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2012年2月22日 (水)

中国の商標権

夜中に雨が降ったらしく、庭先はしとどに濡れている。気温は5度。

今朝の新聞で目立つのは、”iPhone”の商標権で中国でアップルが訴えられているということである。先に”iPad”でも商標権侵害で訴えられアップルは敗訴している。ということは、iPadはすでに中国には古くからあったということである。権利侵害で何億も損害賠償を迫られることだろう。使えなくなるということはどちらの損か私にはよく分からないが、売れないというだけなら、中国一国なにするものぞとのアップルの今の勢いだが、成長過程にある12億の人民を抱える中国の商圏は小さくはない。
iPhoneにしろ、iPadにしろAndroid系の企業が後がまを狙っている。当然面白くはなりそうである。

なにしろ、日本人もそうだが、中国人はそれに輪をかけて真似や盗作が上手である。
下手すると本物以上に造り出す。先進企業が安閑して居られる商圏では無い。
私もアップルのiもの全部使わしてもらっているが、便利この上もない。この先更に上を行く安くて便利なものは当然中国辺りから出現するのではないだろうか。アメリカさんに一泡吹かせてもらえるかもしれない。
商標権とはうまいこと考えついたものだな。特許権王国アメリカの逆手を取った感じである。

悪知恵に懸けては、何と言っても歴史が違うのだから。


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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その42)

○敗戦記念日

8月15日がやって来た。敗戦1周年目であった。何もなく今日が過ぎればと思っていたのは、私ばかりではなかった筈だ。

夜になって私達日本人は早く寝るようにと指導された。八路軍の戦勝記念の祝宴が行われていた病院の方向から、大声で叫ぶ騒音が夜遅くまで続いた。一室に雑魚寝していた男達の顔に一年前の思い出が甦って来た。

大した戦争もせぬうちに詔勅による終戦、武装解除した時の口惜しい気持ちが今込み上げてくるようであった。私は部屋中に殺気が漂ってきたような雰囲気を感じた。そして暫くして、諦め切ったのか静かに殺気が散って行くのを肌に覚えてほっとした。みんな雑念を振りほどき寝ようと努力していた。
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○野球の試合

8月の下旬、私達の居るT村から10km位離れたS村にも後方病院があって、私達と同じ境遇にある徴用の日本人群が勤務していたが、両地域の日本人間で野球試合の話が持ち上がった。当時の八路軍に野球の判る筈もないのだが、徴用日本人の息抜きなり、気分の転換を狙ったのかすんなりと許可された。思いがけない野球の試合を前に久しぶりに勝とうという気力の充実が男子の間に漲った。

16名の男子のうち、野球プレイ経験(といっても素人の草野球)ある9名で直ちにチームが編成された。突然の事ではあるし、こんな状況下で野球をやる事自体全くおかしな話であったが、みんな素直にこの提案を受け入れた。即席の道具作りが始まった。ボールとミットとバットはお手製で作られた。木の枝の節を取った荒削りのバット、防寒手袋のような布製の不格好なグローブとミット、そして中に何を入れたか私も知らないが糸でギリギリに巻き付け布を被せたようなボール、私達は野外での練習も久しぶりに楽しくスポーツの醍醐味を味わった。女子群の応援が私達を一層力づけた。

私のファーストも何年振りかではあったが、昔の運動神経が甦ってくるようだった。しかし布製のミットで受けた掌はすぐに真っ赤になった。中学時代に甲子園の土を踏んだという深井が、日頃のおとなしさをかなぐり捨てるようにメンバーを扱いた。

かくて8月の末に、私達チームと20数名の応援女子団は、病院勤務で残っている男女全員の歓呼に送られて10kmの行軍もいとわずにS村に乗り込んだ。
T村にやってきてやがて2ヶ月、初めて村を出る開放感もあって足取りは軽かった。S村はT村より大きく、ここの病院には日本人の徴用が男女2百人位いるとのことで、このうちの男子50名くらいよりの選抜メンバーと聞いて更に奮い立った。

午前11時に始まったこの野球試合は双方女子応援団の黄色い声援も受けて、真夏の炎天下に日頃の鬱憤を吹き飛ばすような熱気の中で開始された。八路軍の兵士、傷病兵も物珍しく熱気溢れる試合を観戦していた。

“カーン” と素直に飛ぶボールは、私達の夢を載せて大空の彼方に羽ばたいて行った。試合は一進一退だったが、結局守備とチームワークに勝った私達のT村チームが勝った。主将の深井が”僕は甲子園以来、こんな感動した試合は初めてだった。みんな頑張ったなあ!”といって眼を潤ませていたし、捕手の山村も、投手の鹿島も”やったぞー”と云う顔でお互いに勝利を噛み締めていた。
もっとも喜んだのは応援の女子群であり、勝利の興奮はT村に帰るまで醒めなかった。

8月が終わって9月にかかると、大陸の山中は秋の訪れを肌に感じるようになって来た。徴用の報酬の代わりといって木綿の布地が各一枚配布された。女子群はブラウスともんぺーを作っているようだった。
男子達は女子群に頼んでシャツとズボンを作ってもらった。

私も小川のほとりであった時光子に頼んだら、気楽に請け負って私の部屋に布地を取りに来た。他の男達に冷やかされたが、こんなことでも私は嬉しかった。当時私は26歳、光子は20歳、彼女の母親から頼まれたのに未だ話し合ったのがほんの数回で、そっと遠くから見守っていただけだった。2、3日で布地はシャツとズボンに変った。(つづく)
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