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2012年2月 1日 (水)

旧友河北省一君を偲ぶ

明け方までにかなり降ってたらしい。庭先はぐっしょり濡れそぼっている。
気温3度とやや暖かい。暦の上では晩冬だが、東北の方は大量の積雪に悩んでいるらしい。
こちらは雪らしい雪はまだ降っていないが、天候は毎年同じ調子とは限らないが、事実上の春はまだ一月以上も先の事である。

家内は検査があるとかで、食事をしないでせいこう胃腸外科に出かける。

いつも思っているのだが、寿命というものは不思議だということである。この歳になると明日をも知れぬ自分の寿命を忘れて暮らす事はもう考えられない。
あれだけ好きだった旅行もとんと出かける気にならない。何時どこで転ぶか知れないし、病気で倒れるかもしれないからと遠慮する。
ツァーなんかも案内広告は各社からどっさり頂くが皆見る事もなくゴミ箱行きである。
付いて歩けないだろうと心配が先に立つ。

自信を失うということはやはり大変な事らしい。

今ブログに連載している河北君の戦後逃走帰国した経緯など、よほどの決断力がないと実行出来なかったと思うが、若かったしその気力体力がその危険予測に打ち勝ったのだろう。しかし彼とても運が悪ければひとたまりもなかったかも知れない。
運が悪ければ、私の妹みたいに瞬時の交通事故で元気な命を失ってしまうこともあるのだ。
その彼も平成4年丁度20年前亡くなった。遠方の事だから原因は知らない。

彼の手記を再録しながら読み返しているのだが、小説を読むよりもスリルに富んで面白い。
誠実という言葉を絵に書いたような男だったが、結局彼に接する人たちがその誠実さに惹かれて協力を惜しまなかったのだろう。
苦境を乗り越えて帰国を果たした経緯が当然と受けとめられる程だし、この時は運命も助けた。

私の同期には何人も公認会計士がいるが、彼は確か第1期の筈である。
私が資本金一億の会社を設立したとき、わざわざ熊本から来ていただいて相談に乗っていただきアドバイスを受けた。
もちろん軌道に乗れば当然公認会計士の決算承認が必要だったかも知れない。

その縁もあって、戦後はわりと仲良く付き合った。唯遠距離だったから、日常常にという訳にはいかなかった。
しかし何を頼んでも誠実無比で信頼を損ねることなど全く無い男であった。
ブログに転載している彼の手記など、私に対する親愛の情から披露してくれたのだろうが、個人的なことまで打ち明けてくれるなど、当時は思っても見なかったことだった。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その21)

19、市場の風情

○市場に咲く一輪の花
市場内の私の売り場の横に女性2人で広げた同じ様な売場があった。
同じ境遇からの気安さで親しくなった。彼女等は2人づつ組んで市場の中に3カ所に屋台の売場を持っていた。聞いたところでは新京より疎開してきた旧満州国某官庁の職員の一行であり、地味な格好していても、OLらしい風情が現れていた。
一人は20歳位の平凡なOLだったが、私はもう一人の24~25くらいに見える女性に惹かれた。慎ましい態度と彫りの深い顔立ちもさることながら、憂いを含んだ眸と、長い睫毛がいかにも哀れだったからだ。父親と同伴して内地に帰る途中安東でストップを食った集団で、食うため手分けして行商をしているということだった。
数年前に新京に来たとの事で東京の杉並に自宅があるとの話題も、当時東京に居た私と共通の懐かしさを含めて親しくなっていった。
その後彼女が既に婚約していること、戦争がなければ内地で式も済んでいた筈だとか、若い女の子から聞く事が出来た。
彼女等は殆どスカーフのようなもので、頭の髪を蔽い黒髪を曝さないようにしていた。それはソ連兵に扇情的な気持ちを起こさせないためのもので、新京でも、奉天でもよく見た風情であったが、彼女の場合には反って痛々しく見えるのも不思議なものであった。
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○ソ連軍の老将校と彼女
この市場の中もソ連軍兵士が時折通り抜ける。物珍らしげに並んだ商品を見歩いて、にこやかに立ち去る。昼間は市場内で暴力を振るうことはほとんどなかった。
若い兵士と別に、一人で毎日午後にこの市場を見回る老将校がいた。服装からゲーペーウーと囁かれていたこの年配の将校は、私の隣の彼女等の売場の前でよく立ち止まって、特に年配の彼女を優しい目で見つめるのであった。
そんな時に彼女は黙って俯き、いつまでもじっとしていた。老将校は彼女等の売場の商品を手に取った事もあったし、話しかけたこともあった。勿論言葉は通じないので返事も出来なかろうが、そんな時の老将校の穏やかなまなざしは、おそらく故郷に残した娘の事を思い出しているようであり、いつも私は横から微笑して眺めるのであった。つい2ヶ月前に戦争があったとは思えない風情で、何かしら平和なほのぼのしたものを感じた。(つづく)
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2012年2月 2日 (木)

寝転んでiPadを読む方法

東北地方は大雪で大変らしいが、こちらは時々ちらちらするだけで、依然として白皚々の風景にはほど遠い。
今朝はそれでもマイナス2度、寒さは本格的である。

昨年水道凍結に懲りたから、夏に早々と駐車場への水道管は止めてあるので今年は心配ない。
車の洗浄はもうしないことにした。時々家内がするようだが、必要があれば業者にやらす方が徹底していい。
90歳を過ぎてやる仕事では無い。うっかりすると怪我をしかねない。

いつも送って来るパソコン雑誌にiPadを寝て読むのに都合の良いベッド取付けアームが紹介されていた。
昨日デオデオで探したが見つからないので聞いたところ、取引がないのでいれていないとのこと。
大した値段のものでもないのでメーカーに直注する事にする。5分もしないうちに受注の返事が来る。早いなあ!却ってメールの着信音に何事かいなとびっくりする。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その22)

○売場の周囲
一人になった私が、昼食のため前の食堂に行くときは、彼女等が豆腐や餅を売ってくれるので安心して休めた。
この食堂の小母さんは相当古くからの経営らしく、知り合いの人が出入りして昼食時のひとときには話が弾んだ。時折もと安東の検番の売れっ妓だったH子も顔を出して俠な言葉で喋って行くのだった。

話によれば、安東駐在ソ連軍高官の彼女となっているとの噂で、安東市でソ連軍の穏やかな行動を願って因果を含められたとの真しやかな話も聞いていた。ある時、彼女のこういった言葉が忘れられずに耳に残った。
”小母さん、日本人だろうと、ソ連軍人だろうと同じよ。慣れてしまえば変わりないわ”
至極無邪気な放言だったが、何かしら心にしみる様な言葉だった。

この食堂の隣の店先の一部で、安倍川餅販売の2人の兵隊下番らしい30前後の男たちと知り合いになった。それは言葉訛が故郷の熊本の方言だったから話しかけたのであるが、間違いなく同郷人であり親しみと懐かしさでいっぱいだった。ごつい指先で餅を焼いている様子は真剣そのものだった。
こんな周囲の環境に囲まれて、敗戦国民としての心淋しさを紛らわしながら、10月も終わろうとしていた。(つづく)
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2012年2月 3日 (金)

ベッド下の掃除

同じ市内でも山間部はマイナス10.2度という。うちの寒暖計もマイナス4度をさしている。
さすがに今朝は寒い。しかし雪はちょろちょろと地面を汚しているだけ。屋根にはさすがに1、2センチ積もってはいるが。
奥の県境付近では1.5mも積もったとテレビは報じている。随分違うなあ。

8時半陽光燦々として眩しい。昼中はどうやら暖かくなるらしい。

天気が良いので、我が部屋の掃除をする。ベッド下に突っ込んでいる鞄に入れた古い雑誌が読みたくなったから、それを出すついでにという事である。
身体が思うように曲がらないし、しゃがまれないし、正に悪戦苦闘といったていたらく。やっと朝9時から初めて午後2時に終わる。
家内は何度も顔を出して何をしてるのかと、聞く。時ならぬ時だから不思議ならしい。
私のは思いついたらすぐが原則だから、いつでもこれである。

ベッド下の掃除だから先に布団類をベランダに出して、干しながらやれば、未だ簡単に徹底してやれたのだが、後の祭りで気の付くのが遅過ぎた。

朝すこし雪がちらついたが、お義理にと言った感じで、九州、四国の方まで降らして、宮島付近だけ残すというのも気が引けたか、しかし間もなくそれも止んでいい天気である。気温はしかし上がらない。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その23)

○一万円紙幣の夢
こんな状況で、売り食いの生活が出来る日本人はいいとして、着の身着のまま逃れて来た疎開者には、私達みたいな行商か、苦力という肉体労働の仕事以外には表立って仕事はなかった。膨れ上がった人口の反面、生産性のない終戦後の街では物価はどんどん上昇していった。
小田原さんの奥さんのお供で買い物に出た時、お汁粉でも食べようかと誘われてご馳走になる事があったが、最初10円位の汁粉は冬近く30円にもなっていた。

ある日、屋台に立っていた私のところに、古道具類の行商をしていた松山が飛んで来た。
”Kさん、今日は商売止めてすぐ帰ろう” 血相変えていた彼の手に見た事のない大きな紙幣が握られていた。中国の北支方面で出回っていた儲備券と聞いたが、10円紙幣以上お目にかかってない私も、1万円という金額に圧倒されてしまった。彼は早口に喋った。
”今ロスケ(ソ連兵)に花瓶を売ったらこれを置いて行ったよ。取り戻しに来ないうちに帰ろうよ”
数人の付近の屋台行商の連中が集まってきた。残っている商品をそのままにも出来ず、松山だけ道具類をまとめて早々に帰って行った。
一万円札といえば胸が鳴った。しかしながら、1時間後私が帰った時、この1万円紙幣は相場で、今使っている日本紙幣60円位の値段と評価されたといって、不貞腐れていた松山を見て唖然とした。
支那大陸らしいエピソードであった。(つづく)
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2012年2月 4日 (土)

円高は生活を苦しめるのか?

昨日iPad用のフレキシブルアームが届いたので、早速組み立てて使ってみた。
結構使える。私は近眼だから目の上1尺ぐらいで字の大きさもちょうど良い。
既に百以上ファイルを読み込んでいるし、例の無料の青空文庫には無限といっていい程書籍がある。
iPadはバックライトが付いているから、部屋を真っ暗にしても全く問題ない。
速断即決で買ったのだが時にはいいこともある。

今朝は0度と立春の日にふさわしい気温である。白雲が少し多いようだがまずまずの天気らしい。

連日ここのところ食が進まない。別に悪いところはないから、意欲の問題かも知れない。
寒いから動かないせいも多いにあるだろう。

今朝の新聞を見ると、電機業界が軒並み大赤字を出しているようである。円高のせいというのだが、これが私にはよく分からない。
商品が高くなって売れないということだけはよく分かるのだが、基本は円建ての筈だから、強い円に守られているという有利さはないのか。
そもそも金利ゼロの円が何故高いのか、こんなに不景気な国の円が何故高いのか。私にはわからない。
私の若い時、1ドル380円が永い間固定されて続いた。中国が今やってるごとく暫く1ドル百円位で固定させたらどうか。
相場師に色目を使う事なしに。それは出来ないというだろうが、どうして?

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その24)

20、苦力の仕事

11月に入ってから八路軍(中共軍)が安東に進駐してソ連軍と代わり治安の守りにつき、ソ連軍は諸物資を持って引き揚げて行った。この頃から行商はやりにくくなってきた。

かっての高級役人、憲兵、警察で現地人に反感を持たれていた連中が検挙されて、民衆裁判にかけられる血の粛清が始まった。胡散臭い軍隊下番の身にも、一応身辺の用心だけはとの囁きも交わされた居た。
こんな時期に、相変わらず派手に古道具類の行商をやっていた松山と仕事の面で別れて、私は思い切って成績の下がりつつある行商を止め、労働に精出す事にした。
所謂苦力(クーリー)と中国で呼ばれていた労働者の力仕事であった。

朝8時半に一定場所に集合すれば、雨で働けない状況以外に仕事はいくらでもあった。
石炭、材木等の運搬、整理が主な仕事であり、仕事は割当制となって10人ー20人の組に分かれて、請け負った仕事が完了すれば一日の仕事は終わり、日給10円が貰えた。
面白いのは、日本人の組は一挙に3時間位で割当の仕事を終わり、昼過ぎには日給を貰って帰るのに反し、満人は夕方までゆっくり仕事を消化した。

どちらのやり方が良いのだろうかと考えながら、つい気が急いて早く片付ける方に廻り、草臥れて帰って行くのだった。
国民性の違い、現在の境遇から、一つの仕事でもやり方が別れる事が気になって来た。
一気に立ち働く日本人を、にやにや笑いながら見ている彼らのやり方が大陸的な正しいものかも知れない。
ここで稼いだ10円の工賃で食事をする訳であるが、日本人食堂に行けば、丼斑もの1杯が10円であり、そんな贅沢は出来なかった。でも午後は仕事は無くて、洋子ちゃんもお守りをしている方が気楽でもあった。(つづく)
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2012年2月 5日 (日)

妻のおとぎ話

今朝も昨日と同じ0度の夜明け、雲はすこし濃いようだ。
霞も濃くて宮島の姿はほとんど見えない。

家内が昔話をするとき、いつも出て来るのが万寿姫である。昨日の事のように話をする。私も幼いとき習った覚えがるから知らぬ話では無い。小学校の学芸会で姫の母親唐糸役をやらされたのだそうだが、肝心な開演当日風邪でダウンして出られず、代役が今も仲良しの高木さんだったという。

さてその万寿姫が頼朝の前で舞を舞い、褒賞として牢獄に入れられていた母親唐糸を貰い受けて、郷里の信濃に連れ帰ったという話である。信濃といえば木曾義仲だが、何故と今になって疑問が湧いて来た。
私にも淡い記憶が残っている。この話は国定教科書に確か載っていた。日本武尊の熊襲征伐や源頼光の大江山鬼退治などと同じく、小学校の教科題材であった。
しかし誰に聞いても知らない話に今はなっている。
試みにウイキペディアで調べてみた。
手塚太郎光盛の娘とある。古書にあるおとぎ話が出典らしい。唐糸は義仲の刺客として頼朝を狙い発覚して捕らえられたとある。
なんでこんなのが小学校の教科書に載っていたのであろうか。

今の子供達と話が合わない筈だなあと思い当たる。
考えてみると、戦中戦後生まれの人達と私ら70歳以上の老人はまるで違う教育を受けて来た訳だった。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その25)

21、略奪の一夜

或る夜、強盗に襲われた。戦争に負けて、自分で身を守るより外に仕方がなくなった日本人は、夫々自警団を作ったり、戸締まりを厳重にして暴民の略奪を防いでいた。
戦争の場合にはどこの国でも見られる現象として、戦勝軍の不心得な一部の兵士が金欲しさに民家に略奪の目的で押し入る例は聞いていた。
囁かれている事は、彼らが来ていくら戸を叩いても、返事をせずに留守と思わせることが得策との噂であった。

11月中旬、夜の12時頃だった。この夜、日本語のうまい韓国人の案内が、”今晩は”といって連続に戸を叩き始めた。
とたんに”オーイ、誰だ” と小田原さんの返事した声が聞こえた。
玄関の横に寝ていた私達は“しまった” と思ったが既に遅かった。板をぶつけた玄関の戸を叩く音は一段と大きくなった。私達は飛び起きて居間に集まり、直ちに奥さんと洋子ちゃんを裏口より隣家に逃がしてから、渋々玄関の戸を開けた。

