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2011年10月 1日 (土)

戦争秘話

前日から読み疲れている”華中戦記”の読後感がなにか重苦しく心にのしかかる。
著者の森金千秋と言う人は私と同じ年の生まれである。しかも広島出身とある。

漢口から上流400kmの宜昌までの間の湖北省地区を転々としながらも、昭和16年4月から終戦の翌年即ち昭和21年4月まで戦場暮らしに明け暮れた一兵士のものがたりである。

私のように、同年兵とはいいながら、北満の関東軍に入営し、最後の戦場は殆ど彼と同じ地区で戦い、終戦を迎えたけれど、その暮らしの格差に驚かされた。
私は兵種の違う自動車部隊だったから、行動範囲が先ず全然違っていた。
同じ湘桂作戦でも、彼は沙子付近のほとんど一角を転戦するだけだが、私は漢口から柳州までほとんど2千キロの区間を移動し回った。
彼のように中国人にくるまれたような生活、就中男女関係まで生まれる様な環境が存在したという事は、やはり驚き以外のものはない。満洲での約4年間は湿地以外は何も無い荒野にソ連の空を遥かににらむだけの生活。
中支に移動してから終始苛烈な敵の空襲のもと、夜だけの行動という、いはば、夜行性動物なみの暮らしで大半が終わった。
彩りなんかどこにも無かった。
戦後約1年の捕虜生活も、ただ飢えとの戦いに終始し、まともな人間の暮らしは存在しなかった。
バターン死の行進という話がある。捕虜虐待で戦後日本軍の関係者は沢山処刑された。
程度の差はあるが、一日300グラムの食事で生かされた私たちも悲惨というほかはなかった。
当時食うものが少しでもあったのだから、文句を言えるすじはどこにも無かった。

華中戦記の主人公たちは私からみれば羨ましい限りの環境にあったとしか言いようが無い。
自ら好んで不幸な訣別を醸成したようにも思われる。

話は違うが私の友人にも、捕虜収容所を脱走して、地元民間人の中に転がり込み、最後は異国人として生涯を終えたものもいる。
戦争は思いもよらないドラマを沢山造り出した。

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2011年10月 2日 (日)

ベルギーという国

朝少し寒い。気温は16度と秋の気候に間違いない。
メールボックスに朝子のメールが入っている。元気だ。
授業がもう始まってるとか。単位は無理して多くは取らないと言っている。
同室の韓国人はいい人らしい。よろしく伝えてくれと言ってあったのだが、仲良くやってるらしい。

思慮の深い子だから心配はあまりしてないのだが、ともかく相手があることだから当然まるきり安心という事にはならない。

ブリュッセルは何と言ってもEU本部の所在地、情報は賑やかすぎる程だろう。
まあ我関せずで勉学に勤しむ事だ。
日本語で学ぶののとは訳が違うだろうから、その基礎からとなるとやはりただ事では無い。
朝子もそのあたりを十分自覚しているらしい。

経験は何より貴重な知識である。誰も己の経験に立勝る事は出来ない。
寸暇を惜しんで、沢山身に付けて欲しい。

ベルギーという国の事は私は殆ど知らない。語る資格など全くない。しかし孫娘がお世話になる以上知らぬ顔では済まされないと、ウイキペディアなどで調べてみる。国語がオランダ語、フランス語、ドイツ語と三つあるらしい。
それでもお互い楽に通じ合うならインターナショナルで都合がいいのだが、そうでもないらしい。
だから失業率はフランス語圏はオランダ語圏の二倍高いとある。言葉が違うから使ってもらえない訳だ。
教養は高い国だろうに、なぜ統一しないのだろう。中国などは二十種類以上の民族がいても、国語は統一して学校で一生懸命おしえている。
経済的にも豊かな国であり、GDPなどは日本よりは上位なのではなかろうか。
平和に良く治まっていると聞く。不思議な話である。同じ言葉を話しても争いが絶えない国が沢山あるというのに。

戦後日本は4ヶ国の分裂支配にされるところであった。マッカーサーのおかげで免れたが、もし4つに別れて、それぞれ国語が違っていたら、とても今日の国際的地位はなかったであろう。むしろアフリカの情勢に近かったのではと、寒気のする思いである。
いやしかし、ベルギーは違っている。仲良くすればそれでもいけるのかなあ。
庶民には言葉が不自由ではやはり困るだろうな。

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2011年10月 3日 (月)

骨密度検査

朝気温14.5度と少し低くなった。これぐらいが当たり前の気候だろう。
引き締まった気分でよろしい。
怪我が治って医者通いが減ったと思ったら、心臓の薬が無くなっている。
今朝は朝から何も呑まない。いいか悪いか。まあ1日ぐらいいいだろう。

日ざしが部屋の中まで入り込み暖かい。窔隅のこの部屋はいつか書いたように我が家の最高の居場所なのだ。

我が家の位置の標高は概ね35m、海岸から直距離約1.5km、眺望は誠に良い。
窓からは海の表情まではわからないが、宮島、ナサミ、黒神、能美と続く島々、瀬戸内海の風景はこの上なく美しい。
もっとも万葉の昔のなら秋風にそよぐすすき野が、波のうちよせる海辺まで続くのであろうが、今はいらかのなみを超越しなければならない。
それでも私には嬉しく美しい。
このままこの部屋で死のベッドを迎えたい。神にこいねがっているこの頃だが、さて聞こし召してくださるかどうか。

午後内藤内科に行き、いつもの診察の他、腎臓検査、骨密度検査をしてもらう。いずれも結果は良好ということだった。
ただ骨の強さが92%でやや不足しているから、歩きなさいと言われる。歩くのはいいが転ぶと困るからなあ。
骨の中がカスカスの人があるそうだが、それはなくてよかった。

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2011年10月 4日 (火)

ウオール街のデモ

朝の気温13度、いよいよ秋深まりたるを実感する。
放射冷却現象とか、日中は上がるだろうとの事。

腕の傷の方は全快したのだが、左胸のうしろの上部肋骨の部分が最近時々痛む。
転んだ時最初には湿布を貰ってはったのだったが、2、3日過ぎてよくなったので貼るのは止めていた。今頃になって痛むとはどうしたことだろう。
手の届かぬところだから、なんとなく気になる。

