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2011年12月 1日 (木)

部落の老人会、温泉で開かれる

地区の老人会総会が湯来温泉で開かれるというので、朝9時集合で区民センターからバスで出かける。
もちろん私はいつも欠席、家内が他の同僚と誘い合わせて、朝早くからばたばたと忙しい。

先ず温泉に入って、昼飯を食いながら総会、終わるとカラオケ大会という段取りらしい。
家内は歌えないから手を叩くだけだという。
町内にはカラオケ教室もあるし、結構盛大らしい。

下痢は無色の粘液だけがにじみ出る。横腹が少し痛い。
昨日家内が紙おむつを買って来た。早速利用しているのだが、ほんちょっと汚れたぐらいで捨てるのは、もったいない気がするがしかたがない。
寝間着まで汚してはと落ち着かなかったが今度は安心だ。

まだ回復とはいかないようだ。食事は昨日からパンとおかゆ。鳥スープと梅干しだけだ。

午後4時家内が帰宅する。今回は20人足らずで盛り上がらなかったらしい。
藤井さんなどカラオケ名人の出席が少なかったせいもあるらしいが。
温泉は改造されて随分良くなっているとか。
私もいつか行ってみたいな。

下痢腹では元気を出そうにも出る訳がない。灯油を買いにスタンドに行って来ようと思っていたが結局取りやめる。
万事やらないことに落ち着く。
日記だけはエネルギーが要らないからこうして書ける。
俺も口ばかり達者な老人の部類に入ったか。

娘のところで見せられたskypeをやってみる気になり、登録手続きを始める。
条件がいろいろあり、理解がしにくいこともあったりして、途中で停滞してしまう。
やはり老人には理解し難いことが多い。まあぼつぼつやるか。

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2011年12月 2日 (金)

老人の空元気

昨日程雲は深くはないが、青空も点々とそこここに覗く、まああまり悪くはない天気だ。
今朝は外にも出ないので外の気温はわからない。だんだんこうした日が増えてくるのかもしれない。
突然死などというのも聞かぬではないが、親など皆永い患いで死んで行ったし、交通事故でも逢わない限り簡単には死ねないだろう。
なにせ生き運が良過ぎるものなあ。

下痢は相変わらずだが、ほとんど食っていないから、出るものもほん少しである。
一応平常に通っているらしいから、通せんぼは出来ていないと見る。
薬が切れてるから内科に行くつもりでいるので、まあ医者任せにするしかない。

じーっと寝てばかり居ると、かたことと毎日毎晩扉かなにか風で揺すられている音が耳を刺激する。
一昨日など夜中に何ものか入っているのではと、懐中電灯をつけて見回ったりしたが、隙間らしいところは見えなかった。
放射能みたいに見えないものというのは、改めて不気味なものだね。
今も風の音が鳴っている。家も建ててからぼつぼつ40年になる、ガタが出ても一向におかしくはない。
人間と一緒だ。

ようやく今あちこちと紅葉が綺麗らしい。昨日も新聞で宮島の紅葉を報じていた。
宮島は死ぬまでにもう一度紅葉を見たいと楽しみにしていたが、家内は足が痛いというし、私はこんなていたらく、今年はもう駄目かもしれない。

午後になるとしょぼしょぼと落ち始める。
取りあえず元気を出して灯油を買いに石油スタンドに行く。今はセルフサービスだから訳は無い。
ガソリンもついでに満タンにしておく。
若い時にはなかったことだが、老いるとときどきガソリンエンコする。一度は高速道で辛うじてSAまで到達出来て助かったが、あの時は40キロくらい燃料計0で走った。出来るだけクラッチを踏んでエンジン回転を抑え、汗びっしょりになって頑張った。

そのほかガソリンスタンドまで歩いて往復したことが2度、つらいものだよ。
性根がいってるのだが、失念するのだからしかたがない。気がついたらすぐ実行あるのみである。

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2011年12月 3日 (土)

商いのコツ

しとしと雨が昨夜から続いている。
こんな日はリウマチに悪いらしく、家内は足の裏が痛いという。
私はなんとなく下痢が治まった感じ。便意も朝からない。

家内の友達の高木さんが昨日まで入院していたらしい。血圧が急上昇して、死んだかとおもったという。同窓会をやるとか言ってたがお流れにしたとか、なったとか。

島根のおばさんがするめなどを送って来る。するめはもう私の歯を持ってしても食えない。
おいしいするめだから子供たちは好んでいる。今年も分けてやると家内は楽しそうに言っているが。むりやり買わされていると苦情がこぼれる。
今年のは少し小振りである。乱獲がたたっているのでは。

15年前まで店をやっていた時、島根県の多古という漁村からちょいちょい行商でやってきていた親子二代のおばさんが、店を止めても電話を掛けてきては押し売りを続けている。向こうも粘り強いが家内も人がよい。
何十年も続いているこちらはお得意さんである。

しみじみ思うのだが、私たち夫婦はどこか甘いらしい。悪い奴に逢うと、とことん搾り取られる。私がいい例である。そうでない奴はいつまでもすり寄って来る。この島根のおばさんのように。
出雲の最北端の漁港らしいが、背中にいっぱいの荷物を背負ってあの頃70歳ぐらいだったおばあさんが、よっこいしょと店に入って来た。
気の毒だから休憩代わりに座らせたのが始めであった。
それからは春夏秋冬中継基地のごとく、来ては荷物を下ろした。
90近くなってある日娘と交代した。この娘なるおばさんは強引だった。どうしても買わされ続けた。おばあさんの方は一昨年なくなったという。百を越えていたという。
時に怒っても駄目だった。又の日ににこにこして顔を出す。
現在の電話も相変わらずである。どうしょうもないな。

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2011年12月 6日 (火)

人間の本懐

昨朝はテレビとの接続はHDMIのチャンネルで日記をつけたのだが、日によっては接続が難しくアナログですることも多い。どうしてだか私にはわからない。
パソコンのご機嫌のまにまにといった感じである。
大した違いはないと思うのだが、HDMIの方がテキストの文字がはっきりしているようだ。イメージなどは全然違いはない。
勿論今はMacMiniとモニターになるテレビとはアナログ線とHDMIと2本つなぎっぱなしである。
音はUSBスピーカーを使っている。ちょっとテレビの音より音質がいいかな、音も大きくなるし。貧乏人のやることだからミミッチイのは仕方がない。