自動小銃を持ったソ連軍兵士が2人、通訳の案内人が1人、さっと飛び込んで来て銃を構えた。若い兵士は、おどおどして、怖いのか、己の非行を恥じているのか判らないが、こんな連中が一番物騒である。小田原さんと私ら3人は手を上げて彼らを睨みつけた。
通訳が”金を出せ”と私たちに命じた。小田原さんが財布を渡した。通訳が中身を改めて少ないと言ってるうちに、ソ連兵士の一人が私の胸に自動小銃を突きつけた。仕方なく私はそっと手をズボンのポケットに入れて、バラの10円を出した。ひったくるようにつかみ取ったこの若い兵士の紅潮した顔を、侮蔑の目で睨みつけてやった。
その間に、韓国人の通訳はタンスの開きを開けて奥さんの衣類や小物の中に手を入れて、取り出したハンドバックの中の数百円を見つけると頷いてソ連兵士に合図した。
銃を構えながら後退し、逃げるように退散した。

最小限の被害ではあったが、土足で踏み込まれて金品を強奪された不快な思い出は一生を残る事であろうと考えた。全く悪夢の様な一瞬であった。
私もこれで、胸元に銃を突きつけられる事2回、このような状況下でそう恐ろしいとも感じなかったが、思いの外あっけなく済んでほっとした。僅か20分位の出来事であった。(つづく)
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2012年2月 6日 (月)

蘭展

昨日は家内が起きる早々蘭展を見に行こうという。
この寒いのにと思ったが、うちばかりではいけないので反省をこめて頷く。
蘭はいいが、今の時期外に花などありはしないだろうし、人も居ないのではと思って植物園に着いてみると。もう駐車場はいっぱい。人は行列を作っている、驚いたなあ。
子供連れも多い、今日は日曜日だった。

本館は蘭を主体に満館飾。
いつか見て来た、三春の滝桜、中尊寺の金色堂、そして弁慶までランの花であしらわれて、勢いを添えている。
これだな!
テレビかなにか宣伝に載せられてかくも押し寄せたらしい。

こちらは寒いのと動悸が激しいので、早々に脱落して逃げ戻る。
並みの服装ではもう駄目らしい。


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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その26)

22、往く年、来る年

随分といろんなことが起こった波乱の1945年(昭和20年)も過ぎようとしていた。今年中にと念願しながらも引き揚げられなかった日本人同胞は、これからの行く末を思案しながらも、生きるためには生活の途を求めねばならなかった。あれこれ不安と焦燥の中で毎年のしきたり的に、細々と越年の準備をし始めた。
私も労働作業のない時は奥さんたちの手伝いに洋子ちゃんのお守りに専念した。

すっかり冬将軍が訪れて,木枯らしの吹く寒い日が暫く続いた。
街には進駐して来た八路軍の兵士の数が急に増加し始めた。何もなければ良いがと願っているうちに、苦難の昭和20年は過ぎて行った。

1946年の新年が訪れた。深々と門戸を閉ざした日本人街はひっそりと静まりかえっていた。その家の中では、戦前のしきたりに似た新春の行事が粗末ではあったが郷愁を忍ぶかのごとく取り行われていた。

満洲の市街地は、特に住宅街は道路で仕切られた1町内の建物が城壁に似て並び、表玄関以外には出入り出来ず、その反面、各建物の裏側は共同の広場のようになって、区割内の居住者は自由に裏口より往来し親睦を図っていた。それは非常の場合に通じる建築の様相でもあり、前述のように強盗に襲われた場合でも、区割り内の誰の家にでも逃げ込めるようになっていた。

終戦以来、面白くもない運命に弄ばれていただけに、また日頃何かとお互いの雑役に追われていたので、せめて正月くらいはとの気持ちが盛り上がって、正月ならではの遊びが続けられていた。
年配者は麻雀に、若い男女はカルタ、トランプに興じて暫しの苦しみを忘れるかのように楽しんだ。

私も松山も4年の軍隊生活で味わえなかった町内の男女に混じってゲームをすることの喜びをしみじみと噛み締めていた。
町内の人々は、私達を10年来の知己のごとく招待し、ご馳走してゲームに誘ってくれた。
特にカルタ取りには自信のあった私の、ライバルとなった新田さんの娘さんの可愛い顔が、暫く家庭の女性との接触に離れていた私に、何かと戸惑いを覚えさせられるものがあった。
とにかく楽しい正月の数日であった。
おそらく在満5年間のうちで、最も楽しかった期間として今でも思い出す事ができる。
だが、良い事の後には必ず凶事が控えているのは世の習い、数日後恐ろしい事件に巻き込まれることとなった。(つづく)
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2012年2月 7日 (火)

敗者の記録

雨に濡れた跡の残る朝、まだ何とも云えない。気温は6度と生暖かい。

私は今友人の書き残した遺文を毎日飽きもせずブログに載せている。6、70年も前の実録である。
これを読んでくれる人はほとんど生まれていない関心も持ち様のない話かも知れない。
しかし確かに体験した沢山の日本人の仲間が居た事は間違いない。
私は皆の関心の有無を無視して記録として残すべく亡き友の意図のままに掲載をつづける。歴史の彼方に埋没させてはならないと思っているからである。
90年も生きさせてもらった男の義務とすら感じている。

古今東西勝者の歴史は永遠に残る。敗者の歴史は負け去り、廃棄され、埋没してゆくのが自然の論理である。
しかし原爆投下、北方4島の略奪、など形あるものは勝者の理屈だけで存続せらるべきではないし、不可能であろう。
形なきものは、なにものか心を吐露して言い伝え書き残すしか手だてはない。ほんささやかな抵抗とも云える。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その27)

23、5番通り事件と流刑

5番通りとは、私達がお世話になっている小田原さん一家、隣家の森田さん、新春を楽しく過ごした町内の一区画を含む1丁目から9丁目の街通りである。

1月16日の夕方、7時頃だったか、夕食を終えたばかりの私達の耳に急に騒がしい物音が聞こえた。同時に玄関が壊されて、武装した八路軍の兵士が数人なだれ込んで来た。何か判らないで唖然としていた私達に、その中の一人の兵士は銃剣を構えて日本語で言った。
”貴方たちは15分間でこの家を出なさい。持てるだけの荷物は持ってよろしい”
理由も言わずに兵士等は玄関、窓口、家の中と要所に突っ立って立ち退きを要求した。
こういう事態は考えられない事もない敗戦下の国民であってみれば、致し方ない境遇にあった。

私達は別に荷物とてないが、小田原さん夫妻はどんな気持ちだろうと思ってみた。でも時間がない。私達は小田原さん夫妻に協力して、風呂敷や毛布を広げて必要な家財を詰め込んだ。
とにかく手に持てるだけの荷物は何でも持っていいらしい。そのための15分の猶予時間であろう。
慌てているので何を入れたか判らないが、私達3人で持てるだけの家財を入れた風呂敷を持って外に出た。
外は粉雪が舞って、冷たい外気が私達の心まで暗くした。

銃剣を構えた八路軍の兵士は街に溢れて、日本人は1人も逃さじの意気が感じられた。直ちに私達は近くの公民館に誘導された。既に数百人の5番通り居住の人達でホールはいっぱいになっていた。
そして公民館の周囲は八路軍が取り巻き、いつでも発砲、襲撃できる様相を示していた。

恐怖に満ちた市民の顔、泣き叫ぶ子供の声、この中に発砲でもされるならと思いながらも、ホールの一隅に小田原さん一家と腰を降ろして何らかの指示をまつ以外になかった。まもなくこの理由も、あちこちの囁きにより大方判って来た。

ここ数日来八路軍兵士の暗殺が行われ、旧日本軍兵士らしい犯人に数人が殺され、その場所がいづれも5番通りで行われた事、八路軍はこの犯人を捕らえるために潜んでいると見られる5番通りの居住者全員を調べる目的と、見せしめの為の報復的行為に出たものらしい。関知しない私達には全く馬鹿げたことだが、敗戦国の日本人を対象にしていれば文句のつけ様がなかった。

今更、テロを行う旧日本軍人も亦、自分の鬱憤を晴らすために、郷愁に喘ぐ同胞を巻き込む事までは考えていなかったことだろう。
私服の八路軍兵士が群衆の中を割って入り顔実験を始めた。犯人に似ていると引き立てられたら一巻の終わりだと思いながらも、成り行きを見守るだけだった。

八路軍の幹部らしい男が壇に上がって演説を始めた。恐怖の市民は、この日本語の演説に耳を傾けた。
結局理由は私が聞いた囁きの通りであったが、私の印象を受けた言葉は次の通りであった。
”皆さん、こんな事件の場合、旧日本軍はこれまで大陸の街や村を焼き払い、全員銃殺するのが多かった。今、私達は貴方達にかっての日本軍のやり方が出来る立場にある。しかし、八路軍はそんなことはしない。犯人を知っているものは直ちに申し出てくれ。そうすれば一般の人に迷惑はかけない。” といった内容であった。

真冬の火気のない大ホールは、大勢の体温で暖かみを感じたとはいえ、寒々とした夜気に覆われ、窓越しに降り積もった雪の中で光る兵士の銃剣が不気味にみんなの心を暗くしていた。
夜明けまでに何人かの青年が引っ張り出されて、結局犯人が分かったのであろうが、朝方になって警戒が和らいだように感じた。松山が聞き出したところでは、犯人は私達が仕事をして来た市場で店を構えている旧軍人達のグループであった。

悪夢の様な一夜は明けた。いずれにせよ翌朝、従来からの5番街通り居住者は許されてこの建物を出る事が出来た。
しかし5番通りの自宅は押収されて帰れず、知人、親戚を求めて散って行った。
小田原さん一家を始め、町内の人々と再会を約して別れ、終戦後疎開して来たもの(主として奥地から逃れて来た人達、開拓団の農民達、軍隊下番たち、150人くらいが残された。もう諦め切った表情でホールの片隅に集まって、八路軍の指示を待っていた。

昼少し前だったか、突然このホールの天井が轟音とともに堕ちて来た。たまたま建物の寿命が来て堕ちる運命にあったのか知らないが、大多数の人が立ち退いた後であり、残った私達は片隅によっていた為人の被害はなかったが、数時間前であれば大惨事となるところであった。
救われた気持ちになってほっとした。

午後になって私達の刑罰的なものが決まった。街から10キロ離れた競馬場に流刑という事であった。これも、こんな事件を起こす恐れのある疎開者、若者達への警告的なものであろう。
それでも八路軍に連行され、行軍する姿は惨めであった。命を取られる事はなくなったものの、さらし者となった一同はふていくされて雪解けの道を歩いた。
競馬場でも亦、偶然が続いた。
形だけ残っているような無人の競馬場に到着したのは夕方近かった。数人づつ馬の居ない厩舎の石ばりの床に寝るより外になかった。八路軍の兵士も、私達が落ち着くのを見極めて帰って行った。
一応ここで無罪放免らしい。石の上は冷たく、拾って来たアンペラを敷き、これからどうしようと3人思い迷っていた時であった。
”貴方達は小田原さん方に下宿して方ですね” と突然呼ばれて振り向くと、時折小田原さん方に来ていた後輩の山崎さんであった。
そういえば、小田原さんが競馬場の管理人をやっているといって紹介されたことがあった。
人生なんて面白いものだ!こんなところで知人に遭うなんて全くドラマチックにできているものだ。

私達3人はその場から山崎さんの管理人宿舎に案内されて、白い飯と暖かい布団にありついた。他の連中が羨んでいたが、この宿舎も狭くて私達3人は山崎さん夫婦と一間に5人並んで寝る事になった。山崎さんの親切が身にしみて、それだけでも幸せになってぐっすり眠れた。
ここに2泊お世話になって、胸が悪いらしくよく咳をする山崎さんと奥さんに、心よりお礼を言って競馬場を出る事にした。

安東市に帰ると日本人会の世話係の方の紹介で、次の宿泊場所決まった。5番通りは八路軍に接収されて、小田原さん始め知人や親戚の家に寄宿されていた。私と松山は板橋さんと別れて奥田さん一家にお世話になることになった。(つづく)
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2012年2月 8日 (水)

留学も青春の迂路か

6時に起き出して、広島総合病院行きの準備をする。といっても顔を洗って朝飯を食うだけのことなのだが。
気温は0度、少し寒いがなんと云うこともない。いつもより早く出て早く着く。
待ち時間やや長し。
診断は一番、すぐ終わる。
薬を貰って、家には9時半帰着。

家内がスーパーに行くというので昼前又車で出かける。一日の日課が終わった様なものだ。

昨日の事、家内が千代に電話すると、朝子がロンドンに遊びに行ってるとか話す。先日は一緒にパリに行ったり、よく気楽に遊ばれる事だ。勉強がお留守になるのでは。もっとも一生に一度は見ておくべき所だからこれも勉強の一つではあるか。
留学などというのは並みの神経ではやれないな。

今記載している河北君の手記を本人は”青春の迂路”とテーマ付けているが、迂路と見えても、誰しもまともにすんなりと通り抜ける事が出来ないのが青春である。皆それぞれに命をかけ、一生をかけ、運命に挑まざるを得ない。
留学もその迂路なるものかもしれない。唯私達の場合と時代が違った。
  
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その28)

24、新しい受け入れ先、奥田さん一家

奥田さん一家は、戦前まで洋服屋を経営していた老夫婦と、長女雪子さんと養子さんの若夫婦、夫の帰りを待っていた次女の良子さんと彼女の長男の6人暮らしであった。めったに笑顔を見せない律儀で昔気質の奥田さんと、しっかりものの奥さんのご夫婦は小田原さんとは全く違うタイプのコンビで、身寄りのない私達を喜んで迎えてくれた。特に私はこの小母さんに対して母親らしい愛情を、雪子さんには姉らしい愛情をさえ感じる程に、気を使ってくれるのを肌で感じた。

終戦後、この大通りの洋服店経営を弟子のジメーさんに譲り、一階の店舗を任せ、二回に移って一家6人で過ごしていたのに、私達二人が割り込んだ様な訳であった。
二階は1室ではあったが、洋服の仕立屋だったので割合広く、私達を含めて8人雑居の生活が続いた。
当時経営者のジメーさんは八路軍の軍服仕立てを請け負っていたので、奥田さん一家は軍帽の庇の型、軍服のボタンの穴かがりの下請けをして生活していた。
ある日、小父さんが”どうだい、あんたも苦力の仕事より、ここで手伝いしないか?工賃は安いが数でこなせば日当より良い筈だが”と云われて、その気になり手伝う事にしたのは私だけだった。
松山は相変わらず小田原さんの実家等に出入りしていろんな雑用をしているらしい。
私は地味な仕事の方が好きで仕事の合間に手伝いに励んだ。そんなことから益々老夫婦に可愛がられることとなり、食事も一緒にすることとした。内職の賃金が私の食費となればと思いながら・・・。
小父さんも笑顔を見せて”まあ、内地に帰るまで頑張りなさい”と励ましてくれ、晩酌の酒一杯もつきあい比較的穏やかな日々が続いた。

