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2012年2月23日 (木)

戦争中の日本人若者の殉国心

夜半の雨で昨日同様、もやにけぶった夜明け、もちろん島影はまるでない。
気温6度。もう春だ。

それにしてもこの世に存在しているだけで十数年も経ってしまった。あくせくと何かを目指して一生懸命働いてた頃が、やはりふと思い出される。楽しかったとは云わないまでも、死を希求することはなかった。
いま7時半である。忙しさも何もない今頃の朝、未だ明けやらぬ中をもう店に出て立ち働いていた筈であるのに。

iTunesで拾った音楽を再生して聞きながら、往古をしのぶ。僅かに生きてるよすがか、気づくと身震いが出そうである。

今ブログで連載している河北君の手記、読めば読む程彼の愛国心というか殉国心の強さがよく分かる。恐らく現代の若者には無い心根だろう。捕虜などになってたまるかというのは単なる反骨心では無い。
私があのまま東満国境に居て、終戦シベリア送りになったとしても、甘んじて部隊とともに行動したであろう。それが忠誠と理解した筈だ。後年の彼との付き合いの中で、次第に解きほぐされたのだが、もうこの世を去ってから二十年問いただすよすがはない。

最近ちょいちょい青空文庫から古事記を拾って読んでいる。まったく滑稽としかいいようのない日本の開闢物語だが、その物語の一つ一つに何か言い様のない”まこと”が含まれている気がする。古来日本人はこの存念の下に生死を続けて来たのではないか。
私の理解を遥かに越えた遠い世界ではあるが。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その43)

32、安東市に帰還

それから数日、草野球の興奮も醒めぬまま9月に入って思いがけない事が起こった。そしてその時は、日本人の内地送還、勿論中共地区でなく、コロ島から9月初旬より開始されるだろうという噂が流れていた。

焦燥と現在の境遇の諦め切った私達に、突然八路軍なり病院側より配置再編成のため先日野球の行われたS村に全員集合を命ぜられた。もはやT村に帰る事はないとの連絡もあって、なけなしの身の回り品を抱え10kmの道をS村に集合した。
2ヶ月の思い出を胸に又次の職場を求めて更に奥地に向かうかも知れない気持ちは、引揚の噂もあってますます気が滅入る行軍であった。山間のT村を囲む周囲の環境に恵まれ、静かな小川のせせらぎに馴染んで来た平和な暮らしに別れることも、次の勤務地に対する不安とともに心細くなりがちであった。

S村の病院勤務日本人と私達T村勤務者を集合させた指導部では、男子は別として女子のみ3班に区分編成して、新しく出来た奥地の病院と、従来のT村とS村の病院に勤務させる事に決めた。そして男子は希望者を除き安東市に帰るよう指示された。
こうなった理由はしかとは判らないが、現在では入院者も少ないし男子の仕事といっても少ないのと、男子のほとんどが旧日本軍出身が多いのを心配しての配慮だと大方の噂であった。私達T村よりの男子16名中4人の妻帯者と、愛する女性のために留まる事を希望した3人と、八路軍参加を表明したAを残して8名は翌朝の舟で帰る事が決定した。

突然の状況の変化で、この2ヶ月間、安東市の病院以来の連中とは4ヶ月間も同じ徴用で一緒に働いてきた残留の男達、女子群との間の思いがけない別離は、言いようのない情けなさ、申し訳なさ、侘しさでいっぱいだった。男として同僚の女性を見捨てる様なものであった。
一方安東市に帰れるという事は、引き揚げに一歩近づくことでもあった。ここで女性側から彼女等の為に残ってくれとの申し出があったら、希望して残った3名の外にも行動を共にした男達が居たと思った。
反対に男達の中で、”俺は絶対に帰る。こんなチャンスを逃す事は出来ない。みんな冷静になって、一人でも多く内地の土を踏もうではないか”と、云うものも居た。島田だった。彼は又私にも強く帰還を勧めた。
”Kさん、君が頼まれている光子君の事を心配しているのは判るが、このまま残ってもどうなる訳でもないんだよ” 理屈はその通りだった。同情と愛情を同じように考えることの危険さを彼は力説した。でも割り切れない気持ちだった事は事実であった。

私は光子を探してトウモロコシの畑の中で暫く話した。すがりつくような態度を期待していた私は、下を向いては居たがしっかりした口調で私の迷っている気持ちをほぐすように、”Kさん、いろいろと有り難うございました。安東市に帰って、そして内地に早く帰って下さい。私も友達みんなと一緒に、これから強く生きて行きます。母にあったらそう云って下さい” と私を励ましてくれた。実際この時は、本心は判らないが、彼女は当分帰れないとの状況を認識し、残る女性として冷静に帰れる男性を励ましてもいるようにも考えられた。
その日にT村に帰る一行を見送り、内地での再会を約して手を振った。

翌朝私達男子8名はS村の船着場より、八路軍の兵士と共に小舟に乗った。もはや来る事もないだろう。みんな元気に勤めて一日も早く内地に帰ってきてくれと心に祈って、送りに来てくれた数名の女子群に別離の手を振った。舟が水面をかき分けて進み出した時、堪えていた涙が止めどもなく溢れて来た。

帰りは鴨緑江を下るのだから早かった。3日目には安東市の江岸に着いて解散した。これで徴用は解除されたこととなった。
(つづく)
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