天気もよいが、体調もすっかり回復したので、この分なら紅葉でも見物に行けるのだが、家内の方が少し気にかかる。

朝先に郵便局に回って島根の小川さんに代金を送金しておく。いくら押し売りでも買わされた方が負けである。
アルクで高知県産のジャムを買う。これが美味しいというのでもう3回目である。
それから眼科に回る、12時を過ぎたところで終わる。こちらばかりでなく看護婦さんも大変だな。
岩国から目の救急患者が飛び込んで来て、私の前に入る。それだけ遅くなった訳。お互い様だから仕方がない。
しかし珍しいな、交通事故でもないのに。

今朝はまた7度に戻っている。暖かいな。
薄曇りの空。おてんとさんも何だか頼りなげに照らしてくれている。

最近は大臣の品質が低下して、子供らしいみっともない発言をしては世論の顰蹙を買っている。
なんでかね。常識がなさ過ぎるのか。学歴は昔よりは皆遥かに立派になってるはずなのに。
同じ問題発言にしても、も少し程度の高いところで問題になりたいものだ。

私のごく最近亡くなった友人山崎初三郎君、私のブログの検索ランキングで昨日も第1位にランクされた。今度で3度目かな。
彼は私の知らないところで余徳があったのだなあ。
彼との縁が長い人生のうち僅かでもあったことは嬉しい。以て瞑してくれ。もう逢うことも出来ないし、墓に詣でることもあるまいが。
人間の真価はいくらかでも他人の心の中に残れるかどうかである。
古今の英雄豪傑でなくとも、ひそやかにでも人の心に残ることが出来れば、人間の本懐とすべきではなかろうか。

山崎君のことを書いた途端に、ニューデリーから又長文のメールを頂戴する。
しばらくは彼の余韻が残って当たり前だ。いい男だったからなあ。
私も沢山のいい友人を持ち、どんどん亡くなって行った。思い出記を書いただけでも20名をくだらない。
一昨年亡くなった横山君、そして今度の山崎君、なんとか追悼のブログを書き残したい。
しかし何故だか心が重い。万感が湧き過ぎるのだろうか。

先般東京で会うことは出来なかったが、電話で長話をした神村君、我孫子には田淵君、地元には福永君、大阪の水戸君、島根の土田君、岡山の山田君、文通の絶えない諸君だけでも未だこれだけ居る。
戦友でも金沢の加藤鏡児君が健在である。寂しくなったとは言えないかもしれない。

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2011年12月 7日 (水)

民主主義と自由抑圧の程度

今朝も気温は昨日と変らない。また暖冬だと言われそうな気配。
老人にはこの方が気楽でいいのだが。

世界を見渡してみると、民主思想が澎湃と起こって、特に中東ではいくつも政権が倒れたりした。
しかし世の中益々不安定さが増した感じである。
民主思想というのも果たして人民そのものにとって幸福なものなのか、もう一度考え直してみる必要がありそうだ。
うわべだけをみると、独裁国家北朝鮮なんか整然として誠に好ましい。
エジプトもリビアも前のままの方が良かったのではないかと思えたりする。

人間なんてどこの国でもわがまま勝手な自由を叫んで、他人の権利を侵害して止まない。
その自由を抑えるのが、一番全体の幸福に繋がるのではと思い始める。
世界が始まって以来の議論だから、今更尽きるとも思われないが。

アメリカではうまく機能しているが、国が豊かだからである。貧乏な国ではそのようには到底行かない。
民主の押しつけは却って良くない。ミャンマーなんかもいまのままにして、国連なんかが変な押しつけをしないほうがいいのではと思ったりする。
中東やアフリカでも自由民主主義はますます人民の血を流し続けている。
もう一波乱も二波乱もなければ治まりはつかないだろう。

他国を侵略して、自国の利益を増やそうとする考え方は、前の大戦を契機にほとんど無くなった。私は日本のおかげだと言いたい。
領土を増やせば、毛色、考えの違う人種が増えて統御しにくくなるからである。
人類の知恵も確かに進歩した、もう一押ししたいところである。

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2011年12月 8日 (木)

大東亜戦争勃発のこの日

この日こそ私の一生を完全に変換させた一日と言える。又毎年同じ感慨を繰り返し述べている。
そもそもこのネット上で始めて発言したのも1997年12月8日だった。
nifty通信ネットの”日記フォーラム”というところだった。

折から新聞もテレビもこの日の何たるかを忘れたごとく、記事化されることもなく、もはや万人の記憶の外にあいやられるのではと危惧される状態に感ぜられていた。
憤然たる思いで私は書いた。
翌年も同じ日に同じ思いを書いた。そして今度は朝日新聞が私らのフォーラム投稿記事をとりあげて、紙上に発表した。
忘れられてなるものかという思いが達せられた気がして嬉しかった。

終戦の日は盆とも重なって忘れる人は居ない。記念行事も沢山行われて忘れようにも忘れる事は出来ない。
しかし勃発の日は新世代になるにつれどんどん忘却の彼方へ去りつつある。

残念だが仕方がない。
しかし私たち戦場に赴いたものたちに取っては、この日が運命を決めたと思っているが間違いない筈だ。
重大な記念日である。
数百万の死傷者も出た。焼け野が原にもさせられた。いや我々がそれ以上に加害者にもなった。
百年の後までいやすことの出来ない残酷さであった。

この戦争の発端こそ記憶さるべきではなかろうか。
終戦の日だけ記憶されるのはおかしいと思うのは私だけだろうか。始めがなければ終わりもない筈だ。
ジャーナリストたちの偏差感覚を感じない訳には行かない。

今朝のNHKテレビは朝一番のニュースから、大東亜戦争と報道した。雲行きが変りつつあるなとの感じで受けとめている。
丸70年経った、早くも過ぎた。私の幼い日、日清日露戦争は遥か昔の感じがしたものだったが、2、30年前に過ぎなかった。
それと比較すれば遥かに昔のことである。若い世代に記憶を強要するのは酷かもしれない。
現実に戦ったものだけの生の記憶として存命の間持ち続けるしかあるまい。

歴史の有り様は国の関わり方、歴史家の作為によって畢竟形つくられるものなのだと思わざるを得ない。
真実はもう現実には無い。

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2011年12月 9日 (金)

戦争報道

気温5度だが、風がつめたい。づきんのない頭がひやっとしみる。もう7時半である。
夜明けが随分遅くなった。

昨日は恐ろしく戦争報道が多かった。近年珍しいことだ。もっとも70年目というのが記録的だというのだろう。
大統領から天皇への親書というのを昨夜テレビでやってたが、どちらにしても無理な相談だっただろう。鶴の一声で治まる様な気配ではなかった、その後の対策があやふやでは結局どうしようもないことだ。お互い独裁国家ではないのだから。