二月になって、安東に疎開して来ていた新京在住の人達を中心として、列車を仕立てて新京に帰る事が許された。理由は判らないが帰国する日が近づいたとの噂も広がった。
同じ市場で共に立売りしていた隣の彼女等も、安倍川餅売りの有働さんも、そして軍隊以来起居を共にして来た松山も新京に立つ事になった。
夫々の思惑を心に秘めて、夫々の途を求めて別れて行くのだ。松山とは東京での再会を約束して固い握手で別れたが、別に涙も出なかった。
同郷の有働さんとは、お互いに早く帰った方が自宅に連絡しようと約束しながら、何か最後まで隠しているのか郷里の住所は聞かれなかった。
私も誘われたが、新京に知人もなく、又何時帰国出来るのか知れないのに、なるべく内地に近い安東に残りたかった。
安東には小田原さん一家も、奥田さん一家もいて親切にしてくれる。そんな思いを胸に、布団の中でまんじりともせずに考える夜もあった。(つづく)
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2012年2月 9日 (木)

大型ゴミを捨て損なう

夜明けの気温マイナス3度、あちこち露まで凍っている。
今朝は大型ゴミ、有害ゴミの収集日。何日も前から準備したつもりだったが、収納袋を見ると、有料切符が一つも残っていない。電池類は白い指定袋とあるが、緑色しか残っていない。捨てるものはちゃんと集めて整理してあるのだが、肝心な事が不足して今日の事にならない。来月の第2木曜日まで預かりだ、やれやれ!
空気が汚れるからといって最近はゴミの焼却も出来ない。折角作った焼却炉も朽ちようとしている。
都会生活というのはこんな小さな街でも不便なことは少なくない。

今搭載している河北君の手記では盛んにトイレの事が出て来るが、病院勤務をしながらでも、夜間野っ原に出て星空の下で尻をまくってようを達したとあるが、私自身も作戦中は終始何ヶ月も同じ境遇で違和感はない。元来は自然とともにあるのだから。
人間多数でかたまり居るときはもう自由は本来ない。


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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その29)

25、友との巡り会い

松山が新京に去り、私も労働仕事を止めて小父さん達の内職手伝いに精出し、穴かがりが上手になったと雪子さんから誉められるようになった。そんなある日、気晴らしにと元の職場の市場に立ち寄った。相変わらず騒々しくはあったが、立売りしている連中は殆ど入り替わり見知らぬ人が多かった。新京に帰った連中が多かったせいだと思いながら、ふと目をやったところに思いがけない昔の学友を見出した。
お互いによれよれに汚れ切った服装だが、特徴のある顔は3年間見慣れて忘れるものでは無い。
”岩村!””おー、元気だったか”

こんな境遇で遭うなんて全くびっくりする外はなかった。
積もる話がお互いにあった。立売りの商品をそそくさに仕舞い前の店に預けてきた岩村と私は、人通りの少ない江岸通りに足を向けた。
話によれば彼は公用で中国に赴く途中、終戦となって安東に居着いたらしい。元来が無口な岩村の淋しげな様子が気になったが、その時はこれまでの簡単な身の上話で2時間喋って別れた。

この頃日本人の間で囁かれていた噂は、八路軍の徴用が近く行われるとのニュースであった。
新京の疎開者達が安東を引き揚げて行ったのも、この噂のようになれば内地に帰れなくなることが理由の一つであったらしい。そして噂を確定づけるかの如く町内ごとに居住届が要請された。
先の5番通り事件のような不祥事を起こさないとの配慮もあったらしい。
噂によればこの徴用は独身者を第一に引っ張るという事で、噂を信じて徴用を逃れる為に急に結婚が流行した。全く馬鹿げた話であるが、この結婚の流行は単なる徴用の噂以外にも、目下早急に内地に帰る事の不能を悟った人々が公然と口には出さないが、或はお互いの淋しさが紛らす為、或は女性は力強い伴侶を求め、娘を持つ親は逆境に託すべき青年を求めて、又生活に困って来た連中は相互扶助的な考えで等々の理由があったのが事実であろう。

といっても式を挙げる事なく、当事者の話合いでまとまった。中には約束だけの結婚もあったし、内地に妻を残している男性もその事実を隠して、新生活に入る不徳義漢もいた。否、むしろ此れ等妻帯者達こそ結婚ということに不安を持つ未婚の青年より反ってこの風潮を利用した向きが多かった。

私にもそんな話があったが、小田原さんの奥さんや奥田さんの小母さんは、絶対にそんな結婚はすべきでないと私を励ましてくれた。全く有り難いことだと思った。
実際いざ帰国、引揚となった場合に遭遇する困難なシーンを考えれば、自分一人でさえ危ないのに、妻を或は生まれて来る子供を抱える事の責任の重さを考えると恐ろしい事である。
愛情は同情や妥協ではないという気持ち、己に正しくあるべきだと私自身に言い聞かせた。(つづく)
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2012年2月10日 (金)

本の自炊という言葉、判るかな

灰色の雲が空高く広がっているが、弱い日射しが通り抜けて地上に達している。気温8時現在マイナス1度2分くらいか。
あっという間に2月初旬は終わってしまった。古来2月は逃げると云った。今年は閏だから1日長いがそれでも一日早く逃げる訳だ。

明日は紀元節だ。古事記も今見直されつつあるようだから、紀元節と通称してもいいだろう。何より語呂がいいもんな。
キリスト暦もマホメット暦も皆、確証もなく後世に取り決めただけだから、同じ様なものだ。

iPadのアームはほんとにいい。楽に本が読めるので時の経つのがわからないくらい。眼も身体も疲れない。
書物だとこうはいかない。めくるのも大変だがページを押さえておくのが更に大変だ。
iPadはめくるのは、指先ではじくだけで良い。
ただ本を取り込まなければならないから、私のように、本を切り離して自炊しなければならない。やはりちょっと面倒かな。
金さえあれば買える本はどんどん発行されているから勿論苦労はない。

今日は朝起きがけから乾癬が無性に痒い。厚着の服の上からごしごし掻く、我ながら見苦しい限りだ。
家の中だから関係ないが。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その30)

26、再び逢った友は

3月の中頃、街で再び岩村に逢った。今度は前に逢った時とは打って変わり、すっきりした服装で顔色も明るいように見受けられた。
岩村は私を彼の下宿に案内した。私は唖然として彼に連れられながらも、一ヶ月で変った服装、態度を訝った。
彼の下宿でこの間結婚したと言って現れた奥さんを紹介された。これには又々びっくりした。彼は数日前から日本民主連盟による日本人小学校の先生をしているとのことだった。

昨年の暮れにソ連軍より八路軍に引き継がれた占領下で、各地に八路軍に気脈を通じた共産系の日本人グループの組織が日本民主連盟として現れたのは、八路軍による政治をスムースにする目的だと思っていた。そして先日、連盟による小学校が開設されたことは噂として聞いていたが、友人がこの小学校の先生になっていたとは驚かざるを得なかった。

彼は私にも是非この職業に入る事を勧めた。なるほど現在この街では敗戦国民日本人の職業として、肉体労働か、立売り、屋台の行商くらいしかなく、学校の教師は初めて出現したきれいな職場であった。
私自身、ここ暫く安東の街に落ち着くと、今までの行商とか、苦力とか、手内職の仕事に、内地に帰るまでとはいいながら、若干飽きの来ている頃ではあった。しかし、さすがに彼の申し出を受ける訳には行かなかった。

私も6ヶ月前までは軍人の端くれ、共産主義の学校教師となることには拒否反応があった。その気になれば頼みに伺うからと彼の好意を謝して家を辞した。
軍隊に関係なかった民間人の彼には、彼なりの事情があることだろうが、何かしら虚しい気持ちになった。と同時に、いそいそと彼の世話をしていた新婚の奥さんの顔も浮かんで来て、無性に淋しくなった。

だが、私は私なりの生き方がある。これでいいのだと心に言い聞かせた。外は寒気も和らいで春が待たれる時候であった。

家では小父さんが黙々と内職に精出していた。最近は帽子のつば作りより、軍服の上衣のボタン穴かがりが多くなって来た。今は内職に精出すのが一番だろう。雑念を捨てて内職の手を早めた。(つづく)
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2012年2月11日 (土)

消え行くテープレコーダー

朝気温−1度とやや冷たい。
パナソニックがVHSテープレコーダーの生産を止めたと今朝の新聞に出ている。去年だったかデオデオに買いに行ったら、船井電機のしかなかったから、仕方なくそれを買って帰ったのだったが、まだ作っていたのかいなと驚く。
売れなくなれば生産中止は仕方がないが、我が家の1000個以上もある(もっとも最近捨て始めたから今は3、4百かな)テープが見れなくなるというのも困るしなあ。
目下は2台機械があるから見る事は出来るが、機械ものは故障があるから、そのとき直してくれるかどうかだ。
現在はDVD録画が我が家でも主流だが、これもいつまでやらで、当てには出来ないな。

パソコンでもそうだが、文明の利器はどんどん進化して止まない。
必ず廃れて行く運命にある。レコードするということは古来最も必要とされつつも最も難しい事なのだ。

先日も70年前の母校(私が現に在校していた)が駅伝に優勝した新聞記録を訊ねた所、主催したその新聞社にはない(もっとも優勝したという記録はあるが詳細がない)、県立図書館にマイクロフィルム(新聞そのものの写真記録)がある筈だから聞いてくれと云われた。一番記録しやすい新聞社が自分のところの記事をすら全部は保存出来ないのである。
70年経ったくらいでもこれだから、記録保存の難しさが今更ながら理解できる。
そこに思い至ると、70年前を記憶している私の頭脳は立派なものだな、もっと云えば、古事記を暗唱した稗田阿礼はもっと凄いが伝承だから本当か嘘か分からない。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その31)

27、八路軍の徴用

4月に入って春らしく暖かな日が続き、郊外の山に桜の花が咲き始めたというニュースと共に、あちこちで独身の男女が徴用されたとの噂が聞かれた。徴用の対象は在来の安東居住の市民では無く、戦後満洲各地より集まってきた疎開者が主で、しかも独身者であった事も事実であった。雪子さんは特に心配してくれた。
”徴用が来ないといいわね”と慰めてくれた。兎に角戦後の日本人には仕事らしい仕事がないので、安東在住の人達は売り食いしても、疎開者は次第に生活に窮しつつあった。
従って徴用を希望するものも多く、多くの日本人が始め嫌がっていたような抵抗もなくなって、没法子(メイファーズ)!といった気持ちになっていた。

当時八路軍は中国統一のため国民軍との戦いを続けていた。その為重用されて与えられる仕事の種類としては、男子は戦闘第一線の後方で弾運び、戦傷者の輸送の為の担架隊要員、そして後方病院の炊事雑役であり、女子は看護婦要員としての作業であった。

この頃になると、次第に苦境に追いつめられて行く日本人を見る現地満人達の目も変って来た。
かっては支配階級として君臨した日本人が終戦とともに没落した地位に下ったことに喝采していた軽視の目より、哀れみの目で見るようになっていた。
特に中年以上の連中の私達を見る目に、やさしさと同情の気持ちを感じるようになっていた。

階下のジメーさんは目が優しく働き者だった。つんとして言葉も交わさない奥さんと違って、片言の日本語で話しかけて来る。仕事を回してくれるだけでも有難い。
中国の庶民の生活というものは簡単なもので、ジメーさんの日常生活を見てもびっくりするものだった。
例えば洗面器1個で、朝は洗面し、食事を作り、同じ洗面器で洗濯するといった調子であった。

一応は平穏だった日々に、あせりといらだちの感情が蠢きはじめていた。

5月の初めに、私に対して徴用の通知がやってきた。隣保組長の小父さんが、”徴用ですよ。明後日、9時に県庁前に集まって下さい。まあ、勤められだけつとめてきてください。ご苦労ですがお願いしますよ” とのことで、これ以上はお互いに口に出さず、”勤めてきましょう”とあっさり応じた。新しい生活に何かあることを期待していたのかもしれなかった。

5月X日、旧県庁前に徴用されて集まった日本人男女は、点呼と簡単な身体検査を受けて夫々の割り当てられた勤務地に分散して行く事になった。
私は安東市の郊外”R"にある八路軍の病院要員として勤務する事に決まった。
現在の奥田さんの家とは反対の方向ではあるが、同じ安東市であり、歩いて1時間位の距離である。
最悪の場合、国民軍と戦闘している最前線に駆り出されて、弾丸運びをやらされても文句のいえない私達であった。

ほっとした気持ちで一応家に帰り、奥田さん一家に報告して暫くの別れを告げた。
不安そうに見送る小母さんや、雪子さん姉妹にわざと元気を装って家を出た。
これも又運命のしからしむるところ、成り行きに任せる以外になかった。
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2012年2月12日 (日)

人間一匹の運命なんか所詮虫けらのそれと一緒か

雲のまるで見えないいい天気だ、気温マイナス1.5度とまずまず。昨日も昼中は暖かくなったが今日も同じらしい。少し春めいて来たかな。

河北君の遺文を連載しながら読み返している毎日だが、八路軍に徴用されながらも、明日を信じて帰国の日を待つ、戦い終わった直後の気持ちは私も同じだった、運悪ければ非命に倒れたかも知れなかった。その点は良く理解出来る。
しかし、新京で脱走する直前の仲間達が、シベリアに送られ数年も酷使されたことなど知る由もなく、決断が間違ってたのではと迷わなかっただろうか。

私の場合も当時国民党軍の呼びかけに応じ、部下6名が参加し中国の内戦に参加した。その前途の険しさ、隊長の私といえども是非を判断する何らの知識も、責任能力も無かった。部隊全部では数十名を下らなかったのだろうが、首尾よく活路を開いて故国の土を踏む事が出来たのだろうか今もって知る由もない。北支の方面では夫々に加担した旧日本兵同志が、対峙交戦したとか聞いた事すらある。

血の気の多い若者の事、敗戦後の鬱憤を晴らす為現地人の闘争に巻き込まれて、一身を捧げた話は沢山聞いた。インドネシア、ビルマなどでは生き残って姿を現した一部の人間もいた。歴史はこの事実をほとんど閉ざしてしまって、単なる風聞としてしか残していないが。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その32)

28、病院勤務

この病院には国民軍との交戦で傷ついた八路軍の兵士が療養して居り、今後増加する事を予想した日本人の徴用であった。その中で何と言っても数十名の女子徴用者が花形であった。

2、3日して仕事の内容も大体のみ込めて来た。
男子は担架要員及び雑役が主であり、男子の倍くらいの女子は看護婦要員でああった。
年齢は男女ともに18歳から40歳位までで、先述の通り安東市在住でなく、戦後各地より流れ着いた人達ばかりであった。

特に女性は、戦争により引き離された旧軍人の奥さん、商家の主婦を始め、OL、店員、開拓団の家族、そして飲食店勤務の女性から娼婦に至るまで広範囲な層であった。
何故、看護婦要員として日本女性を重用したのかの理由も次第に判って来た。
日本女性のやさしさ、親切さは中国人の等しく知るところであり、同じ中国の女性と比べれば、かってどんな職種であろうと中国女性より遥かに女性らしさを認めているらしい。
一方敗戦で失意の彼女等に取っては、どんなことでもして内地に帰りたいという決意があり、更にこの徴用での功績で、或は優先的に帰国出来るのではないかとという期待感があった。
そんな藁をもつかむ気持ちと、働く仕事が少なくなった生活苦を考えて、みんな文句も少なく仕事に励んでいるのであった。(つづく)
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2012年2月13日 (月)

同窓会報の死亡者欄

雨がしとしと降っている、いつまでも夜は明けない。
家内が珍しく、今日は疲れが取れてないから寝ていたいなどという。
年はお互い同じだけ取って行くのだが、老いの速度は人人違うのだろうから、気力の衰えとともに進みが早くなるのかも知れない。

