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2012年1月28日 (土)

物まねの私の日記

霧の深い朝、気温は2度。宮島も見えない。
昨年一年間のココログの製本を頼んで置いたのが見積もりが届いたので早速注文しておく。ページ数が394ページといつもよりうんと少ないので1冊¥5900。という事である。去年の半額に収まる。写真の貼付が少なかったせいもあるし、モノクロ印刷にしたからでもあるだろう。
今年はやるところが少ないので6冊にする。

私の最近のブログは日記丸写しと言っても良い。
只個人的な都合の悪いところだけは削除したり、変名したりしているが。
従って一頃のように、二重の物書きをしないで済むので、割と楽である。
文章は小さい時から稚拙である。作文という学科があったが、一度でもほめられたことはない。
もうすっかり諦めている。ただ読む事が好きだから、時に真似をすることは出来る。

毎日の日記もそのまねごとである。
それにしてもよく続いたものである。件数がもう少しで2000になる。一日一題だから2000日書いた事にもなる。下手な文章でも読んでくれる人は6万回を越える。
悪文にめげずブログを続けている意欲の素因は正にそこにありそうだ。   
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その17)

15、安東の街へ

9月6日、昼前に待望の安東に到着した。みんな勝手に貨車を降りて思いのままに立ち去って行った。ホームに安東と書いた看板が柱にくくりつけてあった。改札口にも駅員は居なかった。私達は改札口から、がらんとした待合室を通り駅前広場に出た。降りた乗客はやはり軍人らしい服装が多かった。
列車は安東駅までで、ここが終着駅とすれば私達は歩いて鴨緑江の鉄橋を渡るより外はなかった。
貨車を降りた旧日本軍人らしい数名のグループが、線路づたいに鉄橋の方向に向かっていた。
貨車の中で知り合いになった年配の石橋さんという軍隊下番の人と私と松山も、遅れじと線路のによじ登って彼らの跡を追う事にした。

10分ぐらいで鴨緑江が見えた。一歩内地に近づいた感じが湧いて来た。
すると先頭に立っていたグループが引き返してくるところであった。
”おーい、ソ連兵が鉄橋の入り口を分捕って追い返された。朝鮮へは渡れないぞ!”
その指す方向には、自動小銃を構えたソ連兵の姿が見えた。
”没法子(メイファーズ)” 私達はすごすごと引き返す以外には方法がなかった。

これからどうなることだろう。次の心配が胸を痛めた。
線路から降りて安東の街に入る事にした。

取りあえず安東の街の状況、朝鮮に渡る方法につき情報を得なければならない。
私達は疎開者及び難民を救済するために出来た日本人会に向かった。
ここには既にいっぱいの人が集まっていた。
ほとんどが満洲各地より内地に帰るため満洲の玄関口”安東”に集まった疎開者、難民、旧軍人の群れであった。
私達がここで知り得た情報は次の通りであった。
鴨緑江の鉄橋はソ連軍の管理で軍用車以外は渡れない。
内地へ帰るめどは現在では全く無い。
河向かいの新義州は更に治安が悪いということで、兎に角、安東在住の日本人市民の方に頼んで泊めて貰って、内地に帰る機会を待ちなさいとの係員の話であった。(つづく)
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