を言った。
実際、彼に据えてもらった灸のお陰で痛みも膿みも押し出した結果治ったのだ。

先に釜山の収容所で私は携行していた荷物を返却したので、もとの風呂敷一つの荷物となっていた。最後に援護局より新円千円と毛布一枚、そして郷里のK市までの乗車券切符が支給された。

援護局で一日掛かりの引揚完了手続きを済ました私達は、労苦を共にした同行の一人一人に再会を約して別れを告げた。
その夜、引揚者で満員の夜行列車にやっと乗る事が出来た私が、故郷の駅にたどり着いたのが翌11月17日の朝、5時半であった。
数えてみると、安東を出発して実に43日間の長旅は、気力を使い果たした根性だけの行動であった。祖国に帰らなければならないという念願が、引揚者の心を奮い立たせたのであろう。

私は今、K駅より私の家まで歩いて帰りつつあった。朝早いので店は戸を落としてはいたが、昔ながらの道は5年前のそのままに残っていた。銭湯、果物店を左に、床屋から始まる町内の建物が”お帰りなさい”と微笑んでいるようだった。(つづく)
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2012年3月 3日 (土)

我が家のお雛様は御退屈

今8度と私のiPhoneが気温を教えてくれる。寝ていても外の気配が分かる仕組みである。
気味が悪い程だ。

今日はお雛様の節句である。元旦についで一番覚えやすい日である。
井伊大老が暗殺された日くらいで、別に良い思い出などないが、この小さい私の家の片隅に、長女が誕生した時に祝ってくれた館付きの雛飾りが未だに残っている。
何十年も出してみたこともないから、風化して形骸を留めていないかも知れない。

私は青春を軍隊で失ったから結婚したのは30歳である、従って長女が生まれたのもその2年後で、もうあれから還暦を迎える訳だ。
恐らくその翌年の3月に妻の里から贈られたものだが、記念の写真だけが今に残っている。
日本はまだ復興の緒についたばかりだったが、よくもこんな贅沢なものが出来たものだった。

家内は朝近くのデパートに出かけて、昼飯がおかげで遅くなる。足が痛いとこぼしている。誰のせいでもないのに。
天気は今日も冴えないが、暖かいだけいい。

河北君も長生きする権利があったのに、何故早く逝ったのだろう。
私のブログの目玉もやっと終わりに近い。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その52)

35、再会の感激

5年前に日々丸の旗に埋まって、”征って参ります” と挨拶した町の国旗掲揚台が、今は侘しげに朝もやの中に突っ立っていた。そして生まれて20年見慣れた隣組のあの家、この店が懐かしく迫って来た。
晩秋の早朝、未だ人ッ気の無い街は静寂そのもの、この静寂にも敗戦で押しつぶされた様な哀愁が漂っているように感じられた。

これも昨日博多に帰還後、気力の無い周囲の人々の雰囲気を反映した結果だろうか。

勝手知ったる我が家の格子作りの潜り戸の前に立った。遂に5年ぶりに帰って来たのだ。これまで我が家の前に佇む姿を何回想像したことだろう。胸いっぱいに溢れる様な感激が走った。

ドン、ドンと戸を叩いた。何の返事も無かった。ドン、ドン、ドンともう一度叩いた。”はーい”と返事があった。間違いなく母の声だった。やはり元気で居たのだと思うと思わず瞼が潤んで来るようだった。

もう一回叩いて潜り戸に頬を寄せて”ただいま!”と叫んだ。この瞬間に1年間の安東での夜を思い出していた。あの夜、寝鼻をドンドン叩く音につられて小田原さんが”オーイ、誰だ” と返事したのが原因で、ソ連兵に踏み込まれ、略奪を受けた記憶が甦って来た。あれ以来聞く戸を叩く音であった。
でも今回は懐かしい懐かしい母が出迎えてくれる筈の合図だった。

戸の向こう側に母の気配を感じた。二重戸の奥の大戸が開いて母の寝間着姿が現れた。格子戸を境に私を見つめた母は”帰ったのかい” といいながら内側から戸を開き、おそるおそる私の足許を眺めていた。幽霊ではなかろうかとの気持ちで、信じられないように足を眺めたのであろう。

”ただいま”と言ったきり私は動かなかったし、母も私を見つめて何も言わなかった。でも白くなった髪は寝起きのせいもあり、5年振りに逢えば老けてやつれて見えるのだった。終戦前後の内地の労苦が大変だったと聞いては居たが、顔を見ただけで5年間の変化を大体察知出来るようだった。

丹前姿の父が、赤い寝間着の妹が、そして二階からどてら姿の弟が下りて来た。久しぶりにくつろぐ居間の、暖かみのある家族の雰囲気が私の心を和やかに落ち着かせてくれた。5年間の距離感は全然なかった。一番目立ったことといえば出生のとき四歳だった妹が九歳に成長しているくらいだった。積もる話はいっぱい有るが何から話していいか判らなかった。
聞かれた事に返事をしているうちに時間はたち、母の懐かしい手作りの味噌汁で揃って朝食をとると父は店へ、弟と妹は学校へ出かけて行った。ここでは5年前と変らぬ生活のリズムが今日も繰り返されていた。

久しぶりに和服に着替え、母が湧かしてくれた風呂に2ヶ月振りの引揚の垢を落とした。考えてみると入浴も終戦後何回あったろうか? こうして落ち着いてゆっくりした気分になると、戦後次第に別れて行った友人、知人の安否が気に掛かって来る。みんな元気でいてくれればよいがと祈る様な気持ちだった。私の消息は先月コロ島より引揚帰国した有働さんが連絡されて安東に居た事は知っていたと母の話で、彼も元気に帰ったのかとほっとしたが、彼が警察官だったことは全く知らなかった。その夜、どこで工面したのか日本酒の付いた食膳で一家水入らずの団欒の中で、生きていてよかった、よくぞ生きながらえたとの実感を噛み締めた。