昨夜眼鏡を床に落とした際に、ガラスが外れて転がった。探すのが面倒だったから今朝に持ち越したのだが、幸い割れていなかったので取付ける事になる。
小さなドライバが必要なので、どこにあるかこれを探し出すのに又一苦労。
道具さえあれば直せる。何となく直って使っても大丈夫なようだ。やれやれ。
何でも無い事が何でも無くなるのだなあ。

昨夜同窓会報2年分を綴じ込むのに、十冊ばかりをめくって、死亡欄を見る。同期が15人載っている。
ここに来て親しく付き合った友が多い。1名日時不明が居たが、例年3月、4月が多い。
年度替わりが、死亡時期にまで影響するのだろうか。過半数の8人がそれだった。
生存者は幾人居るのだろう、最近の綜合名簿がないから判らないが。勿論もう見る気はしない。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その33)

 ○炊事当番

男子の中から、彼等及び看護要員の彼女等の食事を担当する炊事係6人が決められた。私も希望してその中に参加した。徴用された日本人は病院勤務の八路軍関係と食事は全く別であり、私達は与えられた材料によって独自に食事を作るように命令された。私達も日本人相手の賄いに精出す方が張り合いがありと考え反って気が楽になった。

食事はトウモロコシの粉で焼いたパンが主食である。私達は”ホーミーパン”と云っていたが、作り方は原始的であって簡単である。
所謂支那鍋といわれている平鍋を竃に掛けて薪で温め、鍋の底の部分に若干の湯を残してこれにトウモロコシの粉に水を加えて練った柔らかい塊を鉄鍋の横にぶっつける。粉の塊が鍋一杯にくっついたら釜の蓋をして、更に薪をくべて加熱しながら焼くのである。
鍋の下の湯は蒸気の役目をしてパンの上部を蒸す。
間もなく火を引いて暫く置き、中のパンが蒸されているか確かめて、釜の下の湯を取捨てる。
周囲にくっついたパンの底と鍋の鉄板との接点を包丁でこさげばパンは鍋底から落ちる。このパンをカステラみたいに切って、主食として食べる訳である。

暖かいパン、出来てすぐのパンはとても美味しい。鍋と接触しているパンの下側はカリカリと煎餅みたいに香ばしい。しかし冷えると不味くなる。
副食としての材料は味噌、食油と野菜類、その他調味品である。野菜の味噌汁と油炒めが主に食卓に上がるが、米飯に慣れた副食の品数の多い日本人には寒々とした献立らしい。侘しい食事になって行くのが常であった。

炊事当番の6名は一室に起居を共にしていた。これまで全く知らなかった者同志ではあるが、軍隊下番の独身者である条件は同じ、これまでのお互いの境遇や楽しい思い出を語り合って励まし、慰め合っていた。
そんな時に、同じ建物にいる同じ境遇の女子群のこころを考えると、男と違って気の毒な哀れな気持ちになって、我が身さえ明日は判らぬのに何故か、彼女等への思いばかりが募るのであった。
(つづく)
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2012年2月14日 (火)

納税に真摯な国民性を見る

明け方にでもひどく降ったのか、新聞受けまでびしょ濡れ、新聞はくしゃくしゃになって、読めるものでは無い。
昨日一日中降ったから箱の内部まで雨水が浸透していたらしい。屋根を付けるか、何とかしないといけないな。

昔から郵便受けには随分気をつけて、いろいろ取り替えているのだが、なかなかこれだというのにお目にかかれない。
雨がどこからか入り込むのだなあ。一度大きな屋根を付けた事が有るが、駄目だった。出し入れに反って不便になって早早に取り外した、ポストを2個付けた時があったが、片方ばかりに入れられてこれまた役に立たなかった。
普段は何でもないことなんだが、ときどき思いがけないことがおきるんだな。

午後遅く買い物に出たついでに税務署に立寄り所得税申告用紙を貰って帰る。同じ用事の人が次から次えと多いのに驚く。
もっとも明日から申告月間だからだろうな。なんと真摯な国民達であろう。
日本がどこかの国のごとく大騒動することは、この国民性なら先ず起こり得ないな。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その34)

○夜食の楽しみ

この彼女等に取って、又私達炊事当番にとって、一つだけ楽しい時間があった。
それは彼女等に割り当てられた夜勤の間に、休息を兼ねて交互に食べる仕組みになっていた夜食の時間であった。そして私達炊事当番が交代で1名、彼女等の為に夜食を作って食べさせることになっていた。

この時間は全く病院の管理外に置かれている状況で、薄暗い炊事場で炊事をする当番の一人の男性と、夜食を食べに来る日本人女性数名のみの時間となる。デートいうにはほど遠く、一膳飯屋の屋台に腰掛けた女達と、飯を盛る若い男との世間話みたいではあったが、解放されて放言出来る気分のいい時間ではあった。
差し向かい的な色気はないが、日本人同胞としての男と女の雰囲気が楽しめた。女のうち半数は私より年齢の多い奥さん連中(勿論ここでは独身)が多く、坊や扱いされることもあった。

同時に、この時間の夜食メニューが夜勤のハイライトでもあった。というのは、夜食だけは米飯が支給されることになっていた。飯は勿論、病院幹部、病人の夕食の残りと思われるが、これにネギの一本と食油及び岩塩の若干が夜食の原料となった。
朝昼晩とホーミーパンだけの食事の中で、米の懐かしさは格別である。
大体夜の11時頃彼女等が炊事場に現れると、私は竃に火をつけて釜(この釜はホーミーパンを作る平釜)を暖めて、ネギを適当に切り油を釜へ注ぐ。油が煮え立ったところで岩塩を入れると、ジューと油は跳ね上がる。すかさず米飯を入れていためながら混ぜて、適当に塩味の着いた”チャーハン”が出来上がる。無心にむしゃぶりつく彼女等の横顔に憐れを覚える時があった。

久しぶりの米の味に満足し切った彼女等は、暫くおしゃべりの時間を楽しむのであった。
女性群の中にいつも姿を崩さぬ中年の女性がいた。程々に笑顔を忘れない表情に知的な影を浮かべて、誰にでもやさしく接しているその顔が印象的であった。あとで旧陸軍佐官級のおくさんと聞かされた。

病院に送られて来る傷病兵が次第に増加してきているようだ。国民軍と八路軍との争いも次第にエスカレートしつつある噂が聞かれ始めた。
1週間、1月は夢のように過ぎ去った。単調ではあった。

こんな無駄な日を過ごしていいものかと自問自答しながらも、とにかくこの状況では暫くは内地に帰れそうにもない。ままよ、糞度胸つけて居座ってやろうかという別の考えも出て来た。(つづく)
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2012年2月15日 (水)

天神様の心にはなれない

降り続いた雨もどうやら上がりそうな気配である。最近では珍しい長雨だった。
庭の木々はさぞかし息を吹き返したことだろう。
10時頃霧の上からすっくと顔を出した弥山の姿が美しい。

ぼつぼつ梅の花便りが聞こえる。が今年はもう梅狩りもできまい。宮島、岩国あたりなら出かけられないことは無いが、昨今の花を愛でる私の心情の問題である。
身体の痛み、痒さは無粋の心をかき立ててやまない。

花を愛するは人を愛するに繋がる。この心を失えばもう終わりだな。


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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その35)

○表彰
そんなある日、私達日本人の勤務者は、この病院の管理者と思われる八路軍の女司令に呼び出された。彼女は国民軍との戦争が終結し、平和が来るまで頑張ってくれという意味の挨拶をした。そして次のように続けた。
”貴方達日本人の中で、誰が一番真面目に働いていると思いますか?1名だけ紙に書いて出してください。” いわゆる無記名投票的な行事が行われた。理由は判らないが、私達の平凡な生活に活を入れる目的か、お互いの競争意識をあふろうとしたのか、当時の私達には初めての事で誰の名前を書いてよいやら戸惑った。結局男女5名位が投票用紙に書かれた名前の多かった者であろう。
女司令はにこにこして、顔つき合わせている男女各5名に更にこのうちから各1名の名前を要求した。幸か不幸か、この男5名の中に私も入っていた。他の4名はお互いに顔は知っていたが名前は知らない者も居た。

私達はよく働いていると思われる者を選べとの司令の希望に拘らず、全くそんな気分にはならなかった。或は褒賞的な期待もあったが、適当に好ましい人を記名した。その結果は5票中3票で私が男子労働者で最も良く働くと選ばれた。
恐らく炊事に居たので皆が知っていたからだろうか、全くありがた迷惑なことだった。女司令は私の握手を求めて中国語でなにか喋っていた。

それっきりでこの行事は終わった。報酬が握手一回のゲームみたいで、馬鹿馬鹿しい行事だった。でも何か気分が良くなったみたいで、その晩はぐっすりと眠れた。(つづく)
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2012年2月16日 (木)

往年の名画、俳優

気温3度、灰色に覆われて天気はあまりよくない。古い図書、雑誌類をまとめて捨てる。こんなのは雨が降ると面倒なので今日位がちょうど良い。
うちの手押し運搬車を片付けていると、9時にはもう収集車が来て持って帰る。ゆっくりしていると駄目なんだ、けっこう気ぜわしい。

昨夜は珍しく夜遅く目覚めると、ゲーリー・クーパーの”誰が為に鐘が鳴る”をやっていた。名優と言われたクーパーだが、演技はなんとなくぎごちなく、どこが名優なのか私にはよく分からなかった。それでも好きな俳優の一人である。
戦前の中学生時分、どうした訳か”ベンガルの槍騎兵”という映画を見ることがあって、いっぺんに好きになった。当時は中学生は映画館に入ることは許されていなかったのだが、若かりしクーパーの颯爽たる活躍ぶりが気に入って、爾来彼の名前に引かれて数多く見ることになった。後年ハイヌーン、ファッシネーションなど音楽に恵まれては居たが、よれよれの主役で、往年の颯爽さはなかったが、渋さで光った。ここら当たりが名優たる所以かも知れない。

テレビが普及し映画の凋落が叫ばれて久しいが、どっこい未だ生きているぞと現代的佳編が続いている映画界だが、時代は争えず私の様な超老人はとてもついてゆけない。
しかしたまに見せてくれる往年の名画はやはり判りやすくて私には丁度いい。
久しぶりに夜半過ぎまで付き合った。


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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その36)

29、後方病院への転勤命令と休暇

6月の後半になると戦争が激しくなったのか、病院の動きも活発になってきた。徴用されている日本人の移動の話題も囁かれ始めた。
前線か、或は後方の病院かという本当らしい話も聞かれた。現在の病院は別に警戒が厳しい訳でもなく、逃げようと思えば何時でも逃げられるが、逃げた後の生活も不安だし、住居届を提供している現在では何かあった場合、例えば引き揚げ等があればこの届に基づいてチェックした上で引き揚げの順が決まるなどの噂は前から聞いていたので、なるだけ安東の街を離れたくないのが大方の期待であった。

案の定、6月終わりになって、勤務者の半分は鴨緑江を上った山奥の病院勤務に映される事になった。行きたくはないが今の境遇ではどうにも出来ない状態で承知する外はなかった。

2日後に安東市の江岸船着場に集まるように指示されて夫々の家に帰った。私も久しぶりに奥田さんの宅に戻った。ジメーさんがびっくりしたように迎えた。2階に上がって小父さん、小母さん、雪子、良子さんに久しぶりに逢い、話に花が咲いた。
小母さんは”あんた、大丈夫だろうね。何かあったらすぐ帰っていらっしゃいよ” と励ましてくれた言葉に、母の愛情的なものを感じた私だった。
久しぶりに白米の食事で、盃一杯の焼酎(90度のチャンチュー)を口に含み水を飲んで口中で薄めながら、家庭の温かさをしみじみ感じたものだった。
雑魚寝の布団の中で、これからのことを考えると眠れなかった。
翌日は間借りしていた小田原さん夫妻を訊ねて、暫く安東市を離れる旨を告げて、別離の挨拶をした。奥さんは例によってやさしく私に力づけてくれた。
”無理しちゃ駄目よ!内地に帰るまでは張りつめていらっしゃい”

漠然と鴨緑江を上った山中といっても皆目分からない、やはり知人のいる安東を離れる事は怖かった。
時間があったので、かって立売りしていた市場に足が向いていた。一巡りしたが昔の仲間も少なくなっていたし、昔のにぎわいもなかった。
徴用で引っ張られたのであろうか、とくに若い連中が少なかった。

顔見知りの連中に話しかけてみた。
”景気はどう?” 返事はすぐ戻って来た。”駄目だよ、もう日本人は金を持っていないので話にならないよ” とため息の声、聞いた私までやるせなくなってきた。

”あんたは今どうしているの?”と聞いて来たので、明日から山奥の病院勤務で明朝出発だと答えると、彼は私を暫く待たせて、2、3軒先の売場にいた40後半の小母さんを連れて来て私に引き合わせた。
この小母さんも大分苦労してきたなあと直感した。額の皺と無造作に結んだ髪で判った。
”あの、貴方は明日の朝、病院勤務で山奥にお出かけと聞きましたが本当ですか?”
真剣な顔で質問されて私もびっくりした。
”そうです、明日9時に江岸通りの船着場に集まるようになって居ります” と答えた。
”実は私の娘も明日の船で山奥に行くようになっています。あなたに是非お願いしたい事があるのですが・・・” このおばさんと顔見知りの彼の話を綜合すれば、この一家も主人とは慣れた疎開者で、3人の娘のうち長女は私と同様に徴用され、幼い二人を抱えて市場で細々と働いている境遇であった。

”貴方がこの間までここで働いていた方だと聞きまして、貴方を見込んで是非お願いしたいのですが、聞き入れてくださいませんか?娘も明朝皆さんと一緒に鴨緑江を上って奥地の病院に勤務すると決まりましたが、一緒に行く人の中に知人が誰もおりません。娘は20歳になったばかりで心配でたまりません。貴方が行かれるのなら是非娘を見守ってやって下さいませんか?相談事があれば乗ってやってくれませんか?
すがる様な小母さんの言葉、子を思う親の愛情が私の心に突き刺さった。
”判りました。ここでお会いしたのも何かの縁でしょう。こういう現況では今後どうなるか予想もつきませんが、出来るだけの事はいたしましょう。相談に乗るようにします。”

こう答えた私にもじーんと込み上げるものを感じていた。初対面の私に、私がかって市場で立売りしていた事を知っている顔見知りの友達の紹介だけで、藁をも掴む母親のすがる様な気持ちに打たれた。
”娘は光子と言います。今晩十分に話しておきますので、なにとぞよろしくお願いします”
私はこの母親の気持ちに対しても、彼女を守ってやらねばならないと思った。と同時に、明日からの奥地勤務に向かうのに何か責任感見たいな気持ちが湧いて来た。又未だ見ぬ娘さんとの対面も期待された。

小母さん達と別れて市場を後にした。暫く安東市と別れる侘しさが込み上げて来た。
明日も天気らしい。ともかく頑張ろう。(つづく)
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2012年2月17日 (金)

文字数の多い漢字

朝の気温1度、まあまあか。小雪がちらついている。今日も何んとも言えない空模様か。
9時過ぎには雲間から薄日がこぼれてはいるのだが。

今朝起き抜けにパソコン雑誌を眺めてると、”ことえり”の使い方が詳しく書いてある。
先月だったかブログに書き載せるのに、芷江作戦の”芷”の字が出なくて困った、仕方なく”シ江作戦”として表記した。支那派遣軍が唯一支那軍に大敗した最後の作戦であり、その後2ヶ月後には終戦になったから、うやむやにされてしまった。
終戦が後数ヶ月も遅かったら、私の部隊も彼等の包囲網の中で袋の鼠となり、命を失って居たかもしれない。
私個人にとっても重要な作戦であった。