ニューヨークのウオール街で金融界の抗議デモが始まっているという。低迷する経済や失業率の高さへの不満をウエブサイドで訴えて、行動に移ったという事らしいが、浅学の私にはその因果関係がよくわからない。
いかにもアメリカらしいデモ行動である。政治を動かす事が出来るのであろうか。
暴動や戦争よりははるかにましな行動ではあるが。
民主主義の病弊は最終的には富裕層が世界の政治経済を支配し、権力まで独占するということだが、正にアメリカの現状はそれに近づいているわけだ。

権力の独占から始まる、独裁国よりはましかもわからないが、民主主義とて理想の政治形態とはいえない。
いや、民主主義そのものは理想的な姿だろうが、これを操るのがどろどろした各種の欲望にまみれた人間どものやることだから、結果がうまく行かない。

それにしても今頃なんだろう。アラブ紛争の様相とはまるで違うから判りにくい。世界に広がるほどのことだろうか。

中国はここに来て宇宙開発に力を入れ始めた。面白い国だな中国は。世界の中国を自負するだけに、行き着くつもりだろう。
無駄な事は止せと国民の関心が薄れ始めた米国が、経済的な重荷に疲れて、さじの入れ方を加減し始めたのに取って代わるつもりか。
世界の人口の四分の一がひしめいている国だから、まあ出来ない事は何も無いという事だろう。

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2011年10月 5日 (水)

親父のパスポート

久しぶりの雨の朝、気温は14.8度とまあまあ。
こんな日は元気なものでも起きてすることはない。寝そべってごろごろするだけだろう。
こちらはパソコンをやるおかげで、まず新聞から始めよう。紙の新聞の方は最近老齢のせいでか、1ページが広過ぎて、しかもページ数が増えてなんとも手に負えなくなって来た。
簡単なパソコンの方がよい。
いろいろな新聞が読めるのも良い。

医者に行き、いろいろ検査が煩わしかったが、やってもらったら吉と出て、幾分元気が取り戻せた。秋になってからだが少し楽になったせいかもしれないな。
生きている以上はやっぱりやりたいことはやりたい。
昨日は植物園に行きしっかり歩いてみた。あまりよろけないで、すたすた歩く事が出来た。もっとも杖は付いているのだが。
訳の分からない植物の花を一つ一つじっくりと見て回った。
観客はいつもと違って誠に少なかったから、邪魔にもならなかった。

もう少ししたら宮島に紅葉を見に行こうと家内に話す。こちらは距離が長いから、足の運動を心がけねばならないかな。

古い記録を整理していると、親父のパスポートが出て来る。ティファナというメキシコの都市での入国の検印がある。
1930年とあるから、親父が満49歳のときのものである。
付いている写真は私にはやはりはっきり見覚えがある。しかし今生き残っている弟妹にはもう面影は残っていないだろう。彼らはあまりにも幼い時に死に別れたからである。
親父はこの時から10年経たないうちに病死した。大東亜戦争の始まる丁度1年前だった。

私の不幸は考えてみると、父の死、そしてすぐ兵役、敗戦、と父だけでなくその遺産の大半を戦争で失っていた事から始まっている事に気づく。
助言を呉れる父がなく、職は満洲の国策会社だから消滅していたし、家や田畠も爆撃で壊滅し、まさに無に近い状態から始めなければならなかった。
もちろん同じ様な状態の人は沢山居たのだから、スタートラインは一緒だった。
ただ私自身が戦後の混乱に立ち向かうには、あまりにも愚か過ぎたかもしれない。
父がもう10年も生きていてくれたらとこの古いパスポートが悔しさを思い起こさしてくれる。

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2011年10月 7日 (金)

戦場での軍紀

昨朝と同じく15度、天気はよさそう。
昨日はジョブズ氏が56歳の若さで亡くなったというし、小沢一郎は裁判の冒頭で無実を主張し検察の横暴と叫んだ。
日米波乱の一日といえるか。
ただジョブズ氏は惜しみてもあまりある存在、小沢は国民の目まで欺かんとしている。

昨日は終日”湖南戦記”という4年前刊行された、小平喜一という人の体験を書いた本を読む。
奇しくも同じ戦線で殆ど同じ時期戦った経験が私の興味を引いた。文中度々出て来る中路舗という部落には、昭和19年8月から12月まで私の部隊独立自動車第31大隊本部が駐留して居た。
私は業務連絡等に屢々赴いた。私は15km南方の板塘(通称広東橋)に駐留し、同部隊の材料廠を開設していた。

この戦記に出て来る部隊はこの地で中隊長が部下に殺されると言った前代未聞の事件を起こしたらしい。
また皆から憎まれていたA一等兵が戦後他の同年兵に射殺されたが、とうとう下手人はあらわれなかった。凄い話である。
また私が過去ブログや通信フォーラムなどに再三書いた、花石県の県長が使いを寄越して私にこの地を治めてくれと頼みに来た事があるというのも、私は敵軍の治安状況が悪いからと受け取っていたが、豈図らんやこの部隊が徴発や略奪などで荒し回っていたことにたいするものだったかなと今思っている次第である。

中路舗には軍の各部隊の駐留が次から次へと続いた場所であったし、軍公路の東西南北への交通の要衝でもあった。
敵のスパイも横行したらしく、本部の屋根裏に潜んでいたスパイを捉えて、私の友人の副官が射殺した事もあった。
敵空軍の爆撃も当時は激しかった。落下傘爆弾を落とされて死傷者多数出した事もあった。
他中隊の兵士が6名敵の急襲を受け拉致されて銃殺されたこともある。
戦争だから仕方が無いが,自ら招いた惨状はもう救いが無い。

ある時私は何故だか”木藷”という梨そっくりの見掛も味もした木の根を食った事を思い出す。この地の特産だと言う事だったが今はどうだろう。
二口、三口齧るだけにしておけと深川軍医が注意した、ひどい下痢を起こすということだった。

この戦記を読むと、同じ日本軍かと思う程全く腹立たしい。
関東軍は兵隊の個人制裁の厳しい事では天下に名が轟いては居たが、戦地に来てまでとは思っても居なかった。
私の部隊は関東軍に後から動員された予備部隊だったから、そんな因習がなかったのだろうか。
私は現役から引き続き招集の、幹部候補生上がりの将校だったが、招集で入って来た兵隊たちの一番若い兵よりも更に2、3歳年下だった。それでも部下に反感を持たれる不安など持った事も無かった。
この戦記に見られる様な,軍紀も何もない部隊など,話にも聞いた事が無い。よく戦いが出来たものではある。
作戦指導の間違いもあったかもしれないが,シ江作戦の惨めな敗戦は、この作戦に参加したこの部隊などもその一因をなしたかもしれない。

