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2012年1月 1日 (日)

昭和17年の私の元日

灰色の雲がたれ込めて、何時降り出すやらの天気で、元旦を迎える。気温3度。
昨夜はパソコンと終始にらめっこしたので、紅白も何もテレビは関係なく、10時には早々と眠りに就く。

新春とはいえ、冬のまっただ中に変わりはない。老人には寒さだけが関心事。
ゆっくりと起床、小さな餅二個でお雑煮の朝食が終わる。
おとそはこれ又地酒の特等酒を杯2、3杯で終わり。
それでも酔ったのか起きていられないので横になる。昼まではそのまま午睡。

凄い量の新聞そしてそれに挟まれた広告の量。配達員は大変だったろうなあ。
すぐ捨てるのは気の毒だから、少しめくってみる。
名だたるお店が皆顔を揃えている。どれだけ売れるんだろう、今は元日から開いている店も多い。
正月はみんなが休んで、自宅や友達のうちで夢中で遊んだ頃が懐かしい。

昭和17年の正月、弁当を持たずに外出して、渋谷にも銀座、日本橋にも、開けてる食堂が一軒もなく、飢えでふらふらになり、夕方近く、浅草まで行ってやっと食事にありつけたことがあった。
地下鉄が一本渋谷から浅草まで通っていた。
世田谷の陸軍自動車学校から渋谷駅まで歩いて外出したのだが、学校では弁当は頼めばこしらえてくれたのに、うかつだった若き日のことである。
東京でも浅草以外正月に休まない場所はないとは知らなかった。

日本は進歩はしたのだろうが、果たして好くなったのであろうか。
幸福なのは今か昔か。
昔も昔、子供の頃が一番好かったように思えてならない。

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2012年1月 2日 (月)

写真のお土産

うっすらと雪の朝。新雪で清められたか。
ストーヴを燃やしてもなかなか気温が上がらない。ままよ寝て過ごすか。
枕元のiPadでネット訪問。

午前10時、空は綺麗に晴れ上がる。さんさんと明るすぎる太陽が光を投げかける。
天気予報が大分外れた感じ。
しかし億劫でどこに出かける気にもならない。

昼飯を食ってから、電話機の子機の電池が駄目になり交歓を要するのを思い出し、デオデオに走る。
すぐ見つかり買って帰って取り付ける。

南から年始の挨拶をみんなが呉れる。目下のところ3カ所に別れての生活だからたまらない。
圭さんが風邪を引いてるらしいが早く治ることを祈るばかりだ。
晴ちゃんが元気らしいから今年は心機一転して頑張るだろう。

夜メールに添付しておくって来た18枚の写真を印刷してみる。
彼女ら親子以外は私の知らないもの、知らない景色ばかりだから、説明がないとやはり興趣が湧かない。只物珍しいだけでは満足出来そうにない。パリのエッフェル塔やノートルダム大聖堂だけは判るのだが。
いつかこちらにやって来た時、講釈を聴くことになるだろう。

写真で見る限り朝子はまったく元気そうでいろつやもいい。先ず間違いないなとまたまた安心。

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2012年1月 4日 (水)

映画”山本五十六”を見る

気温1度、白く霞んではいるが好い天気になりそうかと思っていたが雪が9時頃からかなり激しく降り始める。
仕事始めもあまり嬉しくはなりそうにないようだ。

しかし私たちには長い休みが終わってひとまず人並みの生活がもどりそう。

家内は29日の半休に医者に行き損ねて、薬がないまま1週間を過ごす。
身体の調子が悪くなったとこぼしている。

NHKの大河ドラマ”平清盛”の前宣伝につられて、宮島詣でが多そうだ。
ロートル(老頭児)の出る幕ではないと遠慮しているのだが、紅葉も逃したし、元旦詣でも遠慮して、ぼつぼつと思っていたが、雪が降り出したりしてタイミングは未だよくなさそうだ。

家内が映画を見に行こうと誘う。雪が降ってるのに嫌だなと云っても、一人でも出かけそうな気配。
山本五十六のどこがいいんだろうと思いながら、まあいいかとあきらめて、大急ぎで食事を済ませ出かける。
駐車場がいっぱいで一番反対側に一つだけ残っていたのに入れて、映画館まで2百米も歩く。
もう始まって7、8分経っている。
目が慣れないヤミの中を恐る恐る指定席に入る。家を出る時咄嗟に懐中電灯に手が掛かったのがよかった。
階段を上がって座席番号を確認して、座席に転がり込む。

物語は山本海軍次官が日独伊3国同盟に反対しているところから始まる。
私もこの頃のいきさつはよく承知していたので、世論に押し切られてとうとう同盟を結び、転がり込むように第二次大戦に向かって、戦争を拡大して行ったことは承知していて間違いない。

私も世論形成の一員だったかもしれない。しかし新聞ラジオで教えられ誘導されたことも事実である。
僅か20歳の若輩の私に確固たる定見があろう筈がない。
どの新聞を見ても、排日侮日の米英憎しの論調と経済封鎖などの記事で埋め尽くされ、息苦しさは絶頂に達していたことも事実である。

この映画に出てくる、新聞編集者に山本次官が云うように世論など君らが作ったのではという、その通りであった。
日露戦争との違いは、当時の政治家がやはり作られた世論を押し切って講話に早くから手を打っていたこと、それが出来る政治家がいたことだった。

結果はご覧通りなんだが、この際アメリカに領土的野心がなかったことが、日本の救いだった。
欲望むき出しのソ連に次の大戦を予感し、味方に付けることを最優先せざるを得なかった、アメリカの判断に救われたといってよい。
これこそ正に神風だった。

アメリカだってカリフォルニアやハワイ、フィリッピンなどに触手を伸ばして略取し、欧州諸国となんら変るところはない。
ソ連の北海道割譲要求などがなければ、戦後処理がどう変ったかわからないと云ってよいと私は思っている。
ソ連の虫の好さがアメリカを驚嘆させ警戒させたと思う。

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2012年1月 6日 (金)

膝関節痛と温灸

今朝も-1度。乾癬がやたら痒い。
右膝関節も時々痛んで歩くのに気になる。だんだん身体のガタが進行しているようだ。
90過ぎまでよく持てて来たのだから文句をいってはいけない。あきらめが肝心だな。

といっても痛みがない方がいいにきまっている。いつか治したように温灸を当ててみようと、未だ灸灰の残りが沢山あるので、引っ張り出して始める。お灸のように、火の塊を置くのではないから、我慢する必要はない。
太い線香に火をつけて、瀬戸物の容器に入れ、間に布切れを挟んで患部に当てるだけである。熱くてやけどしそうになれば、少しずらす。
患部のまわりをぐるぐる回りながら、火が消えるまで続ける。全く簡単な作業である。
痛い人は一度やってみたらいい。1本の線香で1時間燃えてくれる。これだけは辛抱しなければ何にもならない。

左膝関節は昨年の今頃痛くなって歩けなくなった。医者に行って注射してもらったり、湿布薬をもらったりして何ヶ月か続けたが、一時抑えに過ぎず、すぐ又痛くなり、あきらめていたのだが、人に聞いて温灸を知り、用事のない身だから、音楽など聞きながら続けた。
1ヶ月くらいで大分楽になった。2ヶ月もするともう何でもなく歩けるようになった。
もう大丈夫だろうと治療はやめた。現在に至るまで再発はしていない。

今度の右膝はどうか、もちろん同じように治るかどうか保証は無い。
学生時代体育の時間にハンドボールをしていて、逆膝に転んで捻挫、医者に担ぎ込まれた。                                                   半月ぐらい松葉杖で登校する日が続いた。関節の接続がまずかったのか、時々痛み始めたりした。
左ひざと比べると、関節の方向が少し異なっているようである。

別に大した差し障りはないから、兵隊もそれで済ましたし、何十年もそのままで過ごしてきた。
しかし今頃になってどうも様子がおかしい。湿布でもなかなか治らない。注射は何度もするものではない。
ということで温灸に落ち着いたわけだが、はたして今度はどうだろう。

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2012年1月 7日 (土)

年金生活者の苦情

今朝は気温1度とやや戻る。雲多く晴れ間は殆ど見えない。
政府はとうとう消費税を2014年4月から上げることに決めた。半分以上赤字予算しか組めないようでは仕方ないだろう。

後を託す若者は年々減って行くばかりである。昨夜の深夜放送では90年後の22世紀初頭には日本人口はなんと4000万人に激減するという学者の発言があり、微に入り細にわたりその理由説明もあった。愕然としたのは私一人ではあるまい。現在の人口でも税負担は容易ではないのに、半分以下になるのである。
考えるだけでも恐ろしい。
腰の抜けた今の政治家だけに任しておいていいのだろうか。

外のことは判らないが、年金オンリーで過ごしている、私も今では想像以上の税金や各種保険料など負担せしめられている。そして近く年金そのものも減額されるらしい。
そもそも年金は営々として、何十年も給料から差し引いて積み立てられて来たものではなかったのか。何時税金から支払う仕組みになったのか。今又課税するなどとは二重課税ではないのか。全く理解に苦しむ話である。
無駄な運営費、無益な投資などで、元本は費消し尽くされて、支払い責任者の政府が方便として消費税などという税金を創設したとも聞いている。
もの言わぬ年金積立金、当然補償すべき義務が政府にあるのではないか。これ又知恵のない私には理解が出来ない話である。


固定の電話機の子機が全然使えないので、バッテリーを買って来て交換したがやはり使えない。
電話機のメーカーに電話して修理を依頼する。電話で操作方法を習いその通り実施すると何のことはない。簡単に通ずるようになる。

手順があるのだな。気づいただけ賢くなった。

昼前になると雲が切れて、いい天気になる。暑いくらいである。
午後3時には又雲が張り出しもう真っ暗になる。変わり身の早い一日だ。

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2012年1月 8日 (日)

大本営メディアに堕ちるな

雲が空いっぱい。東天を上がった朝日から7時半やっと家並に明るい光が届く。
今朝の産経ネットの巻頭にこんな詩が載っている。(無断転載)
Photo


面白いの一語に尽きる。

同じ産経に毛利元就の手紙のことが書いてある。元就は沢山の手紙を残していることで有名である。
もっとも貰った相手が保存してくれていたからだろうが、よく残されたものだ。
立派な資料として今日残っている。
彼の偉大さもこれによって知ることが出来る。
今日は三男隆景に送った手紙に就いて語られているが、よく人の長所を見ていたのだなと、元就の人物の確かさが窺われる。

ついでに同じ新聞の論調にあったのだが、「大本営メディアに堕ちることなかれ」というのがあった。
記者クラブで承った政府の言い分をそのまま書くなということだろうが、今はページ数も多く自由に書ける筈だから、異論があれば並べて書けばいいのではと思ったりする。

大本営発表は国民が信じ過ぎた。それを批判する力は国民には残念ながらなかった。
政治家にしろ、新聞記者にしろ、世論世論と言い過ぎる。国民全体に聞いた訳でもないのに。
世論調査にしてもたかだか千人か二千人の回答で類推しているだけではないか。
元はと言えば馬鹿にされてる国民が悪いのだが。

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2012年1月 9日 (月)

開拓者たち

今朝も気温2度とまずまずの天気。
長い休みの後の3連休、一般国民はどうでもいいと思っているのでは。
こんなこと誰が決めるのだろう。
少し常識が足りないのではと思ったりする。
昔も今も役人などいうのは、変なことを考え出す名人だからなあ。

