« 漢詩が文通の素材だった私の時代 | トップページ | 終わりよければすべてよし »

2012年2月26日 (日)

二二六事件勃発の日

日本歴史が大転換した日といってよい、二二六事件の発生した日である。あれからもう76年になる。
当時中学1年だったから、しかも暗殺時代と云える程、政財界の暗殺が続いた時代だったから、翌日新聞で知ったのだったが、国の風雲が急であったことは身に滲みていた。地元でも符節を合わすごとく隣村の村長が暗殺された。これは白昼堂々とであった。
未だ明治いや幕末の気風が底流として流れていたのかも知れない。

大正末期の好景気に浮かれまくっていた国民に、政府の取った施策の不手際から昭和初年の大恐慌が発生し、その不満が高じた大鉄槌であった。何となく現代に似通っているように私には見える。
マッカーサーのお陰で骨の無い軍隊だから、二の舞は無いだろうが、一般国民がすんなり治まるのだろうかという気がしないでもない。

大正11年親父は妻と幼児二人を残してメキシコに再渡航した。若い義弟と甥の二人に権益保持を依存することが困難と見たからであった。当時澎湃として排日侮日の波がカリフォルニア州を中心に吹き荒れんとしていた。
親父等の住んでいたのはメキシコ・バハ・カリフォルニア州と米国カリフォルニア州との国境の町メヒカリでゲート一つくぐれば、もうアメリカだった。

皆一世だから開戦と同時に収容され、敵国人として何もかも没収されてしまった。
親父は運良く昭和4年に帰国していたからよかったが、残された義弟と甥の夫々の一家は遠く収容地に切り離され塗炭の苦しみをなめた筈である。
1957年6月の父の甥即ち従兄の手紙が残っているが、親父の居ない後随分困ったらしい。私の出した手紙があちこち回送されて届き,歓喜した様子がうかがえる。

何時の時代でも庶民はその時その時の国の取る施策に押し流されるだけである。
現状如何にも平和な姿をした世の中であるが、果たして天変地異を気にしているだけでいいのだろうか。

   _____________________________

河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その46)

○38度線の峠

その翌日から苦難の旅が続いた。窮屈なジャンクに寝起きの船旅より解放されたが、今度は重たい荷物を持っての山登りのコースとなった。
一応、手に持てるだけの携帯品を許されての引揚であってみれば、それぞれ相当な荷物を持っていた。特に安東在住者で日本に引き揚げる一家にとっては、この荷物は内地に帰ってからの必要な最小限の世帯品でもあったのだった。

朝の7時には船を出て各班ごとに出発した。2千名もの人員が小さい子供から老人まで、夫々重たい携帯荷物を背負ったり手に持ったりして山路を登る事は全く大変なことであった。若いものは別として、老人や病人には無謀な行軍となった。でも此れ等の人達には、同じグループの若者が手を貸している微笑ましい風景も見られた。38度線を超して南鮮に入るまではの合い言葉のように、お互い死力を尽くしてもという気概にあふれていた。

とにかく、海面から数百メートルの38度境界線の峠まで登らねばならなかった。
阪本と私は引揚の検査以来知り合った同じ班の連中と一行の中程を歩いていた。肩に背負ったリュックが食い込んで来る。この荷物はほとんどが世話になった奥田さんから頼まれた衣類等であった。無事に届けねばならないとの使命感があった。
木の枝を組んで担架を作り、病人を運ぶ若人群の健気な行動が光っていた。
同じ班の有住という60年配の小父さんが元気に私達の横を通り抜けた。”小父さん、無理しちゃ駄目ですよ!”阪本が注意すると彼は元気そうに手を振った。“お先に” あと一息という安堵の気持ちが溢れているのが見受けられた。

この付近は未開墾の土地で人家も少ないが、それでも農道らしい山路が上に上へと続いていた。空は曇っていたが、雨が降らないのがめっけものであった。
次第に坂が急になると重い荷物で一行の登る速度も鈍くなって行くのだった。
ジャンクで一緒だった病身の母子や、草臥れ果てたような無口な女達はどうしたろうかと思いながらも、今は只正面の峠を越さねばならなかった。