とにもかくにも私は故国に、故郷に帰って来た。軍隊に入隊、大陸に渡って5年、そしてソ連軍の宣戦布告、引揚までの苦悩に満ちた毎日、幾多の思い出を胸に秘めて夢に見た祖国に帰って来たのだ。帰って来た祖国は敗戦のどん底に喘いでいた。みんなが祖国再建のため働かねばならない時期でもあった。戦地より帰って来た除隊兵や、海外よりの引揚者の面倒を見る制度は、形式的にはあっても実際的には敗戦国の身で求める方も無理である事は判り切った事であった。私も休養なり、気持ちの整理が終われば直ちに働かねばならないのだ。
しかし現実には働く仕事も少なかった。ただ、どんな仕事をしても生きてゆける自信だけは付いた。これもこの1年有余の試練の賜物であった。遅まきながら私も、私の仕事を求めてこれからの人生の計画に取りかからねばならなかった。(つづく)
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2012年3月 4日 (日)

青春に迂路はない

昨日と同じ春雨の朝、気温も7度とほぼ同じ。もう春はまぎれもない。

本日を以て2ヶ月に亘る故河北君の手記の連載を終わる。
彼が書き残したように、青春の迂路と見た軍隊生活が単なる迂路でなく、ひ弱な肉体や性格を矯め、
人生の生き方を教えてくれた反面教師と捉えた考え方に私も全く同調する。

私の場合は人殺しも泥棒も出来たのだから、人間の悪の限りを尽くしたと云っても良い。
明治維新の幾多の悲憤慷慨し、ある時はむざむざと腹を切り死んで行った若者達を想起して欲しい。死を賭すということが甘っちょろいものでないことが、私ならずとも理解出来るであろう。

私が過去に書いてweb上に搭載している駄文にも、河北君と同じ様な感慨を既に載せている。
ホームページ「語り継ぐ戦争の記憶と昭和の声」を参照してもらえば判る。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その53)

36、私の青春は人生の迂路だったろうか?

かくして転々とした私の運命も過去ってみれば一連の思い出となって、脳裏に刻み付いているものの、誠にあっけないものだった。状況の変化に応じて刹那刹那に苦しんだり、喜んだりした大陸の生活、そして若い青春を大陸に捧げた5年間の月日は私にとってなんだっただろうか。学生時代に描いていた青春の夢もロマンも放棄して、国家の為戦場に送られた私達であった。
楽しかるべき青春時代を無謀な戦争に費やして悔いは無いのか?私の自問に対しても、過ぎ去った過去はもう戻って来る筈は無かった。

回り道をしたなあ! と思った。ただ人生にマイナスだったと考えても、誰もが苦しんでいた当時としては致し方ない事情であり、私自身もそれほど深刻には受けとめていなかった。若かったからかも知れない。5年間のブランクを人生の貴重な足がかりとしておそまきながらこれからの人生を作って行こうと覚悟していた。

かっては北満の兵舎で初年兵として入隊した当時、消灯ラッパの音を聞きながら寝床の中で辛い一日を忘れようと、学生時代や東京の会社の思い出を無理に回想して寝付いたものだった。これから戦争の悪夢を忘れ未来への楽しい構想を描いて早く社会に復帰しなければならないのだ。

考えてみると大陸の生活、特に戦後の苦しかった生活は必ずしも無駄だった訳ではなかった。5年前に私達を北満に引率する為に初年兵を受け取りに来たある下士官が、内地を出発する時に希望を失ったような私達に、”お前達、くよくよするな! 満洲の広野に若い力をぶっつけることは、人生の取っていい経験になる筈だ” と言った言葉を今でも忘れていなかった。そして実際に、私の脾弱だった肉体と精神を鍛えてくれた軍隊生活、自活力と社会の表裏の仕組みを覚えさしてくれた戦後の運命は、私の人生に大いなるプラスとなった筈だ。

私は、私がソ連軍の捕虜になる前夜に取った一夜のアバンチュール、及びそれから展開された風変わりな生き様を思えば、何であんな事ができたのだろうかと日頃の性格から見て不思議に思う事もあった。私の冒険体験を聞いた数少ない友人達も又、真実を疑い、首を傾げる向きも多かった。

人生には一生のうち、どちらにするかとの去就を求められような場合が何回か有ろう。その時の決断と行動とによって、それからの人生が全く反対になってしまう場合も考えられる。そしてその場面に遭遇した時に、インスピレーション的に閃くものを天の声として受けとめる事が有ろう。一瞬の閃きは、その時に置かれている境遇の中で最も良いと思われる方向を、常識的な英知と面子によって正当化しようとする現れかも知れない。

実際にあの時は、天の声に従って死も辞さない気持ちだったと思っている。そんな決心をした私の純粋な気持ちを私自身尊いものとしてきた。幸いに、この判断が吉と出たから良かったものの、凶と出れば大陸の土となったと思えばぞっとする。

こんな貴重な体験を得た私の青春は、回り道どころか、むしろ悔いなき花の青春といって然るべきものかも知れない。


37、結び

戦争は悲劇である。戦後の辛酸をなめ、内地に引き揚げられた多くの人達、未だに尾を引いている中国戦争孤児の問題等を考えると、私などの苦しみは取るにたらないものかも知れない。それでも私なりに生き抜いて帰って来た。その貴重な体験と数々の思い出を記録してみた。

戦後の大陸で敗戦国民という逆境にあって、人とのふれ合いの様々な機微に接した事は今でも私の心の支えとなっている。
共に苦しまれた方達のご活躍を期待し、同時に面倒を見ていただいた小田原さん、森田さん、そして奥田さんご一家の末永く幸あれと祈るものである。(おわり)
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2012年3月 5日 (月)

眼の手術半年異常なし

じゃーじゃー雨の朝、よく降るなあ! 気温は7度と変らず。
昨日のマラソン、予想外の走者ドウンガが優勝、日本勢も予想外の山本が1位(全体4位)、と、番狂わせとなったようだ。それにしてもケニアとかエチオピアは強いなあ。身体そのものが違っている。
骨と皮だけである、身体の軽さがもともと違っている。
マラソンというのは30キロ過ぎが大変なのだなとつくづく実感させられた。

日本人も骨と皮の時代は強かったが、飽食の今はやはりマラソンには向いていないのだろう。

其処に行くと女子は立派だが、もともと女子は骨と皮にはなりにくいから、万国共通だし、スピードが遅いから後は精神力の問題だろう。

今日は眼科、明後日は皮膚科、15日は内科の精密検査と医者へ行く予定が続く。
嫌だけど仕方がない。こうして生かされてるのは判ってるんだけど。
老人大国即医者大国だな、日本は。