先日本屋でiPhone&iPadの無料アプリ666というのを買って来て、面白そうなのをQRコードで3つ4つインストールして使ってみる。
結構行けるんだなあ。世界はやはり広い、こんなちまちましたものを考えつくのだから恐ろしい。
何時だったか大分前スーパーベスト百本のアプリというのを買ったことがあったが、2本しか役に立たなかった。使い方も難しかった。
今度はインストール方法がものすごく簡単でこれはいい。
電話機能はほとんど使わないのに、iPhoneは忙しい。予想出来なかった。
今現在10本ばかりインストールしているが、この分ではかなり取り込むことになりそうである。

今NHKのドラマで”開拓者たち”というのをやっている、テレビをあまり見ないので、ちらっと見ただけでのコメントは控えるべきだとは思うが、かって軍隊時代、満洲東安省斐徳の挽馬部隊に通って、騎馬の練習を2ヶ月ばかりやらされたことがある、その野外騎乗訓練で、何キロあったか付近の開拓農村を訪れて、故国を遠く離れて、やはりお国のためと働いておられる農家の人々と親しく接することがあった。

終戦間際のソ連参戦で皆ひどいめに逢われたわけだが、ドラマで描かれてる場所の名前は聞き知っているが、どの辺だったか記憶には無い。
質素な中にも嬉々として、堅実なくらしをしておられたと尊敬の念を持ちながらの記憶の中に、その情景が浮かんでくるのだが、ドラマであっても痛々しくて正視に耐えなかった。

人間の歴史は常に残酷である。私自身も農家の三男坊のメキシコ移民の倅である。出生地はメキシコ・南カリフォルニア・メキシカリ市と戸籍には記されている。排日侮日のさなかに生を迎えた。両親が苦労を重ねなかったわけがない。
私はいちはやく小さい妹とともに母に連れられて日本に帰国しそのまま定住出来たからよかったが、父に呼び寄せられた母の弟や父の甥などは強制収容の目に会い塗炭の苦しみをなめた。父は大戦になる前死んだから関係はなかったが、当時東と西と違いはあっても、国土の乏しい日本人にとっては移民政策は必要不可欠な生存手段であった。
上記の私の叔父、そして従兄は故国日本を二度とみることなく、骨を彼の地に埋めた。皆はかない運命に翻弄されたのである。
 
延々と広がる大荒野に、なんの楽しみもなく、くらしていたあの一見平和だった開拓民たちの最後を、絵にしてみることは、私にはどうしても耐えられなかった。 

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2012年1月12日 (木)

親友河北君のシベリア送り脱出行

-1度に今朝は下がっている。まあ順当なところだろう。
体調は変わりない。
昨日は病院行きがあったりして、温灸を忘れてしまったが、今朝はテレビでお灸のことを朝からやってたので思い出して早速実行する。
それにしてもいいものが編み出されたものだ。つぼにちょっと貼るだけでいいなんて大丈夫なんかなあ。
灸の効果は実験済みだから、そのものに疑問はないが、簡単過ぎて事故につながらなければいいがとちょっと心配。

Amazonから需要なお知らせというメールが届く。何事ならんと開けて読むと、注文品の支払いクレジットが受け入れられないということだから、6日以内に手続きしないと注文は無効になるという。
何も注文した憶えがないし、おれもぼけたかなあといろいろ注文なるものを詮索したが見当たらない。
Amazonに入って調べてみたが、ここ1ヶ月何も注文していないと出る。おかしなことがあるものである。
結局実害はないから放っておくことにする。
油断がならない世の中である。

ふと思い出して、私の古い親友が30年前製本してくれた手記を引っ張り出して読み始めた。
永い間本棚の隅に置きさらしていたが格別痛んではいない。
彼は満洲新京で部隊がそっくりシベリアに連行される前夜、それを自力の判断で見抜き、収容所を夜陰にまぎれて脱走し、幾多の苦難を凌ぎつつ、朝鮮経由で一年半後帰国を果たした男である。
格別面白い資料とはいえないかもしれないが、私のように部隊ごと整斉と帰国したのと違う咄嗟の冒険心が働いた男らしさがある。
丁度20年前に彼は亡くなった。
戦後は実力で公認会計士資格を勝ち取り、栄職にありながら、いち早くあの世に逝ってしまった。

彼の名は河北省一という。友人中でも特異の男だっただけに、それを偲ぶよすがとしてその手記の一部を転載したい。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その1)

はしがき
”人生にとって、あらゆる迂路も、また正路である”ーーー”小泉信三氏”
私の好きな座右の銘としている言葉である。
私にとって戦争にかり出されて内地に引き揚げるまでの灰色の青春は迂路であったか。
としたら、この路もまたその当時に生きていた私達にとっては、宿命的に踏まなければならなかった正路であった筈である。

戦争は多くの犠牲を要求し、関連する多くの人の運命を悲惨な方向に変えて行く。ましてや敗戦では然り。しかしながら戦争では歪められ、予知しなかった路も亦、人生の正面道路であってみれば、好むと好まざるとに拘らず避けられない道であった。
光陰矢の如し、今になってみれば、むしろ思い出としての記憶ではあるが、戦争という運命に立ち向かい、抵抗し、順応した帰国までの回想を今、固い胸からひもどこうとしている。これが私の青春の譜であった。

引き揚げ後の苦しい幾多の迂路もあったが、これも試練の路として甘受したのも、先に5年間の外地生活によって鍛えられた不屈の精神の賜物であろうか。
そう思うと矢も盾もたまらず、朧な記憶を引き出して、当時の戦争と云う運命に立ち向かった私の若き日を書き綴ったものである。
昭和57年9月完                    河北省一   (つづく)
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2012年1月13日 (金)

金嬉老事件を思い出す

少し温度が上がって3度もある。
中国人の殺人容疑者が吉島の刑務所から脱獄したと云って騒がしい。西区の空き巣を狙ったという。
老人家庭でも狙われて人質にでもされると、ただ事ではなくなる。昔の金嬉老事件を思い出す。

元来この中国地方というのは穏やかな気候風土に恵まれて、性格まで穏やかである。こんな事件でも、かっかと血が頭に登る様な対応は先ずしない。そのうちなんとかなるだろうである。
利発げな男のようだから、過疎の山地へ逃げ込みでもしたら、なかなか捕まらないかもしれない。

足もとの事件だからやはり心配である。軍隊時代の元気はもうないしなあ。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その2)

ふるさとに帰って

昭和21年も晩秋の11月下旬、5年間の大陸生活を終えて来た私は、K駅より我が家のあるG町に向かって歩いていた。
昨夕、博多の引揚援護局で貰った毛布だけがいやにずっしりと重たく、同じく貰った新千円紙幣一枚が懐に寂しく、ますます虚しさを感ずる様な風情であった。
なるほど、駅より我が家までは空襲の被害も見られず,引揚船の中で見た戦禍の地図を思い出した。

薄明るくなった故郷の街々も、敗戦という現実では懐かしくはあっても心楽しめない心境であった。
駅から電車路を10分間、これから逢う両親との5年振りの対面が、あまり現実感として湧かないのも事実であった。帰りたい,帰りたい!と思っていた大陸時代の思いも、ここは内地だと思えば全く迫力のないものになった。
こんなことでよいのかと思いながらも、この途は昨日通った様な途で、5年間の距離感が全く無いのも不思議だった。(つづく)

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2012年1月14日 (土)

iPhoneの使い方

珍しく目覚めが8時近くなる。気温も1度を少し越えていた。
昨日はiPhoneの充電装置がおかしいと思って,デオデオに持参してみてもらったのだが,別に悪くないと云われ,改めて充電して放っておいてみたが、なる程今度は使わないから全然バッテリーが減っていない。
私のやり方がどこか間違っていたのであろう。

電話は掛けるところが無いからほとんど使わない。ときどき宣伝の電話が入るばかりだ。それも固定の方でケータイに掛かることは先ず無い。
しかしiPhoneにはぎっしりつまるほど、ソフトが入っている。ひまな時,待たされる場所ではしょっちゅうにらめっこしている。
scansnapで読み込んだ小説などが多く、読むのが好きな私は、人に呼ばれても判らぬほど熱中して読む。
正に入信の境地である。看護婦が耳の側まで来て声を掛けたりして驚くことしばしば。耳が遠くなったふりしてもいい訳だし。
音楽はイヤホンが煩わしいので、最近はあまり聞かない。どこに行ってももっぱら本読み三昧である。座って読むのだから交通事故にもならない。
666フリーソフト集を買って来たので一挙にソフトが増えた。もう時間が足りなくなってどうしようもないね。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その3)

1、ソ連軍の参戦

1945年8月9日、私の所属する部隊は,満州国(現在の中国東北地区)のトウナンという街に駐屯したばかりの日曜日であった。
昭和17年正月、現役兵として佐賀に入隊した私は,3ヶ月訓練の後,満州国の北境通称北満のハイラル市の国境守備隊要員として、同時に入隊した数百名の戦友と共に配置されたのである。ハイラル市はソ連国境に近く,ソ連軍の侵入に備えた関東軍の北の備え第一線であった。
ハイラル市を取り巻く5つの砦は精鋭の国境守備隊要員が、鉄壁の構えで警備に当たっていたのだった。
しかしながら、南方の戦況不振による関東軍よりの移動が次第に激しくなって、西欧における独軍の崩壊と共にここしばらく続いた平穏な日々もソ連軍との一触即発の時期が迫っていた。
白一色に覆われた零下40度の草原は,凶暴な風を加えると体感温度が零下80度にも下る歩哨小屋で、防寒具に包んだ身に銃を握りしめた冬の夜、遥かな地平線上に昇る月を眺めて立哨しながら、自然にあふれる涙を頬に感じるような感傷的な日々が過ぎた。
その後野戦部隊に転属した私は、足掛け4年間のハイラル市を後にして興安嶺を南下し,このトウアンの街に駐屯したのが1週間前であった。

やっと迎えた8月9日の午前から,私の運命は戦争という人為的な運命,民族間の侵略、支配という自然淘汰的な宿命の渦中に翻弄されることとなった。

非常ラッパのけたたましい響きの10分後に部隊はソ連の宣戦布告という、予期しては居たが重苦しい事態をじかに受けとめていた。
早急に侵入して来るソ連軍を迎え撃つために兵器、被服, 糧抹のお配分が行われ,数時間後に部隊はラッパを先頭に堂々と営門を後にした。
さすがに実弾を持った将兵の表情は緊張に溢れたものがあった。
僅か一週間駐屯の営舎には特に愛着はなかったが、これから戦場に向かう将兵にはやはり心淋しいものがあったものと思われた。
黙々と無表情に前進がつづいた。(つづく)
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2012年1月15日 (日)

追想!河北省一君

今朝も気温1度とまずまず。空は一面灰色、好天気は望めそうには無い。
朝から少し右膝が痛い、昨日買って来た灸を試す。熱くないので利くのやら利かないのやら頼りない。
やはり本物でないと駄目かな。

元々運動していて捻挫したところだし、お皿が少しずれている。何でも無いのと違うのだから,灸ぐらいでは駄目かもしれない。

今連載を始めた河北君の軍隊時代、どうやら兵卒のままでいたらしい。幹部候補生の志願はしなかったのかなあ。それらしい記述は見えないし,本人からもその真相を聞いたことは無い。
もっとも将校にでもなっていたなら脱走もできないし、シベリア送りで死んでしまったかもしれない。
運がよかったか悪かったか,何とも云えないな。
私は一年早く入隊したから,恩給年限に達し,現に僅かだが恩給を支給され,若き時代の無償奉仕の償いをしてもらっている。
彼にはその特典もなかったのだろうが、よく頑張って公認会計士までなった。法律が施行されて初回の会計士ではなかったかと思う。
一度私の設立した会社に来て貰い、(資本金1億円の会社だったから)決算の承認など必要があったらお願いするからと、頼んだことがあったっけ。3年足らずで倒産したから実現には至らなかったが。