軍部に引きずられたとはいえ、日本国民の狂信が招いた暴走行為としかいいようが無い。
結果が招いた現状を振り返ってみると、これでよかったという感じしかしない。

千代が送ってくれたリンゴ、大きくてもったいないので、一部を島根のするめや我が家のゆずなど一緒に包んで送りかえす。
聞けば単身赴任の関係上、自宅にリンゴは買わないとのことなので、それはかわいそう、こちらだけいい目に遭う訳に行かないと家内がいうので。

昼前風は強いが空はよく晴れて日ざしはきつい。
ただ私は風邪のせいかまだ調子が良くないので、家内が外出するのに付いては行けない。
幸い熱はないのだが、鼻とのどが相変わらず悪い。屑篭にやたらふえる。老人性のものだろうからこの冬を通すことになりそうである。

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2011年12月10日 (土)

カビの生えた写真

もう朝早くは起きられない。なにより気力がない。
朝8時気温は5度、ちょうどよい。

古い写真をいじくっていると、えらく眺めの良いところでの写真が出て来る。よく見ると鷲羽山からの展望である。もう写真にカビが生えて帯状に汚れている。幸い景色はきれいに残っている。島々が美しい。1964年2月会社の招待旅行で私が引率した招待客が皆若々しく美しい。もう50年近くなるから、皆7、80のじいばあさんになられただろうが。
どのカメラだったろうか、カビは残念だがよく写っている。捨てるには惜しい。まだ瀬戸大橋の出来る20数年前のことである。

まだカラーでない時代らしいが、ピントがしっかりして島の景色が美しく、人間との調和がいい、残しておきたい写真である。
苦労していたなああの頃は。
これらの島々に今は大きな長い橋が架かっている、二度と写せない写真である。歴史的価値も存在しそうである。

19642


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2011年12月11日 (日)

怪我の功名

今朝気温4度、やや寒い。
検索しやすいように、DVDやCDに録画記録したものを、携帯用のHDにコピーを始めた。
やはり専用のソフトを使うのが早いようである。
直接コピーすると何時間もかかって、ついているのが大変であった。
私はTOAST TITANIUMというのを使っているが、最近は性能もアップされて、凄く早い。
待ちくたびれるということは先ずない。

写真なんかも題名をつけておくと簡単に引き出せる。
いかに適切な題名をつけておくかということが、重要なことになるようだ。

整理をすることはあまり苦にならない性格なのだが、ちゃらんぽらんなところが災いして、先だっても軍隊時代の入浴風景を探し出すのに苦労した。部隊名、隊名、時期別、浴場、などいろいろ探したがどうしても出て来ない。
とうとう写真集の一つ一つを繰りながらやっとこさ、探し当てる。見れば何のことはないYOKUJOという題がついている。
面倒なものだから、変換せずにそのままの題名にしたらしい。全部がそれならまだいいが、ところどころだから困るんだなあ。

カメラがつけた日時と、順番を示す番号、これもそのままにしておくと探し出すのに時間がかかる。やはりつけ直しておく方が良さそうだ。
2、3字ぐらいで簡単に表示出来るようにしておくと案外便利なようでもある。

検索ソフトもものすごく早くなっているし、TEXTはもちろんPDFなんかの内容文字まで拾ってくれるので、助かることが多い。
老いの苦労が随分減った様な気さえするのだがどうだろう。

親戚、友人、知人の動静など固有名を日記などにははっきり書いておくのがいい。随分参考になるものだ。
一期一会のような、すぐ忘れそうなふれあいなどは特に役に立つものだ。
完全に忘れ去っていたことなどが出て来て驚いたことがしばしば起きた。

17歳のときから日記を付け始めたことが、どれほど役に立っているか計り知れない、これもコンピューターと云う道具があればこその話である。まったく予期しなかった怪我の功名ではあるが。

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2011年12月12日 (月)

柚子の豊作

気温5度、やっぱり寒い。簡単には起きられない。
鼻水が止めどなく垂れ落ちる。うっかりすると食べ物に混じりそうである。
今日は新聞休み、忘れてポストまで取りに出る。

東北大震災から9ヶ月、未だに後遺症でさわがしい。原発が一番の災害のもとだ。
関東の大震災のときも、近所に避難して来られたおばさんが、その時の状況をよく聞かしてくれたもんだった。
もう小学校に上がっていた頃だったか、3、4年はたっていたのではなかろうか。
二階の屋根から電柱に飛びついて、滑り降りたと真剣な話しっぷりだったが、聞いてるおじさんたちは、女は前にお荷物がないから楽だったろうと笑って聞いていた。どういう意味かよくわからなかったが、なんでこんなのを憶えているのか。

もう間もなく90年になる、世相もまるで違っていたなあ。
いまだったら、ふざけるなと拳の一つも飛んでいるだろう。
戦災の写真はよく見るが、震災の写真はほとんど見ることはない。
時間は滔々たる大河の流れるごとく、いかなる歴史を揺るがした大事件も記憶の外に押し流してしまう。

経験した当事者たる人々も、時間とともにどんどん忘れ去り、定かな記憶さえ残らない。
記録というものはまことに残りづらいものなのである。

今年は庭のゆずの豊年で、枝もたわわに何百と数知れずなっている。毎日もいでは近所に配ったりしているが、とても追いつかない。
今朝は私も先日買って来た柄付きのハサミで切り取りする。ものぐさ野郎のすることだから、ろくなことにならない。それでも百ぐらいは切り取っただろう。ちょっと油断してとげが指先に刺さり血が噴出する。駄目だなあ。

もう少し早く摘み取った方がよかったらしいが、こんなに出来てはどちらにしろもうお手上げである。
昨年は一つもならなかった、その反動だろうが、生り物にはこれがあるから難しい。

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2011年12月13日 (火)

庶民の生活というものは

朝から太陽がまぶしい。気温5度と変わらず。ひさしぶりにゴミ2袋を捨てに出る。一番奥の家だから百メートルでも足の運動にはなる。

朝ドラで戦争中のことをやっている、飯を食いながら仕方なく見る。
戦争中はずっと戦場に居ったのだから、庶民の生活は私にはわからない。
ドラマだからどうせ作り事だろうと私が言うと、家内はあの通りだったと私の言葉を否定する。