満洲から精鋭部隊を引き抜いて,南方の各戦線に注入した、その為対ソ戦線が貧弱化し,終戦直前ソ連参戦にひとたまりも無かったとよく言われる。
事実そうだったのだろうが、精鋭部隊ばかりデモ無かったという事でもある。

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2011年10月 8日 (土)

ロータリーエンジン車は無くなるのか

気温13度とちょっと冷たいが秋晴れの心地よい朝だ。
今朝の中国新聞を見ると第一面にマツダがロータリーエンジンRX-8の生産終了の記事が載っている。世界で唯一のロータリー車が姿を消すとある。
私はその草分けサヴァンナ第1号が出て早速購入し,当時中国九州に店をあちこち持っていたので,時には夜を徹して走り回った。まだ高速道の無い昭和40年代の事だった。
快速(というより瞬発力か)にものを言わせて,長距離トラックの列をごぼう抜きするなど普通の国道上で随分乱暴な運転をしたりした。白バイには何度か捕まった。
しかしこの車の快適さは忘れられない。
ただ残念なのは燃費の問題だった。1ltあたり9kmには参った。
昭和48年のオイルショックでガソリンが倍に跳ね上がり、とうとう普通の車に変えざるを得なかった。

マツダは開発は継続すると言っているが、論理的にも性能の良さは立証されている。なんとか未来に繋げて欲しいエンジンである。
燃料もガソリンに限定することはないと思うのである。

昨晩のサッカーはどうだったのだろう。ベトナムにヒヤヒヤさせられ続けた。全体に走り負けたのでは無いか。
1-0と勝には勝ったが辛勝そのものだった。無駄なパス回しが多かった様な気もする。途中カットされて形勢を悪くしたり、なんだかなめていた様な感じでさえある。
ブラジルが時々同じ様な試合をする事がある。個人技がうまいから当然そうなるのだろうが。
日本はまだまだ駆け出しである。老成した様な動きは止めてもらいたい。新進気鋭の一途さが欲しい。
いつかの北朝鮮と引き分けた試合でも、彼らの若さに押されていた。あの勢いがなければとても世界には付いて行けないと知るべきである。

最近耳下腺あたりが痛んだ。食事をするとき響いてちょっと固めなものは食えなかった。が10日くらいたった今は治っている。
どういう訳かは医者に尋ねても居ないのでわからない。
ずっと以前から私は耳鳴りが絶えずしている。時にひどく時に気にならないくらい。
近頃は耳鳴りに混じってもろもろの雑音がしきりで、喧しいくらいである。
外から来るのか中から発生するのか見当がつかない。だから人の声もはっきり聞き取れない。テレビもラジオも何をしゃべっているのかよくわからない。
老人もいよいよ古びて来るとこうなるのだろうと諦観してるのだが。

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2011年10月 9日 (日)

大昔の思い出ポロポロ

今朝6時に起き出して,ふと1ヶ月くらい前デオデオで買って来たモバイルハンドスキャナーをそのままにしてあるのを思い出す。
物忘れがやっぱりひどくなったなあ。
早速取り出したが取り扱い方がわからない。
仕方が無いからネットに入ってメーカーを呼び出し、マニュアルを取り出す。最近はこういうことは便利である。

午前中かかって、軍隊時代のアルバムなどから写真を拾ってスキャンする。SDカードに保存してくれてるので、後処理は楽である。
思っていた以上に楽である。
昔松下電器が出したハンドスキャナーを買ってしばらく使ったが,しばしば故障を起こしてとうとう棚の隅に置きさらしになっているのだが、今度の機械は簡単で出来上がりもまあまあだ。
なんとか使えそうである。

外はお祭りの子供神輿が賑やかにかけ声を上げて行進している、久しぶりに聞く子供らの声である。
普段死の町に等しいこの部落も時ならぬ歓声に目が覚める。


今度のOSライオンになったので、HDMIが使えるのではないかと、見当をつけてやってみていたが,始めの間は時々おかしくなって長続きしなかった。
昨日は朝からずっーとこのチャンネルでやってみた。別に問題は何も起こらなかった。
沢山使えなくなったソフトが生じたが次々新ソフトに乗り換えて、もうあまり問題も無くなった。
ライオンのいいところはネットなどのつなぎつづけたファイルは間を飛び越して開かれる事である。早いというか早すぎるくらい。
ただ新しく入りたいと思う時一度手順を引っ返さないと行けない事がおきる。良いのか悪いかのまだわからない。

私は幼時から本を読む事が大好きで、当時は夜しかつかない電灯、それも6部屋もある広い部屋で1個しか無い、その遠い電灯の
下でも読みふけったから、とうとう小学校の6年の時には近視になってしまった。
中学に入るとすぐ先生から注意されて眼鏡をかけさせられた。
私の弟妹たちは,私と違って本をそんなに読まなかったから,未だに近視のものは一人も居ない。

只近視のおかげで未だにこうしてパソコンの小さな字が読める。iPhoneでもIPodでも全然問題ない。
パソコン雑誌なども小さな活字が多いが別に問題はない。
最近白内障で目の衰えが激しく徐々に見辛くなっていたが、先々月手術してもらってこれも元通りになった。
このままで行けば、見る苦労は死ぬるまでしなくて済みそうだ。
いい身体を授けてくれた両親に感謝をしなければならない。

もっとも軍隊では苦労したな,防毒面をつけるのに眼鏡を外すと遠くが全然見えないから,走る事もできない。
眼鏡をかけるとつるの隙間からガスが入って来て,防毒面にならない。
しかたがないから、つるを糸に変えて耳に釣ったりしたものだ。
ただ、戦場では後方部隊だったからガスをあびることもなかったが。


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2011年10月10日 (月)

私の属国意識

体育の日,中国では双十節。ともに目出たい日である。
日本も今日の新聞を見ると子供の体力が大幅に向上したとある。
この世からもうお別れも近い私にはいいはなむけと受けとめよう。

先の大戦のことはもう忘れたいのだが、私の様な戦中世代には忘れ様が無い。大戦が始まった年から70年にもなる。
その当時日露戦争は35年前のことだったが、随分昔の事のように思っていた。
敗戦という古今未曽有の事だから永久に忘れ難いことなのかもしれない。