温厚な友誼に厚い真摯な男だった。同窓会でもいつも輸入ウイスキーを持参してまわし呑みしていた酒好きでもあった。しかし崩れることは絶えてなかった。
彼が残した2冊の手記を縁の薄かった私にまで読んでくれといって、別々の同窓会の席で他には隠して寄越してくれた好意は生半可ではなかったと感じている。

20年前横山君から彼が戦前から付き合っていた熊本の友人から聞いたと云って,彼の死を知らせて来た。暗然としたが、当時の私は微小企業を立ち上げて火の車であった。何をする術もなかった。只遥か西方の空をのぞんで冥福を祈るのみであった。

今読んでいる高峰秀子の自伝”わたしの渡世日記”に見えるように、人は自分一人では生きて行けないと繰り返し述べられている。
運命に振り回されながらも,自分勝手に生き抜いたと思っていてもやはりそれだった。
私の生涯も彼女に匹敵する。そして人の助けで長寿を貫いた。
彼女が貧乏暮らしを誇張しているが,私のはもちろん何段も段が違う。
生きるにたるだけの年金が入るだけである。
墓に持ち込むものは変わりはなかろうが。

河北君はしかしよくやった。新京での脱走の決意は、もちろんならざれば死である。
彼の風貌からはとても想像出来ない。
私もそうだったが、人生に一度は死を決意して飛び込む勇気が発揮出来るかどうか。今にして思えば、神の試練とも受けとめるのだがどうだろう。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その4)

2、明日は死ぬぞと覚悟した前夜

8月10日の夕闇が迫って来た。部隊は殆ど一昼夜歩き続けてF市の城門に到着し、その前線に布陣した。
砲兵が城壁の後方に、そして城門の外に工兵が,更にその前線に歩兵が配列されて守備を固めるべく,それぞれ陣地構築を行い,更に己が身を隠すたこ壷掘りを終わったのは夜の11時頃であった。大陸の真夏は日中が長く,夜は9時頃になって夕闇が迫ってくるので、作業には便利がよかった。兵士は誰も語らず黙々とたこ壷を掘り続けた。

満天の星は、明日をも知れぬ将兵の行動をじっと見つめるかのように輝いていた。
11時半に夜食が支給された。パン一個と掌に少々の砂糖であった。これが最後の食事になるかもしれないがと思いながらも、別段特別の感情も起こらなかった。
連絡通りであれば、明朝6時頃に怒濤のごときソ連軍が押し寄せて来るとのことであった。命令により私達は朝5時まで草むらで仮眠することとなった。

こんな巡り合わせになったことに対する反発的な気持ちが無い訳でもなかった。
俺はどういう星の下に生まれてきたのだろうと考えるのも暫くで,今更どうなる訳でもなく,今までの疲れもあってぐっすり眠った。心の平静を失わなかったのが不思議なくらいであった。
大勢の戦友が周囲に寝て居るのも力強かった。誰の顔にも恐怖の表情はなかった。
明日の起床は5時、そして6時にはソ連軍を迎えて阿鼻叫喚の戦場となるであろうこの付近も今は静寂そのものである。
嵐の前の静けさは刻一刻と,次の恐ろしい瞬間を迎えるべく経過して行った。(つづく)
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2012年1月16日 (月)

生きてるあかし

今朝は5度と暖かい。雨雲は出ていないが、灰色の雲に覆われて雨になってもおかしくない空模様である。

朝飯の時,家内が昨日訪問した近所の私と同年輩の婦人の話をぽつりとする。
部屋いっぱいに昔の衣装を吊るして、それを眺めて楽しんでいるという。彼女の若き日慈しんでくれた人たちを思い起こしながら、鑑賞するのだそうだ。

男の私には想像もつかない感性だが、思いがけない老人の過ごし方もあるもんだなと感心する。
家内はうまがあうのか、老人会などには必ず示し合わせて行動を共にする親密な仲間の一人である。

ここ数ヶ月面倒くさくなって、CDもDVDも焼かない。対象とする材料がないことはないのだが、どうもその気になれない。
カセットテープやビデオテープのようにどうせゴミとしてすてるのならとの考えが先に立つ。
深く考え込むと、俺の人生などなんだったんだ、畢竟たかが一匹の虫けらと同じ人生に過ぎないかなど、という虚無的な思いまで出現してくる。

余生はもうないと言いながらも,現に目の前に余生が横たわっている。
血が通っている以上何かをしなければ居れない生き物である。
昔袖通した衣装を眺め暮す生活があってもおかしくはないのか。

昨日の京都の女子駅伝であの日本を代表するマラソンランナーの岡山の中村選手が1区の出だしで42位という想像もできない走り方で,早くも優勝戦線から脱落してがっかりさせた。後続の高校生などが頑張って,8位入賞を果たしたのはさすがに立派だった。
不慮の故障が起きたのだろうが、補欠選手もいることだし、なんとかならなかったのだろうか。報道関係は口を閉ざして何も語っては呉れない。不可解である。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その5)

3、ソ連軍を迎える朝

8月11日,早い大陸の夜明けを感じながら,正確に5時に目を覚ました。みだりに定位置を離れることは出来ない。兵器の入念な点検を行い,草むらの中に身を伏せてひたすらソ連軍の進撃を待ったのであった。

部隊長の説明では、敵はハロンアルシャンを侵略し、ここF市に押し寄せるという確実な情報に基づいた布陣であると昨夜聞かされた。
白日の静寂は夜よりも尚気味悪く感じた。
私達が見つめる遥か彼方の地平線に敵戦車の姿を発見した時に、私達の運命は生より死に傾く公算が多くなる筈であった。

午前6時いよいよソ連軍到着予定の時刻になった。鉄甲の紐をしめ直した。だが見渡す草原の彼方には何の異常もない。
さては行軍に手間取って遅れたかと思いながら携帯の乾パンを口に入れた。

午前7時未だ敵の姿は見えない。不気味に静まり返った周囲の野草についた朝露が,明るい太陽の日ざしで光り輝いていた。

午前8時、未だ来ない。来るものであれば早くやって来い。力の限り砲弾をお見舞いして,俺もこの草原で死ぬ。これも男児の本懐であろう。
人生、それぞれの運命、25年の清算だと心に言い聞かせた。

午前9時、どうして来ない。関東軍を恐れたのかと心に叫ぶ。4時間近く伏せていたので身体の節節が痛い。隣の戦友と顔を見合わせた。

午前10時、後方より伝令が駈けて来た。50メートルくらい離れた部隊長に命令伝達らしい。
しばらくして聞いたところによれば、敵はこの前線を避けて迂回,全部隊は直ちに撤退との命令であった。
張りつめたものが溶ける様な気持ち。

午前11時、城内に布陣していた部隊を先頭に撤退を開始した。城外の最前線にいた私達の部隊は最後尾となった。
撤退の準備はできても,順番とあってみれば、大部隊の移動は極めて漫々的である。
もし後方よりソ連軍が現れたらと思えば、急に恐怖の念が生じてくるのであった。(つづく)

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2012年1月17日 (火)

河北君の戦闘行動は終わったがーー

朝の気温0度,正に暑からず寒からず。
老人にもちょうど良い。
満天雲一つ見えない、青一色である。

午後になっていつものように雲が張り出し次第に寒くなる。
灯油を買いに行ったり、チェストを買いに出たり、一人で忙しく走り回る。
心臓が弱っているから、灯油一缶提げてあるいても息がはずむ。
今日はどこへいっても車が少なくて助かった。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その6)

4、後退作戦
正午近くになって、やっと私達の部隊が行動を開始し始めた。これから16日までの6日間の撤退行軍は将兵たちに新たな次の問題を残していたが,これまで不敗の関東軍の気位は相変わらず強いものがあった。

目標は新京(旧満州国の首都)であり、ここに集結して首都を守り抜くのだと教えられた。行軍に当たっては糧抹を捨てて,兵器のみを携帯するようにとの指示があった。

真夏の太陽が照りつける炎天下を,険しい山路を抜け,荒涼たる大陸の広野を一路、新京へと運命の行軍が始まった。2日目には手持ちの食糧は無くなり,道端の西瓜畑や真瓜畠で果物をちぎり飢えをしのぎ、小川のせせらぎの水で水筒を満たして前進を続けた。
水筒の水を飲む時に濾したガーゼに小虫が躍っていた。
たとえ腹を壊しても炎天下に水なしの行軍は出来なかった。
人生でも,商売でも,上向きに伸びているときは、どんあ相手にも力強くぶっつかって行く気魄が生じるが,行く先の見通し暗い時,例えば当時のように正面の敵に面と向かっているときは死をも恐れなかった関東軍将兵も,予期せざる後退という現実、しかも後方より怒濤のごときソ連軍の追撃の可能性があっては全く意気消沈せざるを得ない。兵は黙々と銃を肩に行軍を続けた。
真夏の太陽は、そして夜空に輝く星座群は無心に兵士たちの行動を見つめていた。

8月15日、その日小さい街で休憩をとっていた私達の耳に入ったのは、日本軍降伏の事実であった。
半信半疑ではあったが,部隊幹部の動きは活発になってきたようだった。

8月16日、どう調達されたか,この街の停車場から鉄道で南下することとなった。
これから如何なる運命が待っているか全く判らなかった。大陸の広野は何も起こらなかった数日前と同様に,真夏の強い日ざしが痛い程に輝いていた。
列車は不安と失望の将兵を乗せ、破滅の終局のため新京に向かっていた。(つづく)
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2012年1月18日 (水)

電子本と紙の本

幾分白い線状の雲が何本も棚引いて,青空を遮っている。気温は昨日と同じく0度。
日課の目薬も時々忘れたりする毎日である。3度の食事の後というのが案外難しい。外食もあるし,食事後はなにかとスケジュールがあったりして。それでも一番憶えやすい方法ではあるのだが。

今朝の深夜放送でどなたかおっしゃっていたが、紙の本が随分減ってるらしい。しかし電子本に取って代わられることはないと。
それぞれの役割が違うということらしい。
私は医者で待つ様なときはiPhoneを利用して読むが、寝転んだりしたときは紙の本を読む。
都合のいいように使い分けている。
市販の電子本はまだ2回しか買ったことがない。あまり安くもないし。だがscansnapで読み込んだ本は随分たくさんになっている。
しかし長編は技術的にも面倒だし、利用は難しいだろうし,考えてもいない。
だれしもこうした使い分けをすることになるのではなかろうか。

ただ保存には量ばらないし、痛まないし、電子本にもそれなりの長所がある。紙の方が保存にいいといわれても全面的に納得はできない。
当分併用の時代が続くのではあるまいか。
電子本で朗読機能などが手軽に付加されたりすれば、まだまだ需要が伸びるだろうから将来はなんともいえない。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その7)

5、武装解除

8月17日11時、新京郊外のK駅に降り立った私達は,全く昨日に変る現実を見て戸惑った。
先ず新京近くなった頃,グリーンカラーのソ連機が列車の窓越しにみえた時に、昨日の終戦の話題に現実感がもたれた。もはや制空権を奪われていることは、誰の目にも明らかであった。

駅のホームで直ちに武装解除が行われた。見る見るうちに高々と積み上げられた銃剣の山、自動小銃を構えたソ連軍の兵士が冷ややかに見守る中で、順次に銃剣を手離してゆく将兵の無表情そうに振る舞う心のうちはどうだったか! 日本軍人としての誇り、プライド的なものに対する愛着と、これで戦争は済んだと思うほっとした気持ちと,更には敗戦軍人としてこれからどうなるだろうかという懐疑の心が交錯していたことには間違いなかった。