戦争中はしらないが、戦後1年経って帰国後すぐ東京に出た。新設の外国語専門学校というのに応募して入学許可を貰った。
学校の寮というのは6畳の部屋で6人が暮らした。電灯一つの下で机も何もなしで勉強した。といっても出来る訳がない。夜学に変更さしてもらって、昼は職を探し歩いた。幸い外務省の嘱託の試験に受かって、CCD(進駐軍CivilCensorshipDetachment--東京中央郵便局3階に所在)に通うことになった。
中野駅から東京駅まで窓もないガタガタの電車ですし詰めにされ通った。冬になり連結部にかじりついて通ったことも再三あった。

とうとう学校を罷め、知人のうちに厄介になることが出来、今度は大井町駅から東京駅を往復した。
知人のうちでは8畳に其処のうちの人二人と3人で寝起きした。まだまだ焼け野が原の東京だった。焼け残った家はやはり人のすし詰めであった。
しかし食糧の欠配には参った。神田の露天市場で進駐軍の残飯みたいなシチューかなんど、がつがつと食べた。
銭は帰国した時軍からもらった郵便貯金5千円がそのまま残っていたから、一匹5円の焼きイワシでも楽に食えた。
更に進駐軍の給料はよかった。月900円と一般の倍に近かったから食うには全然困らなかった。
しかし配給がないのだから、ヤミで食う以外になかった。
千葉県椿海村の戦友のところまで買い出しに出かけたりした。だが、米だけは没収された。要所要所の駅に張り込んだ警察に容赦なく摘発された。

このドラマではないが、戦争中から続いたほぼ十年間の残酷さはこんな物では無いという気がしないでもない。
廃墟の中、でも生活条件は皆同じであった。不平不満が嵩ずる隙間はまだなかった。

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2011年12月14日 (水)

老婆心というものか

怠惰に毎日暮らしていると、やはり良心が痛んで落ち着かない。
といって何をやる気力も出ない。
ゆずもあれきりである。ついでに片付けてやりたいと思うのだが、指の先の刺され傷が痛みはしないが気になる。
何も今日という気になって先のばす。
寒さをしのぐ勇猛心はもうない。

山崎君のこと大体書き終わったので、くどくどと長文になったが、ニューデリーの孫娘さんにメールとして届けておく。
読み返して、記録の再確認に時間がかかる。言葉の省略が案外人を迷わすものである。
読まれた後、すぐ廃棄し忘れ去るようお願いしておく。
彼女には耳の底にちょっと残っていれば済むことである。
今日までの祖父との間の細かい交流が数知れずあるはずだから、いまさら付け加えるまでもないと思う。

考えてみると老人というものは嫌な奴だなと思わずに居られない。
大昔の今更どうにもならないことを憶えていてわめき散らす。

やっぱり消え去る以外になさそうだ。彼が絶食して生を絶ったのもその辺りを悟ったか。えらいやつだなあ。
もし私にもそのチャンスが到来すれば、試みてもいいかな。
名馬といえども最後はさらっと痛みなく処断するというではないか。

彼が点滴だけで静かに死んでいったというが、一番賢い法だったかもしれない。
点滴だけで生き残ることは出来ないと聞いている。選択肢としては悪くない。勿論彼の取った絶食が前提である。

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2011年12月15日 (木)

人生の終焉

もやってはいるが、雲はほとんどなくいい天気になるらしい。気温は5度と毎日ほとんど変わらない。
穏やかなよい日和のようである。

昨日は午前中に呑んだ下剤のおかげで、夕方までには腹の中はすっかり空になったらしく、気分まで楽である。
自力では出来なくなった排泄、薬に頼るしかない気がして来た。そんな年齢なんだろう。
食うのはもう普通の4分の1だろう。何日経っても腹にたまらないから、排泄の力も出ない。
便秘の様な状態に陥るのだと医者にも言われた。

運動などは全然しないのだから、エネルギーは消耗しようがない。
やっぱり山崎君のように絶食ということに最後はなるのかな。
しかし考えてみると何も食わないというのも大変な苦労だな。いまちょっと簡単には出来そうにない。俗物だよ俺は。

今盛んにピアノの綺麗な曲が流れている。これなど聞いていると、気持ちがよくて先のことなどどうでもよくなってしまう。
畢竟俗物なんだよ俺は。
一昨日だか植物園を歩いて来たが、いくらも歩けなかった。家内が足の裏が痛いと言って歩かなかったから、こちらも歩く意欲を失ってしまった。見たいものは何もない時期だしなあ。

紅葉もとうとう今年は見に出かけることがなかった。近所に名所は沢山あるというのに。
人生の終焉がいよいよ近いということか。

食事をするため外に出る。買い物もスーパーで済ます。
くもが出て、日ざしはすっかり弱くなっている。やはり寒くなるのか。

年賀状のハガキは50枚程買って来ているのだが、書く気がしない。
ワードのテンプレートを覗いてみたが、大して気に入るようなものはない。
来年になって呉れた人だけに返事をすることに決める。年を喜ぶ気分にはもうなれない。

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2011年12月16日 (金)

私の入院事故

外にもいろいろ書いているが、私の軍隊入営は直接関東軍の自動車第三聯隊という東満洲の当時東安省蜜山県斐徳という湿地帯のど真ん中にある兵舎であった。外に第6聯隊と第7野戦輸送司令部が隣接してあった。約5、6キロ離れた西斐徳には戦車聯隊、野砲兵聯隊、輜重兵聯隊などが点在し、斐徳陸軍病院も存在した。鉄道駅でいえば省都の東安から約10キロ、東隣の興凱には野戦重砲聯隊がいて、いずれも東安にあった第5軍の隷下部隊として、興凱湖を挟んで、指呼の間にソ連と対峙していた。
民間人は斐徳駅の周辺に百人か二百人でもいたのであろうか、ほとんどが軍人か軍関係者かであった。

昭和16年1月入隊し、3ヶ月の初年兵教育の後、幹部候補生に採用され、9月東京世田谷の陸軍機工整備学校というところに輸送され、陸軍輜重兵学校幹部候補生として、10月から翌17年3月まで教育を受けた。

この間の12月8日大東亜戦争が勃発した。戦時体制をとったまま教育を修了し、帰隊するや殆ど間を置くことなく戦時編成に組み込まれた。
私は2、3勤務を転々とし、12月陸軍少尉任官と同時に満期除隊即日招集ということで独立自動車第31大隊勤務を命ぜられた。