米軍が未だに占領軍面をして、国内に蟠踞しているせいもあるのかもしれない。昔風に言えば属国だからなあ。
事実,第三国から見れば、日本でも韓国でも米国の属国に変わりはない。
真の独立を克ち取るには次の戦に勝つか、米軍の駐留が無くなる以外には無い。
時局は益々その実現を難しくしている。平和という言葉も口頭禅に過ぎない。
日本国民の真意も測りかねる状態にある現在では、半永久このまま持続されるのだろうか。

米軍の基地だから沖縄の人ももめている。もし日本軍の基地ならどうだろう。
ぼつぼつそうなって欲しいと思っているのは私だけだろうか。
しかし日本軍を作るとなるとこれは大変だろうな。あと50年100年掛かるかもしれない。いずれ他国の侵略を受けてからという但し書きがついてからだろうが。

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2011年10月12日 (水)

コスモス見物

やや霞んで入るが,いい天気の模様。気温15度。正に秋たけなわ、先般から新聞などで報道されている備北丘陵公園のコスモスを見に行く事にする。
家内は肩が少し痛いと言ってるが、肩は歩くのに関係ないからと強引にすすめる。
天気がいいのでそれではとその気にならせる。
こちらは始めからネットで調べたりその気十分だから準備はOKである。弁当が要ったかなと思ったが,手前に大きなSAがあるから大丈夫。
10時家を出る。
予定通り途中七塚原のSAで昼食をとり,12時前には公園に入る。
宣伝がよく聞いていると見え観客は結構多い。
駐車場が7カ所もある広大な公園だから、全部を見歩く事などとても出来ない。
今日はコスモスだけを見せてもらった。いつだったかはドライブだけを楽しんだ。
目標を立て其処のみに集中しなければ意味をなさない。

高速道路料金や公園の入場料まで入れると高価な見物だが、まあ値打ちがないこともないな。
私の年齢ではもう精一杯でくたくたになって帰宅した。
早速バタンキュウーである。
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2011年10月14日 (金)

本物の戦記

とうとう雨になった。小雨だが久しぶりの雨だ。
あいにく家内は広島までリウマチ医者行き。竹島さんにも会うと言ってるから帰りはまた遅くなる事だろう。

テレビは語る、JOBSは死して人を走らせている。新型iPhoneの売り出しにまたまた長蛇の列。

ここ数日、佐々木春隆という人の”大陸打通作戦”と引き続いて”長沙作戦”という戦記を読み耽っている。
著者は陸士出の私とほぼ同じ時期の元軍人である。
昭和12年陸軍士官学校に入ったというのだから、私と同期に中学校を卒業して陸士に入学したのが10名ばかり居て、大量な入学者に驚いた年である。
当時の戦争は青年将校は消耗品と言われた時代で、陸士出だけでは間に合わず、一般学校出身からなる幹部候補生も量産し始めた時代だった。

幕末に刀を振るって先頭に立つサムライ流の戦い方が、鉄砲で狙い撃ちする奇兵隊流の戦いに敗れたことが、教訓として今度の大戦でも生かされては居なかった。
だから他に使い道の多かった沢山の俊秀を戦争で失わざるを得なかった。戦争末期に動員された学徒出陣などはその最たるものであった。
あの重い軍刀を振るい,指揮する将校など、姿だけ見栄えはよくても、戦場で威力を発揮する道具ではなかった。
むしろ双眼鏡に拳銃、そして拡声器を持たした方が遥かにましな装備であった。米軍などはマイクさえ手に握っていたようである。

ともあれ、この二つの戦記とも非常に面白い。藤沢周平の歴史小説に比肩出来るとさえ思って読んでいる。
机上の空論というが,参謀本部の図上作戦で動かされる、彼ら現実に戦っている下級将校の命をかけた生の戦の惨さがよく書かれている。
これこそが戦争小説というべきものだろう。いや、小説というべきではなく文学と言うのが妥当だろうか。

特に前書の後半捕虜となってからの人間性,又後書の作者の陸士入学前後と初陣あたりは、当時の世相描写としても白眉の叙述ではなかろうか。
大いに感服いたしました。

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2011年10月15日 (土)

パソコンは私のおもちゃ

朝6時前目覚めて起き上がり、ベランダを覗いて見ると雨の跡がしっかりと見えルガ,今は降っていない。
空は一面雨雲に覆われている。いい天気にはなりそうにはない。ベランダの気温は19度と暖かい。

昨夕からiCloudを使用する関係から、iOSのヴァージョンアップを強いられ、パソコンはもとより、iPhone,iPad2など付随の機器を全部復元やヴァージョンアップと数時間もかかる。
どうなることかと驚く。
済んでみると,どの機器もすらすらと動いてそつがない。どれでやっても同じだから何だか不思議な気持ちにもなってくる。
例のヴィールスが侵入しやすくなるのではないかと気になる点もないことはないが、私の個人情報など盗まれる何ものも無いものには怖がることもないだろう。

iCloudの存在価値が奈辺にあるのか、乏しい知識では判断出来ないが、何かトラブルが起きた時には助かるかもしれない。復元の総元締が空高く保存されているのだから。
パソコン初期の頃の辛酸をさんざんなめ尽くして来た私には有り難過ぎる待遇ではある。しかしここに来てもう数年もトラブルを起こさない機械にはこちらが呆れる程で、今更の気がしないでもないのだが。

パソコンって何なのだという、疑問が生まれ始めた。
始めは単なる計算機だったのだろうが、今やテレビも見れるし,電話も相手を見ながらかけられるし、音楽を聴くだけでなく作曲も出来る。写真も見れるし映せる,撮れる。
えらい余得な人生に今浸っている私を感ずる。
朝起きてから夜眠るまで、私の相手をしてくれる。
わたしのおもちゃそのものであるといっていいのかもしれない。

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2011年10月16日 (日)

一将功ならず,万骨も枯る

朝6時半灰色の空には雲らしいものは見えない。いい天気になるのだろう。
気温は15度。
iOS5とOSX10.7.2がどう繋がってるのかは知らないが、益々快適に動くアップル機群、いじくり出すと止められない。
格好のおもちゃにこれは熱中しそうな気配が濃厚になってきた。

今朝も起き上がると、あれこれと忙しい。
暑からず寒からず絶好のシーズンというのがまたよい。

部屋の中を移動している時、ちょっとふらついた拍子に机の角に膝下をぶっつけ怪我をする。用心しているのだが駄目だな。
血がズボンににじんでいる。皮膚が少しはがれて黒ずんでいる。
また風呂に入りにくくなる。やれやれ。

