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2012年2月 8日 (水)

留学も青春の迂路か

6時に起き出して、広島総合病院行きの準備をする。といっても顔を洗って朝飯を食うだけのことなのだが。
気温は0度、少し寒いがなんと云うこともない。いつもより早く出て早く着く。
待ち時間やや長し。
診断は一番、すぐ終わる。
薬を貰って、家には9時半帰着。

家内がスーパーに行くというので昼前又車で出かける。一日の日課が終わった様なものだ。

昨日の事、家内が千代に電話すると、朝子がロンドンに遊びに行ってるとか話す。先日は一緒にパリに行ったり、よく気楽に遊ばれる事だ。勉強がお留守になるのでは。もっとも一生に一度は見ておくべき所だからこれも勉強の一つではあるか。
留学などというのは並みの神経ではやれないな。

今記載している河北君の手記を本人は”青春の迂路”とテーマ付けているが、迂路と見えても、誰しもまともにすんなりと通り抜ける事が出来ないのが青春である。皆それぞれに命をかけ、一生をかけ、運命に挑まざるを得ない。
留学もその迂路なるものかもしれない。唯私達の場合と時代が違った。
  
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その28)

24、新しい受け入れ先、奥田さん一家

奥田さん一家は、戦前まで洋服屋を経営していた老夫婦と、長女雪子さんと養子さんの若夫婦、夫の帰りを待っていた次女の良子さんと彼女の長男の6人暮らしであった。めったに笑顔を見せない律儀で昔気質の奥田さんと、しっかりものの奥さんのご夫婦は小田原さんとは全く違うタイプのコンビで、身寄りのない私達を喜んで迎えてくれた。特に私はこの小母さんに対して母親らしい愛情を、雪子さんには姉らしい愛情をさえ感じる程に、気を使ってくれるのを肌で感じた。

終戦後、この大通りの洋服店経営を弟子のジメーさんに譲り、一階の店舗を任せ、二回に移って一家6人で過ごしていたのに、私達二人が割り込んだ様な訳であった。
二階は1室ではあったが、洋服の仕立屋だったので割合広く、私達を含めて8人雑居の生活が続いた。
当時経営者のジメーさんは八路軍の軍服仕立てを請け負っていたので、奥田さん一家は軍帽の庇の型、軍服のボタンの穴かがりの下請けをして生活していた。
ある日、小父さんが”どうだい、あんたも苦力の仕事より、ここで手伝いしないか?工賃は安いが数でこなせば日当より良い筈だが”と云われて、その気になり手伝う事にしたのは私だけだった。
松山は相変わらず小田原さんの実家等に出入りしていろんな雑用をしているらしい。
私は地味な仕事の方が好きで仕事の合間に手伝いに励んだ。そんなことから益々老夫婦に可愛がられることとなり、食事も一緒にすることとした。内職の賃金が私の食費となればと思いながら・・・。
小父さんも笑顔を見せて”まあ、内地に帰るまで頑張りなさい”と励ましてくれ、晩酌の酒一杯もつきあい比較的穏やかな日々が続いた。

二月になって、安東に疎開して来ていた新京在住の人達を中心として、列車を仕立てて新京に帰る事が許された。理由は判らないが帰国する日が近づいたとの噂も広がった。
同じ市場で共に立売りしていた隣の彼女等も、安倍川餅売りの有働さんも、そして軍隊以来起居を共にして来た松山も新京に立つ事になった。
夫々の思惑を心に秘めて、夫々の途を求めて別れて行くのだ。松山とは東京での再会を約束して固い握手で別れたが、別に涙も出なかった。
同郷の有働さんとは、お互いに早く帰った方が自宅に連絡しようと約束しながら、何か最後まで隠しているのか郷里の住所は聞かれなかった。
私も誘われたが、新京に知人もなく、又何時帰国出来るのか知れないのに、なるべく内地に近い安東に残りたかった。
安東には小田原さん一家も、奥田さん一家もいて親切にしてくれる。そんな思いを胸に、布団の中でまんじりともせずに考える夜もあった。(つづく)
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