翌年の昭和18年という年は私にとって忘れる事の出来ない多事多難な年であった。
任官と同時に官舎が与えられ、兵器情報掛将校として大隊本部付であったから、大隊副官の小林中尉と二人で1戸を構えた。部隊から当番兵2名が在宅勤務し家事一切を処理してくれた。
3月末頃、チチハルに第69大隊の述本少尉と一緒に1ヶ月間チチハル第6部隊で毒ガス教育を受けさせられることになり、二人は旅行の徒次、新京に立ち寄り入隊前勤務していた彼は満洲電業本社、私は満洲鉱山本社をそれぞれ訪問して久闊を叙した。奇しくもこの両会社は大同大街に沿って隣接したビルにあった。
勿論入隊前から同じ学校出身だったし懇意に付き合っていたから、大喜びでこのチャンスを利用したのであった。私は先輩のうちに一泊し、彼は友人宅に泊まり、翌日はハルピンで降りて、同級生の土倉君の寮室で雑魚寝するなど遊覧して、チチハルに着いた。
1ヶ月の教育は厳しいものだったが、いろいろ面白いこともあった。
ある日曜日市内の本屋で白城子の貨物廠に勤務していた坂口少尉に偶然再会したりした。彼とは戦後も同窓会で今日まで逢い続けている。

帰隊後、東斐徳地区巡察将校の週番勤務が課せられていたが、7月19日巡察途中発病し、腹痛激しく動けなくなってしまった。巡察経路が約6キロあり半分果たしたところでダウンし、衛兵所を通じて週番司令に後継を依頼した。

別紙地図のごとく、各部隊の営門歩哨や水道所、橋梁の下士官以下7、8名で構成する分哨というものを巡察する任務で、それらの歩哨は部隊や要地の昼夜警備に各部隊から派遣せられていたものである。巡察の役目はその勤惰を確かめるためのものだった。(地図そのものは2011現在の地図で民間の建物が点在するが、昔の3部隊所在地跡と理解出来る)
Photo


各部隊交代で毎日日夜勤務が行われたので、6キロの道程を昼夜一日三度歩き回ることはやはり大変だった。
異常事態が発生したりしたら大変だが、軍隊以外何もない地域だから、問題が発生する様なことはなかった。


宿舎へ帰って休養し、翌々日部隊の演習勤務を終え、帰宅したばかりの軍医の一人に診察を受けたところ盲腸炎と診断され、直ちに斐徳陸軍病院に搬送され開腹手術を受けた。

すでに盲腸が破裂し、腹膜炎を併発していたので、回復に時間を要し、退院出来たのは8月31日、しかもしばらく通院を命ぜられ、全治に約2ヶ月を要することになった。

今考えると、昭和18年の約1年間兵器情報掛将校として公私ともに比較的自由に行動し、一番元気よく働けたのではないかと思っている。入院事故はあったがそれ以上に情報関係など幅広く活動することが出来た。
大隊と言っても、独立した部隊である。軍の極秘情報などもほとんどが回されて来る。部隊長と私だけが独占できる情報は数多い。月に何度か全員に発表する場合もその内容は私の任意である。
後日材料廠長に任命されても、こんどはツンボ桟敷に置かれたようで皆目部隊や軍がどうしているのやら訳が分からなかったことと対比するとやはり違ったなと感ずるのである。

昭和19年1月前任の内藤中尉が復員されたので、材料廠長に任命され、4月には部隊が支那派遣軍の隷下にいれられ、湘桂作戦に参加することとなった。

私は入院ということを殆ど知らない。有り難かったというほかは無い。もう一度は昭和58年5月14日単車で走行中自動車にはねられて負傷、2種間ばかり入院した。頭を負傷したのだが未だに後遺症は出ていない。幸運以外の何ものでもない。
こんなに健康なのだから、盲腸炎とても私には大事件であった訳である。これは湘桂作戦中再発し、腹部が化膿し、軍医の手を煩わすことがあったが、きっぽが残っただけで現在まで異常なく済んでいる。

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2011年12月17日 (土)

横倒しになった自動車

朝気温1度と最低、雪は降らなかったらしくどこにもみえない。昨夕ちらついただけに終わったらしい。
よく晴れて予報では昼間は8度くらいに気温が上昇するという。昨日の昼より暖かい訳。
よく澄んで野山の色彩が美しい。

昨日のブログに書いた東斐徳の巡察のことで、ふと思い出す。冬近くなると零下に下り食に飢えた狼などが、軍の廃棄物などを狙ってか群れを作って山から下りて来る。この付近は完達山脈というそう高くはないが、斧鉞の入らない深い原始林地帯であった。その遠吠えは結構怖かった。巡察勤務は一人でやるのだから、襲われたら大変である。拳銃と軍刀しか防御手段はない。拳銃の音ぐらいでは奴らは恐れない。

しかし軍公路ぞいだから、夜遅くても自動車などの公私の運行はかなりあった。自動車のライトは狼も恐かったとみえ近寄らなかった。
こちらも用心して丑満つ時などという時間帯は避けて、巡察したものである。

私自身も経験があるが、ある晩将校集会の後、二次会で6キロも遠方の斐徳駅近辺の料理店(軍人会館というのであったか)で呑み直し、深夜幌付きのトラックで帰営したことがあった。
もちろん当時といえども公私乱用は許されなかった。
ところが運悪く氷結した道路に運転を誤って車が路上から斜面を滑り落ちて横倒しになり、われわれ十名ばかりは投げ出されてしまった。部隊に帰って救援を頼まねばなど、困ったことになったなと評議している時、たまたま輸送司令官の乗った車が通りかかった。
何事かと大目玉を食ったことは言うまでもない。最上級の将校殿はもちろん後日改めて処罰されたりした。
一番新米だった私たち数名は何のおとがめもなかったが、それだけにいつまでも記憶に残る事件ではあった。

娯楽も何もない辺境の荒野でのこと、お目こぼしのこうした行楽は数多くあったのではないかと想像する。
孤独の深夜巡察を助けてくれた行動とみれば、とがめるだけでは済まないという気がするのである。


昔の車は道路の関係上座高が大分高かったように思っている。だからよく横倒しに転んだりしていた。
新京に居た時、大同大街の真ん中を走っていたダットサンが突然ころっと横転した。偶然私は窓から外を見ていて目撃した。
あまりのたわいなさに笑ってしまった記憶がある。

又チチハルのガス教育のとき、被教育者の将校連中をトラックに満載して、平原を疾駆していた時、路面の凹凸を避けるため、運転手が急カーブを切った途端、車は横転し、20名ばかりの将校が野原に投げ出された。下積みのものはかなりの数重軽傷を負った。

今頃の車は滅多なことでは横転などはしないから、知らない人が多いのではと思う。
いずれも今から70年も前の話である。

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2011年12月18日 (日)

