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2012年1月30日 (月)

岩国市長選挙

灰色の空、気温2度あまりいい天気にはなりそうにない。
9時半薄日が射して来る。
そろそろ確定申告の準備もしなければならない。老人にも生きている以上それなりの仕事はある。
まるでのんびりとはいかないのだなこの世は。

岩国市長選は私の予想通り現状肯定の現市長が楽々と当選した。古いと云われるだろうが、吉川藩の血の流れがまだまだ残存している感じである。そして市民の対米感覚も独自の方向性がある。簡単に払拭しきれるとは私は思っていない。
広島市のように住民の大半が入れ替わったような町とは違うのだな。

私個人としてはアメリカという国は嫌いである。しかし敗戦という事実に拘らず、正に日本そのものを残してくれたという負い目は私の一生を通じて感じている。相手が他の国だったら日本国は無くなっていただろうし、日本民族のアイディンティティそのものもまともに残す事は不可能だっただろう。
何世紀も続いた白人による他国の植民地化を中止した。共産主義のグローバル化でもなかった。自らの国を律する途だった民主化はくどいほど唱え実行し続けた。この主張が我が民族を事実上救った。

現実にアメリカの傘の下にいることが一番安全だと思わざるを得ない。ロシアは未だに衣のしたに鎧を隠している。
大した犠牲とは思われない軍事基地を貸すくらいで、安全が確保出来れば良いではないか、韓国も排斥するどころか、沖縄の基地の代わりに引き受けようかとも言ったとか聞いた事がある。

無謀にも私達は螳螂の斧を振った。その教訓は未だに身にしみている。
思い上がりを捨て、身の程を知るべきであるというのが、戦場を現実に通り過ぎて来た私の意見である。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その19)

17、生きるための商売開始

私達は小田原さん一家に迷惑をかけていると知りながらも、今の境遇ではどうにもならず、奥さんの買い物、3歳の長女洋子ちゃんの守をして申し訳ない一面をカバーしていた。そんなある日、市場から帰った奥さんが私達にハッパをかけてくれた。
”貴方たち毎日じっとしていても仕方ないでしょう。何か商売でもしたらどう? 何か作って市場で売ったらどうかと思うんだけどねえ、勿論私も手伝うわ”

考えてみると敗戦国民として満州国に残された日本人は、内地に帰るまで肩を寄せ合って協力して行こうとの相互扶助の精神は広がって行ったが、実際には助ける同胞の立場と助けられる側の同胞とあって、助ける方は何時帰れるか判らないのに、全面的に面倒をみることは大変な事だとし、助けられた私自身も小田原さん一家にお世話になったまま居座っていることに反発を感じ、何とか自分たちの食事代くらいは稼ぎたいと思っていた時でもあった。

早速”やりましょう”と話はまとまった。
私と松山と小田原さんの奥さん、隣家の薬剤師森田さんの奥さんが参加されて4人で相談した。4人はほとんど近い年齢ですぐに話が合ったが、年配の板橋さんは別に商売したいと言って参加しなかった。
先ず仕事の分担と売るために作る商品から決める事にした。
手っ取り早くということと、作るなら美味しいものをと、若干夢みたいな空想の実現を願う意見も尊重して、作るものは”おはぎ”とバラ寿司”の2種類に決まった。
これは全く楽しい作業であった。
こんな状況下であったればこそ反って、楽しかったのかも知れなかった。
奥さん二人が材料の仕入れと調理を担当し、外交的な松山が販売を受け持ち、私は飯炊き一切を受け持った。

この頃、私は毎朝6時に一人だけ早く起きて台所に行き薪で飯を炊いた。朝から三回炊くのが日課であった。
最初の飯は”おはぎ用”であり、水加減を多めに柔らかく、二回目は”寿司用”で水加減を少なめに固い飯を、そして三回目は小田原さん一家及び私達の普通の食事用であった。

結果は思いの外好成績であった。最初の3日間は綺麗に売り切れた。奥さんたちの作った”おはぎ”と”バラ寿司”は製品としては素人臭い点はあったが、一応丁寧に出来て居り、本当の商売気ある訳でなく、大体の原価計算によったもので値段に比べると安くうまいと感じられたのかも知れない。
或は膨れ上がった安東市の日本人人口の需要に対して、未だ少ない供給側に立った初期だったからかも知れない。
更に在住の日本人は財産を持って帰れないとの噂で帰るまでの財産だとの退廃的な空気も出懸って、案外にうけたのかも知れなかった。

私達も今までのように居候的生活よりも張りのある楽しい毎日を送る事が出来た。
私は炊事の後始末が済むと、そこそこに松山の販売している市場に急いだ。

半月位続いたこの商売も次第に日本人同士の同業者が増え、そして早急に内地には内地に帰れないと判って来ると財布のひもが次第に締まり売れなくなって来た。私達の楽しかったささやかな共同事業にも終わりがやって来た。しかしこの経験は私と松山には、自力で内地帰還まで頑張ろうという気力を持たせてくれた。
私達は小田原さんに申し出て自炊する形にしてもらった。
それは今まで随分と面倒をかけて助けていただいたので、これからは部屋と寝具だけは借りても食事だけは自分たちで稼がなければならないという気持ちになったからであり、世間知らずの私達が幾分なりと目が開けて来たと考えても良かった。

一方板橋さんは経験を生かしてか手焼きの草加せんべいで順調に稼いでいた。さすがに年配で世渡りの途のうまいのには感心したが、協調性は全く無く悪く言えば利己的で、せんべい一枚私達にくれたことすらなかった。
小田原さん一家と私と松山、そして板橋さんの3世帯の寄り集まり的に、夫々に炊事して食事も別々に取る事になった。

小田原の奥さんと、隣家の森田さんの奥さんはいろいろと私達に便宜を図って、食事時に副食の差し入れ等、相変わらず力になっていただいた。もちろん私達も暇を見ては洋子ちゃんの守り、買い物のお供をして幾分でもご恩に報いたいと勤めて来た。(つづく)
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