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2011年12月16日 (金)

私の入院事故

外にもいろいろ書いているが、私の軍隊入営は直接関東軍の自動車第三聯隊という東満洲の当時東安省蜜山県斐徳という湿地帯のど真ん中にある兵舎であった。外に第6聯隊と第7野戦輸送司令部が隣接してあった。約5、6キロ離れた西斐徳には戦車聯隊、野砲兵聯隊、輜重兵聯隊などが点在し、斐徳陸軍病院も存在した。鉄道駅でいえば省都の東安から約10キロ、東隣の興凱には野戦重砲聯隊がいて、いずれも東安にあった第5軍の隷下部隊として、興凱湖を挟んで、指呼の間にソ連と対峙していた。
民間人は斐徳駅の周辺に百人か二百人でもいたのであろうか、ほとんどが軍人か軍関係者かであった。

昭和16年1月入隊し、3ヶ月の初年兵教育の後、幹部候補生に採用され、9月東京世田谷の陸軍機工整備学校というところに輸送され、陸軍輜重兵学校幹部候補生として、10月から翌17年3月まで教育を受けた。

この間の12月8日大東亜戦争が勃発した。戦時体制をとったまま教育を修了し、帰隊するや殆ど間を置くことなく戦時編成に組み込まれた。
私は2、3勤務を転々とし、12月陸軍少尉任官と同時に満期除隊即日招集ということで独立自動車第31大隊勤務を命ぜられた。

翌年の昭和18年という年は私にとって忘れる事の出来ない多事多難な年であった。
任官と同時に官舎が与えられ、兵器情報掛将校として大隊本部付であったから、大隊副官の小林中尉と二人で1戸を構えた。部隊から当番兵2名が在宅勤務し家事一切を処理してくれた。
3月末頃、チチハルに第69大隊の述本少尉と一緒に1ヶ月間チチハル第6部隊で毒ガス教育を受けさせられることになり、二人は旅行の徒次、新京に立ち寄り入隊前勤務していた彼は満洲電業本社、私は満洲鉱山本社をそれぞれ訪問して久闊を叙した。奇しくもこの両会社は大同大街に沿って隣接したビルにあった。
勿論入隊前から同じ学校出身だったし懇意に付き合っていたから、大喜びでこのチャンスを利用したのであった。私は先輩のうちに一泊し、彼は友人宅に泊まり、翌日はハルピンで降りて、同級生の土倉君の寮室で雑魚寝するなど遊覧して、チチハルに着いた。
1ヶ月の教育は厳しいものだったが、いろいろ面白いこともあった。
ある日曜日市内の本屋で白城子の貨物廠に勤務していた坂口少尉に偶然再会したりした。彼とは戦後も同窓会で今日まで逢い続けている。

帰隊後、東斐徳地区巡察将校の週番勤務が課せられていたが、7月19日巡察途中発病し、腹痛激しく動けなくなってしまった。巡察経路が約6キロあり半分果たしたところでダウンし、衛兵所を通じて週番司令に後継を依頼した。

別紙地図のごとく、各部隊の営門歩哨や水道所、橋梁の下士官以下7、8名で構成する分哨というものを巡察する任務で、それらの歩哨は部隊や要地の昼夜警備に各部隊から派遣せられていたものである。巡察の役目はその勤惰を確かめるためのものだった。(地図そのものは2011現在の地図で民間の建物が点在するが、昔の3部隊所在地跡と理解出来る)
Photo


各部隊交代で毎日日夜勤務が行われたので、6キロの道程を昼夜一日三度歩き回ることはやはり大変だった。
異常事態が発生したりしたら大変だが、軍隊以外何もない地域だから、問題が発生する様なことはなかった。


宿舎へ帰って休養し、翌々日部隊の演習勤務を終え、帰宅したばかりの軍医の一人に診察を受けたところ盲腸炎と診断され、直ちに斐徳陸軍病院に搬送され開腹手術を受けた。

すでに盲腸が破裂し、腹膜炎を併発していたので、回復に時間を要し、退院出来たのは8月31日、しかもしばらく通院を命ぜられ、全治に約2ヶ月を要することになった。

今考えると、昭和18年の約1年間兵器情報掛将校として公私ともに比較的自由に行動し、一番元気よく働けたのではないかと思っている。入院事故はあったがそれ以上に情報関係など幅広く活動することが出来た。
大隊と言っても、独立した部隊である。軍の極秘情報などもほとんどが回されて来る。部隊長と私だけが独占できる情報は数多い。月に何度か全員に発表する場合もその内容は私の任意である。
後日材料廠長に任命されても、こんどはツンボ桟敷に置かれたようで皆目部隊や軍がどうしているのやら訳が分からなかったことと対比するとやはり違ったなと感ずるのである。

昭和19年1月前任の内藤中尉が復員されたので、材料廠長に任命され、4月には部隊が支那派遣軍の隷下にいれられ、湘桂作戦に参加することとなった。

私は入院ということを殆ど知らない。有り難かったというほかは無い。もう一度は昭和58年5月14日単車で走行中自動車にはねられて負傷、2種間ばかり入院した。頭を負傷したのだが未だに後遺症は出ていない。幸運以外の何ものでもない。
こんなに健康なのだから、盲腸炎とても私には大事件であった訳である。これは湘桂作戦中再発し、腹部が化膿し、軍医の手を煩わすことがあったが、きっぽが残っただけで現在まで異常なく済んでいる。

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