昼過ぎに眼の診断は無事終わる。何も問題はないそうだ。手術して丁度半年経った。8月に最後の診断があるそうな、丁度1年目である。今度別状なければ目薬からも解放ということになる。

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2012年3月 6日 (火)

首なし地蔵さんの話

3日降り止まずとうとう4日目まで来た。豪雨でないので、災害にはつながらないが、精神的には参る。
南へ夏みかんを一箱送る。圭さんが好みだから。
うちの方も片付いてあり難い。いつまでも保つものでないから、傷む前に始末しないと昨年のように捨てることになっても残念だから。

河北君の手記の掲載を終わって実のところほっとしている。
冥土の底で喜んでいるかどうか懸念しないでもないが。公開は私の独断だから。
戦争の記憶を少しでも後世に残す為には私としては最良の方法と信じてしたことである。ひょっとしたら残さずともよかったのにというかもしれないが、私としてはゼロにしてしまうのはもったいないと思ったからである。

昨年掲載したニューギニア戦記は著作権者の今田勇君からの所望でもあった。自分でも新聞社当たりに交渉したが受け入れてもらえなかったと云っていた。
現実に生きている本人が喜んでいるのだから問題ない。未だに沢山のアクセスを頂いていて、反響を喜んでいる次第だ。
水の流れとともに何時かは消滅してしまうのだろうが。これは天に任す以外にない。
現実に味わった人達がいる戦争悲劇である。

週に1度か2度ポストの投げ込まれている西広島タイムスというタブロイド判の新聞がある。その中の記事にふと”首なし地蔵”という記事が眼に留まった。
長年探し求めた居た地蔵さんがそれかもしれないなと思い出した。

まだ小学生になったか、ならなかった頃、病身な私をお祈りを込めて、母がお参りに連れて行ったことがある。
確か草津の電車駅から山坂を越えて、ぞろぞろと人の流れにつられてお参りした覚えがある。
功徳があると母は信じているらしかった。

縁あって広島に住むようになって何十年、ちょいちょい地元の人に聞いてみたりしたのだが、草津の地蔵さんなんて聞いたことがないと誰も相手にしてくなかった。

今ここに井口の”首なし地蔵”の話が一行出ている。それではなかったかと今思い出されるのである。
草津からでも井口からでも山道を入って行けば同じことになるのではと思い当たるのだが、さてどうだろう。なにしろ八十数年も前のことだからなあ。
当時乗った電車だろうか?
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2012年3月 7日 (水)

またまたろくでもないぼやき

今朝は雨の痕跡はない。やっとやんだか。気温は8度。
6時に起きて広島総合病院行きの準備をする。暑からず寒からずちょうど良い。

担当の中村医師が今日が最後の診察、大学の付属に転勤するとのこと、後任には同期の男性の医師が来るからといってその性格までおしえられるなど、ちゃんとお別れの挨拶を丁寧になさる、女性医師にして出来る心配りか、初めてのケースである。

千代から電話で家内の手術の日に2、3日帰宅するからという。やはり心配なのだろうか。

久しぶりに外食して買い物も済ます。小世帯にしては大荷物だなと車から降りながら苦笑する。チリ紙の類が多かったので荷の量が太かった。
こんなの車でも無かった日には大変だなとこころひそかに心配。

飯炊き用の電気釜蓋が閉まりにくいと家内が言うので、掃除をしているときどうしたわけか指から血が滴り始める。何かが皮膚をちょっと傷つけた訳である。
最近こんなのが多い。老人というのは皮膚が硬くなるのだと思っていたが、そうではないらしい。薄くもろくなるらしい。内出血も激しい。

今日も医者で血液を抜き取るとき、血が抜けなくなって側の皮膚の内側がみるみる内出血してひろがる。看護婦さんにそれをいうと、あわてて別の看護婦と交代して差し替える。
傷跡に絆創膏で押さえてくれるはいいが、帰宅してから外すのにはがれにくくて大変、皮膚が持ち上げられて今にもちぎれそうである。そろそろとやっとのことではがす始末。
絆創膏も吸着力が随分強くなってるらしいし、皮膚は弱く薄くなってるし、難儀やなあー老人は。

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2012年3月 8日 (木)

人情日々疎し

久しぶりに広島へ行く。16年前に家内が買ったスイス製の腕時計が動かなくなったので、その買った店に行きたいというので連れて行くことになった。

横川の古舗で北山という時計屋さんだった。今でもあるかしら名前も忘れてしまっていたのだが、ちゃんとメインの商店街に存在した。主人夫婦も老いては居たが健在だった。
調べてもらうと何か部品が折れている由で、古いから部品が簡単に手に入るかどうか判らないということだった。
家内は明日旧友と逢う予定になっているので、時計なしでは困るので、新しく買うことにした。今度はセイコーだという。勉強して3万円という。修理代が4万円掛かると云ってたのだから却って安く着く。
老人だからまあいいかと妥協する。

用件が済んだので途中で回転寿しを食べて、さっさと帰宅する。気になっていた首なし地蔵に参詣したかったのだがこの次にする。
しかし横川にも何年振りだったのだろうか。

駅前で店をやっていたのは16年前店を畳むまでの1965年からだから、何十年も無我夢中で暮らした、随分懐かしい街である。
店主も私らの店を覚えていた。帰り際夫婦で店先から私達の車を送ってくれた。
彼等も十数年振りに訪ねてくれた私達が有り難かったのかも知れない。

駅前の変り様には息を呑む思いで通過する。
ほん近くに住みながら、生活が変われば、人情日々に疎しとはこのことか。

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2012年3月 9日 (金)

横着な老人である、我が輩は

かなり深い灰色の雲で覆われて、日射しはまるでどこにもない。気温は相も変わらず8度。
過ごすには楽である。
家内はリウマチの医者に出かける日、車で送ることにする。竹島さんにも会う約束をしているから、帰りは一人デオデオ本店にでも久しぶりによるつもり。

