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2012年2月25日 (土)

漢詩が文通の素材だった私の時代

夜来かなり降ったらしく、濃霧は視界を遮り7時半を過ぎても薄明が続き、山と云わず、街と云わず、高いビルまでも諒闇に佇む影としか見えない。
気温も昨日同様6度。生暖かくむづ痒くなりそう。

詞藻豊かだった数年前亡くなった長君が思い出される。この風景を彼だったら如何に詠み起こすだろうかと。
交際は浅く、季節の便り以外はなかったが、いつも彼の手紙には漢詩が詠み込まれていた。学熱心な律儀な男だったなあ。
風貌生前のごとく眼前に浮かぶ。

彼とは陸軍幹部候補生学校時代寝起きを共にした時期特別に親しくなった。姿勢端正、剛直な心情、信頼の置ける友だった。
卒業後同じ原隊に復帰したが、まもなく勤務が互いに変動し、逢うことは無くなった。

戦後復員を知らずに過ごしていたが、戦友述本君の死去に際し、葬儀場でばったり再会することになった。
以後福山に居ることは知りながら文通のみで生涯再会することはなかった。
従ってどのような戦後の過ごし方をしたかはお互いに深くは知らない。
しかし彼の年々送ってくる漢詩がその生活、心情の変わらないことを示していた。


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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その45)

34、祖国への旅立ち

○闇船

10月4日、鴨緑江の波止場近くの建物に集合した当日の乗船予定者は2千人位と囁かれていた。民主連盟員の厳重な検査が開始された。この闇船による有料引揚には八路軍は表面には出ずに、凡ては民主連盟が仕切っているようだった。内地に引き揚げる日本人を同じ日本人が厳重な検査をするなんてと呟く連中も居たが、今は只”忍”の一字、内地に帰るためにはこの方法しかなかった。
布団底から隠した紙幣が出て来て泣き崩れた中年の夫人、髪の毛の中に隠した宝石を見つけられた若い女性、でも今は他人の事を考えている余裕はなかった。途中での食糧にと阪本と私が携行した釜一杯に炊いた飯も、中に金目の品がないかと疑われてしゃもじでかき回されたが、私達は無事に検査を通過した。
出発に当たり20人くらいの班が編成されて、班長が指名され行動を一緒にするように念を押された。

午後3時頃にやっと乗船、しかしこの船は期待していた大きな船では無く、船一杯に乗って百人位を収容するようなジャンクであった。老人、婦人及び子供は船底に、男子は船上で船板の上で雑魚寝する程度のスペースしかなかった。私達は指示に従って20数隻のジャンクに分乗した。

夕方、この引揚船は波止場の舫を解き、一列に並んで鴨緑江の河口に向かって滑り出した。白帆が一杯に風を孕んで帆足が増した。この雄大な船団は実に素晴らしい眺めであったし、私の一生忘れる事の出来ない祖国への船出のシーンであった。

さらば満洲よ!5年間の私の貴重な青春をむさぼりとったこの大陸に、今別れを告げようとしていた。感激と、期待と、そして若干の危惧の念を持って、暗くなった豊かな鴨緑江の水面をいつまでも眺めていた。

そしてこの船団は数日、北朝鮮の海岸伝いに航行し,南朝鮮との境に近い北鮮の小港に着いた。その間は狭い船中での窮屈な起居も思うに任せぬようにぎっしりと積み込まれた感じであった。夜はそのまま雑魚寝するのだから足の踏み場もなかった。雨が少なかったのが幸いしたが、着いた時はくたくたに疲れていた。(つづく)
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