軍医の裸踊り

始めて0度を割る、-0.1度か-0.2度か。寒暖計の表示が微妙である。
ともかくこの冬一番の寒さになった。
雨にはならないが白っぽい雲が空一面に覆って、あまり上天気とはゆかない。

台所兼食堂の寒い我が家では、エアーコンディショナー、温風石油ヒーター、そして石油ストーブと3台で居間続きの15畳半の間を暖める。
私が寒い寒いとこぼすからである。とにかく二人では広すぎるのだが今更仕方がない。

足裏には靴下用のカイロを貼って、スリッパで部屋の中を歩き回る。乾癬で指の先が変形し、ともすれば凍りそうに冷たくなるからである。もう大分前に無くなった従弟が足の指が腐って手術して除去したことがある。あんなことになったら大変だからと思うのである。
心臓も弱くなって現在薬を飲まされている。血の巡りの悪いのは致し方がない。
一番遠い足の先などは暖めて、通りよくしてやらないと心臓が気の毒である。

昨日も書いた斐徳の陸軍病院は関東軍第69陸軍病院というのだらしい。辺境の地だから小さな病院だった。
盲腸炎で2ヶ月も掛かったのだから、現在なら考え難いことだろう。
腹膜炎を併発していたので、傷口を開いたまま毎日ガーゼ交換をしてくれるのだが、こちらの方がよほど痛くて堪え難かったものである。
下手にうめき声を出したりすると、容赦ない叱声が届く。刑を受けた犯罪人みたいなものであった。

たまたま学生時代1年下で、同じ下宿にいて、音楽同好会などで懇意にしていた松田君という音楽好きな男が、重砲のカタピラに足をやられて、この病院に入院していた。通路でばったり逢って声を掛けてくれたのだが、手術の済んだ朝、牡丹江の第8陸軍病院に後送されるからと、別れを言いに私の病室に現れた。いずれ内地に帰れるだろう、よかったなと痛々しい松葉杖の彼に、言葉を送ったりした憶えがある。

戦後同窓会などで消息を聞くことはあったが、これが人生最後の別れであった。

私を病院に送り込んだ軍医というのが、風変わりな人で有名であった。
その年の年賀の宴会の席で、司令官以下隷下部隊の全将校数十名の前で、真っ裸になり性器は股倉に巧みにはさみ込み、当時流行の”私のラバさん南洋の娘”の合唱に合わせて、豊満な女体を思わせぶりにくねくねとダンスを披露した。あまりの見事さにやんやの大喝采だった。
野戦輸送隊司令部ほか4部隊の間で知らざるものなき名物男になったゆえんである。

気さくな名医で外の軍医は私の病気を的確に診断出来なかったが、最終的に彼の診断のおかげで命を拾ったと言ってもよかった。

昼前楽々園に買い物に出かける。駐車場から車を降りて歩き始めると何だかふらふらして、身体が浮いた様な気がして落ち着かない。
家内にそれを言って車に帰り車中で待つ。リクライニングレバーを引いて、横になろうとするとものすごい勢いでくるくると目が回る。
これはと驚く。何故だか判らないが異常事態だ。動き回っては悪いと判断して座席に腰掛けたままじーっとして待つ。頭を持たせにつけても、目が回るから仕方がない。
運転出来ないかなと思ったが、前方がぼやけてよく見えなかった目がそのうちだんだんはっきり見えて来た。
家内が戻って来た時にはどうやら正常に戻っていた。
危なげなく運転して帰宅する。やれやれと胸を撫で下ろす。
死出の道への警告の第一報だろうか。
それとも目の手術の後遺症だろうか。
生まれて始めての経験である。頭痛も何もない、ごく単純なフラ付きだった気がする。

同じ町内の2軒の家で例年通りクリスマスから元旦に掛けてのイルミネーションを披露してくれている。
若い人はいいな。前途を明るく捉えている。
これでなくてはいけないんだが。

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2011年12月19日 (月)

人も家も老い朽ちるとガタガタ

朝の気温は丁度0度。空もよく晴れている。
一番よく開け閉てする表座敷の引き戸のクレセントが壊れているので付け替える。
いつ壊れたのだろう。今まで気づかなかった。

我が家も建ててから後2年で丸40年になる。無事によく持てたといっていい。
あちこちと大修理もした、キチンなんかは大改造しているが。
人間も建物も一緒だな。
昨日のことがあったから、今朝ちょっと心配だったが、別段変ったことは何もない。
何だか不思議である。やはり目の手術の関係だろうか。次の診断日は来年3月5日だから間があり過ぎるが、まあそれまでに同じことが起きるかもしれないから、じっと待っているのもいいかもしれない。ばたばたしても仕方がないことだから。
午後内藤内科に行ったついでに先生に昨日のめまいのことなど聞いたが、老齢には気候の変わり目にはありがちなことで外の症状がないのであれば、問題は無いとのことやや安心する。
家内も目医者に行く。右目の手術をやった方がよいといわれ、気候がもう少しよくなった来年3月以降にしてもらいたいということで、27日に先方が予約を取ってしまった由。彼女も忙しい。

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2011年12月20日 (火)

世の中平安なれ

昨日の朝と同様気温0度丁度、天気平穏なことがしのばれる。
有り難いことである。
今朝も一番にブログに入って見ると、乾癬治療についてのコメントを戴いている。
いろいろ気遣ってくれる人もあるようである。もう先がない私だから今更治したいとも思っていなし、20年も患っているとそれなりの病気との付き合いも出来て、楽しいとまではいけなくても、一日の行事化してなくてはつまらなくなる気がしたりする。

ブログというのは見たい人が勝手に見る訳だが、こうして丸6年も書き続けていると、だんだんに興味を持ってくれると見えて、今月当たり一日平均アクセス数丁度60と出ている。雨の日も風の日も毎日見てくれてるのである。
発表している以上せめて読んでくれなくては意味がない。しかし60件とは恐れ入るな。

身に余ることは書けない、当然である。せめて字を間違えないようにと今は気をつけている。
字も言葉もだんだん忘れる事が多くなったのだが、毎日の積み重ねで思い出すことも多くなる。五分五分だな。ただパソコンは有り難い、これなくしてはとてもとてもの思いはしきりにしている。

ベルギーに行ってる孫に会いに、母親である私の娘が明日の飛行機で出かける。成田に一泊して早朝出発するというから、今ばたばたしている最中だろう。

金正日が急死したというニュースが昨日あちこちから知らされる。ケータイにまで入っている。
一向に関係ないことだから勿論無視する訳だが、三男が後を継ぐという世襲制度らしい。
共産主義の国というのは面白いね。

