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2012年2月27日 (月)

終わりよければすべてよし

寒い時期だから余計に思い起こされるのだろうが、1941年1月25日私は関東軍入隊のため麻里布駅頭に立った。日の丸をかざして多数の人達が見送ってくれた。
送られたのは私のほか小学校二級上の藤本悠紀雄さん、同級の吉川康三君、一級下の深海勇君と合計4人だった。当時兵事係をしていた叔父の重田さんの引率の下に、集合場所広島市袋町小学校に向かって出発した。

その日特別に仕立てられた輸送船に乗って宇品港を出発、満洲国東安省斐徳の自動車第3聯隊に2月3日に到着入隊した。
いずれも戦後生きて故国に帰って来た。
が、私以外は現在皆この世にはいない。藤本さん、深海さんはいずれも一流企業の高級役職を勤め上げられたと聞いている。
吉川君は孤軍奮闘随分苦労したことを私は身近に知っている。

私自身は満洲の会社に勤めていたので、戦争の終わった段階で既に消滅していたし、帰り着いた家は終戦前日の猛爆撃で壊滅していた。帰国前に結核にやられていたので、公務員試験も保留とされ、志した会社には受け入れてもらえず、嫌々勤務した業務では失敗したし、外に目指した事業もことごとくうまくゆかず、とうとう破産寸前まで行ってしまった。

国税地方税滞納のため給料も差し押さえられ、時効中断により税務当局が回収不能と認定、放棄してくれ、その他の債権者もみなあきらめて放棄してくれ、やっと破産は免れた。
以後何年間も銀行、クレジット会社の信用を失い、取引も出来ない状態が永く続いた。

企画した会社名も家内名義だったし、十数年間日陰の暮らしをせざるを得なかった。
今電話が家内名義であるのは唯一その時代の遺跡である。

只一人生き残ったけれども、苦しみを一人で背負ったみたいで、戦友達の僅かな短命を嘆く気はしない。
運命とはかくのごとく人それぞれを区別するものである。公平などというものでは無い。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その47)

○引揚のコース

翌日この部落から米艦が迎えに来ている筈の海岸の船着場まで20kmの行程、丸一日の行軍と伝えられた。夕方までに指定の場所に到着せねば米艦に乗せて貰えないと云われれば、是非にも船着場に着かねばならなかった。班の中で元気な有住老人は一人ではしやいでいた。幸い班には病人はいなかった。

”もう南鮮だし、いくらでも歩くぞ。みんな頑張ろうね。うちの班は離れないようにまとまって行こうよ” 発破をかける老人の声。
その日は秋晴れの気持ちのいい天気となった。部落を出て5km程で海が見え始め、それから海岸に沿って曲がりくねった道が延々と続いていた。昨日まで疲れ果てたような婦人達も、今日は比較的元気そうに子供達と歩いて居るのを見るのが嬉しかった。彼女等の頬に赤味がさしてきたようであった。

この頃から私は、一昨年から出て来た腰部の腫れ物が化膿し始め疼き出したのが気になっていた。軍隊時代には年1回決まって出来ていた腫れ物は、体質とはいえ嫌なもので軍医に切開して貰った痛さも思い出され、うんざりするのだった。
ましてこんな時、こんな場所で疼くとは途方に暮れた私だった。
“顔色が悪いよ。どうかしたの?” 覗き込む様な阪本やT子に答えられず黙って歩くほかなかった。一行の中に医師がいるのだが、薬は全然ない筈であった。
手を後ろに回して患部にそっと触れると、先端が化膿したように膨らんでいるのがよく分かった。私は先輩の有住にそっと相談してみた。

この世慣れた先輩の知恵を借りて何とか処理したいと思った。黙って聞いていた有住は“判ったよ、とにかく目的地まで歩けるかい”と訊ねた。
”何とか無理してでもあるきたいと思います。荷物が腰を擦らないように注意して歩けば大丈夫でしょう”と笑ったつもりが顔を引きつけた。有住は私の顔に手を置いて、”少し熱が出ているぞ!といって、とにかく船着場まで早く着くようにしょうと並んで早目に歩き出した。
”Kさん、薬は全く無いが灸をしてあげるよ。艾だけは検査で取られないのでたっぷりもってるしなあ、ハ、ハ、ハ、!”
彼は愉快そうに笑って、如何に東洋医学の灸が効くかを歩きながら説明した。腰の痛みは疲れとともにひどくなったが、歯を食いしばって堪えるより仕方がなかった。

3時過ぎに目的の船着場に早目に到着した。まだ僅かな人が着いているだけで、遥かに延々とこちらにやってくるのが見受けられた。
有住は少し離れた岩の間に私を導いて患部を広げさせた。そしておもむろに缶に入った艾と小筆とを取り出して、裸になった私の下半身に筆で印を付け始めた。所謂壷という場所に印を付けて灸の位置を決める作業であろう。
腰と腹と股及び膝まで左右10カ所の灸点を付け終わると線香に火をつけた。そして艾を揉みながら点の部分の上に一つまみづつ押さえつけるように載せていった。
”少し熱いが我慢しろよ。暫くすると気持ちがよくなるからな”
灸の手を休めずに私を力づけた。今はもうどうにでもなれと、寝たまま青い空の浮雲を眺める外なかった。
“熱い!” 思わず叫んだ。見ると腹の上に艾の火が回って皮膚が焼けてるみたいだった。下腹に力を入れて熱さに耐えると、次の場所が熱くなる。しかし熱いだけで、場所が股に移ると火が消えた後の腹や腰はむしろ気持ちがいいような感じがして来た。
膝の下に火がつく頃、焼け尽くした艾を落とした点の部分は黒ずんだ焼け跡が生々しかった。30分位の時間だったろうか、私には生まれて初めての経験した治療法であった。

”どうだい、気分は、これで少しは楽になるよ” といって名医らしく胸を張った。
この好々爺の有住が灸をすえ自信を持った操作は実際に素晴らしかった。私の気持ちも落ち着き、痛みも熱さにまぎれて忘れたように消えつつあった。

夕方5時頃までに一行のほとんどが到着した。この船着場から数隻の小舟で沖合に停泊中の米艦に収容された。それは敗戦後、惨めな境遇ばかりに立たされて来た私達にとっては、力強く安堵感を抱かせる様な船に見えた。

夜になって出航した船は翌朝C港に到着して一同は下船した。すぐに港より準備されていた列車で南鮮の首都Sに向けて出発した。
米艦で日本まで送ってくれればとの一同の願いであったが、外地より敗戦国民の引揚であってみれば、国際的な問題があるのであろう。一応引揚のルールを踏まねばならないだろうと思った。(つづく)
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