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2012年2月24日 (金)

生きる苦痛

今朝は気温3度とやや生暖かいが、よく晴れているのでいい天気で推移しそうだ。
今朝は早く目覚めたので、5時半からパソコンを弄くり回す。テレビのHDMIを#3から#2に取り替え配線してみる。こちらの方が接続具合がよさそうだ。

年を取ると尻の皮まで薄くなると見えて、長く座っていることが堪えられなくなる。
家の中ばかりで殆ど毎日くらしているので、私の場合は腰掛けるか、寝るかである。畳の上にどかりと座ることは先ず無い。
膝や足が痛いし、姿勢も楽ではないからである。
それなのに尻が痛くて腰掛けが難しくなるともう寝るだけである。自分でも困ったなあと思い悩んでいる。
寝るというのも終日寝るのはやはり苦痛である。
所詮生きるということ自体が苦痛だということに結論が行くようだ。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その44)

33、引揚準備

帰って来た安東市の街はざわめいていた。噂通り引揚が開始され様としていた。正式の引揚はコロ島より行われるのだったが、汽車でコロ島まで到着するのが大変だと推定された。途中で中共軍と国民軍とが戦闘中の前線を歩いて突破せねばならないとの事で躊躇した日本人も多かった。この前線は一応、両軍の協定で引揚の場合の中間地帯がつくられていると聞いては居たが、若者は前線で両軍に引っ張られて、使役に徴用されるとのデマが飛んでいた。これに眼を付けたのか、八路軍公認の舟による引揚が計画されていた。所謂”闇船”による帰国であった。

第1回の闇船の乗船料は1万円で9月の下旬に入って出発した。しかし当時の一万円は安東市在住の日本人ならともかく疎開者、軍隊除隊の日本人に都合のつく金では無かった。コロ島まで行って正式の引揚(無料)に参加するか、金を払って引揚船に乗るかの2つの引揚コースが示された訳であった。

内地引揚の具体化と同時に紙幣の交換が盛んになってきた。当時安東市では日本紙幣、朝鮮紙幣、満洲紙幣及び八路票(軍票)が通用していたが、昨年末より八路軍の進出で八路票が表面的には行き渡って使用されていた。引揚始まるの声で一躍日本紙幣が上昇しはじめた。

私が帰った奥田一家は、私を息子が戻ったように暖かく迎えてくれた。いよいよ私も、帰国の工面を考えねばならぬ事となってきた。

一方、八路軍の徴用は引揚に関係なく行われて居り、食えなくなったもの、コロ島への到着を疑うもの、闇舟の乗船料の高いのに驚いたものなど、徴用に応じるものも多いとか。そして徴用を解除されて帰って来たものに再度の徴用がくる例もあった。
全くてんやわんやの9月であった。でも引揚のチャンスはここ暫くであることに間違いなかった。

ある日、奥田さんの小母さんが私に言った。”Kさん、私達は相談して闇船で帰る事に決めたわ。そこで貴方のことだけど、お母さんも待ってるでしょう。船賃は私方で貸しますから一緒に帰る事にしなさい。”
全く嬉しかった。老夫婦を拝みたい気持ちだった。勿論、この金は内地に返ったらすぐに返済する事を心に誓った。
船賃を少なくする為に引揚事務局に徴用の状況を説明して、第3回引揚の船賃8千円を5千円に割引してもらう事に成功した。4ヶ月以上の八路軍への協力に対する報酬として減額してくれたものであった。

第3回の引揚船は10月4日の出発と連絡があった。奥田さん一家は私達の2日後の出発となって、別のグループに属することに決定した。

私が病院勤務を解除されて奥田さん一家に帰った時、この家に出入りしていた阪本と私とが同じグループの出発と決まった。私と阪本は出発を前にして、奥田さん一家と打ち合わせ、内地に帰ってからの通信連絡についてこまごまと協議した。

引揚の指示として、携帯する荷物は手に持てるだけ、そして現金は紙幣の種類を問わず3千円だけで、以上の現金または貴金属類等が発見されれば乗船は許可しないという厳重な通告があった。無一物に近い私達にとっては何の抵抗もなかったが、安東在住の人達はこれまで外地で貯蓄した財産を如何に合理的に持ち帰るかは重大な関心事であった。

この人達が内地に帰っても、無一文同様の生活を送らねばならぬ事を考えると当然の事であろう。

私は奥田さんの小父さんの背広、合オーバーを着用し、依頼された衣類など両手で持てるだけの品物、若干の金目なものを携帯することにしていた。もちろん此れ等の洋服外は内地に帰ったら連絡先に送る約束であった。といっても、荷物類は、乗船中はいいとして、長距離の徒歩行軍もあろうし、危険な場合も想定すれば、背に負うて更に両手に抱えるのに限度があった。
安東在住の人達は携帯の荷物に頭をひねった筈であった。しかしこのために、多くの持たなかった人々が引揚船で帰る恩恵を受けた事は間違いない事実であった。

小田原夫妻、森田夫妻も前後して引揚船で帰ることが決定した。内地での再会を約して帰るまでは自重自愛、まず祖国にたどり着く気持ちをお互いに確認した。(つづく)
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