数時間歩いた頃、前に歩いていた連中が順次に止まって山道の片側に並びだした、
“ソ連兵が来ているぞ”阪本が囁いた。引揚団のリーダーらしい人が駆け下りて来た。
“皆さん、荷物の検査ですよ、携帯品は中身が見えるように出して下さい。最後の検査ですから協力して下さい”
”チェッ!まだ略奪するつもりかい。取られるものはなにもないよ” こんな囁きが聞かれたが、さすがにここ迄来て抵抗するものはいなかった。ソ連兵は2人だった。彼等も大勢の日本人に非難の眼で睨みつけられては二人で略奪も出来ないような気配だった。

”どなたか薬品と毛布を持ってる方はいませんか?連中が欲しがっていますから出して下さい” リーダーがそう云ったが誰も返事をしなかった。一行が荷物を下ろして中を覗けるように広げた前を、ソ連兵は自動小銃を構えながら見て通った。実際薬品類は既に乗船前の検査で日本に持ち帰る事が許されず取り上げられていたから、まだ薬品類を携帯している者は少ない筈であった。彼等は黙って通り過ぎた。

“出発だ!もう少しで峠だぞ。頑張ろう” お互い励まし合いながら再び山路を登り始めるのだった。

もう大分登ったと感じていたが、この付近から道の左右は灌木の繁みで暗くなり、坂道も相当険しくなってきた。

”オーイ、峠だぞ、着いたぞ!” 先行していたグループの歓呼の声が聞こえて来た。元気な若者達は駈けるように登って行った。誰の顔にも生き生きとした表情が溢れて来た。私は一歩一歩、力を込めてこの坂道を堅実に登って行った。無理をしては駄目だというのが私のモットーであったが、ここまで来るともう目標の峠は目の前にあって、私達一行の帰国を妨げるものは何にもない筈であった。

”Tさん、大丈夫ですか?” 私は同じ班の中年の女性に話しかけた。
”私は小柄だから山路には強いのよ。でもこの荷物は捨ててしまいたい気持ち!” 彼女は笑って答えたが、お互い笑顔が出ただけでも嬉しかった。

灌木が切り拓かれた峠の頂上は比較的に明るく、内地に見かける峠と全く変らなかった。道の横に”38度線”と記した碑が突っ立っていた。

”やっと、南鮮に入ったんだなあ!” 阪本が眸を輝かせて呟いた。みんな感慨無量の境地であった。国境を越すんだとの喜びが湧いて来た。ここにはソ連軍も米軍も対立する南北朝鮮の兵士もいなく、無人の峠であった。全く戦争なんか忘れさせる平和な山中の一峠に過ぎなかった。

下り坂は浮き立つ様な軽い気分で、重い背の荷物も重さを感じないようにすっすっと足が動いた。見渡す南鮮の田園風景も亦、峠の向こう側と違って明るく和やかそうに映った。

山路を下りた麓の部落で私達は決められた村の集合場らしいところで一夜を明かす事になった。この部落には少数の米軍が駐留しているとのことだった。一行に取っては米軍管下の南鮮の地は花園にも見えていたし、これから至る所で逢う筈の米兵が騎士のようにも思えるのだった。
しかしこんな期待感も、現実にはそんな甘いものでは無かったことは徐々に知らされて来た。
米軍にしてもこの峠を挟んでソ連軍なり北鮮と対立している第一線であり、引き揚げて来た日本人に親しく対処も出来ない筈であった。

折り重なるように雑魚寝すると、一日の疲れと安堵からみんなぐっすりと寝込んだ。10月も中旬に入ってから夜は冷えて来た。
(つづく)
   __________________________

|

« 漢詩が文通の素材だった私の時代 | トップページ | 終わりよければすべてよし »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/54079140

この記事へのトラックバック一覧です: 二二六事件勃発の日:

« 漢詩が文通の素材だった私の時代 | トップページ | 終わりよければすべてよし »