この本に書いてある通り探してみると、やはり漢字の中にはちゃんとこの語彙はあった。ことえりが標準では表記出来ないだけの話であった。便利なようでも当用漢字などという制度が出来て、こんな実際に使われている漢字でも無視されることが屢々あることに気づく。


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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その37)

30、鴨緑江を上って水豊ダムの奥地に

7月X日朝、船着場には思いの外多数の日本人男女が集まっていた。別れを惜しむ家族の見送りは女性組が多かった。小さい風呂敷に身の回りの品物をつつんだ私達男の方は見送りもなく、行くのなら早く出発しようと、なるようにしかならない現境遇を苦笑いしながら、Nという八路軍の日本人指導員の引率で船に乗り込んだ。昨日市場で逢った小母さんも見送りの中にいるに違いなかったが、遂に逢えなかった。
”小母さん、約束は約束として果たしますよ”舷から見送りの群衆に呟いた。

船と云ってもジャンクが3隻準備されていた。男子が一隻、数の多い女子が2隻に分乗した。
やがて帆が張られると、船は静かに速度を増して河上へと鴨緑江の流れを遡って進んで行った。

ジャンクで遡る鴨緑江の船旅気分は満点だった。こんな境遇でなかったらさぞや楽しいものであったろう。真昼の暑い日差しが、夕暮れながら涼しい河風に変わって快い。鴨緑江がこんなに広いものだとは思いもしなかった。4日目だったか、やっと上流に着いたが、この船旅にもいろんな思い出が残った。

安東を出発して2日間上流に向けて走り続けたところで、風が無くなり船は動かなくなってしまった。そしたら船を河岸近く寄せて、船頭達は船にロープを夫々縛り付け、河岸に夫々ロープを持って飛び降り、一斉に掛け声ともに河上に走るように船を引っ張って行った。
これにはびっくりした。隆々たる船頭の黒光りする肉体が躍動して船が徐々に進むことも、私には初めての眺めであった。

船旅での苦しみは男達より女達に酷だった。男達に取って何でもない船の上でのトイレがそうであった。午前と午後に1回船を休止させ、小舟で川岸に着けて用便を済ます仕組みであった。
小舟の彼女等は一斉に草むらに散って行くのだった。船にはトイレは無く、夜は数人で船端に毛布を握って交互に身体を隠しているのが私達の船から見受けられた。女性とはこんな所でも苦労しているかと思えば、見てはならないものを見たようで気の毒な思い出いっぱいだった。

私達は有名な”水豊ダム”の下に到達した。ここはダムの流水下降の小部落で、絶えず轟音を立てて落下する水の騒音と、飛び散る飛沫の中に点在する行き止まりの村であり、船の遡行もここまでであった。前方行方を遮るように聳え立つダムの巨大な構築物の影にうずくまっている黒い影の村、それはこれからの私達の将来を占うかのように不気味に感じられた。

船着場で船を降りた私達は、小休止の暇もなくダムに向かって左の方向に部落を通り抜けて、坂道を登りダムの水面に出た。反対側の中腹にダムの調整操作室らしい建物と、社宅らしい住宅が続き子供の遊んでいる様子が見えた。山上に出た私達は、このダムを支えている水量の豊富さに驚いた。

満々たる湖水は今まで見た事もない様な膨大な洋々たる湖であった。巨木の最上部らしい枝枝が水面に見えるのも、湖水の深さ、規模の大きさを示していた。
湖面ですれ違ったソ連軍の若い兵士が、銃を片手に無表情に私達の前を通り過ぎた。やはりこのダムはソ連の支配下にあるのかと思えば、忘れようと努力していたソ連軍への感情が高まり行くのは当然の事であろう。戦争とはいえかっての日本の努力の粋が無造作に敵国の支配に委ねられるとは、暗澹たる気持ちになったのは私ばかりではなかったと思う。

またここから数隻の小舟に乗って湖水を遡って行った。もう方向は判らない。午後の太陽が照りつけていてもそう暑さを感じない。涼しい風が吹き抜けて行く湖面を、静かに舟は進んで数時間でとある船着場に着いた。夕闇が迫っている田舎道を歩く事10分位で目的地であるT村に着いた。(つづく)
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2012年2月18日 (土)

春未だし、銀世界

カーテンを引くと一面の銀世界、1cmばかり珍しく夜の間に降り置かれたらしい。
しかし地面の雪は解けてまるで見えない、淡きこと泡の如し。
空は雲一つ見えないが白くもやって青空も薄い。気温マイナス2度。

カープが巨人と初のオープン戦を今日宮崎でやるという。もうそんな時期になったかと驚く。
やはり時が経つのは早いのか。あの世に旅立つ日もどんどん近づく、せからしいのー!

日が照ったり、小雪がちらついたり、はっきりしない天気になる。これでは外に出る気にならない。
医者にも行き忘れる。半日だから仕方が無い。

体調も少し良くない。なんだか風邪でも入ったかな。


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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その38)

31、T村の病院勤務

このT村には私達の職場となる後方病院があって、病院の外には数軒の民家が散在しているに過ぎなかった。徴用された日本人男子16名、女子53名は別々の建物(病院内の民家)に収容されて八路軍の病院業務に協力する事となった。別に八路軍に警戒されている様子もなかった。ここまで来て、今更逃げるものも居ないと考えているのだろうか。更に日本人男女のうち夫婦で徴用に応じた4組のカップルが居たが、この4夫婦は暫くして別の小屋に移され、その小屋を仕切って各一部屋を与えられたのはどんな魂胆だろうか。

未だ入院患者は僅少であり仕事も割と少なかった。私達に与えられる建物には男子16名中4組の妻帯者を除き、20台-40台までの12名が広い1室で雑魚寝することとなった。こんな素朴な民家は、中央を通路として左右が居間兼寝室で、その下は寒い冬に備えてオンドル式に出来ていた。
私達男子は、昼は各種の使役、炊事場等に従事して汗を流し、無表情に仕事に取り組むが、夕食後はこの一室でいろんな過去の思い出を語り合って、静かな山中で涼を楽しむという終戦以来初めての落ち着いた毎日を過ごす事が出来た。

ただ、将来はどうなるか判らないという問題に付いては、これは口に出す事はタブーとなっていた。
これからの将来は私達自身全く判らなかったが、将来を想像し、空想する事は自由である筈なのに、それを憚られるのにも理由があった。
私達を引率して来たNという八路軍の日本人指導員は軍と一緒に起居していたが、私達16人の中にも八路軍に帰依して常に八路軍に出入している中国語のうまい若者が一人居た。週一回午後に時間が決められて、民主化教育的な討議が行われたが、ほとんが当たらず触らずの態度で意見を主張するものは居なかったし、討議をリードするものはいつも指導員のNとこのわかものAであった。私達は彼等を警戒していたのかも知れない。

私はここで島田という友達が出来た。話し合ってみると同じ北満ハイラルの守備隊の同年次兵であったので、急に親近感を覚えていろんんことを打ち明け合った。島田は私に云った。
”Kさん、あまり議論的に踏み込んでは駄目だよ。適当に納得したふりをしてろよ””心配するなよ、それほど馬鹿じゃあないよ” 私はやり返した。同じ年次で、同じ北満ハイラルに部隊は違っても入隊した私と島田は、お互い他の連中には話せない過去、現在の問題を夜遅くまで語り合う仲となった。
(つづく)
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2012年2月19日 (日)

カープの選手は皆原石から磨かれる

朝の気温−3度、冷たい。時期的には一番寒い時期だから仕方がない。
しかし太陽が近づいているだけに、日が射し始めると部屋の中はどんどん暖かくなる。日の力が違う感じである。

昨日のカープ対巨人のオープン戦はカープが8−3で勝った。早くも栗原や岩本など主力が好打して頼もしい。
先発した中崎と云うピッチャーは私は知らない。この時期の新人の活躍は当てには出来ないが、若手は質、量的に今年は期待出来るのでは。
就中、野村には多いに期待している。甲子園の決勝で佐賀北高校に4点もリードしていた最終回満塁ホームランを打たれて敗戦投手となり、甲子園何度目かのチーム優勝を逃した広陵高校のその時の投手である。奮起して東京6大学でも全国大学でも優勝を果たした。その精神力は並みではない。
甲子園の劇的敗戦からもう4年も経つのか、カープをどうか背負って欲しい。

カープも衣笠、山本が去ってから優勝には縁がない。なんとか英雄が欲しい。チームといっても所詮はそのチームを引っ張る2、3のリーダーである。英雄になりかけた江藤にしろ金本にしろ、金に眼がくらんだとは云わないけれど、後足を蹴って他球団に移った。
残念でたまらない。スポーツも金がなければ駄目だと云う、その風習が嫌いである。
衣笠も山本も原石から磨き上げた宝石だった。今のカープにもそれが欲しい。


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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その39)

○小川のほとり

7月X日、夏の夜は短い。
眠れぬままうつらうつらしていた私は、東の方が白くなるともう寝る気がしなくなった。そっと布団を畳んで表へ出た。中国人って何で早く起きるんだろうと思いながら、ここの日課のようになって2町程離れた小川の畔に洗面に行く。

水田の畦道を通る時は内地の田舎の様な気がする。稲の穂がすいすいと伸び切って気持ちがよい。甲高い野鳥の声が澄み切った空気を震わして聞こえて来る。この小さな村を囲んでいる緑の山々が、朝霧の中に静かに姿を現して来た。

小川の水は冷たかった。暫し冷ややかな快感にひたってさっぱりした気持ちになった。
私は周囲を見渡した。未だ誰も来ていないと見定めると、東の方に手を合わせて黙祷を捧げた。
”お母さん、元気ですか?とうとうこんな所に来てしまいました。でもきっと帰ります。それまでは元気で居て下さい。別れて5年、お母さんも変ったでしょうね”
こう呟きながら瞼のの熱くなるのを覚えた。と今まで聞こえなかった小川のざわめきが、頭の芯に滲み渡るように響いて来た。

私が出発前に安東の市場で頼まれた光子という女性に逢ってお互い名乗ったのも、この小川のほとりであった。時折話をするようになったが、他の女性達と一緒で長くは喋れなかった。ふっくらとした愛くるしい顔で、人懐っこく好感の持てる女の子であった。

昨年8月、ソ連の参戦より1年間の慌ただしかった私達の去就も、この静かな生活で暫くは内地に帰れないと諦めながらも、表面的には平和の数日が過ぎていった。所詮は籠の鳥の様な生活でも、捕虜ではないし、云われた仕事さえしていれば、別に行動の自由はあって、家族とは離れていても友人や仲間が出来て夫々に生活に慣れようとしていた。(つづく)
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2012年2月20日 (月)

八十歳時代懐古

今朝もマイナス2度と未だ冷たい。天気はよさそうだ。
腹具合が少し良くない。あまり食べないのにぐずつく。風邪が少し入ってるかな。
最近の風邪は油断が出来ないからな。

昨夜はふと思いついて、12年前頃から通信フォーラムに投稿していた私のコメントなどをiPadにコピーして、寝たままで読み耽る。
案外面白い。10年一昔というが、やはり今とは大分世の中が違っていたらしい。
コメントに沢山のコメントがむさぼり付くのが面白い。今のブログはアクセスは多いがさっと横目で通り過ぎる感じである。フォーラムでは全然違っていたな。夜の更けるのを忘れてしまった。

今考えると、私の八十歳代は意欲満々、まだまだやるぞとコンピューターに立ち向かった、最高に気分の若かった時代だったかも知れない。いちいちコメントに応答している。
今はもう駄目だな、ここ2、3年の衰えは心身共に自分でもよく分かる。

昼前に内藤内科に行く。何らの異常もない。次回3月15日に心臓、腎臓の検診をするという。定例的なものである。
午後天気快晴上天気に気温もずーっと暖かくなる。


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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その40)

○女子群について

ここで安東から一緒に来た女子群のことに触れなければならない。
徴用された女子群53名が本命であろうと思われる事は前述の通りであるが、日本女性の優しさ、博愛的な気持ちを八路軍が非常に高く買っていたのは間違いなかった。看護勤務の反面、優遇はしていないが決して粗末には扱っていないと理解出来た。年齢も17歳位より50歳までの年次に亘り、職種も前述のように旧軍人の夫人より接客譜まで様々の境遇の連中の集まりであった。みんなの総意で決まった組長の横田さんのまとめは大変だろうと思った。

八路軍の軍紀の中で、特に男女の戒律については喧しいようであり、八路軍兵士が徴用の女子に手を出す事は殆ど聞かなかった。安東市の病院勤務中に一回聞いたのは、徴用の女性が金欲しさに八路軍に身を任せたという事件で、その兵士は処分されたとの話であった。
特に八路軍では強姦は死刑と聞いていた。従って同胞の女性群を気遣う男子側の私達も、ここに居る間は同じ日本人の女性のその方の心配は必要なかった。

こんな境遇では男子のうちの独身者と、女子群の密やかな接触が発生しようとの雰囲気も濃いように見受けられた。ただ男女双方の気持ちを抑えているものは、内地に帰るまでは” との覚悟と、厳しい軍紀のためか日本人同士の男女接触を頑に拒否する八路軍兵士の眼であった。
未だ若い18歳くらいから20歳過ぎの女子の中には、全く今の境遇を無視したように無邪気に明るい女の子もいた。私達は朝夕の洗面、水浴び、散歩にあって顔見知りになって、互い冗談を言い合うようになっていった。(つづく)
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2012年2月21日 (火)

岩國の路面電車

朝の気温2度と少し緩んだか。
午前中買い物に出る。

中国新聞の別冊の情報誌phoenixの今月号に郷里岩國のことが載っている。子供の頃によく乗った路面電車のことが書いてある。
中学に入った頃、JRの岩徳東線が出来たので廃止されたのだが、懐かしい電車であった。
日本で京都に次いで2番目に古い路面電車だと私は聞いていた。私が生まれる10年以上前に敷かれたらしい。(ということは百年前には出来ていたということだ)
phoenixの挿絵には描いてないが、浦が浜の立石の前から、岩國新町の間、岩國駅前、今津往還橋、招魂場から錦見に廻り、散畠の畠の中を抜けて、岩國小学校の側を通り、岩國新町の華浦銀行前が終点であった。
ほとんど畠の中を通るから、途中から乗り込むものは居なかった。岩國駅から白崎八幡下までは道路沿いだったから、この間を私達は利用したものだ。停留所も4、5カ所しかなかったのでは。錦帯橋へは新町で下りてから、大名小路か本町を歩いて向かったものだった。
椎尾横町に母の叔母の家があったから、よく遊びに連れて行かれたものだ。美味しいもの食わせてもらったり、セミ取りに神社の森に行ったり、盆踊りやお祭りに連れて行かれたり、思い出は尽きない。

私は中学校にはいる時保証人になってもらったから、ますます伺う機会が多くなり、母の従弟が亡くなるまでは、数十年間、非常に親しい付き合いが続いたものである。
従って小学生までは、岩國の街まで行く時は必ず電車を利用したわけで、後年バスが開通したが、その時は中学生で歩くか自転車で通勤してバスに乗ることは一度もなかった。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その41)

