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2012年2月 7日 (火)

敗者の記録

雨に濡れた跡の残る朝、まだ何とも云えない。気温は6度と生暖かい。

私は今友人の書き残した遺文を毎日飽きもせずブログに載せている。6、70年も前の実録である。
これを読んでくれる人はほとんど生まれていない関心も持ち様のない話かも知れない。
しかし確かに体験した沢山の日本人の仲間が居た事は間違いない。
私は皆の関心の有無を無視して記録として残すべく亡き友の意図のままに掲載をつづける。歴史の彼方に埋没させてはならないと思っているからである。
90年も生きさせてもらった男の義務とすら感じている。

古今東西勝者の歴史は永遠に残る。敗者の歴史は負け去り、廃棄され、埋没してゆくのが自然の論理である。
しかし原爆投下、北方4島の略奪、など形あるものは勝者の理屈だけで存続せらるべきではないし、不可能であろう。
形なきものは、なにものか心を吐露して言い伝え書き残すしか手だてはない。ほんささやかな抵抗とも云える。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その27)

23、5番通り事件と流刑

5番通りとは、私達がお世話になっている小田原さん一家、隣家の森田さん、新春を楽しく過ごした町内の一区画を含む1丁目から9丁目の街通りである。

1月16日の夕方、7時頃だったか、夕食を終えたばかりの私達の耳に急に騒がしい物音が聞こえた。同時に玄関が壊されて、武装した八路軍の兵士が数人なだれ込んで来た。何か判らないで唖然としていた私達に、その中の一人の兵士は銃剣を構えて日本語で言った。
”貴方たちは15分間でこの家を出なさい。持てるだけの荷物は持ってよろしい”
理由も言わずに兵士等は玄関、窓口、家の中と要所に突っ立って立ち退きを要求した。
こういう事態は考えられない事もない敗戦下の国民であってみれば、致し方ない境遇にあった。

私達は別に荷物とてないが、小田原さん夫妻はどんな気持ちだろうと思ってみた。でも時間がない。私達は小田原さん夫妻に協力して、風呂敷や毛布を広げて必要な家財を詰め込んだ。
とにかく手に持てるだけの荷物は何でも持っていいらしい。そのための15分の猶予時間であろう。
慌てているので何を入れたか判らないが、私達3人で持てるだけの家財を入れた風呂敷を持って外に出た。
外は粉雪が舞って、冷たい外気が私達の心まで暗くした。

銃剣を構えた八路軍の兵士は街に溢れて、日本人は1人も逃さじの意気が感じられた。直ちに私達は近くの公民館に誘導された。既に数百人の5番通り居住の人達でホールはいっぱいになっていた。
そして公民館の周囲は八路軍が取り巻き、いつでも発砲、襲撃できる様相を示していた。

恐怖に満ちた市民の顔、泣き叫ぶ子供の声、この中に発砲でもされるならと思いながらも、ホールの一隅に小田原さん一家と腰を降ろして何らかの指示をまつ以外になかった。まもなくこの理由も、あちこちの囁きにより大方判って来た。

ここ数日来八路軍兵士の暗殺が行われ、旧日本軍兵士らしい犯人に数人が殺され、その場所がいづれも5番通りで行われた事、八路軍はこの犯人を捕らえるために潜んでいると見られる5番通りの居住者全員を調べる目的と、見せしめの為の報復的行為に出たものらしい。関知しない私達には全く馬鹿げたことだが、敗戦国の日本人を対象にしていれば文句のつけ様がなかった。

今更、テロを行う旧日本軍人も亦、自分の鬱憤を晴らすために、郷愁に喘ぐ同胞を巻き込む事までは考えていなかったことだろう。
私服の八路軍兵士が群衆の中を割って入り顔実験を始めた。犯人に似ていると引き立てられたら一巻の終わりだと思いながらも、成り行きを見守るだけだった。

八路軍の幹部らしい男が壇に上がって演説を始めた。恐怖の市民は、この日本語の演説に耳を傾けた。
結局理由は私が聞いた囁きの通りであったが、私の印象を受けた言葉は次の通りであった。
”皆さん、こんな事件の場合、旧日本軍はこれまで大陸の街や村を焼き払い、全員銃殺するのが多かった。今、私達は貴方達にかっての日本軍のやり方が出来る立場にある。しかし、八路軍はそんなことはしない。犯人を知っているものは直ちに申し出てくれ。そうすれば一般の人に迷惑はかけない。” といった内容であった。

真冬の火気のない大ホールは、大勢の体温で暖かみを感じたとはいえ、寒々とした夜気に覆われ、窓越しに降り積もった雪の中で光る兵士の銃剣が不気味にみんなの心を暗くしていた。
夜明けまでに何人かの青年が引っ張り出されて、結局犯人が分かったのであろうが、朝方になって警戒が和らいだように感じた。松山が聞き出したところでは、犯人は私達が仕事をして来た市場で店を構えている旧軍人達のグループであった。

悪夢の様な一夜は明けた。いずれにせよ翌朝、従来からの5番街通り居住者は許されてこの建物を出る事が出来た。
しかし5番通りの自宅は押収されて帰れず、知人、親戚を求めて散って行った。
小田原さん一家を始め、町内の人々と再会を約して別れ、終戦後疎開して来たもの(主として奥地から逃れて来た人達、開拓団の農民達、軍隊下番たち、150人くらいが残された。もう諦め切った表情でホールの片隅に集まって、八路軍の指示を待っていた。

昼少し前だったか、突然このホールの天井が轟音とともに堕ちて来た。たまたま建物の寿命が来て堕ちる運命にあったのか知らないが、大多数の人が立ち退いた後であり、残った私達は片隅によっていた為人の被害はなかったが、数時間前であれば大惨事となるところであった。
救われた気持ちになってほっとした。

午後になって私達の刑罰的なものが決まった。街から10キロ離れた競馬場に流刑という事であった。これも、こんな事件を起こす恐れのある疎開者、若者達への警告的なものであろう。
それでも八路軍に連行され、行軍する姿は惨めであった。命を取られる事はなくなったものの、さらし者となった一同はふていくされて雪解けの道を歩いた。
競馬場でも亦、偶然が続いた。
形だけ残っているような無人の競馬場に到着したのは夕方近かった。数人づつ馬の居ない厩舎の石ばりの床に寝るより外になかった。八路軍の兵士も、私達が落ち着くのを見極めて帰って行った。
一応ここで無罪放免らしい。石の上は冷たく、拾って来たアンペラを敷き、これからどうしようと3人思い迷っていた時であった。
”貴方達は小田原さん方に下宿して方ですね” と突然呼ばれて振り向くと、時折小田原さん方に来ていた後輩の山崎さんであった。
そういえば、小田原さんが競馬場の管理人をやっているといって紹介されたことがあった。
人生なんて面白いものだ!こんなところで知人に遭うなんて全くドラマチックにできているものだ。

私達3人はその場から山崎さんの管理人宿舎に案内されて、白い飯と暖かい布団にありついた。他の連中が羨んでいたが、この宿舎も狭くて私達3人は山崎さん夫婦と一間に5人並んで寝る事になった。山崎さんの親切が身にしみて、それだけでも幸せになってぐっすり眠れた。
ここに2泊お世話になって、胸が悪いらしくよく咳をする山崎さんと奥さんに、心よりお礼を言って競馬場を出る事にした。

安東市に帰ると日本人会の世話係の方の紹介で、次の宿泊場所決まった。5番通りは八路軍に接収されて、小田原さん始め知人や親戚の家に寄宿されていた。私と松山は板橋さんと別れて奥田さん一家にお世話になることになった。(つづく)
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