天皇にも、イギリス国王にも国の主権はないから、最高の世襲国家主権者という訳か。
長男も次男も後を継がないというのだから、遺言でもあったのかな、この国の法律はどうなっているのだろう。
未だ28歳というからこれからが大変だな。並の地位ではなさそうだから。
ごめん蒙って逃げ出す訳には行かないのかな。

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2011年12月21日 (水)

斐徳か裴徳か

私が徴兵で入営した場所が東安省斐徳といつも言っているし書いてもいるのだが、googleで地図を調べてみると、裴徳と地名が表示されている。鉄道駅も裴徳となっている。昔と変ったのかもしれない。
或はもともと裴徳だったのを、日本人か満洲人が斐徳と書いたのかもしれない。
湿地のど真ん中で昔からさほど人が集団で住んでいたたとも思われないし、裴の方は人名専用の文字だから、ひょっとして裴某という人物が最初に開いた土地なのかもしれない。
どちらにしろ現在は裴徳となっているのだから、中国が決めている通りにしなければ仕方がない。
ヒトクでなくてハイトクということだが、ちょっと呼びにくいな。ヒトクで押し通すことにするか。

不思議なことに私のブログの検索語で結構”斐徳”が多い。関心があるか、関連があるか、どちらかだろうが。
いまはもう軍籍簿なんてないだろうが、わたしの控えにはちゃんと斐徳と地名を記入されている。
架空と言われても簡単には消し去るわけにはいかない。

なお詳しく地図を眺めると密山市には朝鮮族多しの文字も見えるし、裴徳には総合中学も大学もあるように記載されている。
えらく発展したものと思われる。70年という月日はただ事ではない。

午後山崎君のお遺族から、追悼ミサを滞りなく済ませたとの、お悔やみの礼状が届いた。
改めて幽冥更に遠のいたことを実感する。清司さんはもうお名前も忘れていたのだったが、お手紙で思い出すことが出来た。お会いしたのは東京のホテルニューオータニで一度だけ、まだ二十歳前後の若者だったが。
奥様とはもうお目にかかることは永劫にないことだろう。

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2011年12月24日 (土)

私の因果応報

放射冷却現象かほとんど雲なく晴天、朝の気温0度。クリスマスイヴとあって騒然、キリスト教国でもあるまいに。
戦後もう何十年、相変わらず続いている。不思議な国。

日ざしは結構強く部屋の中は暖かい。どうしてもうとうとしてくる。
ここのところもう書くことが無くなった気がする。筆を擱く時期が到来したか。

私の一番悲惨な時期はいつだったか、どうしても反省の意味もあって詳しく書き残したいのだがーーー、ありありと記憶は定かなのだが、筆が重い。楽天的な生来の心根が邪魔をする。嫌なことにはやはり目をつぶりたいのか。

戦争で人並みに0からのスタートになった。呆然としている期間が長かったかもしれない。
安易な妥協を繰り返した。所謂人が良かったと言う訳。悪がはびこった時期だった。
なけなしの資産は奪い取られるようにしてなくなった。

家族はもろにその被害者になった。
自殺することも出来なかった。戦死する方がどれほどよかったかと、悔いの続く日々が結局一生を貫いた。
並の人間なら60、70歳は隠居時期である筈だが、愚かな私にはそれが出来なかった。
命を投げ出して働いた、そして矢折れ力つきた。
90の今、神が哀れんで隠居時間を与えてくれてるとしか思えない。

因果応報という言葉があるが、私に当てはまるのであろうか。因とは何だろう、戦争で夢中に働いて人を殺したからだろうか。
それしかないな、日本軍の兵隊が皆そうであるように。
果も私だけと考えるのは、思い過ごしかもしれない。皆いろいろな果を背負って生き、そして死んで行ったのだろう。

日本国の今日が如実に語っているといえば、当たっているようでもある。
ほぼ一世紀、結末がつくのか。

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2011年12月27日 (火)

日本合衆国化は無理か

うす雲は棚引いているが、まずまずの好天気。気温0度。
年の暮れといい、元日といい、もう何の感興もわかない。世の中が何となく騒がしいのが気になるだけである。

北朝鮮の内紛を期待する論調が多いやに見える昨今の報道の姿勢だが、この国は本来何千年もの伝統を持つ高麗民族の末裔である。忠誠心が強く服従に慣れている。簡単に一枚岩がくずれるとも思えない。
後継者に選ばれた三男の金正恩も穏やかそうで、欠点らしいものは見えない。
王者の風格も父親以上に備わっている。補佐する政務担当者に大きな間違いがなければ、このまま順調に政権が維持される公算が大きいと見るがどうだろう。
他所のことはどうでもいいのだが、この国日本はどうなって行くのだろう。なんとなく国の芯が頼りない。又大地震でもあると国全体が崩れそうである。資源もない、耕す土地もない、本来の日本を見つめ直すのが先決ではないのか。予算の半分を借金に頼るなど身震いが出そうである。
生半可な改革では、立ち直れそうには無い。明治維新から140年、敗戦の日から大凡そ70年になる。
ぼつぼつ革命ののろしが上がってもいいのではないか。

日本民族はもう老化するばかりで、完全に活力を失ったかに見える。
活力を他に求める以外になさそうである。
インド、インドネシア、中国など活力のはけ場所に苦しんでいる。思い切って流入を図るなど決断出来ないのか。
経済ばかり自由化したところで、活力が上がる筈はない。

日本は1500年の昔、朝鮮半島や中国本土から何十万の流民を受け入れたことがある。
同化して強固な日本民族が生まれた。
江戸時代の鎖国に引き続き、国粋化の波激しく久しく血液の混合が絶えている。
今こそ他人種の流入によって、新しい合衆国家の発生を模索すべきときではないのか。

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2011年12月28日 (水)

高峰秀子の一周忌

朝気温-1度、広島総合病院に出かける。尻の皮疹がヘルペスの疑いがあるといわれて、血液検査。
19日に内藤で取られたといっても、部門が違うから駄目だといわれる。素直に従うしかない。
来年1月11日に結果が分かるから来いという。この先生は言い出したらその発言をなかなか曲げない。
あきらめるしかないな。

昨日家内が晴子に電話して、千代などの状況を聞く。順調に過ごしているらしい。明日はもう帰国するというのだから、今日はいそがしくて大変だろう。

例年のことだが年末になると、道路工事が多くなり変なところで渋滞する。駆け込み仕事というのだろうが、この気ぜわしい時になんとかならないものか。
予算というのは目に見えない大事件の種だよなあ。