家内がよく認知症の話を聞かしてくれるが、私のは頭でなくて身体の認知症かもしれない。まともに動作が出来ないのだから似た様なものだな。
やはり寝て居るしかないか。

先日もブログに書いた長沙作戦の戦記について、読み耽ると、すなわち挿入付図を見ながら繰り返し繰り返し読むと,実戦の感覚が次第に湧いて来てのめり込まざるを得ない。
同じ殺し合いといっても、周平の小説と又違った血の匂いのする実感がある。とても面白いという表現では済まされない。
戦争の善し悪しなどという様な問題では無い。ふろしきの大きさを感じてならない。
平和という言葉は甘く快いが、世の中闘争の絶えるところはない。スポーツに事借りてその心を僅かに鎮めてはいるが、やはり本物ではない気がする。
人間の心底には闘争を賛美する本能があるのかもしれない。

この戦記には魂を揺さぶられる思いがしてならない。

戦いに敗れる事のいかに惨めで醜いものか思い知らされる。その一端を担わされた私には思い当たる事が多過ぎるのである。
敗れ生き延びて,その苦渋をなめさせられ続けた悔いの重さが70年というのは長過ぎた。

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2011年10月18日 (火)

岩国市民と米国

今朝は11度一番の低さ。さすがに外は冷たい。風はない。雲もほとんどない。
家内が朝飯の時カーテンを貰いに行こうという。先日注文してあったのが1週間も前に出来上がっていると電話があったからである。
他に今回は岩国に用事はない。

今朝の新聞に愛宕山の跡地に政府が168億提示と出ている。
またひともめありそうな気配だが、私の兄弟たちはさほど目くじらを立てて反対はしないだろう。
アメリカには親戚も沢山いることだし、戦争直後随分恩恵を被った事だし,排斥する理由は全くない。
戦争直後には近しい係累が米軍兵士として駐留していたくらいだから。

私も家内もいとことその家族がまだ沢山米国で生存している。むしろこちらにも誰かが来てくれた方が消息が分かりやすくていい。
今日今となっては、アメリカはもう切り離せない国になってしまった。
市民には同じ様な家庭が非常に多い。戦後何度かハワイに飛行機をチャーターして親善訪問までした事を私は知っている。
仮に市民投票しても、跡地を米軍に活用しても、新市民を除けば反対する人は少ないだろう。
仲良くしたいと思っている人がはるかに多い筈だ、

他人の事はいざ知らず、私の伯父叔母4人は全部ハワイ渡航組である。その一人はとうとうハワイの地に骨を埋めた。皆多産系だからいとこは数十人に上る。
私の親父だけがメキシコ渡航した。後年親父は係累3人を呼び寄せたから、その子孫が彼の地にそのまま根付いている。

今の人はご存じないかもしれないが、岩国およびその周辺、大島郡は広島県と並んだ日本有数の多数移民県であった。
現に私が先年ハワイに観光旅行した際,ガイドはこの付近の言葉で案内した。ホノルル市内を歩き、市民と接触しても言葉も通じ違和感はまるでなかった。この地方の古い方言丸出しでむしろ懐かしかった思い出がある。

午前10時過ぎ岩国向け出発、吉香公園に立ちより錦帯橋辺りまで散策する。いつも行く吉香苑で昼飯、店員さんに店主の福田さんは元気かと尋ねると、経営者が変ったのですよという。
元の経営者の事はわからないということだ。
どうして止めたんだろう、ちょっと不思議。誰にも栄枯盛衰,流転の人生があるのだろう。
私が長く生き過ぎたということか。思わず在りし日を思い暗然とする。

弟のうちを2軒ゆっくり回る。4時帰宅。

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2011年10月20日 (木)

日本軍の汚辱と栄誉

朝一番に広島総合病院に出かける。皮膚科の定期診断である。
十数年来少しづつひどくなるだけで,治る気配は全くない。悪化の速度が縮まるかぐらいのものである。
医療に決定的な進歩はないとのことだ。
お金がなくなっていたので,途中で銀行に行き、お金を引き出して診察費を払ったりしたので,帰宅したら10時になっていた。
近くにある銀行まで歩いたりしたので結構いい運動になった。しかし道路って案外歩きにくいもんだなあ。

家内は先日岩国で貰った西条柿の皮むきに精出している。今年もお相伴で干し柿が食べられそうである。
今年は柿の豊作年だそうだ。
渋い柿程甘くなる,幼いときから不思議な自然現象である。

戦争という人間悪を丸出しにしての殺し合い、奪い合いの世界も、何十年もしてやっと語りうる環境に入る。
原爆の被災者がその死を前にしてやっと口を開く。
悪の権化は誰しも知りたく無いことなのである。

先日も書いた”湖南戦記”からの引用になるが、この戦記の主人公が属した部隊の上官たちが,或は部下に射殺され,或は降等の上自決させられるなどということは、恐らくは日本軍隊の歴史始まって以来のことだろうが、私にはこの上ない驚愕事象であったし、90年生涯の最大の汚辱感と受けとめたい。
この様な日本軍が私のすぐ近くの湖南省花石県に進出していて、狼藉を働き、県長がたまりかねて、私ごときものにどんな経緯で救済を求めて来たかと思うと,70年近く立った今でも腹立たしくて,夜も眠れない思いである。相手は大隊,こちらは百人足らずの小さな修理中隊、同じ日本軍だから戦う事は無くても、単なる忠告すら歯牙にも掛けてもらえない事であった。
湖南戦記の著者も恐らく卒年にしてやっとある決意のもと書き下ろしたのであろうが、今は亡き戦争責任者たちにこそ突きつけてやりたいことがらである。

大隊というので思い出したが、某少佐率いる通過部隊が、私の部隊の宣撫区域でもみを無理矢理徴発したと,住民から訴えられ,ともにその部隊に足を運んだ。
丁度脱穀する最中だった。部隊長に直接会い、苦情を申し上げた。部隊長は謝罪し、担当の経理将校と住民とが折衝して円満に事後処理を果たした事がある。
私の経験では無法な処置が行われた事は一度もない。バックにはいつも菊の紋章、軍司令官が居ると思っていたから。
宣撫はもちろん軍命に基づくものであった。

その結果がいつかも書いた8月17日の夜の歓迎の宴に繋がっているとの自覚は未だに忘れ得ない。

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2011年10月21日 (金)