30分足らずで医者まで送り届け、デオデオ・コンプマートに行く。
売り出しでヒューレット・パッカードのノートだが3万足らずで売ってたので買って帰る。
本店までは膝が少し痛いので途中の駐車場まで帰ってそのまま行かずに帰宅する。
ノートは早速試したが、格別そんなに良い所は見えない。案外重いんだなあ。ただマウスがなくても指先だけで動かせるのが、iPad式で楽だ。だんだんこうなるのだろうな。それにしてもジョブズはえらい男だったな。

部屋の中でもあちこち動かし回る時にマウスもキーボードも邪魔なんだな。
ワイファイの範囲内だからコードは全然無し、たまに充電するとき電気コードを繋げるくらいである。
寝ながらという訳にはいかないが、そんな時はiPadが出番。
しかし作文はやはり寝ながらという訳に行かないから。ノートということになりそうである。

横着な老人である、我が輩は。そのうち罰が当たって死ぬるだろう。

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2012年3月10日 (土)

岩國米軍1500受け入れ、私は拒否しない

岩国市が米軍1500名の受け入れを拒否するという。
米人など異人種を嫌う国民性は判らぬでもないが、この国際化の激しい時代に外人との共存をそんなに毛嫌いしていていいもんだろうか。
南方からの移住がどんどん増えているという現状なのに。

まして人口増加による消費にも繋がるだろうし、悪いことばかりではあるまい。
若い頃山口で生活していたことがあるが、この街は学生さんと軍人さんで持っていると商店街の人に機嫌良く迎えられたことが思い出される。
なるほど云われてみれば消費オンリーの学生と軍人である。地元ではそれだけ収入が増えることは自明の理である。
昨今刑務所でも招致を競争していた。

何故今我が国を守ってくれている米軍の兵隊を嫌がるのだろう。しかも愛宕には若い家族持ちの子弟を住まわすという。
同じ日本人でも隣は何する人ぞと付き合いもしない家庭が増えている。
却って不便だと思わないのだろうか。

軍隊を嫌う理由も判らない。規律ある生活をしている人の集団である。羽目を外す人は少ない。
先般のマツダ暴走事件のように狂人まがいの行動を取るものは、むしろそんじょそこらに居る民間の我々自身の中に居る。
軍人は戦いの専門家であるが、先の大戦のごとく軍人だけで戦う時代はもうない。
軍隊は単なる抑止力に過ぎない。
むしろ平和な時の震災などように助けになることが多い存在ではないのか。

飛行機の騒音が嫌だと云う。騒音は今飛行機だけの問題では無い。
この騒音だらけの世の中でよく生きて行けると思うくらいだが、文明が造り出し我々人類がその担い手であることは間違いない。ああ向いた唾である。
騒音を避けたければ過疎になやむ山村に移るべしだ。大歓迎してくれるだろう。

ともかく単なる感情にとらわれずに、国の為にも、岩國のためにもなる受け入れを急ぐべきだ。

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2012年3月11日 (日)

父はやはり偉かった

東北大震災一年目、復興は議論がやたら多くて思うようには進んでいない感じ。
阪神よりは大分遅れそうだ。
無残な痕ばかりが映し出されて、住民の姿が哀れである。

昔から何度も何度もやられているのだが、同じ人が経験をするのでないから、いつも新鮮である。
常に後は大混乱が残る。人間の世界の宿命か。
狭い日本だから逃げ場はない。観念する以外に道はない。

サンフレッチェ好調に緒戦を飾る。終始ボール支配がよく、浦和レッズのロングパスによく堪えて得点を許さなかった。今季はやりそうな気配である。3万人近く押し寄せたという。若いものは元気がいいなあ。

今朝は少し冷えて0.5度の夜明けだったが、日が射し始めて幾分暖かくなりそうだ。一寸風が強いな。
老人の一番気になる所だ。

数日前古いものをいろいろ整理していたら、戦前の我が家の写真が少し遠景でぼけ気味だが出て来た。
母屋は大正13年にメキシコから帰国して間もなく建てたものだが、数え年5歳の時だったが、建築の現場を良くちょろちょろして大工の頭領高崎さんに取り合ってもらった覚えがある。

昭和10年頃に蔵を隣に建て、大きな屋根付きのふたやが便利よかった。
昭和12年から山口、満洲と私は家を離れたから、なじみはそんなに深くない。
戦地から帰って見ると米軍の空爆を受けて、壊滅し、終戦の翌年帰宅したのだったがまだごみの山だった。
かなり大きかった思い出があったが写真はそれを表示して見せてくれる。
親父は独力でこれらの資産を作った。やはりえらかったなあと不肖の子の私のふがいなさが情けなくなる。

(写真は古い順から大正13年建築当初の家の前で当時の家族、次は昭和15年頃の屋敷全体、下は戦後蔵の影で壊廃を免れた元貸家ここに永く住む)

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2012年3月12日 (月)

老人同士のケータイ通話

朝7時半起きてみると外は薄く白化粧、山が特に濃禄のそれに混じり合って美しい。
まだちらほらと揺らめき落ちている。

午前9時には日が射し始め屋根の雪はあっという間に消え失せる。
日中の気温はあまり上がらないとの予報だがさあどうだろう。

夜変な空咳が出て来て、気管支でもやられたかなと嫌な予感がしてたが、起き上がるとなんでもない。
はんてんの下にチョッキを着込んで丸くなって食事をしたり用足しをしたりする。
ちょい動きにはこれでちょうどよい。

私から昔の記憶を取って除けたら、何の値打ちもない。今せっせと掘り出し物を探している所だが、ここに来て旧家でもなく、爆撃で何もかもゴミとなって消却されていたことが誠にいたい。

デオデオに行き、ソフトバンクのケータイを買う。私のiPhoneとの通話はタダというのが気に入った。
家内に使わすつもりだが、電話とメールとテレビを見たり、写真を写したりしか使えないが、老人だからそれだけ使えればそれでよい。着信音は大きくて老人向きである。
夫婦別居ではないのだが、二階と下でも80と90の老人同士では案外意思の疎通は面倒だったが、これがあれば煩わしがりさえしなければうまく行くのではと思っているのだが、さあどうだろう。

