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2012年1月22日 (日)

河北君脱出決行の夜

今日で丸92年生きた事になる。考えても見なかった我が寿命である。無心に生きたと言おうか、いや神の前に投げ出したと言うべきか、なるがまま固執せずに自然に永らえたというのが本当だろう。

誕生日といっても若い時期と違って格別意味があると云ったものでもない。只最近は運転免許証の更新時期が誕生日となったので、深刻に記憶させられるということになった。

昔から”棺を蓋いて事定まる”ということばがあるが、その意味では私の毀誉褒貶はまだ定まるところまでは行っていない。
しかしいち早く一生を終えて行った、数々の友人知人の定まり具合は幸いにも望見出来る。
多年友誼を重ねて来た同僚、或は先輩後輩たちのその私に対する影響或は存在価値をおこがましくも高所から達見することが出来る。
正に長寿者の特権であると言わねばならぬ。
その本質を見られたという誇らしさがあると言っても過言ではない。

私は本心は一生を既に無事終えたつもりで、日々時を刻んでいる。何の期待もなければ欲望もない。
最後の瞬間が待ち遠しくもある。
しかしこれが曲者だという事もよく知っているつもりだ。
油断は出来ない。一番に植物人間である。こればかりはごめん蒙りたい。
次は身動き出来ない重症患者である。こんな時は即刻殺して欲しい。
この願い果たして今まで好意的だった神が受け入れてくれるであろうか。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その11)

9、決行

時計の針は10時20分を指した。横になっていた私はそっと起き上がり,2階の窓からロープに背嚢を縛り付け吊り下げた。闇の中にAとBとが待っていた。もしソ連軍に発見され発砲された場合,武器のない私達は4人ばらばらに逃げるより外はないと話し合った。
いづれ出たとこ勝負に任せるより外にはないのだ。

Aの先導で行動開始した。この付近にはソ連兵は居ないと判っていても,足音をしのばせながら早めに歩いた。月はなかったが夏の夜は暗闇の中にも、ほのかな甘い風情がただよっていた。
夜霧に濡れながら,15分くらいで水際に着いた。逃げ出すのに朝来た表道路は行けないし,又危険でもあり校舎の裏の繁みを進んだわけである。
Aの説明ではこの水は南湖という湖の水でどの方向に行っても最後にはこの橋から通ずる一カ所のみと聞いて唖然とした。

何故なら今朝建国大学に向かう途中に南湖のほとりの大通りを、水際に沿って建国廟の前を通った時に設けられてあったソ連軍の衛兵詰所と兵士を見ていたからである。でも、ここまできたら後退は出来ない。水際に沿って建国廟に近づいて行った。

明るい電光に浮かび上がったような神社風な建物が闇の中に見えた。
そそり立った大樹の木立越しに廟内を覗くと、そこは廟の裏手らしく、丁度ソ連軍の兵士が自動小銃を持って哨戒している姿が見えた。
勿論一人である。そして私達が潜んでいる方向にやってきた。こちらの方は真っ暗で絶対に判る筈はないと思いながらもじっと息を呑む一瞬,ソ連兵は左に向きを変えた。予定の歩哨コースであろう!
思わず出て来た生汗を拭き取った。恐らく12時近くであろう。

”かつ、かつ”と軍靴の音が遠ざかり,歩哨の姿が木立の闇に消えてしまった。

今だ!木立から飛び出した私達は反対の方向に足音を忍ばせながらも、大幅な歩調で建国廟の裏側を通り抜けた。
突然,闇の中に自動小銃の音を聞いた私達は足を止めた。
恐らく私達と同じ様な連中が歩哨に見つかって発砲されたに違いなかった。
一瞬恐怖の念がこみ上げて来た。しかしその方向は建国廟の表と思われた。
”チャンスだ” 私は急げの合図をすると駆け出した。木立の境内を抜けるとすぐに垣根にぶっつかった。垣根の先は建国廟より南湖に至る道路であった。
人影はない。
一斉に道路に飛び降りた。少しばかりほっとして胸の高鳴りを抑えながら,廟と反対の方向に,南湖を渡る橋を求めて足音を忍ばせながらも急ぎ足を続けた。

10分ぐらいも走ったであろうか、闇の中に湖が広がり,正面に橋が見えて来た。Aがそっと近づいてきて、南湖に架かる橋はここだけだと思うと告げた。
道路は橋に続いていた。今は一刻の余裕もできなかった。断の一字である。
私は松山に合図し,私達は若干の間隔を取って渡り始めた。橋の幅は2米くらいあったろうか。真っ直ぐに対岸まで続いていた。

今は、ソ連軍が前から来ても,後方より迫っても,遭遇すれば間違いなく殺されるであろう。
湖水の深さは判らない。不気味に黒く静まり返った夜の大気に息苦しくなって来る。
この時ばかりは”橋を渡り切るまでソ連軍に逢わないようにお願いします”と神仏にすがる様な気持ちであった。
橋の中程で,前に聞いた自動小銃の音と、撃たれたらしい断末の人の声らしいものが聞こえた。でも廟の中で聞いたより遠いものであった。早く橋を渡ることが先だ。もはや忍ばす必要はなかった。4人の足音が静寂な闇の中に響いた。

真夜中であった。思惑と恐怖に満ちた形相で、恐らく悪鬼のごとく見えたに違いなかった。橋を渡り終えた。誰にも逢わなかったことを神仏に感謝した。橋の先は一直線にやや広い道路が新京の南部に通じていた。
道路の両側は雑木、雑草の繁みで、更に一段低く畑が広がっていた。直ちに疎開して、道路に沿いながら畠の中を歩くことにした。
これまでの比較的スムースな運びに込み上げるような喜びを噛み締めながら黙々と畑の中を歩いた。今後はソ連軍に合っても、十分やり過ごせるだろう。でもここで警戒を解いては駄目だと心に言い聞かせて、日本人同胞のいる街を求めて歩き続けた。

恐らく9月2日の午前1時頃であろう。寒くはないが、夜の湿った空気が心に冷静さを持たせてくれるようだ。
橋を渡って1時間ぐらい歩いたろうか。民家らしいものがぽつぽつと左右に現れてきた。全く地理に不案内の私と松山はAとBに任せるより外はなかった。どう曲がって、どの方向に進んだかはわからなかった。
”あの灯が日本人の家が集まっているところです。南部郊外のMですよ。”Aのほっとした声だった。

ソ連軍や現地人の略奪を恐れてか、かっての灯火管制のように灯火は薄暗く点されていた。
でも暗闇の中に民家の集まりであることは十分に判った。(つづく)
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