駅の外れで暫く昼食の休憩をとった。恐らく次の命令を待つための休憩と思われたが、ふとみると線路の反対側の倉庫で数人の兵士が手を振っていた。糧秣倉庫らしくビール樽が見えた。近づいた私達に彼らは叫んだ。
「おーい、どうせ接収される食糧だ!持って行ってくれ,ビール飲まないか? そしてビール樽の栓を抜いて私達を促した。
私達は今さっき武装解除されたとはいえ、厳しい軍紀の下で始めて遭遇したシーンで全くびっくりさせられた。
将校たちも何も言わないので数人がビール樽を傾けて口をつけた。
しかし真昼の酷暑の中、生暖かいビールが口にそう入る筈もなく,私も一口すすったにすぎなかった。白砂糖だけは飯盒に少々有り難くいただいた。

戦争に負けて、これら関東軍の食糧物資はどうなるのであろうか、一般民間の人々に渡ればよいがと思っていたものはわたしばかりではあるまい。昨日まで飢えていた私達には全く奇妙な一瞬であった。

それから新京の街を行軍して割り当てられた宿舎(旧病馬廠跡らしい)に落ち着いた。
もはや銃剣もなく軍隊の行軍といえるものではなかったかもしれない。久しぶりに見た日本人の一般市民も,無表情に私達とすれ違って見向きもしなかった。
頼りにならない関東軍と思われているかも知れないと考えれば口惜しい気もした。(つづく)
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2012年1月19日 (木)

機能不全だらけの老体

珍しく朝から雨、気温は5度と暖かい。
耳に垢がたまる。鼻には鼻くそが塞がる。老人特有の現象だろうが、五感だけでなく身体全体の機構が不要物だらけになっている感じである。
目には毎日3度目薬をさしているが、これまた目やにが目尻に固くついている。目薬をさすからか、それとも関係なくか。
いろいろ気になることが多いものだ。

しとしと雨が間断なくつづいている。もうこうなっては外出意欲はない。
書見も飽きた。パソコンを眺めるのも疲れた。
日記はこれで終わり。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その8)

6、待機

この日から8月末日までの2週間、ここで今まで通りの軍隊生活らしい毎日が続いた。別に仕事らしいものはなく,衛兵、炊事勤務の当番以外には身体が楽であった。部隊長始め将校たちは威厳をつける中に,幾分やつれたような態度が印象的であった。戦争の責任は高級将校より順次に負わなければならないとの意見もちらほらささやかれるなかで、ある日思いがけない話題が私達の心を揺さぶった。
それはソ連軍のアンケート的なものと説明されて、先任将校より発表されたものだが ー戦争は終わった、君たちも故郷に帰るべきである。ソ連軍は君たちがこの新京で除隊するのを希望するのか、または内地送還を希望するのかを聞いているー 内容であった、何かしら張りつめた心が解けかける様な巧みな言い方であった。

敗戦というのにこんな話があってよいものか?と思いながらも、聞かねば打ち消していた望郷の念は俄に頭をもたげてきた。
ひまな時間の話題は故郷の思い出、うわさ話に花が咲いて行った。今に思えば、全く心理をついた巧妙な懐柔作戦であったのだ。

ある日兵士の一人が突然居なくなった。脱走したという声、もう軍隊はあってないものだから罪にはならないだろうか。
勿論部隊長よりこんな事にならないよう訓示はあったが、遂にこの離隊した兵隊の行方はわからなかった。でも新京の地理に詳しいものであればともかく、離隊して右も左も判らないものが逃げても仕方がないし、除隊のうわさも出ているのにと考えた兵隊がほとんどであった。

待機という名の下に暫くの安らぎを得ているうちに、数日は矢のように過ぎて行った。不安と焦燥と懐疑を心に秘めて・・・・(つづく)
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2012年1月20日 (金)

老夫婦動作今や蝸牛の如し

今朝は7度とえらく暖かい。雲が深いし雨になるのかも知れない。
夜中から乾癬が痒くて、二度も夜中になんとも我慢が出来なくて、背中を掻きに起き出す始末。
今朝も早速裸になって、孫の手を動かすやら、薬を塗るやら一騒動。

今年になってから肌着を化繊製の赤外線入りとかいうのに変えたからかも知れないなと思ったりする。
やはり昔ながらの綿100%のメリヤスシャツが無難かな。今晩から元通りにすることにしよう。

午前中家内が斉藤眼科に行くので車でお供をする。1時間くらいで終わる。
次回は右目の手術前の検査があるらしい。家内は目よりもリウマチの悪化が今問題である。
痛みが手足に出て難渋なようである。私にはどうする事も出来ない。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その9)

7、ソ連の給与を受けると引導
9月1日、私の運命を左右する日がやってきた。ソ連軍の命により、その日新京の各地に分散待機していた関東軍の各部隊は、新京市の郊外にある建国大学及び法政大学に集結させられた。その数は10万人とも20万人とも囁かれていた。2週間の待機の宿舎を出て久しぶりに見る街を懐かしく眺めながら、故郷に帰る夢を描きつつ郊外の大学に参集した。

私達は建国大学校舎の2階の教室を宿舎に割り当てられた。凡ての行動は規律正しく、敗戦といえども未だ軍紀の厳しさが残っていた。
夕食を終わって部隊長の訓示が行われた。今後の行動が指示されるのであろう、この訓示に耳を傾けたけれども、内地送還の話も、現地除隊の話もなく、簡単に”明日よりソ連の給与を受けることに決定した” 旨の報告があった。私達にはそれがどういう意味か全く判らなかった。残念ながら、未だこんな場面に遭遇したことのない私達には理解に苦しむ言葉であった。

訓示後三々五々に集まって、この言葉についてのヒソヒソ話があちこちで交わされていた。
結局捕虜になるのだという結論が出るのに時間はかからなかったが、半信半疑の兵隊が相当数居たことは当然であろう。
何と回りくどい表現であったろう!と同時に、ここに集められた関東軍の将兵を穏やかにするための手段とはいえ、これまで除隊とか内地送還などの欺瞞的言動は, 欺かれた私達が無知だったのかも知れないが敗戦将兵の惨めさを今更ながら噛み締めたのであった。

明日からソ連の捕虜ともなれば自由な身は今夜限りである。逃げるなら今夜だ! 地理の判らない新京の街を、ソ連軍の警戒する中を逃げ切れるだろうか! でも明日になれば恐らくソ連軍の警備指揮下に入り、シベリアに流刑されるであろう。(つづく)

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2012年1月21日 (土)

サギの来ている田圃

昨日の朝と同様な天気、気温も6度と暖かい。昨日も雨にはならなかったが、今日も降りそうには無い。
今朝の朝刊にサギが枯れた蓮田にしょんぼり丸く膨らんで立ちすくんでいる写真が載っている。
餌になるカエルや昆虫類もこの寒さでは土にもぐって顔は出さないだろう。
私の幼少時代よく見た光景である。なつかしい!(次の写真文は中国新聞より転載)
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昼前内藤内科に行く。患者多し。12時半帰宅。別状なし。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その10)

8、脱走計画

”おい、松山” 私は同僚の松山を振り返って、彼を睨みつけた。
”あっ、やるか今夜”
同じ階級で、日頃親しいこの戦友は私の心を見抜き、自分の行動予定と一致するかのように私を見つめた。
こいつならやれるだろうと思った。

早速私達は計画を練った。といっても、それは雲を掴む様な行動に取り組むための当座の打ち合わせであった。時間もなかった、とにかく、先ず人員を何人にするか、私も松山も地理は全然判らない。
新京の地理に詳しい兵隊を探して、この計画に参加させることが第一である。
私達はAとBという年配の補充兵を選んだ。この二人は初年兵の中でも優れた兵隊であり、行動力もあって、この計画に参加すると見た私達の考え通り、二人は直ちに応諾した。

9時には武装解除後も引き続き行われて来た夜の点呼がある。
決行は10時30分、校舎裏の繁みに集合と決めた。服装は身の回り品少量の入った背嚢のみであった。

9時点呼が始まった。私は自問自答してこの計画に悔いがないかと考えてみた。
内地で入隊以来の戦友も数人いたし、世話になった部隊長等にも最後の別れと心に言い聞かせつつ目礼した。
同郷の戦友Fには口までこの計画が出懸ったが、日頃一途にまじめ過ぎる彼には恐らく反対されるであろうと思い直して”おやすみ”と云って握手した。
きょとんとしていたF。恐らく明朝びっくりすることだろう。

もしこの計画が失敗することは私達の死を意味することである。
ソ連軍がこの捕虜予定者を監視していない理由はなにもないのだ。死を賭けた計画にみんなを引き込んではならないとも思った。

とにかく、捕虜になることに我慢がならないのだ。
就寝前の部屋のあちこちで集まって囁いている兵隊たち、おそらくこのうち数組は私達と同じく脱走するかも知れない。
表面的には慣習となった軍紀に抑えながらも、不満に膨らんだ雰囲気が察せられた。

戦陣訓にも”死して虜囚の辱めを受けず”と教えられた兵隊だったからである。私の胸に四年間の軍隊生活の思い出が走馬灯のように蘇った。(つづく)
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2012年1月22日 (日)

河北君脱出決行の夜

今日で丸92年生きた事になる。考えても見なかった我が寿命である。無心に生きたと言おうか、いや神の前に投げ出したと言うべきか、なるがまま固執せずに自然に永らえたというのが本当だろう。

誕生日といっても若い時期と違って格別意味があると云ったものでもない。只最近は運転免許証の更新時期が誕生日となったので、深刻に記憶させられるということになった。

昔から”棺を蓋いて事定まる”ということばがあるが、その意味では私の毀誉褒貶はまだ定まるところまでは行っていない。
しかしいち早く一生を終えて行った、数々の友人知人の定まり具合は幸いにも望見出来る。
多年友誼を重ねて来た同僚、或は先輩後輩たちのその私に対する影響或は存在価値をおこがましくも高所から達見することが出来る。
正に長寿者の特権であると言わねばならぬ。
その本質を見られたという誇らしさがあると言っても過言ではない。

私は本心は一生を既に無事終えたつもりで、日々時を刻んでいる。何の期待もなければ欲望もない。
最後の瞬間が待ち遠しくもある。
しかしこれが曲者だという事もよく知っているつもりだ。
油断は出来ない。一番に植物人間である。こればかりはごめん蒙りたい。
次は身動き出来ない重症患者である。こんな時は即刻殺して欲しい。
この願い果たして今まで好意的だった神が受け入れてくれるであろうか。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その11)

9、決行

時計の針は10時20分を指した。横になっていた私はそっと起き上がり,2階の窓からロープに背嚢を縛り付け吊り下げた。闇の中にAとBとが待っていた。もしソ連軍に発見され発砲された場合,武器のない私達は4人ばらばらに逃げるより外はないと話し合った。
いづれ出たとこ勝負に任せるより外にはないのだ。

Aの先導で行動開始した。この付近にはソ連兵は居ないと判っていても,足音をしのばせながら早めに歩いた。月はなかったが夏の夜は暗闇の中にも、ほのかな甘い風情がただよっていた。
夜霧に濡れながら,15分くらいで水際に着いた。逃げ出すのに朝来た表道路は行けないし,又危険でもあり校舎の裏の繁みを進んだわけである。
Aの説明ではこの水は南湖という湖の水でどの方向に行っても最後にはこの橋から通ずる一カ所のみと聞いて唖然とした。

何故なら今朝建国大学に向かう途中に南湖のほとりの大通りを、水際に沿って建国廟の前を通った時に設けられてあったソ連軍の衛兵詰所と兵士を見ていたからである。でも、ここまできたら後退は出来ない。水際に沿って建国廟に近づいて行った。

