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2012年2月29日 (水)

昭和15年の新京での思い出

午後はよくなるという天気予報だが、どんより曇って10時現在なんともいえない日和である。
閏日とあって今日は余分な日だから、昔語りをしよう。

昭和15年の新聞報道によれば、あいも変らぬ盛り場風景というのがある。
学校卒業後すぐ就職先新京特別市大同大街の満洲鉱山株式会社に赴任し、この年昭和15年(康徳7年)3月20日から同年12月21日軍隊入営のため帰郷するまで、丁度9ヶ月新京で暮らした。

5月26日といえば、新京に着いたのが3月19日だったから、2ヶ月ばかり経っていた。なんとか会社の仕事にも慣れたし、新しい生活にも馴染んだ頃だった。
何と言っても田舎者の私は、外つ国といっても、親戚の国の首都新京である。一番気になるのは盛り場であることは丁度20歳の私では仕方がなかった。

丹念に書き写した日記には、こまごまと物珍しくその様子が記録されている。
新京中央通警察署に提出された新規許可願いのうち、東京銀座裏で働いていた女給が7割までを占めているとある。
支那事変によって取り締まりが酷しくなった東京を捨てて、ネオン街そのものが新京に移って来た感があるとある。
最近の中央通署管内の芸妓数は442名、女給は日本人が742名、鮮人32名外11名で合計785名、ダンサー80名、おでん屋割烹の女中が175名という素晴らしい数字に達していると記録している。

現在でも景気の善し悪しは盛り場の様子を見れば判るといわれている。
私には比較する術を持ち合わせては居ないが、新聞報道の文言をもってすればよほど景気がよかったのだろう。

当時私の初任給は内地の会社の丁度倍額であった。生活費は会社の3階建ての寮一室の部屋代と食費合わせて一ヶ月20円位だった。バスが会社まで送り迎えしてくれた。これは勿論タダ。昼飯は寮から届けられた。
本給の75円で十分楽に賄えたし、手当の75円はその都度そのまま母親に送金した。
私の一生のうち最高に贅沢な暮らしが出来た時代であった。

時間に余裕のある新米連中には、お金の余裕まであった。
盛り場では最高のお得意さんであったであろう。連日連夜といって過言では無かったかもしれない。
帰りの無料バスを利用したことはあまりなかった。

もちろん遊んでばかり居た訳では無い。放送局に足を運んで森繁久弥さん等に学んでドラマなどの端役をつとめたり、野球、テニス、卓球の試合に参加したり、ロシア語学校にちょっと顔を出したり、映画を見たり音楽を聴いたりすることなど多様に亘った。
音楽演芸は大同公園に立派な野外劇場があった。屢々通った。東京からの引っ越し公演などもあって、東京とほとんど違わないレベルのショータイムが過ごせたと思っている。
児玉公園スタディアムではプロ野球も何度か見た。(写真は当時新京在住者による同期の同窓会、場所は吉野町の割烹青柳である)

Photo

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その49)

○釜山

G町に来て1週間以上たってやっと検疫が済んだらしかった。私達はG町の駅から汽車で一応引き返すことになった。この天幕生活も毎夜暗い夜の帳の中で、故国への夢を見ながら団欒に結ばれた一行にとっては懐かしいものとなった。

今度は間違いなく釜山と聞かされてほっとした一行であった。しかし来た時の客車では無く荷物を運ぶ貨車に乗せられたのにはびっくりした。この方が収容人員が多いのかも知れない。私達は満洲各地から安東に逃れて来た時に貨車も経験していたが、安東在住の連中は永い間の平和な植民地生活から突然の異変でこれまでの苦労の数々の上に、貨車で釜山とは驚いても当然であった。
とにかく、今は引揚船に乗る為に釜山まで行かねばならなかった。

貨車は正常な列車の正常な運行の合間を縫って走る為か、度々駅で止まりながら二日目の夕方やっと釜山に到着した。

貨車の中から見る山野の眺めは祖国の農村地帯と何ら変わりは無かったが、異国で感じる秋の風は肌に酷しく、みんな黙り込んで座ったきりであった。リンゴの産地として有名なT町では停車中の貨車に売りに来た小さなリンゴを買ったが、噛み締めると甘い香りの汁がほとばしり一層の郷愁を偲ばせるのであった。

”Kさん、朝鮮紙幣をもっと持ってくれば良かったね、思惑が外れたよ” 阪本が口惜しそうに私に言った。

実際、引揚者一行が安東を船出するときに持参を許された紙幣は3千円までであった。ただし紙幣の種類は日本紙幣、満洲紙幣、朝鮮紙幣及び八路票(軍票)いづれでも良かった。その頃内地の新円切替を全然知らされていなかった日本人にとって、引揚が始まると同時に値上がりし出した日本紙幣が一番高く、引揚に朝鮮半島を経由する筈だから若干の準備として朝鮮紙幣が次に、最後に満洲紙幣は持って帰れば敗戦とはいえ日本政府が保証するだろうという理由の順で、各自の思い思いで所持の割合を決めて来た。勿論、内密に隠して持って帰る金は別だったが、これは主として日本紙幣が多かった。

それにしても、帰国後第2封鎖になるとは誰も思っていなかった。こんな長い引揚コースでうろついているのだったら、使える朝鮮紙幣を余計に持って帰った方が食糧の補給に役立っただろうと云っているのだった。
私は阪本と相談して若干の朝鮮紙幣は持って来たが、ここまでに殆ど食糧に使ってしまった。抜いたばかりの生の大根を丸かじりにしたことも度々だった。釜山まで行けば何とかなるだろう。せめて釜山まではあらゆる方法で食糧を確保せねばならなかった。
でもこんなに引揚が長くなるとは予想だにしなかった一行であった。

釜山に着いたのは10月の終わり頃だった。釜山の駅から続いている波止場に向かった。一行が導かれた釜山港の埠頭の一角に日本人引揚者の収容所があり、厳重な柵を巡らして遮蔽されていた。埠頭の倉庫が引揚船を待つ間の引揚者の宿泊する収容所となっていた。(つづく)
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