楽々園に行ったついでに本屋で高峰秀子のわたしの渡世日記というのを買う。既刊の書物を新潮社が文庫本で再発行したらしい。
発行日平成24年1月1日とある。まだその日になっていないが、店頭を宣伝のため飾ったかのようで、上下これ二冊しかない。
私が貰ったので、空きだなになったが、在庫はもちろん奥にしまってあるのだろう。

私より4歳年下の彼女は見かけによらぬ硬骨女子であった。
生れ落ちるから叔母に貰われて、溺愛もされ邪険に吸い取られもしたらしいが、その叔母への反発がそもそもの高峰秀子を作り上げたらしい。

しかし私と同世代の偉大な女優だったなあ。学生時代”綴方教室”で見ていっぺんに感激し、とりこにされてしまった。
その時のことは古い日記にこまごまと書き残している。
映画が自由に見られるようになり、私が好きになった女優の第1号だろうか。
5歳のときから子役で活躍したというのだから、この映画では14、5歳あたり、既に年季は入っていた訳である。

亡くなったのが昨年の12月28日、今日が正に1周期である。これも何かのえにしであろうか。

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2011年12月29日 (木)

スカパーe2とは

空一面灰色の雲に覆われて、日ざしは届かない。気温はちょっと上がって1度。
午前9時半、淡い日ざしが雲間からもれはじめる。

スカパーe2とか云うのが盛んに宣伝している。チャンネルが何百とあるらしいが、これってどういうことだろう。
商売になるのかな。ただみたいなことを言ってるが、結構道具を準備しなければならないし、手続きもぐじゃぐじゃと煩わしい。
国民大衆はテレビ馬鹿になるのではと、今から恐ろしい。

人は考えることによって、生物の頂点に立った。なんでも与えられるばかりだと、思考能力が低下するのではと懼れる。
寿命はどんどん長くなっている。少々無駄な時間があってもいいのかなと思っても見るのだが。

部屋をつなぐベルが昨日から鳴らなくなった。用事があると家内が鳴らすベルである。
分解して調べてみたが電池は未だ余力十分だし、線は皆ハンダ付けだしねじのところも緩んだところはない。
寿命というには若すぎるのだが、皆目見当もつかない。
年の暮れになるといろいろ起きるもんだな。

冷蔵庫は先般直してくれてなんとか氷を作ってくれている。年明けには部品交換の予定になってはいるのだが。
瞬間暖め機もなんとか働いてくれてる。時間の設定は相変わらずおかしいが。
風呂の温度設定を昨夜は43度に上げたのだが、寒くてなかなか出にくかった。
風呂が悪いのか私が悪いのか。

民主党が消費税問題で揺れている。又離党者が9名、小沢もエールを贈っているらしい。ここでも小沢か、何を考えてるのだ。

午後になって又曇ってきて寒くなった。
こんな調子が冬の間中続くのだよなあ。私の命も今冬限りということになるかもしれない。
今年もあと3日足らず、どうやら数え年はも一つ取りそうだ。しょうがない。

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2011年12月30日 (金)

可愛い子には旅をさせろ

気温4度と暖かい朝。
昨日午後千代からもう帰っているよと電話が入る。成田には朝到着したらしい。
晴子が一人で年末の大掃除をぴかぴかに済ましていたらしい。至極満足げである。
欧州の土産話は先送りする。家内とはしばらく話し合っていたが。
朝子が逞しくなったと安堵の気配。可愛い子には旅をさせろとは昔からの大事な教訓。

古来若者は笈を負うって京や江戸に遊んだ。今は欧米である。行くものの気概は自ずから違う。間違いはないだろう。

晴子も妹の気概に引っ張られて発奮したのかもしれない。
掃除と云えば菜穂子のうちでは自動掃除機が走り回っているのを先般新築祝いに伺った時見て驚いた。
若い者の今の志向はおいらたちと性根は変らなくともやり方はまるで違うのだな。

老骨はもう駄目だ、働き者の家内も大掃除まではと、身体各部の痛さにとうとう音を上げた。
家の隅にはほこりも一緒に年を越す。
閉め切ったうちでは、ほこりも逃げてくれないし、暖かくならないとしかたがないな。

それでも義務感から自分の部屋は掃除機から雑巾がけまでして綺麗にする。当たり前のことだが、普段はなかなか出来ない。
後は家内の買い物の手伝いをするだけである。

年末とは最大の繁忙期だが、日記はお留守のときが多い。書く程のことが起きなかったか、書く時間が取れなかったか。
まあ例年決まったパターンで日が過ぎるのではあるが。

千代はパリーにも滞在したというのだから、本物のクリスマスイヴを体験して帰ったのであろうが、その話は未だ聞いていない。
正月の楽しみということになるのであろう。

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2011年12月31日 (土)

大晦日風景

とうとう大晦日になった。今朝は-1度とちょっと寒かったが、穏やかないい日和だったので、昼中は楽だった。
午後買い物に出る。勿論正月用品である。
私は出る幕はない。うろうろさまよい歩いて待つばかりである。
人出が凄いので、当たりも凄い。下手するとつき飛ばされかねないので杖を握りしめて、人のいない方へとそろそろ移動する。

一回りしても二回りしても、家内が見当たらない。
そのうちレジの前の行列の中から手が挙がる。やれやれである。

しめ飾りは私の役目、ドアの上の方に引っ掛けるところがあるから、踏み台と針金さえ持てくればなんでもない。

玄関先を清めれば今年はもう終わりである。

高峰秀子の”わたしの渡世日記”の上巻を読み終わる。
現在ではこんな経歴などは、法律も喧しいし持ち得ないだろうが、学校にも行かないで、こんな本が書けるなどちょっと想像ができない。しかも頑固な程明治以来の気風を残して、昭和を生き抜いた女性というだけで戦慄を感ずるほどである。

田中絹代、杉村春子と共演もし、その芸を摂取しながらも、彼女独特の明るさで諸先輩を凌駕し、最高の人気女優を貫いたことはやはり偉大だったとしかいいようがない。
今年も沢山の思い出に残る人たちがこの世を去って行った。生者必滅、会者定離は世の習い、ただ我がこととなると不審にたえないのだが。

生きながらえて昇竜の年を迎える。
刮目してみたい気持ちもするが、悪運襲いかかるやもしれず、もうこの国の明日まで見ることはごめん蒙りたい。

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