明るい電光に浮かび上がったような神社風な建物が闇の中に見えた。
そそり立った大樹の木立越しに廟内を覗くと、そこは廟の裏手らしく、丁度ソ連軍の兵士が自動小銃を持って哨戒している姿が見えた。
勿論一人である。そして私達が潜んでいる方向にやってきた。こちらの方は真っ暗で絶対に判る筈はないと思いながらもじっと息を呑む一瞬,ソ連兵は左に向きを変えた。予定の歩哨コースであろう!
思わず出て来た生汗を拭き取った。恐らく12時近くであろう。

”かつ、かつ”と軍靴の音が遠ざかり,歩哨の姿が木立の闇に消えてしまった。

今だ!木立から飛び出した私達は反対の方向に足音を忍ばせながらも、大幅な歩調で建国廟の裏側を通り抜けた。
突然,闇の中に自動小銃の音を聞いた私達は足を止めた。
恐らく私達と同じ様な連中が歩哨に見つかって発砲されたに違いなかった。
一瞬恐怖の念がこみ上げて来た。しかしその方向は建国廟の表と思われた。
”チャンスだ” 私は急げの合図をすると駆け出した。木立の境内を抜けるとすぐに垣根にぶっつかった。垣根の先は建国廟より南湖に至る道路であった。
人影はない。
一斉に道路に飛び降りた。少しばかりほっとして胸の高鳴りを抑えながら,廟と反対の方向に,南湖を渡る橋を求めて足音を忍ばせながらも急ぎ足を続けた。

10分ぐらいも走ったであろうか、闇の中に湖が広がり,正面に橋が見えて来た。Aがそっと近づいてきて、南湖に架かる橋はここだけだと思うと告げた。
道路は橋に続いていた。今は一刻の余裕もできなかった。断の一字である。
私は松山に合図し,私達は若干の間隔を取って渡り始めた。橋の幅は2米くらいあったろうか。真っ直ぐに対岸まで続いていた。

今は、ソ連軍が前から来ても,後方より迫っても,遭遇すれば間違いなく殺されるであろう。
湖水の深さは判らない。不気味に黒く静まり返った夜の大気に息苦しくなって来る。
この時ばかりは”橋を渡り切るまでソ連軍に逢わないようにお願いします”と神仏にすがる様な気持ちであった。
橋の中程で,前に聞いた自動小銃の音と、撃たれたらしい断末の人の声らしいものが聞こえた。でも廟の中で聞いたより遠いものであった。早く橋を渡ることが先だ。もはや忍ばす必要はなかった。4人の足音が静寂な闇の中に響いた。

真夜中であった。思惑と恐怖に満ちた形相で、恐らく悪鬼のごとく見えたに違いなかった。橋を渡り終えた。誰にも逢わなかったことを神仏に感謝した。橋の先は一直線にやや広い道路が新京の南部に通じていた。
道路の両側は雑木、雑草の繁みで、更に一段低く畑が広がっていた。直ちに疎開して、道路に沿いながら畠の中を歩くことにした。
これまでの比較的スムースな運びに込み上げるような喜びを噛み締めながら黙々と畑の中を歩いた。今後はソ連軍に合っても、十分やり過ごせるだろう。でもここで警戒を解いては駄目だと心に言い聞かせて、日本人同胞のいる街を求めて歩き続けた。

恐らく9月2日の午前1時頃であろう。寒くはないが、夜の湿った空気が心に冷静さを持たせてくれるようだ。
橋を渡って1時間ぐらい歩いたろうか。民家らしいものがぽつぽつと左右に現れてきた。全く地理に不案内の私と松山はAとBに任せるより外はなかった。どう曲がって、どの方向に進んだかはわからなかった。
”あの灯が日本人の家が集まっているところです。南部郊外のMですよ。”Aのほっとした声だった。

ソ連軍や現地人の略奪を恐れてか、かっての灯火管制のように灯火は薄暗く点されていた。
でも暗闇の中に民家の集まりであることは十分に判った。(つづく)
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2012年1月23日 (月)

駅伝競走という日本の伝統

今年も府県対抗駅伝で地元広島県は出端からくじかれて、テレビの画面を賑やかす事はなかった。
女子の京都が羨ましい。
やはり総合的に力が足りないのだろう。宮島は清盛人気にあやかって、騒々し過ぎるが、駅伝も負けずに計画的に力を入れるべきだと思っているのだがどうだろう。
日本人口の5分の一は持っている東京がやっと芽を出した。人材は掃き捨てる程いる筈だ。力が入り始めると怖いぞ。
刮目して見ていよう。

高校生は強いのに、中国各県はどうしてあんなに弱いのだろう。
私の若い自分は野球といい陸上といい中国勢は全国をリードしたものだ。野球では藤村富美男が居る。陸上では織田幹雄、田島直人が居た。
藤村は私と同じ年代だし、田島は同じ中学の先輩だった。力が入らざるを得なかった。
藤村が甲子園で優勝し、田島がベルリンで三段跳の日本連覇を果たした時など、母校の校庭で歓喜に沸いたものであった。

駅伝は選手選考が一番難しく、一番肝心だと思うが、他人のせいにするのでなく、県民挙げて協力すべきだと思うがどうだろう。
駅伝は寒い時期の風物詩として、箱根駅伝を始め日本固有で私が呱々の声を挙げる頃から定着している。
昔の中国駅伝はよく応援に瀬野川流域まで出かけたものである。鐘紡、東洋工業のせめぎ合いは圧巻だった。
今度の府県対抗はその流れを引いたものだろうが、お膝元が冷淡ではしまらない。
なんとかして欲しいとは私達老人のみの願いだろうか。

私の母校は確か明治節の日に必ずお城山一周という学校挙げての行事があった。一年生から5年生まで同じ距離を全校同時に競争して走るのである。もちろん色分けして組別対抗の形式を取った。
一年生の時は夏休み頃から夜一生懸命走る練習をした。結果四十何番かであった。5年間とうとうその記録は破れなかった。
距離は10キロ位あったかな。

峠の頂上から走り始めて、お城山の麓道を一周するのだから、結構難路であった。上級生が尻を追い立てた。下手な脱落は許されなかった。
4年生の時だったか5年生の時だったか県下の中学校の駅伝大会が始まった。もちろんこの長距離競走で鍛えられた優秀者がピクアップされ見事に優勝を遂げた。
第2回、第3回と優勝が続いた。戦時中の中断があったかは定かには知らない、形を変えて今でも存続している筈であるが。母校は受験校というスタイル変更もあってか、芳しい話は近来聞いた事がない。
田島を生んだり、スポーツには輝かしい伝統がある我が母校である。
現在では時折野球で甲子園の土を踏んだりしている。これでまあよしとするか。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その12)

10、庇護を求めて

とある大きな建物の前に立った。大きな門構えの内側に数人の男の話し声が聞こえて来た。日本語だった。近づく私達に慌てて話し声が止んだ。
”どなたですか?”と問いただして来た。私達は黙って彼らの前に立った。
”ああ、兵隊さんですね! 逃げて来たんですか?” それは意外に落ち着いた声であった。
”逃げてきました。かくまってくださいませんか?” 松山が低い声で挨拶した。
私達4人は薄明かりの中に願いを込めて彼らを見つめた。
恐らく相当数の人が住んでいる官庁か大会社の寮らしかった。そして彼らは交互に夜間警備をしていた人たちに違いなかった。

”兎に角、中に入ってください”と門の中に導かれて玄関横の応接室らしい部屋に通された。
灯の火は凡て薄暗くしてあるのも、略奪暴行に備えた戦後の惨めな日本人の常識であるのだろうか。
窓に黒いカーテンが掛かっていた。そこで明るい電気に切り替えられて眩しく目をそらした私達であった。

代表らしい初老の人が話しかけて来た。
”大変だったでしょう! 軍隊が集結されたとは聞いていましたが”
“はい、明日から捕虜になるので、思い切って逃げて来たのですが、2、3日泊めていただけませんか? いや、一晩でも結構ですがお願いいたします” 私達は懸命に頼んだ。
拒否されても仕方がないと思いながらも、藁をも掴む心境だった。

”良いでしょう。2、3日泊ってゆきなさい。ソ連軍が調べに来ることもないでしょう”
”ここは満州国の官庁の寮ですので、女、子供も沢山居ります。あまり騒がないようにお願いします。あなたたちの話は明日にして今晩はお休みください。もう2時半ですよ。”

この親切な小父さんは、3階の物置らしく空いた1室に私達を案内した。
指示によってAとBが寝具を運び込んで来た。

”おやすみなさい。話は明朝ね” そういって去って行った。
よかったなあ、と、ほっとした私達は軍服を脱いで何年振りかに布団の中にもぐり込んだ。(つづく)
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2012年1月24日 (火)

70年前の駅伝の記録

予報では雪になるという事だったが、雪のかけらも降っていないし、雲も少しあるが9時現在明るい日ざしが雲間を通して部屋に射し込んでくる。

昨日書いた駅伝競走の記録にちょっと誤りがあるらしいので、訂正します。
1996年1月5日付けの中国新聞によれば、第1回、第3回、第4回が母校岩国中学が優勝、第2回は鴻城中学となっている。私の記憶違いらしい。鴻城に末永というとてつもない強い選手が居た、そのせいで敗れたのであろう。記憶の奥底にその走りっぷりが残像として残っている。
第8回にも優勝を記録しているが、75回になる今年まで以後記録に残る事はない。最近は出場もしていないのでは。
第1回は1936年1月に宇部−徳山間88.9kmを殆ど舗装もなにもない一般道路で始まっている。府県対抗男子駅伝は48kmの舗装道路を走るのだから、比較にはならない。道路事情の良い現在の山口駅伝とも比較は無理である。

私は勿論この区間のどこかで応援した記憶がある。行けなかった事もないではないが。
ともかく熱心な駅伝ファンだったことは間違いない。
80.90となった現在は立っている事さえ難しいのだから、出かけての応援はもう無理である。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その13)

11、安堵の宿

目を閉じると、今宵のこれまでの行動が夢のように浮かんで来た。
よく思い切ったことをやったなあ、幸運にも脱走に成功したではないか、やっぱり決断してよかった。失敗したら今頃はどうなっていたろう!
次から次へと自問自答しながら、この時になって本当に込み上げて来る喜びをかみしめていた。

捕虜にだけはなりたくない。戦陣訓に”死して虜囚の辱めを受けず”と教えられたのに、部隊全員捕虜になることに抵抗を感じないのでろうかとも考え、成功するんだったら誰も連れて来ればと残した戦友の顔を思い浮かべているうちに眠ってしまった。
張りつめた気持ちが一気に緩んだように眠り込んだ。

翌日、朝9時目を覚ました。明るい日ざしが窓の隙間から遠慮なく照りつけて来た。
”起きてますか?” 昨夜の小父さんがにこやかに顔を出した。
“大変ですよ! あなたたちは運が良かったね。昨日収容された大学の周囲は鉄条網が張られてソ連軍が警備しているし、みんな捕虜としてシベリヤに送られるそうだと話していますよ。
あなた方も2、3日はここにいなさいよ”

私達の眠気はふっ飛んだ。4人とも夫々考え方は違っても感慨無量なものがあった。

朝のみそ汁のうまさは、恐らく生まれて始めての快い舌加減であった。
寮の人々、特に小母さんたちと子供等が昨夜の侵入者である私達のことを聞いて、珍しげに私達の部屋にやって来た。この寮には新京付近の開拓団の人たちも疎開してきていた。開拓団の小母さんたちは同じ様な境遇だという意味もあって特に親切であった。