早速論よりは証拠で、先ほどケータイのお世話になった。
今日は午前中停電した。パソコンもストーブも電話も我が家では使えない。仕方がないから外食することにした。他所も停電では駄目なので電話したい、おっとケータイがあった。
早速それで聞きただしたら私らの行く所は停電してなかった。折り返し出かけたことはいうまでもない。

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2012年3月13日 (火)

便利さは何事も高く付く

7時半気温0度、放射冷却現象か。

買ったばかりのケータイ、使い勝手が今ひとつで、受信ベル音も何事かと驚く位だ。
昨夜から気になっていたので、朝6時過ぎ目覚めると1階の家内に寝床から電話してみる。家内も驚いたらしい。なかなか出ない。そのうち留守電に切り替わる。
何度かやるうちになんとか会話が出来るようになり、使い方もだんだん判って来た。

そもそも掛け方は店員さんに懇切丁寧に習ったが、受け方は全然習ってなかった。
只受話器を取って話せばいいと思っていたが、左にあらずちゃんと応答のボタンを押さないと駄目だ。ベルに応ずるのが手間取ると、ぷつんと切れて、留守電に切り替わる。
受話器を置いたら電話全体が切れるという訳でないから、ちゃんと切らないと懸けっぱなしになって、料金は無限に増える。
メールにしてもgmailやEメールなどの無料のもの以外は有料らしい。うっかりすると大変な出費となる公算がある。
今までの電話の調子には行かない。老人は戸惑うばかりである。

iPhoneを買ってからもう1年以上も経つ。未だ一度も受信したことがないのだから、勝手が判る筈がない。
掛かって来る電話は固定電話にばかり。
私の使い方は最初はイヤホン付けて音楽ばかり、今は自炊した本の本読みばかり、ほんとの使い方はしていない。
というわけで、此のお始末。子や孫どもに嘲笑されることだろう。

ケータイも一番安くて簡単なのをと注文付けたのだったが、買ってみると結構多機能で面倒くさく判りにくい。
テレビは見れるし、カメラも付いている。所詮老人の持つものではなかったかもしれない。
改めて気づいたことだが、通話料金が格段に高いのだな。1分間42円とは恐れ入った。
長話が得意な女子供は特に危険な存在だな。
やっぱり便利なものは高く付くようだ。

便利が良いということから気がついたのだが、此のアップルのパソコンは昨日の半日停電でさすがと驚いたことが起きた。丁度日記を書いていた時にパッと停電が始まった。何時間か続いた。
外出して帰って来て、電源を入れてみると、やりかけのままがそのまま表示された。
前のパソコンではそうはならなかった。すっぽりファイルごと消えて無くなることが多かった。
よほど気をつけて途中保存しておかないと駄目だった。此の点は格段の進歩だな。

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2012年3月15日 (木)

医者通いも一仕事

雨の跡が残る夜明け、気温は3度。まあまあといったところか。
今日は心臓の検査をするから10時15分までに来いと内藤内科から昨夜電話が入っている。忘れる訳に行かない。

10時前に内藤に出かけ、最初に心臓のエコー検査を受ける。開閉差が16ミリといわれ標準値で問題ないといわれる。風邪薬も4日分貰って来る。腎臓が少し弱っているから塩分を控えるようにと、こんども又注意を受ける。正午一寸過ぎに帰宅する。
患者数も多く流行る医者は大変だな。

iPhone,iPadのOSのバージョンアップを云って来る。5.1ということらしい。
小型の此れ等の機械はアプリケーションが沢山入っているから、毎日のようにバージョンアップが激しい。
よくこれで故障が起きないものだなと不思議。

医者の待つ間はおかげで随分楽をする。看護婦さんも風邪の具合もあるし、待合室が込んでいるものだから奥の空いている検査室に案内してくれて、一人静かにiphone読みの配慮をしてくれる。有り難いことである。

どこかの小母さんが駐車場の私の車に接触してちょっとへこましてくれる。看護婦さんが連れて来て弁償するからとぺこぺこしている。いい加減草臥れた車だから、いいよいいよと鷹揚に許す。

昼飯を食ってすぐ就寝、3時過ぎ目覚めていま日記を書いている。
天気はよくなって来て、日射しが暖かいが、薬の効果は未だ出ない。

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2012年3月17日 (土)

何時かは必ず死ぬるのだが

春雨に煙る朝、気温は7度。こんな日が多くなる。風邪は治りそうにない。鼻水がやたら多い、熱がないから良いが。
昨夜は風呂を禁じられていたが、熱くして入る。冷えぬ間に就寝したので差し障りないだろう。
ひどくなった気はしないのだが、よくもならない。
老人の身体には自然の回復力が乏しいのだからどうしようもない。

午後雨も上がり日射しも出て来たので、幾分暖かく生気が戻る。

先日も言ったことだが、ここ1、2年の間に同窓会の名簿からのぞかれたものが15名を越えた。
振り返ってみると皆92、3歳以上になったものばかりである。えらく沢山長生きしたものである。そしてまだ私のように生き残っているものが僅かだがいる。

決して平和な時代では無かった。一つの命では足りないくらいの際どい生き方を再三して来た。
それでも結果的には平均的より永く生きて来た。どうしてだろうと不思議である。

思うに戦場で弾に当たって死ぬるのはごく僅かだということかも知れない。
アメリカさんも後には考えて手段を変えた。東京空襲のように焼夷弾で焼き殺す、沖縄のごとく火炎放射器で隠れ穴に潜むものを火あぶりにする。最後は原子爆弾だ。正に一網打尽だった。

人類の戦争の歴史は永い。人類の生き残りそのものがその歴史といってよいくらいだ。
未来永劫戦争は続くだろう。生き残る為の宿命なのだからしかたがない。
希望するものから順番に、それこそ平和に痛みを感ずることなく死にたいものである。
誰かそんな方法を考えつかないものだろうか。

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2012年3月18日 (日)

政局はあらぬ方向に動くか

朝気温10度まで上がる。春たけなわの感。
しとしとと春雨らしく降り続いている。
今日宮島で清盛祭りの行列があるというのだが、島影は霞の彼方でぼんやりとその去就までが定かには見えぬ。

午前中には雨何となく上がる。
折角の日曜日の諸行事に支障が無くなってよかった。

水戸から婿からの電話、先だっての夏みかんのお礼をいわれる。
うちでは持て余したのだが、喜んでもらえてあり難い。礼を云わねばならんのは当方である。
元気で不自由な生活を凌いでいるらしい。