○豚の夜襲

平凡な生活の中にも時折面白いこともあった。

ある晩、真夜中に2発の銃声に驚かされて飛び起きた。まだ生臭い戦争の記憶が消えていない私達は事件だと直感した。兵士達の右往左往する気配が伺われた。私達も真っ暗な部屋の闇の中で、何時でも飛び出せるように準備した。
しかし、暫くして物音は治まり静かにはなったが、まんじりともしなかった翌朝事件の真相が分かって唖然とした。
歩哨に立っていた兵士が突然、闇の中に迫って来た人影を見て敵襲と思い、身の危険を感じて2発ぶっぱなしたとのことで、かけつけた仲間と倒した場所に行ったら野豚が一頭ぶっ倒れて死んでいたというのが真相であった。
この野豚は早速食膳に上がる事になった。おかげで炊事の中国人が切開した豚の腸を小川の水で洗わせられたが、2日間の豚料理にありついた。トウモロコシのパンとニラ炒めの常食の中でひさしぶりにうまいものを食った様な気がした。
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○夜のトイレ

この付近の民家には恐らくトイレの設備の様なものはないであろうか、私達の住居には勿論付いていなかった。
私達を取り巻く周囲の丘、谷、川、そして林の中、草叢が自然のトイレの場所であった。

こんなことで大自然の恩恵を受けた様な気持ちに落ち着くまでは、生まれて以来の慣習と比べて切ない気持ち、非文明的な境遇に身を隠すように感じられて抵抗が残った。それでも人間として生きている以上は、この行為を止める訳には行かなかった。でも慣れてしまえば、これも捨て難い風情があった。男は良いとして女子群は様子がわからぬまま気の掛かっていたが、こんな面では女性は全く損な立場に立たされるようだ。それでもトイレが全然ない訳では無く、トイレとして独立した小屋があるにはあった。
でも見ただけで使用しようという気にはならなかった。何故なら、この小屋のトイレの部分は地上より高くなって丸太と板の簡単な設備はいいとして、下には数頭の豚が屯している状況を見ればとても気持ちが悪くなって、むしろ青天井の自然の中での行為を選ぶのは当然だろう。
私達は病院の外には出られないので、反対の方向に無限に広がっている起伏の多い林間や野原を求めて散策するのであった。
昼間は羞恥心と作業の日課があるので、夜暗くなってから、月明かり、星明かりを頼りに散策するのも乙なものかも知れなかった。

満天の星を仰ぎながら自然の抱擁の中で、無心に、心行くまで一日の重荷を下ろしたものであった。時折すぐ先の草叢で同じ行為に出くわす事もあったが、暗闇の中では黙っていれば判らなかった。

中には勇敢に話しかけられて、自分が何をしているか判らず話し合う場合もあった。”臭い中”もここまでくれば、むしろ自然の法則を超越したもになっていた。(つづく)
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2012年2月22日 (水)

中国の商標権

夜中に雨が降ったらしく、庭先はしとどに濡れている。気温は5度。

今朝の新聞で目立つのは、”iPhone”の商標権で中国でアップルが訴えられているということである。先に”iPad”でも商標権侵害で訴えられアップルは敗訴している。ということは、iPadはすでに中国には古くからあったということである。権利侵害で何億も損害賠償を迫られることだろう。使えなくなるということはどちらの損か私にはよく分からないが、売れないというだけなら、中国一国なにするものぞとのアップルの今の勢いだが、成長過程にある12億の人民を抱える中国の商圏は小さくはない。
iPhoneにしろ、iPadにしろAndroid系の企業が後がまを狙っている。当然面白くはなりそうである。

なにしろ、日本人もそうだが、中国人はそれに輪をかけて真似や盗作が上手である。
下手すると本物以上に造り出す。先進企業が安閑して居られる商圏では無い。
私もアップルのiもの全部使わしてもらっているが、便利この上もない。この先更に上を行く安くて便利なものは当然中国辺りから出現するのではないだろうか。アメリカさんに一泡吹かせてもらえるかもしれない。
商標権とはうまいこと考えついたものだな。特許権王国アメリカの逆手を取った感じである。

悪知恵に懸けては、何と言っても歴史が違うのだから。


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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その42)

○敗戦記念日

8月15日がやって来た。敗戦1周年目であった。何もなく今日が過ぎればと思っていたのは、私ばかりではなかった筈だ。

夜になって私達日本人は早く寝るようにと指導された。八路軍の戦勝記念の祝宴が行われていた病院の方向から、大声で叫ぶ騒音が夜遅くまで続いた。一室に雑魚寝していた男達の顔に一年前の思い出が甦って来た。

大した戦争もせぬうちに詔勅による終戦、武装解除した時の口惜しい気持ちが今込み上げてくるようであった。私は部屋中に殺気が漂ってきたような雰囲気を感じた。そして暫くして、諦め切ったのか静かに殺気が散って行くのを肌に覚えてほっとした。みんな雑念を振りほどき寝ようと努力していた。
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○野球の試合

8月の下旬、私達の居るT村から10km位離れたS村にも後方病院があって、私達と同じ境遇にある徴用の日本人群が勤務していたが、両地域の日本人間で野球試合の話が持ち上がった。当時の八路軍に野球の判る筈もないのだが、徴用日本人の息抜きなり、気分の転換を狙ったのかすんなりと許可された。思いがけない野球の試合を前に久しぶりに勝とうという気力の充実が男子の間に漲った。

16名の男子のうち、野球プレイ経験(といっても素人の草野球)ある9名で直ちにチームが編成された。突然の事ではあるし、こんな状況下で野球をやる事自体全くおかしな話であったが、みんな素直にこの提案を受け入れた。即席の道具作りが始まった。ボールとミットとバットはお手製で作られた。木の枝の節を取った荒削りのバット、防寒手袋のような布製の不格好なグローブとミット、そして中に何を入れたか私も知らないが糸でギリギリに巻き付け布を被せたようなボール、私達は野外での練習も久しぶりに楽しくスポーツの醍醐味を味わった。女子群の応援が私達を一層力づけた。

私のファーストも何年振りかではあったが、昔の運動神経が甦ってくるようだった。しかし布製のミットで受けた掌はすぐに真っ赤になった。中学時代に甲子園の土を踏んだという深井が、日頃のおとなしさをかなぐり捨てるようにメンバーを扱いた。

かくて8月の末に、私達チームと20数名の応援女子団は、病院勤務で残っている男女全員の歓呼に送られて10kmの行軍もいとわずにS村に乗り込んだ。
T村にやってきてやがて2ヶ月、初めて村を出る開放感もあって足取りは軽かった。S村はT村より大きく、ここの病院には日本人の徴用が男女2百人位いるとのことで、このうちの男子50名くらいよりの選抜メンバーと聞いて更に奮い立った。

午前11時に始まったこの野球試合は双方女子応援団の黄色い声援も受けて、真夏の炎天下に日頃の鬱憤を吹き飛ばすような熱気の中で開始された。八路軍の兵士、傷病兵も物珍しく熱気溢れる試合を観戦していた。

“カーン” と素直に飛ぶボールは、私達の夢を載せて大空の彼方に羽ばたいて行った。試合は一進一退だったが、結局守備とチームワークに勝った私達のT村チームが勝った。主将の深井が”僕は甲子園以来、こんな感動した試合は初めてだった。みんな頑張ったなあ!”といって眼を潤ませていたし、捕手の山村も、投手の鹿島も”やったぞー”と云う顔でお互いに勝利を噛み締めていた。
もっとも喜んだのは応援の女子群であり、勝利の興奮はT村に帰るまで醒めなかった。

8月が終わって9月にかかると、大陸の山中は秋の訪れを肌に感じるようになって来た。徴用の報酬の代わりといって木綿の布地が各一枚配布された。女子群はブラウスともんぺーを作っているようだった。
男子達は女子群に頼んでシャツとズボンを作ってもらった。

私も小川のほとりであった時光子に頼んだら、気楽に請け負って私の部屋に布地を取りに来た。他の男達に冷やかされたが、こんなことでも私は嬉しかった。当時私は26歳、光子は20歳、彼女の母親から頼まれたのに未だ話し合ったのがほんの数回で、そっと遠くから見守っていただけだった。2、3日で布地はシャツとズボンに変った。(つづく)
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2012年2月23日 (木)

戦争中の日本人若者の殉国心

夜半の雨で昨日同様、もやにけぶった夜明け、もちろん島影はまるでない。
気温6度。もう春だ。

それにしてもこの世に存在しているだけで十数年も経ってしまった。あくせくと何かを目指して一生懸命働いてた頃が、やはりふと思い出される。楽しかったとは云わないまでも、死を希求することはなかった。
いま7時半である。忙しさも何もない今頃の朝、未だ明けやらぬ中をもう店に出て立ち働いていた筈であるのに。

iTunesで拾った音楽を再生して聞きながら、往古をしのぶ。僅かに生きてるよすがか、気づくと身震いが出そうである。

今ブログで連載している河北君の手記、読めば読む程彼の愛国心というか殉国心の強さがよく分かる。恐らく現代の若者には無い心根だろう。捕虜などになってたまるかというのは単なる反骨心では無い。
私があのまま東満国境に居て、終戦シベリア送りになったとしても、甘んじて部隊とともに行動したであろう。それが忠誠と理解した筈だ。後年の彼との付き合いの中で、次第に解きほぐされたのだが、もうこの世を去ってから二十年問いただすよすがはない。

最近ちょいちょい青空文庫から古事記を拾って読んでいる。まったく滑稽としかいいようのない日本の開闢物語だが、その物語の一つ一つに何か言い様のない”まこと”が含まれている気がする。古来日本人はこの存念の下に生死を続けて来たのではないか。
私の理解を遥かに越えた遠い世界ではあるが。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その43)

32、安東市に帰還

それから数日、草野球の興奮も醒めぬまま9月に入って思いがけない事が起こった。そしてその時は、日本人の内地送還、勿論中共地区でなく、コロ島から9月初旬より開始されるだろうという噂が流れていた。

焦燥と現在の境遇の諦め切った私達に、突然八路軍なり病院側より配置再編成のため先日野球の行われたS村に全員集合を命ぜられた。もはやT村に帰る事はないとの連絡もあって、なけなしの身の回り品を抱え10kmの道をS村に集合した。
2ヶ月の思い出を胸に又次の職場を求めて更に奥地に向かうかも知れない気持ちは、引揚の噂もあってますます気が滅入る行軍であった。山間のT村を囲む周囲の環境に恵まれ、静かな小川のせせらぎに馴染んで来た平和な暮らしに別れることも、次の勤務地に対する不安とともに心細くなりがちであった。

S村の病院勤務日本人と私達T村勤務者を集合させた指導部では、男子は別として女子のみ3班に区分編成して、新しく出来た奥地の病院と、従来のT村とS村の病院に勤務させる事に決めた。そして男子は希望者を除き安東市に帰るよう指示された。
こうなった理由はしかとは判らないが、現在では入院者も少ないし男子の仕事といっても少ないのと、男子のほとんどが旧日本軍出身が多いのを心配しての配慮だと大方の噂であった。私達T村よりの男子16名中4人の妻帯者と、愛する女性のために留まる事を希望した3人と、八路軍参加を表明したAを残して8名は翌朝の舟で帰る事が決定した。

突然の状況の変化で、この2ヶ月間、安東市の病院以来の連中とは4ヶ月間も同じ徴用で一緒に働いてきた残留の男達、女子群との間の思いがけない別離は、言いようのない情けなさ、申し訳なさ、侘しさでいっぱいだった。男として同僚の女性を見捨てる様なものであった。
一方安東市に帰れるという事は、引き揚げに一歩近づくことでもあった。ここで女性側から彼女等の為に残ってくれとの申し出があったら、希望して残った3名の外にも行動を共にした男達が居たと思った。
反対に男達の中で、”俺は絶対に帰る。こんなチャンスを逃す事は出来ない。みんな冷静になって、一人でも多く内地の土を踏もうではないか”と、云うものも居た。島田だった。彼は又私にも強く帰還を勧めた。
”Kさん、君が頼まれている光子君の事を心配しているのは判るが、このまま残ってもどうなる訳でもないんだよ” 理屈はその通りだった。同情と愛情を同じように考えることの危険さを彼は力説した。でも割り切れない気持ちだった事は事実であった。

私は光子を探してトウモロコシの畑の中で暫く話した。すがりつくような態度を期待していた私は、下を向いては居たがしっかりした口調で私の迷っている気持ちをほぐすように、”Kさん、いろいろと有り難うございました。安東市に帰って、そして内地に早く帰って下さい。私も友達みんなと一緒に、これから強く生きて行きます。母にあったらそう云って下さい” と私を励ましてくれた。実際この時は、本心は判らないが、彼女は当分帰れないとの状況を認識し、残る女性として冷静に帰れる男性を励ましてもいるようにも考えられた。
その日にT村に帰る一行を見送り、内地での再会を約して手を振った。

翌朝私達男子8名はS村の船着場より、八路軍の兵士と共に小舟に乗った。もはや来る事もないだろう。みんな元気に勤めて一日も早く内地に帰ってきてくれと心に祈って、送りに来てくれた数名の女子群に別離の手を振った。舟が水面をかき分けて進み出した時、堪えていた涙が止めどもなく溢れて来た。

帰りは鴨緑江を下るのだから早かった。3日目には安東市の江岸に着いて解散した。これで徴用は解除されたこととなった。
(つづく)
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2012年2月24日 (金)

生きる苦痛

今朝は気温3度とやや生暖かいが、よく晴れているのでいい天気で推移しそうだ。
今朝は早く目覚めたので、5時半からパソコンを弄くり回す。テレビのHDMIを#3から#2に取り替え配線してみる。こちらの方が接続具合がよさそうだ。

年を取ると尻の皮まで薄くなると見えて、長く座っていることが堪えられなくなる。
家の中ばかりで殆ど毎日くらしているので、私の場合は腰掛けるか、寝るかである。畳の上にどかりと座ることは先ず無い。
膝や足が痛いし、姿勢も楽ではないからである。
それなのに尻が痛くて腰掛けが難しくなるともう寝るだけである。自分でも困ったなあと思い悩んでいる。
寝るというのも終日寝るのはやはり苦痛である。
所詮生きるということ自体が苦痛だということに結論が行くようだ。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その44)

33、引揚準備

帰って来た安東市の街はざわめいていた。噂通り引揚が開始され様としていた。正式の引揚はコロ島より行われるのだったが、汽車でコロ島まで到着するのが大変だと推定された。途中で中共軍と国民軍とが戦闘中の前線を歩いて突破せねばならないとの事で躊躇した日本人も多かった。この前線は一応、両軍の協定で引揚の場合の中間地帯がつくられていると聞いては居たが、若者は前線で両軍に引っ張られて、使役に徴用されるとのデマが飛んでいた。これに眼を付けたのか、八路軍公認の舟による引揚が計画されていた。所謂”闇船”による帰国であった。

第1回の闇船の乗船料は1万円で9月の下旬に入って出発した。しかし当時の一万円は安東市在住の日本人ならともかく疎開者、軍隊除隊の日本人に都合のつく金では無かった。コロ島まで行って正式の引揚(無料)に参加するか、金を払って引揚船に乗るかの2つの引揚コースが示された訳であった。

内地引揚の具体化と同時に紙幣の交換が盛んになってきた。当時安東市では日本紙幣、朝鮮紙幣、満洲紙幣及び八路票(軍票)が通用していたが、昨年末より八路軍の進出で八路票が表面的には行き渡って使用されていた。引揚始まるの声で一躍日本紙幣が上昇しはじめた。

