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2011年12月13日 (火)

庶民の生活というものは

朝から太陽がまぶしい。気温5度と変わらず。ひさしぶりにゴミ2袋を捨てに出る。一番奥の家だから百メートルでも足の運動にはなる。

朝ドラで戦争中のことをやっている、飯を食いながら仕方なく見る。
戦争中はずっと戦場に居ったのだから、庶民の生活は私にはわからない。
ドラマだからどうせ作り事だろうと私が言うと、家内はあの通りだったと私の言葉を否定する。

戦争中はしらないが、戦後1年経って帰国後すぐ東京に出た。新設の外国語専門学校というのに応募して入学許可を貰った。
学校の寮というのは6畳の部屋で6人が暮らした。電灯一つの下で机も何もなしで勉強した。といっても出来る訳がない。夜学に変更さしてもらって、昼は職を探し歩いた。幸い外務省の嘱託の試験に受かって、CCD(進駐軍CivilCensorshipDetachment--東京中央郵便局3階に所在)に通うことになった。
中野駅から東京駅まで窓もないガタガタの電車ですし詰めにされ通った。冬になり連結部にかじりついて通ったことも再三あった。

とうとう学校を罷め、知人のうちに厄介になることが出来、今度は大井町駅から東京駅を往復した。
知人のうちでは8畳に其処のうちの人二人と3人で寝起きした。まだまだ焼け野が原の東京だった。焼け残った家はやはり人のすし詰めであった。
しかし食糧の欠配には参った。神田の露天市場で進駐軍の残飯みたいなシチューかなんど、がつがつと食べた。
銭は帰国した時軍からもらった郵便貯金5千円がそのまま残っていたから、一匹5円の焼きイワシでも楽に食えた。
更に進駐軍の給料はよかった。月900円と一般の倍に近かったから食うには全然困らなかった。
しかし配給がないのだから、ヤミで食う以外になかった。
千葉県椿海村の戦友のところまで買い出しに出かけたりした。だが、米だけは没収された。要所要所の駅に張り込んだ警察に容赦なく摘発された。

このドラマではないが、戦争中から続いたほぼ十年間の残酷さはこんな物では無いという気がしないでもない。
廃墟の中、でも生活条件は皆同じであった。不平不満が嵩ずる隙間はまだなかった。

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