しょっちゅう揺れ続いている地震にはさすがに参ってる感じ。
なぐさめの掛けようは無い。

風邪はなかなか治りそうにないが、終日音楽に包まれて、昼となく夜となく、聞くともなく、聞かぬでもなく、ほとんど寝て過ごす毎日だが、やはりこれが最上の幸福というものだろう。
階下でも家内が同じ様なことをして過ごしている。似た者夫婦ということらしい。

今日の新聞を見ると、自民党の後継総裁に安倍さんが取りざたされてるらしい。
変な病気で退陣を余儀なくされた前総理だったが、未練をたっぷり残しているらしい。
清新の一語に尽きる人気の持ち主だから、案外国民の賛同を買うのではなかろうか。

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2012年3月19日 (月)

戦局の判断の誤り

夜明けのボーッとしたなま暖かさが、春いよいよ深きを感じさせる。iPhoneが気温8度を表示している。

昨夜は咳が頻発して、堪える工夫を案じたりしながら眠ったのだったが、今朝起きると忘れたように咳き苦しさが遠のいている。あれっ治ったのかな。
今朝の一服が最後の薬だが、家内が少しひどくなってるようだから譲ることにする。

しかし風邪ってえ奴は油断がならないからなあ。何時又ひどくなるかもしれないし。いやに暖かい天候が気になる。

昨夜は十朱幸代さんが深夜便で過去を語っていた。忘れられない女優の一人である。主役というより脇役でいつもきらりと光っていた。ときどき主役を食ったりしながら。
その存在も私はその親父さんの不思議なキャラクターが気に入っていたから、えらくまともな娘だなとその添え物の感じで記憶に残る程度だった。しかしいいバイプレイヤーだったな。

私の幼年時代には英雄豪傑が沢山いた。乃木大将や東郷元帥はすぐ目の前に現実に存在していたし、未だ学校にも行ってないのに豆講談の受け売りで由利鎌之助、塙団右衛門、岩見重太郎などがいた。
さしずめ今は鉄仮面や仮面ライダーなどだろうが、名前から嘘らしくて、子供はほんきにはしてないだろう。
夢と現実がないまぜになって、楽しかったものである。
あこがれは総理大臣か陸軍大将か、目標が太かった。すぐ手の届くものでは無かった。

テレビやパソコンが子供の夢をつぶしてしまった。不幸な時代と云えるかも知れない。

今山下奉文という文庫本を読み終わった。著者は福田和也である。
私が満洲斐徳の独立自動車第31大隊で任官したとき、ふと直属上官に当時赫々たる名声の山下将軍を戴いたと聞かされた。まさにうっそーと目の前を疑った。
いよいよソ連とも戦端を開くかと身震いした。

私自身増強された部隊に配属されていたし、動員部隊はどんどん近郷に増えつつあった。
広野のど真ん中であるから、誰でも眼に見えて判ることであった。総勢百万だと囁かれた。

士気の高まりは格別であった。
訓練演習の酷しさに引き換え、一向に火ぶたを切る気配は見えなかった。
丁度部隊の情報掛将校でもあったから、部隊一番情報には詳しくなっていた。

しかし上下の違いが大き過ぎて、山下方面軍司令官が何を企図していたか知る由もなかった。彼のいた2年間私達は待たされ続けた。独ソが火ぶたを切り、日本も巻き添えかと思っていたが、すでに早まって英米に宣戦布告していたし、広い中国大陸には相変わらず釘付けになってるし、余力のあるなしは私にはわからなかった。

狭い戦場を馳駆するには、ドイツ機械化部隊は効果的だったが、広い凍てついたロシアの広野では勝手が違っていた。鋭さが急激に鈍った。長期滞陣が予想され始めた。
日本も同じく広過ぎた戦場にほころびが続出し始め、2年後にはサイパンにまで攻め込まれてしまった。
剣が峰でソ連に戦いを挑む力のないことに気がついていた。

ソ連との中立条約を信頼して、我々動員部隊を解いて南方に転用を図った。が時既に遅く制海権、制空権は敵にあり、配置行動の徒次海の藻くずとされた部隊が続出した。

私達も戦後最大の無為無価値の作戦と云われた、湘桂作戦に投入され、一万台もの自動車部隊が道路なき山野にいたずらにうごめき、圧倒的な敵空軍の餌食となった。肝心な燃料もいたずらに焼失するばかりで、死にものぐるいになって作ったアルコールもこれまた時既に遅かった。

山下将軍の使い方を誤った以前に、日本の政局の中枢の判断の誤りがもう抜き差しならなくなっていた。

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2012年3月20日 (火)

石油は危機、アルコールは未だか

無限に資源があると言われる、アルコール燃料のことをもう何度目になるか、経験者として語る資格があると思うから喋らせていただく。
ブラジルでは既に実用化しているらしいが、日本ではまだまだ実験段階を出ないようだ。
一つはガソリンの熱効率が良過ぎることである。これを真似しようとしたってこれはもうスタートから間違っている。高価で低効率のものを無理して使う覚悟が先ずなければどうにもならない。

ブラジルは大きな国で特に植物資源は世界一であろう。食糧を燃料として消費しても、何とか採算が取れるのだから、日本と比較すること事態無理な話である。
食糧に飢えている国に取っては羨ましい限りだし、グローバルに見てももったいない話である。

さて70年前ガソリンが不足して、武器弾薬食糧など戦争に欠かせないものを輸送する我が自動車部隊も燃料のガソリンなしでは動けない。それが戦争の途中からどんどん減って来た。動かせない車が目立つようになった。
燃料節約は耳からタコがのぞいた。

必死でアルコールを作った。唯一の変換部品キャブレーターも軍の指示通り100%のものが出来上がった。
さあ、実験と車を動かしたがエンジンはなんとか廻るけど、車は動かない。まるで力がない。
濃度が決められた85度では低いからだろうと、高めることに必死になった。考えてみると危ない作業だった。
引火点が高くなると自然爆発も考えられる。蒸留には当然火をつかっている。
しろうとのかなしさ、というかのんきさというか、怖いもの知らずで挑戦し続けた。
が結局90度を超すことは出来なかった。
最高濃度で87度くらいで我慢して使う工夫をし始めた。