私が帰った奥田一家は、私を息子が戻ったように暖かく迎えてくれた。いよいよ私も、帰国の工面を考えねばならぬ事となってきた。

一方、八路軍の徴用は引揚に関係なく行われて居り、食えなくなったもの、コロ島への到着を疑うもの、闇舟の乗船料の高いのに驚いたものなど、徴用に応じるものも多いとか。そして徴用を解除されて帰って来たものに再度の徴用がくる例もあった。
全くてんやわんやの9月であった。でも引揚のチャンスはここ暫くであることに間違いなかった。

ある日、奥田さんの小母さんが私に言った。”Kさん、私達は相談して闇船で帰る事に決めたわ。そこで貴方のことだけど、お母さんも待ってるでしょう。船賃は私方で貸しますから一緒に帰る事にしなさい。”
全く嬉しかった。老夫婦を拝みたい気持ちだった。勿論、この金は内地に返ったらすぐに返済する事を心に誓った。
船賃を少なくする為に引揚事務局に徴用の状況を説明して、第3回引揚の船賃8千円を5千円に割引してもらう事に成功した。4ヶ月以上の八路軍への協力に対する報酬として減額してくれたものであった。

第3回の引揚船は10月4日の出発と連絡があった。奥田さん一家は私達の2日後の出発となって、別のグループに属することに決定した。

私が病院勤務を解除されて奥田さん一家に帰った時、この家に出入りしていた阪本と私とが同じグループの出発と決まった。私と阪本は出発を前にして、奥田さん一家と打ち合わせ、内地に帰ってからの通信連絡についてこまごまと協議した。

引揚の指示として、携帯する荷物は手に持てるだけ、そして現金は紙幣の種類を問わず3千円だけで、以上の現金または貴金属類等が発見されれば乗船は許可しないという厳重な通告があった。無一物に近い私達にとっては何の抵抗もなかったが、安東在住の人達はこれまで外地で貯蓄した財産を如何に合理的に持ち帰るかは重大な関心事であった。

この人達が内地に帰っても、無一文同様の生活を送らねばならぬ事を考えると当然の事であろう。

私は奥田さんの小父さんの背広、合オーバーを着用し、依頼された衣類など両手で持てるだけの品物、若干の金目なものを携帯することにしていた。もちろん此れ等の洋服外は内地に帰ったら連絡先に送る約束であった。といっても、荷物類は、乗船中はいいとして、長距離の徒歩行軍もあろうし、危険な場合も想定すれば、背に負うて更に両手に抱えるのに限度があった。
安東在住の人達は携帯の荷物に頭をひねった筈であった。しかしこのために、多くの持たなかった人々が引揚船で帰る恩恵を受けた事は間違いない事実であった。

小田原夫妻、森田夫妻も前後して引揚船で帰ることが決定した。内地での再会を約して帰るまでは自重自愛、まず祖国にたどり着く気持ちをお互いに確認した。(つづく)
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2012年2月25日 (土)

漢詩が文通の素材だった私の時代

夜来かなり降ったらしく、濃霧は視界を遮り7時半を過ぎても薄明が続き、山と云わず、街と云わず、高いビルまでも諒闇に佇む影としか見えない。
気温も昨日同様6度。生暖かくむづ痒くなりそう。

詞藻豊かだった数年前亡くなった長君が思い出される。この風景を彼だったら如何に詠み起こすだろうかと。
交際は浅く、季節の便り以外はなかったが、いつも彼の手紙には漢詩が詠み込まれていた。学熱心な律儀な男だったなあ。
風貌生前のごとく眼前に浮かぶ。

彼とは陸軍幹部候補生学校時代寝起きを共にした時期特別に親しくなった。姿勢端正、剛直な心情、信頼の置ける友だった。
卒業後同じ原隊に復帰したが、まもなく勤務が互いに変動し、逢うことは無くなった。

戦後復員を知らずに過ごしていたが、戦友述本君の死去に際し、葬儀場でばったり再会することになった。
以後福山に居ることは知りながら文通のみで生涯再会することはなかった。
従ってどのような戦後の過ごし方をしたかはお互いに深くは知らない。
しかし彼の年々送ってくる漢詩がその生活、心情の変わらないことを示していた。


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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その45)

34、祖国への旅立ち

○闇船

10月4日、鴨緑江の波止場近くの建物に集合した当日の乗船予定者は2千人位と囁かれていた。民主連盟員の厳重な検査が開始された。この闇船による有料引揚には八路軍は表面には出ずに、凡ては民主連盟が仕切っているようだった。内地に引き揚げる日本人を同じ日本人が厳重な検査をするなんてと呟く連中も居たが、今は只”忍”の一字、内地に帰るためにはこの方法しかなかった。
布団底から隠した紙幣が出て来て泣き崩れた中年の夫人、髪の毛の中に隠した宝石を見つけられた若い女性、でも今は他人の事を考えている余裕はなかった。途中での食糧にと阪本と私が携行した釜一杯に炊いた飯も、中に金目の品がないかと疑われてしゃもじでかき回されたが、私達は無事に検査を通過した。
出発に当たり20人くらいの班が編成されて、班長が指名され行動を一緒にするように念を押された。

午後3時頃にやっと乗船、しかしこの船は期待していた大きな船では無く、船一杯に乗って百人位を収容するようなジャンクであった。老人、婦人及び子供は船底に、男子は船上で船板の上で雑魚寝する程度のスペースしかなかった。私達は指示に従って20数隻のジャンクに分乗した。

夕方、この引揚船は波止場の舫を解き、一列に並んで鴨緑江の河口に向かって滑り出した。白帆が一杯に風を孕んで帆足が増した。この雄大な船団は実に素晴らしい眺めであったし、私の一生忘れる事の出来ない祖国への船出のシーンであった。

さらば満洲よ!5年間の私の貴重な青春をむさぼりとったこの大陸に、今別れを告げようとしていた。感激と、期待と、そして若干の危惧の念を持って、暗くなった豊かな鴨緑江の水面をいつまでも眺めていた。

そしてこの船団は数日、北朝鮮の海岸伝いに航行し,南朝鮮との境に近い北鮮の小港に着いた。その間は狭い船中での窮屈な起居も思うに任せぬようにぎっしりと積み込まれた感じであった。夜はそのまま雑魚寝するのだから足の踏み場もなかった。雨が少なかったのが幸いしたが、着いた時はくたくたに疲れていた。(つづく)
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2012年2月26日 (日)

二二六事件勃発の日

日本歴史が大転換した日といってよい、二二六事件の発生した日である。あれからもう76年になる。
当時中学1年だったから、しかも暗殺時代と云える程、政財界の暗殺が続いた時代だったから、翌日新聞で知ったのだったが、国の風雲が急であったことは身に滲みていた。地元でも符節を合わすごとく隣村の村長が暗殺された。これは白昼堂々とであった。
未だ明治いや幕末の気風が底流として流れていたのかも知れない。

大正末期の好景気に浮かれまくっていた国民に、政府の取った施策の不手際から昭和初年の大恐慌が発生し、その不満が高じた大鉄槌であった。何となく現代に似通っているように私には見える。
マッカーサーのお陰で骨の無い軍隊だから、二の舞は無いだろうが、一般国民がすんなり治まるのだろうかという気がしないでもない。

大正11年親父は妻と幼児二人を残してメキシコに再渡航した。若い義弟と甥の二人に権益保持を依存することが困難と見たからであった。当時澎湃として排日侮日の波がカリフォルニア州を中心に吹き荒れんとしていた。
親父等の住んでいたのはメキシコ・バハ・カリフォルニア州と米国カリフォルニア州との国境の町メヒカリでゲート一つくぐれば、もうアメリカだった。

皆一世だから開戦と同時に収容され、敵国人として何もかも没収されてしまった。
親父は運良く昭和4年に帰国していたからよかったが、残された義弟と甥の夫々の一家は遠く収容地に切り離され塗炭の苦しみをなめた筈である。
1957年6月の父の甥即ち従兄の手紙が残っているが、親父の居ない後随分困ったらしい。私の出した手紙があちこち回送されて届き,歓喜した様子がうかがえる。

何時の時代でも庶民はその時その時の国の取る施策に押し流されるだけである。
現状如何にも平和な姿をした世の中であるが、果たして天変地異を気にしているだけでいいのだろうか。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その46)

○38度線の峠

その翌日から苦難の旅が続いた。窮屈なジャンクに寝起きの船旅より解放されたが、今度は重たい荷物を持っての山登りのコースとなった。
一応、手に持てるだけの携帯品を許されての引揚であってみれば、それぞれ相当な荷物を持っていた。特に安東在住者で日本に引き揚げる一家にとっては、この荷物は内地に帰ってからの必要な最小限の世帯品でもあったのだった。

朝の7時には船を出て各班ごとに出発した。2千名もの人員が小さい子供から老人まで、夫々重たい携帯荷物を背負ったり手に持ったりして山路を登る事は全く大変なことであった。若いものは別として、老人や病人には無謀な行軍となった。でも此れ等の人達には、同じグループの若者が手を貸している微笑ましい風景も見られた。38度線を超して南鮮に入るまではの合い言葉のように、お互い死力を尽くしてもという気概にあふれていた。

とにかく、海面から数百メートルの38度境界線の峠まで登らねばならなかった。
阪本と私は引揚の検査以来知り合った同じ班の連中と一行の中程を歩いていた。肩に背負ったリュックが食い込んで来る。この荷物はほとんどが世話になった奥田さんから頼まれた衣類等であった。無事に届けねばならないとの使命感があった。
木の枝を組んで担架を作り、病人を運ぶ若人群の健気な行動が光っていた。
同じ班の有住という60年配の小父さんが元気に私達の横を通り抜けた。”小父さん、無理しちゃ駄目ですよ!”阪本が注意すると彼は元気そうに手を振った。“お先に” あと一息という安堵の気持ちが溢れているのが見受けられた。

この付近は未開墾の土地で人家も少ないが、それでも農道らしい山路が上に上へと続いていた。空は曇っていたが、雨が降らないのがめっけものであった。
次第に坂が急になると重い荷物で一行の登る速度も鈍くなって行くのだった。
ジャンクで一緒だった病身の母子や、草臥れ果てたような無口な女達はどうしたろうかと思いながらも、今は只正面の峠を越さねばならなかった。

数時間歩いた頃、前に歩いていた連中が順次に止まって山道の片側に並びだした、
“ソ連兵が来ているぞ”阪本が囁いた。引揚団のリーダーらしい人が駆け下りて来た。
“皆さん、荷物の検査ですよ、携帯品は中身が見えるように出して下さい。最後の検査ですから協力して下さい”
”チェッ!まだ略奪するつもりかい。取られるものはなにもないよ” こんな囁きが聞かれたが、さすがにここ迄来て抵抗するものはいなかった。ソ連兵は2人だった。彼等も大勢の日本人に非難の眼で睨みつけられては二人で略奪も出来ないような気配だった。

”どなたか薬品と毛布を持ってる方はいませんか?連中が欲しがっていますから出して下さい” リーダーがそう云ったが誰も返事をしなかった。一行が荷物を下ろして中を覗けるように広げた前を、ソ連兵は自動小銃を構えながら見て通った。実際薬品類は既に乗船前の検査で日本に持ち帰る事が許されず取り上げられていたから、まだ薬品類を携帯している者は少ない筈であった。彼等は黙って通り過ぎた。

“出発だ!もう少しで峠だぞ。頑張ろう” お互い励まし合いながら再び山路を登り始めるのだった。

もう大分登ったと感じていたが、この付近から道の左右は灌木の繁みで暗くなり、坂道も相当険しくなってきた。

”オーイ、峠だぞ、着いたぞ!” 先行していたグループの歓呼の声が聞こえて来た。元気な若者達は駈けるように登って行った。誰の顔にも生き生きとした表情が溢れて来た。私は一歩一歩、力を込めてこの坂道を堅実に登って行った。無理をしては駄目だというのが私のモットーであったが、ここまで来るともう目標の峠は目の前にあって、私達一行の帰国を妨げるものは何にもない筈であった。

”Tさん、大丈夫ですか?” 私は同じ班の中年の女性に話しかけた。
”私は小柄だから山路には強いのよ。でもこの荷物は捨ててしまいたい気持ち!” 彼女は笑って答えたが、お互い笑顔が出ただけでも嬉しかった。

灌木が切り拓かれた峠の頂上は比較的に明るく、内地に見かける峠と全く変らなかった。道の横に”38度線”と記した碑が突っ立っていた。

”やっと、南鮮に入ったんだなあ!” 阪本が眸を輝かせて呟いた。みんな感慨無量の境地であった。国境を越すんだとの喜びが湧いて来た。ここにはソ連軍も米軍も対立する南北朝鮮の兵士もいなく、無人の峠であった。全く戦争なんか忘れさせる平和な山中の一峠に過ぎなかった。

下り坂は浮き立つ様な軽い気分で、重い背の荷物も重さを感じないようにすっすっと足が動いた。見渡す南鮮の田園風景も亦、峠の向こう側と違って明るく和やかそうに映った。

山路を下りた麓の部落で私達は決められた村の集合場らしいところで一夜を明かす事になった。この部落には少数の米軍が駐留しているとのことだった。一行に取っては米軍管下の南鮮の地は花園にも見えていたし、これから至る所で逢う筈の米兵が騎士のようにも思えるのだった。
しかしこんな期待感も、現実にはそんな甘いものでは無かったことは徐々に知らされて来た。
米軍にしてもこの峠を挟んでソ連軍なり北鮮と対立している第一線であり、引き揚げて来た日本人に親しく対処も出来ない筈であった。

折り重なるように雑魚寝すると、一日の疲れと安堵からみんなぐっすりと寝込んだ。10月も中旬に入ってから夜は冷えて来た。
(つづく)
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2012年2月27日 (月)

終わりよければすべてよし

寒い時期だから余計に思い起こされるのだろうが、1941年1月25日私は関東軍入隊のため麻里布駅頭に立った。日の丸をかざして多数の人達が見送ってくれた。
送られたのは私のほか小学校二級上の藤本悠紀雄さん、同級の吉川康三君、一級下の深海勇君と合計4人だった。当時兵事係をしていた叔父の重田さんの引率の下に、集合場所広島市袋町小学校に向かって出発した。

その日特別に仕立てられた輸送船に乗って宇品港を出発、満洲国東安省斐徳の自動車第3聯隊に2月3日に到着入隊した。
いずれも戦後生きて故国に帰って来た。
が、私以外は現在皆この世にはいない。藤本さん、深海さんはいずれも一流企業の高級役職を勤め上げられたと聞いている。
吉川君は孤軍奮闘随分苦労したことを私は身近に知っている。

私自身は満洲の会社に勤めていたので、戦争の終わった段階で既に消滅していたし、帰り着いた家は終戦前日の猛爆撃で壊滅していた。帰国前に結核にやられていたので、公務員試験も保留とされ、志した会社には受け入れてもらえず、嫌々勤務した業務では失敗したし、外に目指した事業もことごとくうまくゆかず、とうとう破産寸前まで行ってしまった。

国税地方税滞納のため給料も差し押さえられ、時効中断により税務当局が回収不能と認定、放棄してくれ、その他の債権者もみなあきらめて放棄してくれ、やっと破産は免れた。
以後何年間も銀行、クレジット会社の信用を失い、取引も出来ない状態が永く続いた。