私達は身の回りの整理をして、いつでも出かけられるように準備した。
軍服の上衣、背嚢、軍靴を頼んで現地人に売ってもらった。ズボンは当時一般の人も着用していたのでそのまま使うことにした。
開拓団の奥さんが着なさいと云って出してくれたワイシャツ1枚と寮より貰ったゴム靴1足が本当に嬉しかった。
帽子は一般のが軍人と区分して見て貰うように工夫し、戦闘帽のつばを切り取っているのを真似してシャッポのようにかぶることとした。

2日間この寮に潜み部屋より出ないようにしたが、ソ連軍の捜査的な動きもなく街は平穏らしい様子と寮の人より教えられ、ほっとすると同時に寮の人に迷惑がかからなかったことを喜んだ。

子供を連れた開拓団の奥さんと話し込んでいるうちに、つい先日まで軍隊に居たことを忘れてしまう様な錯覚さえ起こす時もあった。
でも夜、眠りに就くとこの数年間の思い出が次々と瞳にクローズアップしてくる。白一色の冬将軍を迎えて、防寒具に身を包み、銃を片手に只一人立哨していたHの陣地守備の思い出が脳裏に刻まれているのか、よく瞼に甦ってきた。それにしても終戦、そして離隊と夏の時期で良かったと言うのが、国境の寒い地方から来た私達の実感であった。(つづく)
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2012年1月25日 (水)

我が家のジャム作り

今朝はとうとう2.5度まで気温が下がった。地面も固く乾いている。立春に掛けては年中で一番寒い時期だから仕方がない。
水回りが凍結事故を起こしていないのは良かった。

今朝はうちの夏みかんを材料にジャム作りにかかる。今年は少し汁気が少ない様な気がするのだがどうだろうか。
例年のみかんより皮が薄く凄く固い。土地がよく乾いたせいらしい。収穫したのも僅か43個だった。夏中ばたばたと落果したせいである。
柚子は取れ過ぎて処分に困った程だったが、逆に夏みかんは不作だった。こうした生り物は育てるのが案外難しいものだな。

午後にはほとんど雲もなくいい天気になる。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その14)

12、新京の街へ 

9月4日の朝、私達4人は世話になった寮の人々に厚く礼を述べ、2日間私達の心を平静にしてもらったことを感謝して寮を出た。

携帯品として何もなく、ワイシャツと運動靴で新京に着いたばかりの開拓団の一員という風態でぶらぶらと街へ出た。
心は緊張でいっぱいの気持ちを抑えつけながらーーー。

何時ソ連軍に呼び止められるかも知れない。満人の暴民に襲われるかも知れない。しかし、私達は行かねばならないのだ。主人が殺されたといった寮の奥さんの頼る様な瞳も振り切って、次の運命を切り拓かねばならなかった。

Aの案内で住宅街の路より、次第に大きい道へ、そして新京駅に向かう大通りに向かった。私は3人に注意した。

"みんな、あんまり肩を張っても駄目だぞ、といって、ぴくぴくしていると反って疑われるぞ、聞かれたら、開拓農民で吉林省から逃げて来たと云うんだ”
松山はこんな私の気配りに対しても、"何とかなるんだろう!” ふだんののんきな表情で答えていたが、やはり気にかかっていたのかシャッポにかぶった縁なし帽をかぶり直した。
私達の目標は警察に勤務しているAの伯父さんを尋ねて、それから今後の方針を考えようというものだった。宿舎が新京駅の近くにあるとのことで、何かと便宜も良かろうと考えていた。

突然、正面より部隊らしき集団がやって来た。数名のソ連軍に連れられた旧日本軍の集団であった。
恐らく私達と共に大学に集められ捕虜となった連中であろう。
私達はびっくりすると共に慌てた。
左側に寄ってすれ違った瞬間、顔を背けた私達との間には5米くらいの距離があった。
シャッポにワイシャツ姿の私達には気がつかないとは思ったが、もしも私達の部隊でもあって声でもかけられたらと、思わず生汗が流れてきた。

後続の集団も見えたのですぐに横町に折れた。
脱走していなければ、このようにしてシベリアに連行されるのだろうか。
彼らがより幸せに、方向は違っても早く内地に帰れることを祈るより外なかった。一方、ソ連軍の兵士は警備しながらすれ違う私達には全く無関心であった。

程なく、商店街らしい街中に百貨店らしい建物が、”日本人会”という幟を立てて、人の往来が激しく見えた。日本人会とは終戦によって混乱の難民を世話しようという団体であろう。私達も各地の状況を知るべく二階に上がったが、始まったばかりで、北満、東満の被害の状況報告に止まり、援護活動はこれからというとのことであった。
こんな救援活動も敗戦下では大変だろうと感じた。
ただ列車(南満州鉄道)は一日一往復、新京と奉天の間を走っていると聞き出しただけがめっけものであった。

私達が日本人会に居た間に、Aは伯父に逢って来たと云って私達を警察宿舎に案内した。
既に解散したというものの、日頃現地人に恨まれることの多い警察の寮などにゆくことは危険と思ったものの、この新京ではAに頼るほかは無かった。
その日Aの伯父さんという数日前まで刑事だった方に夕食をご馳走になって、そのまま一泊さしてもらった。
妻子は既に内地に還して一人住まいらしく、缶詰が主な料理だったが、ここですっかりお世話になってしまった。
結局、Aは伯父さんと一緒にここに残り、私と松山とBは一応奉天まで汽車で行き、奉天に知人の居るBは奉天で別れることに決めた。

その晩にこの宿舎は暴民に襲われた。皮肉にも私の予想が的中したのだった。
夜の10時頃、いろんな事があった疲れで早目に布団に入った私達は、12時頃突然パンパンというピストル、小銃の音に目を覚ました。
私達はすぐ逃げられるように、なけなしの身の回り品を揃えて服を着た。
入って来たAの伯父は飛び出そうとした私達を抑えて、”みんな、心配せんで寝ていてくれ。ソ連軍でなく暴民だから何とか防ぐことにしている。部屋の方が安全だから外に出ないでくれ” といってピストルを片手に出て行った。

暫くして騒音は止んだ。その後、真夜中の2時頃もう一度激しく撃ち合いの音を聞いたが、夢の中に次第に消えていつの間にか、深い眠りに落ちて行った。(つづく)
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2012年1月26日 (木)

今冬最低気温−3度

今朝は今冬最低のマイナス3度と昨日のマイナス2度半を更新する。全国的な気温低下らしいが、この地方では何年に一度だろう。
外回りの水道は凍結して、外のカランからは水が出ない。たまたま浄化槽の点検に来た人が仕方がないので自家タンクを使って処理していた。
家の中の水道は勿論なんでもないのだが。

明け方には小雪がちらちら舞ったりしていたが、正午現在すっかり晴れ上がって強い日ざしが私の部屋に射し込んでくる。
いい案配である。家内がリウマチには温泉がいいと朝食時言うので、リウマチに効く温泉をネットで探す。
一週間は逗留しないとだめだろうからなあ。
湯治場で昔から有名な俵山温泉あたりなら行けるかも知れない。私の母が毎年誰かを誘っては一週間か、十日位出かけていたのだが、宿の名前までは覚えていない。

ともあれこう寒くてはどこにも出る気にはなれない。
午後寝て起きるとひどく頭が痛む。
起き出して古い痛み止めを飲み亦寝る。
そのうち何となく治る。

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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その15)

13、新たなる旅

9月5日、昨夜のドンパン騒ぎが幸いしたのか青々と晴れ渡っていい天気となった。私達はAの伯父さんに厚く礼をのべ、また、行動を共にしたAを新京に残して行く別離を惜しんだ。
恐らく又逢う事もなかろう。Aの手を握った私の気持ちは、彼への感謝と今後の幸福を祈る切ないものがあった。
Aの心づくしの弁当だけが主な荷物の私と松山とBの3人は新京駅に向かった。ホームを警備するソ連軍兵士の無関心な表情にも慣れて、特に怖い事もなかった。

9時出発予定の列車は一日1本のダイヤであるせいか、ほとんど満席の人員を乗せて1時間遅れて発車した。客車と云っても狭い通路の外はアンペラ敷きの桟敷となっている当時の4等車であった。
私ら3人は中程の窓際に座った。客の2分の1が日本人で、且つ、7割ぐらいが軍隊上がりらしく見受けられた。
私達がそうであるから大体の察しはついていたが、世間話の中でも終戦後から今日までの話はお互いにタブーであった。発車間際に乗り込んで来た5人のグループが、中程にきて座っていた満人たちを押しのけるように傲慢に座を取った。軍隊気分の直らないのかふてくされたいたが、仲間意識のつもりか"宜しく”と私に話しかけて来た。軍隊に4年もいれば大体動作行動で私達が察するように、彼らも亦察していたようであった。
グループをつくったようで、気強く旅が出来ると喜ぶ反面、敗戦という現実から見れば満人たちの反応も気になっていた。
しかし、私達の客車は、旧軍人優先のままで一路奉天まで突っ走った。
3年半前に初年兵としてこの同じ線路を奉天、新京をそして興安嶺を越えてハイラル目指し、上官に引率された頃を思い出して、全く運命の移り変わりにびっくりしている私であった。

果てしなき平原を走る列車、そして私達のこれからどうなるのか先の見通しのつかない旅、でも内地に少しでも近づいているという気持ちは本当に心強い。
”おい、松山、奉天からどうするつもりだ”
”あんたに任せるよ、どうしょうかね”
松山は私に意見を求めた。周囲の連中も関心ありげに私の発言を待っていた。
”奉天から大連に行くか、安東へ行って朝鮮に渡るかだ。しかし大連から内地への船旅は長いし、恐らく船の制限があるだろう。俺は安東がいいと思うよ。鴨緑江を渡れば何とかなるよ” 松山はそうしよう” と賛成したが、全く単純な考えだったことは後になって判った。

夕刻列車は奉天に近づいていた。
奉天駅の構内に入って、ホームの3百米位手前で列車が止まった。私達は不吉な予感を覚えた。
案の定、ソ連兵が数人乗り込んで来た。通訳らしい男が下手な日本語で叫んだ。

”皆さん、検査します。荷物とポケット内の品物を前において一歩下がってください” 既に下車するように準備していた私達は、通路に向かって腰を下ろし、なけなしの荷物とポケット内のものを並べた。
”金は見せるな”と囁く声が聞こえて来た。私はとっさに財布を通路に落として靴で踏みしめてソ連兵の目をごまかすことにした。
客車の前後に銃を構えて威嚇のうちに、ソ連兵は順次に並べられた品物を見ながら、金や珍しいものは自分の懐に入れて行った。
私はシガレットケースを取られたが、お金は判らず通り過ぎたのでほっとした。

何の事はない。旅行者を襲ってなけなしの品物を頂く略奪であった。
取るべきもを取ると、ソ連兵たちはそそくさと逃げるように消えて行った。
”畜生!” 隣のグループが口惜しそうに舌打ちしたが、所詮は仕方のない現況に精一杯のレジスタンスであった。
列車は静かに動き出して、すぐにホームにはいり、私達は奉天駅に降り立った。
一つのハードルを飛び越した感じであった。

ここでBと別れた。奉天に親戚のあるBの今後の幸運を祈って握手した。(つづく)
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2012年1月27日 (金)

歴史の故実は変るものか

夜明けの気温0度、家内はリウマチ医者に出かける。駅まで送る。
終わったら、友達と会う約束とか。

昨日の頭痛は何だったのだろうと考える。今朝はもう薬の効果は残っていない筈だが、別になんでもない。
痛みは勿論重くもない。

枕元に置いてある、戦記本の中の”湖南戦記”を又々読み返す。
支那派遣軍の唯一の負け戦”シ江作戦”の顛末である。非常に詳しく書いてある。戦史叢書以上である。
特に某中隊長の一等兵降等とその自殺をめぐっての逸話、或は万年一等兵を捕虜収容所で同僚が銃殺した話など、身震いがする程情けない日本人の恥部である。この本の白眉と言ってよい。
この著者はよくここまで書いてくれた、
特攻兵など真に祖国を思って憤死した同じ日本人には堪えられぬ思いが残るだろう。