宣撫ということ

70年近く平和の時代が続いている今の日本では、先の大戦の話をしてもピンと来ない人が多いだろう。
まして私がブログで何度も書いている宣撫とか宣撫区域とかについて少し解説しておきたい。
もちろん宣撫には国家権力そのものを前面に出してする大掛かりのものもあるだろうが、私の言う宣撫は半ば必要に迫られて,自分の部隊が出来るだけ現に居住している地域で安穏に生活出来ることを目標に、対住民関係を築きたいとする努力にすぎない。

日本の支那大陸作戦は兵器弾薬こそ日本から持ち込んだものを使ったが、食糧の大部分は現地調達に頼った。
従って保存の効く米などは、主に配給されたが、作戦の進むにしたがい追送が間に合わず、更に彼我航空兵力の差から、受ける被害の大きさで輸送が前線まで届かず、勢い行く先々での徴発,略奪が自然現象となった。
私の部隊は独立自動車第31大隊という主として軍直轄の輸送部隊として機能した約二百輛編成の自動車ばかりの部隊であった。
自動車はご存知の通り小さな部品まで入れると千以上もある部品で構成され、絶えず故障,喪失に繋がって動かなくなった。
故にどの部隊でも修理や燃料部品供給のため材料廠という一個中隊を付属していた。

普段は部隊の中間或は最後尾に位置して,用件の生ずるを待つばかりであった。偶々当時私はこの隊の隊長に任命されていた。隊の主力は部隊本部の15キロ南方板塘という部落の南端に駐留していた。

部隊長から駐留が当分続く予定だから,駐留地の湘潭県花咢郷の区域一帯を宣撫しろと命令を受けた。
一地に常時居る訳だから付近の住民とは当然親しくなるし、親しくしなければならなかった。
親しくなればなるほど糧抹の取得は容易になった。
その反対給付として、池本兵長、河原衛生兵などを専任にして施療はじめ宣撫に当たらしめた。
池本兵長は東京消防庁に在籍していての応召兵だったから、救急医療などお手の物だった。
積極的に何キロも遠方まで薬嚢携行で施療に出かけたりした。

隊の糧抹仕入れの担任は犬養兵長と云った。もと日本の総理大臣で昭和7年五一五事件で反乱将校に殺害された犬養毅の孫であった。
この総理は中国建国の父孫文を助けた事でこの地でも有名であった。
その孫が現にいて折衝に当たっているとの噂はまたたくまに彼ら住民の間に広まったらしい。

村の長老が親しくしたいと黒瑪瑙の犬養の印鑑を彫って彼に差し出した。

住民は絶えず部隊に出入りし,情報を伝えてくれた。
駐留して間もなくの頃、食料を日本兵に略奪されたと数百米離れた家の住民が訴えて来た、すぐ押っ取り刀で出かけて,鶏などさげて3名の兵隊が道路を歩いて来るのに出会った。
誰何すると略奪した何が悪いとうそぶいている。急に腹立たしくなったので思わずビンタを張った。
兵たちもこちらの剣幕に驚いてたが,住民も驚いた。すぐ返せと命令して返さしたが、すなおに従ってくれたこの兵たちは今思うといい兵隊たちだった。

爾来住民たちは,敵情をよく伝えてくれ、湘江をくだる船舶小隊が対岸の敵に襲撃され船を失ったときも約4キロの道を連絡、案内してくれ撃退してその兵士らを救出したり、又別の時ツーチンサンという山麓に侵入して来た敵を伝えてくれて,討伐に出かけ、交戦はしなかったが、追っ払って住民から歓待を受けたりした。
このとき軍公路沿いの部落の住民たちがこんな奥深い地に避難している事を知った。女子供みな群れていて,寺小屋みたいな学校まであった。

昨日書いた花石県の県長がこちらに出向いて治めてくれと頼みに来たのに,驚いたり眉唾だなといぶかったりしたが、前記の事や”湖南戦記”に記載された事情など入り交じった,理由なき偶然ではなかったと70年も立って理解が出来る話ではある。

隊員は自動車に関する技術は勿論一般に亘る工作技術も必要であった。
私の隊には応召した兵員だから、民間にあって鋳鍛造、旋盤、電工などいろいろな職種を経験したものばかりが所属していた。
板金をやっていた金谷という兵は十数年の経験者で,後に桂林で一人でアルコール工場の蒸留塔を作り上げた。その手際のすばらしさには部隊全員が驚いた。
自動車のキャブレーターもアルコール用をつくり、付け替えたのも,鋳物工たちの仕事だった。
自動車の車輪をトロッコのそれと取り替え、鉄道を走らせてトロッコを牽引し、輸送滞貨なしの好成績をあげて、司令官の激賞を受けたのも彼らの功績であった。

昭和19年に始まった湘桂作戦という一作戦だけの戦争従事だったが、国の運命を双肩に荷う気概で終始した。
悔いなき戦いだったと思うだけに、恥知らずな戦いをした同僚のあることがつくづく情けない。

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2011年10月22日 (土)

私の健康自己診断

今朝は止んでるが,夜中かなり降ったと見え,庭先は木々が濡れそぼっている。予報では終日降ったり曇ったりするらしい。
気温は昨日と同じく18度,少し暖かいくらいだ。

秋になってやはりいくらか体調が回復したらしい。現在は医者には通っているが,乾癬が少し痒いだけで,検査してもらっても何も副作用は起きてないし、肝臓も腎臓も五蔵皆大丈夫だとどの先生も烙印をおしている。老人にはやはり極寒、極暑が一番よくないらしく、秋や春は好条件だというわけか。

この夏は特に体調をくずして、残り少なくなった友人たちに声を掛ける元気もなくした。他人の暑中見舞いをするどころではなく、自分の身が危機一髪と思いながら辛うじて通り過ぎた。
この冬,来年の夏、年貢の納め時が来るかもしれない。今年も春先から,文通もしていた吉屋、西平、藤川くんなど数名が私を追い越して逝った。

先日は広島総合病院に定期診断を受けに行き、お金を持参していない事に計算受付にて気づいた。
計算書を預かってもらって,1キロ向こうの銀行まで預金引き出しに急遽出向いた。
車は駐車場に入っているが,出し入れが面倒なので歩く事にした。
歩道というのが、これほど歩き難いものとは知らなかった。
段差が激しく,凹凸も多く,杖を使っていても全く油断がならない。手すりも何もないからいつ車道に転び出るか判らない。
つい二月前転んで全治3週間の医者通いをしたばかりだから、こんどは緊張の度合いも違っていた。
最後は夢遊病者のごとくふわふわと天上をさまよっている気分になったほどだ。