舗装道路のない戦場では、でこぼこ道路は始めから無理だった。
誰が言い出したか覚えがないのだが、鉄道線路を走らせたらという案が浮上した。
トラックの足回りを改造して、近くの桂林駅に転がっているトロッコの車輪をくっつけて、線路を走らせた。
これはもう大成功であった。トロッコ10輛に荷物満載とは行かなくても、かなりの量を乗せて牽引し順調に走った。

鉄橋は破壊されているから、渡河点までだったが何十キロだったか覚えながないが、ともかく部隊の輸送任務を完全に果たした。野戦輸送司令官に部隊長が誉められたと云って喜んでいたことを覚えている。

私が言ってる話は1945年の話である。技術は格段に進歩し、比較出来る話では無いが、最近特に供給不安定な石油資源を思うとき、この資源枯渇の心配のないアルコールの燃料化の実現は未だに無理なのだろうか。
やはり目前の利害に汲々として、石油の枯渇を待つ以外に道はないのか。

又一方で電気自動車の開発は今盛んである。電気と言い石油と言い、五十歩百歩の話ではないのか。
原子力利用反対の空気が広まるにつれ、石油依存は益々増大する。しかも石油の100%が電気化する訳では無い。
アルコールは燃焼後はほとんど水になる。石油のように公害を増やす懸念は乏しい。
自動車の改造も簡単である。電気の場合は根本から変えなければならない。
私は断然アルコールを推奨する。素人の私でさえ70年前志し実現出来たのだから。

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2012年3月22日 (木)

歴史と関わりなく生きて行きたい人たち

昨日はジャム作りに3時間以上掛かってしまう。焦がさないように時間掛けて混ぜながら煮るのが大変なのだ。
私が受け持ったのだから、さすがに終わったらぐったり熟睡出来た。
夏みかん7個のジャムなのだが。

今朝の気温4度、まだ冷たい。家内の風邪具合私と同じく長引きそう。症状も私と殆ど同じ、鼻水とタンが出る。昨日までは下痢がひどかったのが私と違う。咳は私の方がひどい。
どちらも熱がないのが此の風邪の特徴か。

家内のお茶の先生だった方の母が無くなられたと、古い当時の仲間角さんから知らせが入る。105歳だったそうだ。大往生である。今日葬式があるのだが、風邪で行かれないと家内は朝から悔やんでいる。
風邪をうつした私の方はぼつぼつ快方に向かったが、家内は今盛りだからどうしようもない。

人の運命はどう転ぶかわからない。今朝も日航機事故でなくなった娘さんの話が伝えられている。
先年お参りした古刹石山寺の関連した話だったので、ふと心引かれて画面に吸い寄せられる。
今話題となっているのは、その寺の境内の山の中腹に植えられた520本の桜がまさに満開にならんとしている風景である。
寺の当主夫人が事故死した妹ら520名を記念して当時植えられたものだという。

当時事故に遭遇した人々が迷走する飛行機の中で、死を覚悟し家族などに書き残したメモが後日公表され世相に波紋を投げ掛けたことで著名になった。奇跡的に生き残った者たちのことは気にならないでもないが、ことさらに追及するものはもういない。
誰もが静かに忘却の彼方に置きたい事故となった。

世の中、だれしも歴史と関わりながらも、素知らぬ姿で通り過ぎて行くのである。

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2012年3月25日 (日)

寝たまま、不謹慎だが

今寝たまま、ああ向いた状態で、このブログを書いている。
今朝スーバーに出掛けて風邪を引き添えたらしい。
午後になって、少し寒けがして来た。

こりゃあ、あかんなと自戒して、ベッドにUターンしたわけ。

そんなに悪いわけではない。

毎日寝たり起きたりでいたところへ、今度は一日の3分の一以上は寝て過ごすということになれば当然寝ながらでも、書けるものなら書くと言う自然の理である。

幸い我が枕辺には、数十冊の本が、ほとんど文庫本のたぐいだが、書棚然として並んでいる。
参照するには事欠かない。
折悪しく、長女から今からうちへ訪れると言う、もう途中まで来てるとケータイからの連絡である。
私はうつすとわるいから起きないよと、告げに来た家内にくぎをきす。

間もなく訪れた娘等も、家内にどう言われたか、玄関から上に上がりもせず素直に引き返して行く。


さて、今日のブログのネタは何にするか。

今ここに笠原英彦著「歴代天皇総覧」と云うのがある。
先に私は「血塗られた、青丹よし」という古い文献から、女帝が過半数続いた奈良朝時代の七、八十年間予想だにしなかった血なまぐさい戦乱にあけくれていたと知って、改めて開いてみる。

日本と云う国の形が出来上がったそもそもを統べたといわれる天智天皇の後継を争った弟と子の葛藤が始まりであった。
今女天皇の問題が持ち上がったかにみえるのだか、奈良朝時代の男女入り交じった複雑な系譜がいかに国を混乱させたか、やはり思い知りおくべきことだと感ぜずにはおられない。

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2012年3月27日 (火)

VHSのHD化も時間がかかるなあ

午前8時気温3度弱。これでは桜も咲きにくいだろう。こちらも外出が億劫だ。
昨年の日記を見ると、同じ様な天気の案配だったようだ。春先はこんなものだろうな。
日本という国はやはり桜が咲き初めんと始まらないのだろう。
昨今東大をはじめ新入学時期を9月にするという提案があるが、4月の浮き立つ気分の時期と、酷暑を通り抜けてほっとした時期の9月と、果たしてどちらがふさわしいか、難問だなあ。
西洋に合わすという考え方だけでいいのだろうか。

昨夜も熟睡したが、午睡もぐっすりで家内のベルでおやつの時間ですよと起こされる。
眠いから何も食いたくない。
近所のスーパーに買い物に出かけ、運転手を仰せ付けられる。仕事がないようでもある。