この部隊は私が4ヶ月駐留し、宣撫した地区から10キロも離れていない地区に一年後駐留して、私に言わせれば暴虐を恣にした同じ日本人の部隊が居た事になる。
そしてその同じ頃何も知らず、桂林から長沙へ撤退を急いでいた我が隊が居た。一晩その故地に宿営し、住民の大歓迎を受けた。
どう言ったら良いのか言葉がない。同じ日本軍の暴虐の話を知らない筈はない。其れにも拘わらず、しきりに住民の皆から戦後に拘らず、ずっーと残ってくれと嘆願された。一時の方便だったのだろうか。

この地を去る直前の前年11月頃、隣県”花石県”の県長から特使が来て、宣撫して欲しいと懇願されたことがある。この時もこの本によればどうやら花石県に進出して居たのは前記の部隊だった疑問が伺える。

同じこの本によれば、長く駐留した湘陰というところでは、去る時に別れを惜しまれた話が続いている。全く不思議なことである。
昨晩もテレビで聖徳太子の話があった。歴史の記載するところ、その時代、時代で変更し伝えられることが大きいという、架空な噺かも知れないとも。
戦後70年も既に経っている。私が死んで後百年したら、私の話もどのようになるのであろうか。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その16)

14、奉天、更に安東へ

いよいよ奉天駅で松山と私と二人きりになった。ホームで安東行きの列車便を満鉄の職員らしき日本人に訊ねた。
”安東行きはあのホームからすぐ出ますよ。乗るんだったら急がないと間に合いませんよ。但し貨車ですがね。” 今度は貨車かと自嘲しながらも、取りあえず物騒な奉天を早く離れるべきだと考えた。

先に新京より奉天までの列車の中で、切符を買っていない乗客が過半数で真面目に金を出した私達は唖然としたが、考えてみれば一日1本の連絡用の4等車であり、検札もなく買う必要がなかった訳だ。
まして今度は貨車であり、汽車賃を考える必要もなかった。

私達はうす暗くなったホームを走った。それは貨車と云っても無蓋貨車であり、石炭を積み込むように中央が突き出て周囲に傾斜の着いた誠に乗り難い貨車であった。

すでに3、40人の乗客が寝転がったり、座ったりして出発を待っていた。私と松山が乗り込んで暫くしたら列車は出発した。夜の8時半頃だった。
間もなく夜の帳は下りて、明るかった奉天の駅を出ると真っ暗な貨車の中では何も見えない。
無蓋であれば天井は勿論、灯りもなく、暗い夜空だけは仰ぎ見られた。

突然、貨車の前部で歌声が聞こえた。始めて聞くこの歌は、”朝鮮独立の歌”と聞かされた。
軍隊に入っていた朝鮮出身の若者群が気勢を上げて故郷に帰りつつある風情であった。
沈み切っていた日本軍下番の私達と反対に、彼らの声は生き生きと勝ち誇ったような歌声であり、隣の貨車からも呼応して闇の中を勇壮に響き渡っていた。

着の身着のままの私達にとって、夏の名残で暖かかったのがせめてもの救いであった。夜のしめやかな空気に、これからの事を思い淋しくなる心と共に、真っ暗闇の無蓋貨車の冷え冷えとした惨めなムードが重なり、更に私達の心を暗くした。
夜半には半月が雲間に姿を現した。雨が降らなかったのも、神が私達の心情を哀れんだものと我が身を励まして、いつしか眠りに就いた。

うとうとしてるうちに東の方から明るくなって来た。列車は広大な南満の広野を、安東へと私達の希望を乗せて驀進を続けていた。
時折停車する駅で、未だソ連軍の進攻が行われていないのか、日本軍兵士が銃剣を持って警備しているところもあった。力強くは感じないが、どうなっているのだろうと話しながら、安東より更に渡る朝鮮半島の通過の困難を考えていた。(つづく)
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2012年1月28日 (土)

物まねの私の日記

霧の深い朝、気温は2度。宮島も見えない。
昨年一年間のココログの製本を頼んで置いたのが見積もりが届いたので早速注文しておく。ページ数が394ページといつもよりうんと少ないので1冊¥5900。という事である。去年の半額に収まる。写真の貼付が少なかったせいもあるし、モノクロ印刷にしたからでもあるだろう。
今年はやるところが少ないので6冊にする。

私の最近のブログは日記丸写しと言っても良い。
只個人的な都合の悪いところだけは削除したり、変名したりしているが。
従って一頃のように、二重の物書きをしないで済むので、割と楽である。
文章は小さい時から稚拙である。作文という学科があったが、一度でもほめられたことはない。
もうすっかり諦めている。ただ読む事が好きだから、時に真似をすることは出来る。

毎日の日記もそのまねごとである。
それにしてもよく続いたものである。件数がもう少しで2000になる。一日一題だから2000日書いた事にもなる。下手な文章でも読んでくれる人は6万回を越える。
悪文にめげずブログを続けている意欲の素因は正にそこにありそうだ。   
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その17)

15、安東の街へ

9月6日、昼前に待望の安東に到着した。みんな勝手に貨車を降りて思いのままに立ち去って行った。ホームに安東と書いた看板が柱にくくりつけてあった。改札口にも駅員は居なかった。私達は改札口から、がらんとした待合室を通り駅前広場に出た。降りた乗客はやはり軍人らしい服装が多かった。
列車は安東駅までで、ここが終着駅とすれば私達は歩いて鴨緑江の鉄橋を渡るより外はなかった。
貨車を降りた旧日本軍人らしい数名のグループが、線路づたいに鉄橋の方向に向かっていた。
貨車の中で知り合いになった年配の石橋さんという軍隊下番の人と私と松山も、遅れじと線路のによじ登って彼らの跡を追う事にした。

10分ぐらいで鴨緑江が見えた。一歩内地に近づいた感じが湧いて来た。
すると先頭に立っていたグループが引き返してくるところであった。
”おーい、ソ連兵が鉄橋の入り口を分捕って追い返された。朝鮮へは渡れないぞ!”
その指す方向には、自動小銃を構えたソ連兵の姿が見えた。
”没法子(メイファーズ)” 私達はすごすごと引き返す以外には方法がなかった。

これからどうなることだろう。次の心配が胸を痛めた。
線路から降りて安東の街に入る事にした。

取りあえず安東の街の状況、朝鮮に渡る方法につき情報を得なければならない。
私達は疎開者及び難民を救済するために出来た日本人会に向かった。
ここには既にいっぱいの人が集まっていた。
ほとんどが満洲各地より内地に帰るため満洲の玄関口”安東”に集まった疎開者、難民、旧軍人の群れであった。
私達がここで知り得た情報は次の通りであった。
鴨緑江の鉄橋はソ連軍の管理で軍用車以外は渡れない。
内地へ帰るめどは現在では全く無い。
河向かいの新義州は更に治安が悪いということで、兎に角、安東在住の日本人市民の方に頼んで泊めて貰って、内地に帰る機会を待ちなさいとの係員の話であった。(つづく)
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2012年1月29日 (日)

重友選手よく走った

又マイナス1度の朝、今日は島がはっきり見える。
テレビをみると大雪のところが多いらしいが、さして南国でもないこの地方はなんと恵まれているのだろう。
ぽかぽかと適度な陽気で老人は過ごしやすい。有り難い事だ。

すこーし夜明けが早くなった様な気がするが、寒いので床離れは家内も私も遅くのろい。
パン・コーヒーに牛乳の朝食でも、摂り終わるともうすぐ9時である。
する事はないのだからこれでいいのだが、寒さで硬直した身体がますます云う事をきかなくなる。

昨日送って来た同窓会報をみると、北九州に住んでた同じクラスだった川崎哲夫君の訃報が載っている。地方実業家として鳴らした時期もあった彼だが、もう20年以上も再会することはなかった。明るく人触りがよく、何よりも酒豪といってよかった。
地上から消え行くものばかりである。

大阪女子マラソンが今終わった。新しくマラソン歴2回目の重友選手が2時間23分23秒で優勝した。
久しぶりに日本人選手の優勝で一安心、しかし2位はやはり外人である。最後の馬力は凄いなあ。
オリンピックに出かけても頑張れる選手と見た。しっかりやって欲しい。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その18)

16、安住の場所を求め

私達3人はそんなことで、取りあえず一夜の宿を求めて、街の中を一軒一軒お願いして廻った。
門を閉ざしているところ、既に宿を提供している家が多く、諦めた私達は日本人会にもう一度頼み、駄目な場合は野宿と決めた。へとへとに疲れて会の近くまで戻ったが、思い直してもう一回この付近にお願いしようと、とある住宅風の家のガラス戸を叩いた。
20台半ばの綺麗な奥さんが玄関に現れた。
私達は途方に暮れている現況を告げて、暫くの間の宿泊をお願いした。

”それはお困りですね。暫くお待ちください” といって奥の間に消えた。祈る様な私達の希望が叶えられる運命だったのだろうか? ”お上がりなさい。主人がお会いしたいと云ってます” 奥さんの言葉は天の助けのようだった。
30数軒も廻って断られた私達は、街のど真ん中のこの家では私達が初めての訪問者であることを聞いた。灯台下暗しとはよく云ったもので、思いがけずこの小田原夫妻に大変にお世話になる事なった。

安東市は京都に似て碁盤の目のように縦横の通路が揃い、一番通りから九番通りまである中で、私達が世話になったところは5番通りx丁目であった。ご主人は別に建築事務所を持って活躍中の若手実業家であり、職業柄想像出来るように太っ腹の、面倒見のいい方であった。
終戦後は仕事も止めて居られたが、その重厚な人柄に私達も頼り甲斐のある人だとの印象を受けた。
暫くして小田原さんが松山と同じN大の工科出身と知り、松山は急に先輩として尊敬、私と板橋さんんは地獄に佛的な巡り合わせにほっと安堵の胸を撫で下ろしたものであった。
奥さんも同情して、”本当に可哀相ね、大分ご苦労なさったのね” と私達をねぎらってくれた。
忘れていた家庭的な味が甦って、つんと胸を打った。

安住の地を得て、久しぶりに私達の心に潤いと和らぎが戻って来た。
食事もご馳走になった。遠慮なく頂戴した。ここに厄介にならなければ、今頃は野宿だったかも知れない。神もまだ見捨て賜わずと思えば、新しい勇気が湧いて来る気持ちになった。6畳の一室に私達は横になった。

それから10日位は夢のように過ぎた。敗戦国民に朗報を期待するのが無理だったかも知れないが、満洲各地の悲惨な情報のみが伝わっていらいらの毎日だった。小田原さん一家の暖かい庇護を受けて無為徒食の私達には、その心苦しさを感じながらもどうにもならない状況であった。

内地に帰りたいと思う日本人の気持ちと裏腹に、内地帰還は当分不可能だと言い聞かせるようになった。、又、鴨緑江を渡った北鮮の状況も非常に険悪で、北鮮の日本人は捕虜同然の生活らしい様子がまことしやかに囁かれ、北鮮経由で南鮮に抜ける事は全く危険な冒険であるとの噂が広まっていた。

今では比較的住み良い安東の街で、じっとして時節を待つのが得策だとの意見が市民や疎開者の心に芽生え、街も徐々に落ち着きを見せて来た。

目抜き通りの商店街は、終戦とともに店舗も今まで使っていた満人に譲り、二階とか離れに引っ込んで地元満人とのトラブルを避けてきたらしく、比較的に略奪等の問題も少なかった安東であった。