もう私は歩く事はだめだと自分で烙印を押した。80歳時代は思った事もなかったのに。ある時突然に自覚が来るものだな。
頭では出来ると思っているから,危険なことだった。
同じ事は自動車運転にも云える。何時罷めるか,決心するときが実に難しい。

今日は健康談義になったからついでにおしゃべりすると、私は胃腸は本来あまり強く無い。しかし腹の病気は時々下痢するくらいであまりしない。
飽食という事はしない。これは貧乏したせいもあるだろうが,家族のしつけのせいだろう。
そして私は歯がよい。80歳で自分の歯が20本以上残っていると,歯医者さんが表彰状を貰ってくれた。
しかし私も野戦では歯をすっかり痛めた。石の沢山混じったご飯を食べさせられて2、3本歯が欠けた事がある。もちろん野戦では歯を磨く事もないし,顔すら洗う事はめったにない。
かけた歯からだろうが虫歯が蔓延り,戦後友人に歯医者が居た事もあり、せっせと通って治療する羽目になった。
親譲りの丈夫な歯だったらしく根が丈夫で今日まで抜かずに済んだ歯が多い。高さはすっかり摩滅して歯茎からほん少し顔を出した程度だが、ほとんど自分の歯で食べている。
このおかげで胃腸も弱らずに済んでいるのではと自分では思っている訳だ。

余談だが、戦前は歯磨き粉か塩で歯を磨いたものだが、戦後アメリカからあのチューブ入りのペースト状の歯磨きが入って来て,今はすっかりその時代である。
使い始めた時随分便利がいいなと感心した思い出があって,忘れられない。

午は家内と買い物に楽々園に行き,食事も済ます。
午後になると天気も回復し,予報とは違って青空がひろがる。

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2011年10月24日 (月)

旧友に逢いたい

うす雲は棚引いているが,天気は良さそうである。
朝の気温は16度。
日ざしは強過ぎて,カーテンを引かないと部屋に居れない。

いつか去年の文春に載っていた講演集を切り取り、スキャンしてiBookに納める。iPhoneに同期さしたから、どこにでかけても、退屈しのぎにはもってこいである。
最近はiPhoneにしろ、iPadにしろ文字がものすごく鮮明で,パソコンのそれを凌ぐほどだ。目の弱い老人には願ってもない手助けである。

同じ老人でも90歳を超えると、元気かいと声を掛けて来るものもいなくなる。もちろんこちらからも空々しく元気かいという訳にも行かない気持ちになってるから,お互い様ではあるが。
しかし先が短いだけに,常住坐臥遠方の友のことなど特に気になる。
身体不自由で,家の中でごろごろして悪くいえば死を待っているだけだろう。

18歳の時一緒に自転車で中国山脈を越えて,出雲大社参りをした神村君は去年だったか、台風を気遣ってはがきを寄越して、私を驚かさせたが,年賀状は相変わらずブッキラボーに届く。
4、5年前靖国神社に参った後,彼を訪ねたことがあったが、あの時はまだ元気に歩き回った、お互いに。
彼も奥さんが元気で助かっているのだろう。あの元気だった吉屋君も奥さんが亡くなって1年と経つか経たないで後を追った。

少年時代からの旧友といえば彼を措いてもう居なくなった。もう一度どこかで会いたい。それには東京まで行かなければならない。
今となっては大仕事だが。
家内にそれを云うと、ジパングを止める前に一度行くかねえと、半ば同意の感じ。

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2011年10月27日 (木)

世界人口70億

やっと10度を割って我が家の寒暖計は9.7度あたりを示している。昨日は10度少し越えてたから今日が今季一番の低さである。
このままずるずると冬に引き込まれる訳だろう。

二階の我が部屋は日ざしが奥深く射し込み,カーテンで遮らないと暑くてやりきれない。有り難過ぎる状態である。

我が家でも最近物忘れそして認知症へと毎日のように話題はそれに落ち着く。老化は遅かれ早かれ其処へ行き着くわけだからじたばたしても仕方がない。
ブログなども行き着く道程を少しでも長くしようと考えての事だが、やはり記憶力が散漫になって来ると、テーマにもこと欠き始めて継続する事がしんどくなる。
幸いに大昔の事は比較的によく憶えているのでまだ助かるが、こんな調子がいつまで続くのだろうか。

今朝も家内がその友人の音楽好きな高木さんとの電話で、昨年東京で見たオペラ「トスカ」の題名がなかなか出て来ないで困った話をしていたが、音楽の通弊で曲調などはもうまるで記憶の中には無い。あの場面がちょっとよかったなあとかあの場面がおかしいとか観客が多かったとか、音楽の本質そのものとは関係のない事ばかりが話題として残る。
若いときなら,口ずさむ事も出来たが今となってはもう完全に何も残っていない。

ビデオで見るのなら、繰り返しなんどでも見たり聞いたり出来るから,老人はその方がいいのかもしれない。
しかしそれすらももう億劫だなあ。まさにどしがたしである。

国連の世界人口白書によれば、この31日に世界人口は70億を突破するという。日本の人口は今年始めて減少し,国別では16位になるとか。
食糧危機は益々深刻になるだろうが、いったい世界はどうなるのだろう。平和と云ってるだけでは生きていけないのは自明の理である。
世界的に産児制限をするとか、老人は隔離して姨捨山の様な自然淘汰を講ずるとか、有効な手段はもうそれしかなさそうだ。
鬼哭啾々である。

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遍歴の人生

やっと10度を割って我が家の寒暖計は9.7度あたりを示している。昨日は10度少し越えてたから今日が今季一番の低さである。
このままずるずると冬に引き込まれる訳だろう。

二階の我が部屋は日ざしが奥深く射し込み,カーテンで遮らないと暑くてやりきれない。有り難過ぎる状態である。

我が家でも最近物忘れそして認知症へと毎日のように話題はそれに落ち着く。老化は遅かれ早かれ其処へ行き着くわけだからじたばたしても仕方がない。
ブログなども行き着く道程を少しでも長くしようと考えての事だが、やはり記憶力が散漫になって来ると、テーマにもこと欠き始めて継続する事がしんどくなる。
幸いに大昔の事は比較的によく憶えているのでまだ助かるが、こんな調子がいつまで続くのだろうか。