先日からWindowsのノートにVHSから名画ばかりを拾い集め、録画している。20点位でHD容量の半分に達する。ぼつぼつ外付けのHDを用意しないと行けないなと思っている。さすがに場所を取るものである。
そこへ行くと、文書類は軽いから、iPhoneやiPadに入れてる自炊本などはもう161冊にもなっている。
写真やテキストは荷物にならないからいいな。
その効用を認めない訳に行かない。
何本かの書棚にあったVHSをやっと半分ばかりに整理したのだが、DVD化も大変なので、HDに考えを変換してやり始めたのだが、これとても難行苦行だ。時間もかかるし容量も馬鹿にならない。
HDの2TBが大分安くなったから助かるなあ。

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2012年3月28日 (水)

絆という言葉

最近絆という文字が頻繁にジャーナリズムに登壇しているように思う。
どうしてだかは知る由もない。
しかし私にも思い当たる節がまるきりない訳でもない。
4、5年前城戸久枝という人がほとんど自伝とも言うべき脅威の絆の記録を1冊の書籍として発表した、
父が偶々戦争孤児として、満洲に置いて行かれ、成人して後日本人としての自覚を無理矢理させられることになり、見知らぬ故国を目指し、殆ど独力で父母を捜し出し、国の施策に先立って、故国の土を踏みしめた人だった。

実の娘である作者は父にまつわる1本の絆を辿って、自ら長春の吉林大学に留学して、言葉から学び、父の足跡を追って、遂にその絆を確かめるに至る全くドラマチックな伝記を書き上げた。
間もなくテレビドラマとして全国民に紹介されたので、知らない人が少ない話である。

戦争孤児の問題は今も延々と続いている。
私も数年間彼の地で暮らし、開拓村のあった東満洲の地も、国都だった新京現在の長春も懐かしい土地の名前である。縁故がないとは言えない。
新聞かなにかの紹介記事を見てすぐ此の本を購入した。
本の題名が「あの戦争から遠く離れて」という少し迂遠な表題だったので、探しあぐねた覚えがある。
500ページに垂とする大冊である。

テレビドラマの題名には絆の文字が入っていたと思う。
語源は単なる牛馬をつなぐ綱の意味らしいが、それだけに無理矢理にでもつなぎ止めるという意味合いが感ぜられる。自由奔放に見える人間も思いがけず強い絆でつなぎ止められているのだなと感ずる言葉である。

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2012年3月29日 (木)

便秘の苦しみ

3日程便通がないので、今朝は腹が渋り始め、なかなか出なくて完全な便秘状態に落ち入る。
我が家の洋式便所では、いくら力んでも出ない。とうとうへとへとになった末、便所にかがむのは止めて、立ったまま垂れ流すことに決めて、紙おむつを履いて、椅子に頭を付けてかがむ。
両足を踏ん張って、力むとなんとか3つばかり、直径2cmもある丸い便がころころとけつの穴からころげ落ちる。
腹の渋りは何とか治まったが、力み過ぎたせいか後がなんとも調子が良くない。

未だ耄碌してないから、戦場で赤痢にやられた時のように、くそまみれにはなりたくないという自覚がある。
あれやこれやと結構頭を働かす仕儀となる。
もう一度形を整えて試みる、又同じように3個転がり出る。これで終わりかしばらくしても予兆はない。
だが便所に行くとまだやはらかいのが続く。とうとう3枚もおむつをつぶす。

明日胃腸科に出かけて診察を受け、対策をお願いするしか無さそうだ。
それにしても難行苦行だった。ふと女の分娩もこれと似てるかなと思った。

どの機能が低下しても厄介なものである。嗅覚も駄目なお陰で終始無臭で不愉快にはならなかったが。

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2012年3月30日 (金)

便秘の苦しみ(つづき)

昨日書いた私の便秘の話は昨日で終わったわけではない。
夜に入って、今度は下痢が始まった。
2,30分おきに痛みがさしこんで、液状の便が肛門から滲み出るのがわかる。
夜があけるまでどうしようもない。
時々身体の向きを入れ替えて、カミオムツの中の便の落ちる場所を工夫する。
寝付くわけには行かない。

8時半起き出してトイレに向かう。
不思議な事実を発見した。
立ち上がった途端、ぐぐっと強い便意を感じて、階段の途中で立ち止まった。
そのままじっとしていると、肛門を押し開くようにして、大きな糞の塊がズルズルと下りて来てオムツの底にどしんとおちる。
二度三度つづく。

タイミング正にずばりである。
トイレにしゃがんでも、まだ景気よく排便がつづく。
なんでこんなにたまったのだろう。

自分では順調に生理が続いていると思っていたのに、予想外の間隔だったわけである。
結構長いこと腹にだいてるもんだな、腹は汚がらだったりしないのだなと、感心したり。

それにしても、大便の一番出易い方法は、立ってすることだとは、90歳を過ぎて始めて知った。

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2012年3月31日 (土)

病床にて思う

夜気が付いて見ると、ふんどしが汚れている。
水溶便というか、薄黄色の色の付いた液体が薄く乗っかったように染みている。
夕食の後出はじめたらしい。
あわてて下痢止めを呑む。

昼間医者に行かなかったのは悪かったな~と後悔するがもう遅い。
起き上がる気力が出なかったというのが正しい。
明日は(今日は)土曜日だしなあ、午前中に出られるかな問題だ。
この歳では身体を動かすのさえ簡単には行かないのだから。
その上に気力がのしかかる、いつどう変わるか誰にもわからない。

朝暖かくまあまあの天気、此の分なら元気が出そうだ。


先日ブログに書いた城戸久枝の自伝「あの戦争から遠く離れて」が病床にいると何となく気になる。
私が昭和15年から4年間徘徊した新京からこの牡丹江界隈までの、記憶が案外鮮明に残っているからではないかと思ったりする。
新京も3、4年前訪れてその変わり様に驚いた。牡丹江近辺はgoogle-earthで覗いて見る限り、凄い開け様である。私のいた斐徳など恐らく蜃気楼の夢の街と感ずるだろう。70年の歳月にいつわりはない。
その意味で私の記憶は当時の実様を正確に保存しているのかも知れない。
此の自伝がおとぎ話でなく事実譚として素直に理解出来る所以とも言える。
改めて凄い本だなと、感銘を一段と深くする。

せいこう胃腸科に行く。格別の問題はなさそうだ。長期服用の薬を貰う。10日ばかりそれで様子を見ることになる。

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