« 親父のパスポート | トップページ | ロータリーエンジン車は無くなるのか »

2011年10月 7日 (金)

戦場での軍紀

昨朝と同じく15度、天気はよさそう。
昨日はジョブズ氏が56歳の若さで亡くなったというし、小沢一郎は裁判の冒頭で無実を主張し検察の横暴と叫んだ。
日米波乱の一日といえるか。
ただジョブズ氏は惜しみてもあまりある存在、小沢は国民の目まで欺かんとしている。

昨日は終日”湖南戦記”という4年前刊行された、小平喜一という人の体験を書いた本を読む。
奇しくも同じ戦線で殆ど同じ時期戦った経験が私の興味を引いた。文中度々出て来る中路舗という部落には、昭和19年8月から12月まで私の部隊独立自動車第31大隊本部が駐留して居た。
私は業務連絡等に屢々赴いた。私は15km南方の板塘(通称広東橋)に駐留し、同部隊の材料廠を開設していた。

この戦記に出て来る部隊はこの地で中隊長が部下に殺されると言った前代未聞の事件を起こしたらしい。
また皆から憎まれていたA一等兵が戦後他の同年兵に射殺されたが、とうとう下手人はあらわれなかった。凄い話である。
また私が過去ブログや通信フォーラムなどに再三書いた、花石県の県長が使いを寄越して私にこの地を治めてくれと頼みに来た事があるというのも、私は敵軍の治安状況が悪いからと受け取っていたが、豈図らんやこの部隊が徴発や略奪などで荒し回っていたことにたいするものだったかなと今思っている次第である。

中路舗には軍の各部隊の駐留が次から次へと続いた場所であったし、軍公路の東西南北への交通の要衝でもあった。
敵のスパイも横行したらしく、本部の屋根裏に潜んでいたスパイを捉えて、私の友人の副官が射殺した事もあった。
敵空軍の爆撃も当時は激しかった。落下傘爆弾を落とされて死傷者多数出した事もあった。
他中隊の兵士が6名敵の急襲を受け拉致されて銃殺されたこともある。
戦争だから仕方が無いが,自ら招いた惨状はもう救いが無い。

ある時私は何故だか”木藷”という梨そっくりの見掛も味もした木の根を食った事を思い出す。この地の特産だと言う事だったが今はどうだろう。
二口、三口齧るだけにしておけと深川軍医が注意した、ひどい下痢を起こすということだった。

この戦記を読むと、同じ日本軍かと思う程全く腹立たしい。
関東軍は兵隊の個人制裁の厳しい事では天下に名が轟いては居たが、戦地に来てまでとは思っても居なかった。
私の部隊は関東軍に後から動員された予備部隊だったから、そんな因習がなかったのだろうか。
私は現役から引き続き招集の、幹部候補生上がりの将校だったが、招集で入って来た兵隊たちの一番若い兵よりも更に2、3歳年下だった。それでも部下に反感を持たれる不安など持った事も無かった。
この戦記に見られる様な,軍紀も何もない部隊など,話にも聞いた事が無い。よく戦いが出来たものではある。
作戦指導の間違いもあったかもしれないが,シ江作戦の惨めな敗戦は、この作戦に参加したこの部隊などもその一因をなしたかもしれない。

満洲から精鋭部隊を引き抜いて,南方の各戦線に注入した、その為対ソ戦線が貧弱化し,終戦直前ソ連参戦にひとたまりも無かったとよく言われる。
事実そうだったのだろうが、精鋭部隊ばかりデモ無かったという事でもある。

|

« 親父のパスポート | トップページ | ロータリーエンジン車は無くなるのか »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/52929604

この記事へのトラックバック一覧です: 戦場での軍紀:

« 親父のパスポート | トップページ | ロータリーエンジン車は無くなるのか »