企画した会社名も家内名義だったし、十数年間日陰の暮らしをせざるを得なかった。
今電話が家内名義であるのは唯一その時代の遺跡である。

只一人生き残ったけれども、苦しみを一人で背負ったみたいで、戦友達の僅かな短命を嘆く気はしない。
運命とはかくのごとく人それぞれを区別するものである。公平などというものでは無い。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その47)

○引揚のコース

翌日この部落から米艦が迎えに来ている筈の海岸の船着場まで20kmの行程、丸一日の行軍と伝えられた。夕方までに指定の場所に到着せねば米艦に乗せて貰えないと云われれば、是非にも船着場に着かねばならなかった。班の中で元気な有住老人は一人ではしやいでいた。幸い班には病人はいなかった。

”もう南鮮だし、いくらでも歩くぞ。みんな頑張ろうね。うちの班は離れないようにまとまって行こうよ” 発破をかける老人の声。
その日は秋晴れの気持ちのいい天気となった。部落を出て5km程で海が見え始め、それから海岸に沿って曲がりくねった道が延々と続いていた。昨日まで疲れ果てたような婦人達も、今日は比較的元気そうに子供達と歩いて居るのを見るのが嬉しかった。彼女等の頬に赤味がさしてきたようであった。

この頃から私は、一昨年から出て来た腰部の腫れ物が化膿し始め疼き出したのが気になっていた。軍隊時代には年1回決まって出来ていた腫れ物は、体質とはいえ嫌なもので軍医に切開して貰った痛さも思い出され、うんざりするのだった。
ましてこんな時、こんな場所で疼くとは途方に暮れた私だった。
“顔色が悪いよ。どうかしたの?” 覗き込む様な阪本やT子に答えられず黙って歩くほかなかった。一行の中に医師がいるのだが、薬は全然ない筈であった。
手を後ろに回して患部にそっと触れると、先端が化膿したように膨らんでいるのがよく分かった。私は先輩の有住にそっと相談してみた。

この世慣れた先輩の知恵を借りて何とか処理したいと思った。黙って聞いていた有住は“判ったよ、とにかく目的地まで歩けるかい”と訊ねた。
”何とか無理してでもあるきたいと思います。荷物が腰を擦らないように注意して歩けば大丈夫でしょう”と笑ったつもりが顔を引きつけた。有住は私の顔に手を置いて、”少し熱が出ているぞ!といって、とにかく船着場まで早く着くようにしょうと並んで早目に歩き出した。
”Kさん、薬は全く無いが灸をしてあげるよ。艾だけは検査で取られないのでたっぷりもってるしなあ、ハ、ハ、ハ、!”
彼は愉快そうに笑って、如何に東洋医学の灸が効くかを歩きながら説明した。腰の痛みは疲れとともにひどくなったが、歯を食いしばって堪えるより仕方がなかった。

3時過ぎに目的の船着場に早目に到着した。まだ僅かな人が着いているだけで、遥かに延々とこちらにやってくるのが見受けられた。
有住は少し離れた岩の間に私を導いて患部を広げさせた。そしておもむろに缶に入った艾と小筆とを取り出して、裸になった私の下半身に筆で印を付け始めた。所謂壷という場所に印を付けて灸の位置を決める作業であろう。
腰と腹と股及び膝まで左右10カ所の灸点を付け終わると線香に火をつけた。そして艾を揉みながら点の部分の上に一つまみづつ押さえつけるように載せていった。
”少し熱いが我慢しろよ。暫くすると気持ちがよくなるからな”
灸の手を休めずに私を力づけた。今はもうどうにでもなれと、寝たまま青い空の浮雲を眺める外なかった。
“熱い!” 思わず叫んだ。見ると腹の上に艾の火が回って皮膚が焼けてるみたいだった。下腹に力を入れて熱さに耐えると、次の場所が熱くなる。しかし熱いだけで、場所が股に移ると火が消えた後の腹や腰はむしろ気持ちがいいような感じがして来た。
膝の下に火がつく頃、焼け尽くした艾を落とした点の部分は黒ずんだ焼け跡が生々しかった。30分位の時間だったろうか、私には生まれて初めての経験した治療法であった。

”どうだい、気分は、これで少しは楽になるよ” といって名医らしく胸を張った。
この好々爺の有住が灸をすえ自信を持った操作は実際に素晴らしかった。私の気持ちも落ち着き、痛みも熱さにまぎれて忘れたように消えつつあった。

夕方5時頃までに一行のほとんどが到着した。この船着場から数隻の小舟で沖合に停泊中の米艦に収容された。それは敗戦後、惨めな境遇ばかりに立たされて来た私達にとっては、力強く安堵感を抱かせる様な船に見えた。

夜になって出航した船は翌朝C港に到着して一同は下船した。すぐに港より準備されていた列車で南鮮の首都Sに向けて出発した。
米艦で日本まで送ってくれればとの一同の願いであったが、外地より敗戦国民の引揚であってみれば、国際的な問題があるのであろう。一応引揚のルールを踏まねばならないだろうと思った。(つづく)
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2012年2月28日 (火)

人間に差はない、教育の問題だ

もう春の気配濃厚を感じながら、寝床を離れる。気温は2度、ちょっぴり冷たい。
灰色の空から薄日が洩れている、もやが晴れるといい天気になるかもしれない。

東広島にあるエルピーダが倒れたと聞く。メモリーは日本のオハコだった筈だが、円高に勝てなかったらしい。
製品に差はなくても値段が高ければ商売は成り立たない。きまった論理である。
責任を一社にかぶせるのは気の毒である。
朝鮮の企業が圧倒的に強いと聞く。人種差別的発言は避けたいけれど、現実に同じ学校で朝鮮人、中国人も沢山いて同じ教育を受けた経験を私は持っている。総体に朝鮮人は優秀だった。中国人は中に凄いのが数人居た。数の多い日本人は怠けるのが多かった。
やっぱりそんな色彩が今になって露呈しているなと感ずる。
今の日本人はばか騒ぎし過ぎる。馬鹿を尊敬している様な風潮をすら感ずる。これでは優秀な人材は育たない。
肝心なのは大切な幼年、青年期の教育の問題だな。今の教育ではとても中国、韓国に追いつくのは無理だろう。

高いものは輸入する、安く買える。高くても売れるものを作る。自然体で行こう。
老人も知恵を出さないといけないな。

介護保険料が又上がるという。いずれ我が身もお世話になるかも知れず仕方がないな。生活も年々つましくなって来たし、少々増えても困ることもないだろう。
   
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その48)

○検疫

列車が普通の客車であったことも、内地の列車を思い出して懐かしく、窓から穏やかな南鮮の風景を楽しんだ。列車は首都のSに到着すると病人だけを降ろして発車した。暫くしてこの列車は一行の検疫の為この先のGという街まで行き、Gで当分滞在すると聞かされた。

G町の駅から近い療養所みたいな周囲を柵に囲まれた構内に連れ込まれた。一行は無事に検疫が終わるまで数日ここで過ごす事になった。全く以て胸がもやもやする様な引揚のコースであった。

50人づつ一つの天幕に雑居する事になった。天幕の周囲を頭にして中央に足を揃え敷き詰めた枯れ草の上に雑魚寝するのだが、もうこんな生活にも慣れて別に不思議に思うものは居なかった。

昼間は別として夜は肌寒く底冷えして、暗いランプの灯に引揚者の身も心も惨めになって行く様な虚しさを避けるように早々と寝込む連中も居た。それに着の身着のままで夜の着替えなんて考えられない毎日の行動の中に、雨に濡れた日や、汗にまみれた時の下着の取り替えや洗濯には夫々人知れず苦労している一行であった。

検疫といっても診察は割に簡単であった。ただ、一列に並んで順番を待っている時間が長かったことが印象的だった。

そして診察のない日に男達は米軍キャンプの清掃に駆り出された。初めて米軍に協力して合同作業に参加した感想は、陽気だと聞いていた米人の意外に作業に取り組む姿勢の真面目さであった。もちろん、勝者と敗者の立場の違いはあっても、時間から時間への作業については引揚者の一部が予定外の行事だと不貞腐れて適当にさぼる連中が居た反面、米兵の熱心な作業振りに接した事は思いがけない収穫であった。
仕事の時間と休憩の時間の明確な区切りを持つ彼等の行動に、これまで比較して来た中国人と日本人とは又違った国民性を発見した。作業中に煙草を吸っていた数人が米兵から注意された居た。私達もこれから内地に引き揚げて常時接するであろう米人の動作について関心があった。

そして又夜が来た。同じ班の阪本はT姉妹、有住先輩と暗いランプの灯で微かにお互いの顔を確認しながら、帰国後の抱負と理想に夢躍らし語り合うのであった。
戦後の暗い思い出は誰も口にしなかったし。聞きもしなかった。少し離れた天幕の片隅に同じ班の杉村いう中年の夫婦らしい2人連れが居た。未だ言葉を交わしたこともない無口のカップルは、いつも二人寄り添ってオドオドとした表情であった。恐らく戦後に、生活に倦み疲れ、知人、友人をなくして自然と結ばれたカップルと、腹の中で思いながらも誰も彼等を責めることはできなかった。暗いランプはみんなが投げ出している足許だけを照らしていた。お互いに寝転がり隣に同じ境遇の誰彼がいることに力づけられ、そのくせ眼は高い天幕の頂上を眺めつつ、くらい夜が早く過ぎるように祈るだけであった。

私は隣に寝ていた阪本やT姉妹と暗い長い夜を持て余して、郷土自慢に花を咲かせるのだったが、話題が尽きて一人寝、二人寝しているうちにうつらうつらとなってしまうことが多かった。底冷えする夜半に思わず目覚ましたとき、横に寝て居る隣人の平和な寝息に心の平静を感じるのであった。(つづく)
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2012年2月29日 (水)

昭和15年の新京での思い出

午後はよくなるという天気予報だが、どんより曇って10時現在なんともいえない日和である。
閏日とあって今日は余分な日だから、昔語りをしよう。

昭和15年の新聞報道によれば、あいも変らぬ盛り場風景というのがある。
学校卒業後すぐ就職先新京特別市大同大街の満洲鉱山株式会社に赴任し、この年昭和15年(康徳7年)3月20日から同年12月21日軍隊入営のため帰郷するまで、丁度9ヶ月新京で暮らした。

5月26日といえば、新京に着いたのが3月19日だったから、2ヶ月ばかり経っていた。なんとか会社の仕事にも慣れたし、新しい生活にも馴染んだ頃だった。
何と言っても田舎者の私は、外つ国といっても、親戚の国の首都新京である。一番気になるのは盛り場であることは丁度20歳の私では仕方がなかった。

丹念に書き写した日記には、こまごまと物珍しくその様子が記録されている。
新京中央通警察署に提出された新規許可願いのうち、東京銀座裏で働いていた女給が7割までを占めているとある。
支那事変によって取り締まりが酷しくなった東京を捨てて、ネオン街そのものが新京に移って来た感があるとある。
最近の中央通署管内の芸妓数は442名、女給は日本人が742名、鮮人32名外11名で合計785名、ダンサー80名、おでん屋割烹の女中が175名という素晴らしい数字に達していると記録している。

現在でも景気の善し悪しは盛り場の様子を見れば判るといわれている。
私には比較する術を持ち合わせては居ないが、新聞報道の文言をもってすればよほど景気がよかったのだろう。

当時私の初任給は内地の会社の丁度倍額であった。生活費は会社の3階建ての寮一室の部屋代と食費合わせて一ヶ月20円位だった。バスが会社まで送り迎えしてくれた。これは勿論タダ。昼飯は寮から届けられた。
本給の75円で十分楽に賄えたし、手当の75円はその都度そのまま母親に送金した。
私の一生のうち最高に贅沢な暮らしが出来た時代であった。

時間に余裕のある新米連中には、お金の余裕まであった。
盛り場では最高のお得意さんであったであろう。連日連夜といって過言では無かったかもしれない。
帰りの無料バスを利用したことはあまりなかった。

もちろん遊んでばかり居た訳では無い。放送局に足を運んで森繁久弥さん等に学んでドラマなどの端役をつとめたり、野球、テニス、卓球の試合に参加したり、ロシア語学校にちょっと顔を出したり、映画を見たり音楽を聴いたりすることなど多様に亘った。
音楽演芸は大同公園に立派な野外劇場があった。屢々通った。東京からの引っ越し公演などもあって、東京とほとんど違わないレベルのショータイムが過ごせたと思っている。
児玉公園スタディアムではプロ野球も何度か見た。(写真は当時新京在住者による同期の同窓会、場所は吉野町の割烹青柳である)

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その49)

○釜山

G町に来て1週間以上たってやっと検疫が済んだらしかった。私達はG町の駅から汽車で一応引き返すことになった。この天幕生活も毎夜暗い夜の帳の中で、故国への夢を見ながら団欒に結ばれた一行にとっては懐かしいものとなった。

今度は間違いなく釜山と聞かされてほっとした一行であった。しかし来た時の客車では無く荷物を運ぶ貨車に乗せられたのにはびっくりした。この方が収容人員が多いのかも知れない。私達は満洲各地から安東に逃れて来た時に貨車も経験していたが、安東在住の連中は永い間の平和な植民地生活から突然の異変でこれまでの苦労の数々の上に、貨車で釜山とは驚いても当然であった。
とにかく、今は引揚船に乗る為に釜山まで行かねばならなかった。

貨車は正常な列車の正常な運行の合間を縫って走る為か、度々駅で止まりながら二日目の夕方やっと釜山に到着した。

貨車の中から見る山野の眺めは祖国の農村地帯と何ら変わりは無かったが、異国で感じる秋の風は肌に酷しく、みんな黙り込んで座ったきりであった。リンゴの産地として有名なT町では停車中の貨車に売りに来た小さなリンゴを買ったが、噛み締めると甘い香りの汁がほとばしり一層の郷愁を偲ばせるのであった。

”Kさん、朝鮮紙幣をもっと持ってくれば良かったね、思惑が外れたよ” 阪本が口惜しそうに私に言った。

実際、引揚者一行が安東を船出するときに持参を許された紙幣は3千円までであった。ただし紙幣の種類は日本紙幣、満洲紙幣、朝鮮紙幣及び八路票(軍票)いづれでも良かった。その頃内地の新円切替を全然知らされていなかった日本人にとって、引揚が始まると同時に値上がりし出した日本紙幣が一番高く、引揚に朝鮮半島を経由する筈だから若干の準備として朝鮮紙幣が次に、最後に満洲紙幣は持って帰れば敗戦とはいえ日本政府が保証するだろうという理由の順で、各自の思い思いで所持の割合を決めて来た。勿論、内密に隠して持って帰る金は別だったが、これは主として日本紙幣が多かった。

それにしても、帰国後第2封鎖になるとは誰も思っていなかった。こんな長い引揚コースでうろついているのだったら、使える朝鮮紙幣を余計に持って帰った方が食糧の補給に役立っただろうと云っているのだった。
私は阪本と相談して若干の朝鮮紙幣は持って来たが、ここまでに殆ど食糧に使ってしまった。抜いたばかりの生の大根を丸かじりにしたことも度々だった。釜山まで行けば何とかなるだろう。せめて釜山まではあらゆる方法で食糧を確保せねばならなかった。
でもこんなに引揚が長くなるとは予想だにしなかった一行であった。

釜山に着いたのは10月の終わり頃だった。釜山の駅から続いている波止場に向かった。一行が導かれた釜山港の埠頭の一角に日本人引揚者の収容所があり、厳重な柵を巡らして遮蔽されていた。埠頭の倉庫が引揚船を待つ間の引揚者の宿泊する収容所となっていた。(つづく)
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