満洲の玄関口である当地は疎開者も次第に増加して、戦前日本人5万人くらいの人口は20万人くらいに膨れ上がったのもそんな事情で、内地に帰るためにここまで来たが帰れない事、しかも治安が他の地区より良かったのが原因であった。

従って、この日本人の食生活で需要が増加したので、従来からあった公設市場に肉、野菜を始め食料品が出回り、市場内の店舗の外に日本人の立売りが横行し始めた。(つづく)
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2012年1月30日 (月)

岩国市長選挙

灰色の空、気温2度あまりいい天気にはなりそうにない。
9時半薄日が射して来る。
そろそろ確定申告の準備もしなければならない。老人にも生きている以上それなりの仕事はある。
まるでのんびりとはいかないのだなこの世は。

岩国市長選は私の予想通り現状肯定の現市長が楽々と当選した。古いと云われるだろうが、吉川藩の血の流れがまだまだ残存している感じである。そして市民の対米感覚も独自の方向性がある。簡単に払拭しきれるとは私は思っていない。
広島市のように住民の大半が入れ替わったような町とは違うのだな。

私個人としてはアメリカという国は嫌いである。しかし敗戦という事実に拘らず、正に日本そのものを残してくれたという負い目は私の一生を通じて感じている。相手が他の国だったら日本国は無くなっていただろうし、日本民族のアイディンティティそのものもまともに残す事は不可能だっただろう。
何世紀も続いた白人による他国の植民地化を中止した。共産主義のグローバル化でもなかった。自らの国を律する途だった民主化はくどいほど唱え実行し続けた。この主張が我が民族を事実上救った。

現実にアメリカの傘の下にいることが一番安全だと思わざるを得ない。ロシアは未だに衣のしたに鎧を隠している。
大した犠牲とは思われない軍事基地を貸すくらいで、安全が確保出来れば良いではないか、韓国も排斥するどころか、沖縄の基地の代わりに引き受けようかとも言ったとか聞いた事がある。

無謀にも私達は螳螂の斧を振った。その教訓は未だに身にしみている。
思い上がりを捨て、身の程を知るべきであるというのが、戦場を現実に通り過ぎて来た私の意見である。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その19)

17、生きるための商売開始

私達は小田原さん一家に迷惑をかけていると知りながらも、今の境遇ではどうにもならず、奥さんの買い物、3歳の長女洋子ちゃんの守をして申し訳ない一面をカバーしていた。そんなある日、市場から帰った奥さんが私達にハッパをかけてくれた。
”貴方たち毎日じっとしていても仕方ないでしょう。何か商売でもしたらどう? 何か作って市場で売ったらどうかと思うんだけどねえ、勿論私も手伝うわ”

考えてみると敗戦国民として満州国に残された日本人は、内地に帰るまで肩を寄せ合って協力して行こうとの相互扶助の精神は広がって行ったが、実際には助ける同胞の立場と助けられる側の同胞とあって、助ける方は何時帰れるか判らないのに、全面的に面倒をみることは大変な事だとし、助けられた私自身も小田原さん一家にお世話になったまま居座っていることに反発を感じ、何とか自分たちの食事代くらいは稼ぎたいと思っていた時でもあった。

早速”やりましょう”と話はまとまった。
私と松山と小田原さんの奥さん、隣家の薬剤師森田さんの奥さんが参加されて4人で相談した。4人はほとんど近い年齢ですぐに話が合ったが、年配の板橋さんは別に商売したいと言って参加しなかった。
先ず仕事の分担と売るために作る商品から決める事にした。
手っ取り早くということと、作るなら美味しいものをと、若干夢みたいな空想の実現を願う意見も尊重して、作るものは”おはぎ”とバラ寿司”の2種類に決まった。
これは全く楽しい作業であった。
こんな状況下であったればこそ反って、楽しかったのかも知れなかった。
奥さん二人が材料の仕入れと調理を担当し、外交的な松山が販売を受け持ち、私は飯炊き一切を受け持った。

この頃、私は毎朝6時に一人だけ早く起きて台所に行き薪で飯を炊いた。朝から三回炊くのが日課であった。
最初の飯は”おはぎ用”であり、水加減を多めに柔らかく、二回目は”寿司用”で水加減を少なめに固い飯を、そして三回目は小田原さん一家及び私達の普通の食事用であった。

結果は思いの外好成績であった。最初の3日間は綺麗に売り切れた。奥さんたちの作った”おはぎ”と”バラ寿司”は製品としては素人臭い点はあったが、一応丁寧に出来て居り、本当の商売気ある訳でなく、大体の原価計算によったもので値段に比べると安くうまいと感じられたのかも知れない。
或は膨れ上がった安東市の日本人人口の需要に対して、未だ少ない供給側に立った初期だったからかも知れない。
更に在住の日本人は財産を持って帰れないとの噂で帰るまでの財産だとの退廃的な空気も出懸って、案外にうけたのかも知れなかった。

私達も今までのように居候的生活よりも張りのある楽しい毎日を送る事が出来た。
私は炊事の後始末が済むと、そこそこに松山の販売している市場に急いだ。

半月位続いたこの商売も次第に日本人同士の同業者が増え、そして早急に内地には内地に帰れないと判って来ると財布のひもが次第に締まり売れなくなって来た。私達の楽しかったささやかな共同事業にも終わりがやって来た。しかしこの経験は私と松山には、自力で内地帰還まで頑張ろうという気力を持たせてくれた。
私達は小田原さんに申し出て自炊する形にしてもらった。
それは今まで随分と面倒をかけて助けていただいたので、これからは部屋と寝具だけは借りても食事だけは自分たちで稼がなければならないという気持ちになったからであり、世間知らずの私達が幾分なりと目が開けて来たと考えても良かった。

一方板橋さんは経験を生かしてか手焼きの草加せんべいで順調に稼いでいた。さすがに年配で世渡りの途のうまいのには感心したが、協調性は全く無く悪く言えば利己的で、せんべい一枚私達にくれたことすらなかった。
小田原さん一家と私と松山、そして板橋さんの3世帯の寄り集まり的に、夫々に炊事して食事も別々に取る事になった。

小田原の奥さんと、隣家の森田さんの奥さんはいろいろと私達に便宜を図って、食事時に副食の差し入れ等、相変わらず力になっていただいた。もちろん私達も暇を見ては洋子ちゃんの守り、買い物のお供をして幾分でもご恩に報いたいと勤めて来た。(つづく)
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2012年1月31日 (火)

日本人口と日本人の人口

朝気温マイナス1度、格別空模様に変化なし。天気は良さそうである。昨日はちょっと時雨れたりしたが、まあまあの照ったりくもったりで済んだ。
今朝の新聞一面に人口50年後に3割減とある。2060年8674万人65歳以上4割とも書いてある。
こうした数字は天変地異でもない限りほぼ間違いないから、日本列島は過疎の島になるのであろうか。
どっこいそうはならないだろうな。人口の有り余っている国々は周辺にざらにある。自然の原理として流入は免れ得ないだろう。
いつかこのブログで書いたように、合衆国化が進むかも知れない。
試みにウイキペディアを覗いて見ると、次の通り書いてある:ーー
日本の総人口は、2010年の国勢調査の結果によると128,057,352人(2010年10月1日現在の確定値)であり、前回調査(2005年)と比べ289,358人増加した[1]。
日本人の数(2010年10月1日現在の確定値)は125,358,854人で、前回調査(2005年)に比べ37万人(0.3%)減少した[2]。ーー
即ち日本人の人口は37万人減ったけれど、日本に住んでる人は29万人増えたという事である。
差し引き5年間で66万人外国からの流入が増えたという事ではないか、1億2、3千万人の総人口は変らないという事でもある。地球人口は増大して止まらない現況にある。日本人口だけが減少するなんてやはり考えにくい。
現に朝鮮からの人々は3世代4世代となって、何倍にも膨れ上がっているだろう。私自身の係累だって、アメリカに何十人いるか想像もつかないほどいるのだから。
もし仮に50年後も総人口が1億3千万人とすれば4千2百万人の流入人口があったことになる。とすればもうこれは合衆国というべきではないのか。総人口が1億5千万人にでもなったとしたら、実に6千2百万人が他民族である。もう合衆国そのものといってよい。
政治体系は大きく変わらざるを得ないだろう。
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河北君のシベリア送り脱出行(手記)(その20)

18、第2の商売

10月になって、伝手を求めて豆腐(支那トーフ)の製造元を紹介してもらい、市場で立売りすることにした。朝6時にこの豆腐をつくっている満人の家まで直径50~60cm厚さ12~13cmの円形に出来上がった豆腐を買って、その場で30位に平等に包丁で切り分けてもらい、バケツに入れて持ち帰る事にした。勿論現金仕入であった。
最初の日に松山と私はバケツ2個を竹竿で担いで街を歩いてみた。内地でよく見かけた豆腐売りの声音をまねて”トーフー”と叫ぼうと思うがなかなか声が出ない。
ジャンケンで負けた方が先棒を担ぎ、”トーフー”と呼び声を出す事、そしてクーニャンに出会ったら前と後ろを入れ替わる事に決めた。クーニャンは通っても豆腐はなかなか売れなかった。

考えてみれば軍隊崩れのむくつけき日本人の男が2人、バケツを肩に怒鳴っても売れない筈だ。
午前中に5丁やっと売れた。韓国の奥さんが私達を慰めて2丁買ってくれたのは嬉しかった。
そこで翌日から市場に持って行き立売りする事に決めた。
市場では一般の買い物客の外に私達と同じ様な行商している連中も買ってくれた。

ある雨の日、半分程どうしても売れずに持ち帰った。小田原さんと森田さん一家に食べてもらい、私らはご飯は炊かずに豆腐で腹をふくらそうとしたが、豆腐は一人3丁食べるのがやっとだと判った。
食べる方法はやっぱり冷や奴が一番腹に入るようだ。
相当の損をしてこの夜は、何かしら情けなくて豆腐の夢を見た。

中旬に入って今度は餅の製造元で小餅を買って、市場で豆腐と並べて一緒に売る事とした。
小餅は製造の餅屋で20~30斤の餅を買って、1斤づつ小袋につめて小売りするという単純な仕組みであった。これは案外と受けた。
余っても小田原さん、森田さんの奥さんたちが喜んで買ってくれるので気が楽であった。

私達が市場で過ごすのは朝9時頃から夕方の4時頃までであった。
この市場は終戦までは公設市場であったとか、4番通りの区割りをそのまま市場にしたもので、市場内の通路に沿って店舗が並んでいた。
主として食料品、日用品の店と食堂が多かった。私達は此れ等店舗の邪魔にならない場所で空き箱を積み上げて商品台としていた。
市場の通路で豆腐と餅売りが1週間位続いて、やっと市場の状況に慣れて来た。
お昼の食事を交代に取る外は2人立っていたこの商売も、落ち着いて来ると常時売れる訳でもなく、長時間の立売りも次第に退屈になってきた。

この頃になると、噂として内地に帰る事は当分無理としても、引揚の際に持ち帰る品物は大幅に制限されるだろうということで、安東在住の人々は不要な家具、衣類を少しづつ売りに出す事を考え始めた。
それに食い詰めた疎開者が古道具や、古着を買って出るようになって俄に脚光を浴びる商売となって来た。
委託を受けて、なるべく高く売れば、その10%を手数料としてもらう仕組みが多かった。
松山も早速この商売に目を付けて、豆腐と餅売りを私に任せて、小田原さんや親戚の方たちと話し合って道具、衣類の委託販売をやることになった。
私はむしろ地道な小売りの方が性格に合っているので、よろこんで彼の提案に従った。(つづく)
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