今朝も家内がその友人の音楽好きな高木さんとの電話で、昨年東京で見たオペラ「トスカ」の題名がなかなか出て来ないで困った話をしていたが、音楽の通弊で曲調などはもうまるで記憶の中には無い。あの場面がちょっとよかったなあとかあの場面がおかしいとか観客が多かったとか、音楽の本質そのものとは関係のない事ばかりが話題として残る。
若いときなら,口ずさむ事も出来たが今となってはもう完全に何も残っていない。

ビデオで見るのなら、繰り返しなんどでも見たり聞いたり出来るから,老人はその方がいいのかもしれない。
しかしそれすらももう億劫だなあ。まさにどしがたしである。

国連の世界人口白書によれば、この31日に世界人口は70億を突破するという。日本の人口は今年始めて減少し,国別では16位になるとか。
食糧危機は益々深刻になるだろうが、いったい世界はどうなるのだろう。平和と云ってるだけでは生きていけないのは自明の理である。
世界的に産児制限をするとか、老人は隔離して姨捨山の様な自然淘汰を講ずるとか、有効な手段はもうそれしかなさそうだ。
鬼哭啾々である。

夕食の時、昔話が卓上を賑わす事になる。
家内の云う私が商売に向いていない人間だという事の反省ばかり。
しかし考えてみると運もよくなかった。
昭和33年事前準備万端よしと踏み切った百貨店の開店だったが、当時中小企業連盟発足間もなくで、開店反対のキャンペーンをまともに食らった。
市長、商工会など根回しは万全で,大賛成と思ったが豈図らんや百貨店審議会場では筵旗が林立する始末。
賛成意見はまるで出ず、反対意見ばかりでとうとう最後の通産省の審議会でも、お百度を踏んだが結局否決され不許可となってしまった。
同じ時期松江市、別府市、水戸市でも百貨店設立の動きがあり,許可の出たのは県知事の政治的判断で松江市のみ許可され,後は皆不許可になった。

恐れをなした予定共同出資者が手を引くもの多く、出資金不足のままの開店(急遽貸し店舗方式に変更)となった為、建築資金にことかくありさま、銀行も途中で融資を止めてしまった。
売り上げはまあまあ順調に推移したのだが、結局やりくりがきかず倒産に追い込まれてしまった。
経営者の私たちは多額の借金に永年苦しむことになった。

その後しばらくして始まったクレジットカードでも、10年ばかり入会を拒否されたりした。個人の信用ゼロという訳である。
娘らは勤め先でクレジットカードを嬉々として運用しているのに、親父たるものそれをよそ目に憮然たる気持ちで居た事を忘れる事が出来ない。

戦争で就職先を失ったのを皮切りに、転々と遍歴が続いた。今頃の若者と一緒である。
76歳で退役するまで苦労をつづけた。糊口を凌ぐという言葉通りの生活が人生の大半だったかもしれない。
経済的には決して恵まれていない筈だが、私の心は極めて豊かである。もちろん年金という制度に助けられてもいる。
しかしこれも保険と一緒でこつこつと働き稼いだ余録の産物である。本来的に身に付いて来たものである。遊んでばかり居たのではびた一文つく筈はない。
職場は嫌になるほど転変したが、どこでも重宝にはしてもらった。途中独立して自分で始めるとこれがまたいけない。
やはり商売は向いていなかった。ものを売っても金がもらえない事がしばしば起こった。そういう時代だったなあ。

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2011年10月28日 (金)

読書十遍意通ずるにや

灰色の雲に覆われ,あまりよい天気にはなりそうにない。朝の気温12度。
眼科の診断書がもう出来ている筈だが、電話で念押しをしなくてはならないかな。

今先日買って来た”謎の渡来人秦氏”という新書本を読んでいる。
奈良時代末期百済滅亡の時逃れて大和に集団渡来した朝鮮民族の名前である。秦というから中国からの渡来人とばかり思っていたが,この本によるとそうではないらしい。
長岡京ついで平安京造営に力を尽くした民族らしい。桓武天皇の母がこの種族の出だという事に原因があるらしい。
当時渡来民族としては最大の集団だったらしい。

私なんかもこれら渡来民族の末裔かもしれないなとかねてから思っては居たが、人類発生の系譜から云って,遅いか早いかの差があるだけで、日本民族と云ってもそもそもは固有の民族である筈はない訳である。こんな本を読むとなんだかこせこせと国にこだわるのがあほらしくなりそうである。

併行して、”明治維新”という新書本も読んでいる。どちらも小説のようにすらすらと読むわけにはいかない。簡単には頭に入らない。
特にこの本は「世界史上希有な革命を捉えなおす」と並題しているように、柔構造という仮説のもとに解き明かさんとしている。
どんな意義があるのか、読了しじっくり考えてみないと何とも云えないが,乏しい私の頭脳では理解すら難しいのではと危惧している。

大佛次郎、司馬遼太郎や古川薫あたりで堪能している私の明治維新史観はくずされてしまうのであろうか。
刮目に値する議論かもしれないが、視点がややずれているだけの感じがしないでもない。

先の世界大戦も極論すれば,白人の世界に刃を突きつけた有色人の反乱に過ぎないと私は思っている。
現に私の親父も伯父たちも奴隷に近い状態で,辺境の地カリフォルニアで酷使され,挙げ句には排日,侮日の総スカンにあって放逐される状態にまでなったといわれている。
視点を変えれば、こんな極論も生まれるのである。幻想では無く事実から引き出した議論である事は云うまでもない。

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2011年10月29日 (土)

老禍現象

昨朝とほとんど同じ天気、やや青空が見える。
気温15度と暖かい。
家内がリウマチを痛がっている。炊事も出来にくいというが困るなあ。

昨日は外食にカレーの店に云ったが,改装中でお休み、仕方がないので隣の百円回転寿しに入る。安いのはいいが美味しく無い。少し食っただけで切り上げる。
おやつにパンを食べて補う始末だからなさけない。
安ければ良いという事でもあるまい。

私もよれよれのじいだが、家内も八十過ぎの良いばあさんである。若い人並みに食事の支度をしろといっても無理だろう。
いい加減飽きも来たろう。長寿がいいのやら、わるいのやら。

最近風呂に入るたびに驚かされる。
人間の皮膚はこんなに禿げるのかということである。老衰と乾癬とが重なって皮膚の新陳代謝がより激しくなったらしい。
乾癬はもともと皮膚の新陳代謝を通常の4、5倍早める病気らしいから、拍車がかかるらしい。
風呂の水面は私が入るとしばらくするとふけでいっぱいである。

私がいつも最後に入っているからいいようなもんだが、先に入ったら,他のものはたまったもんでは無いだろう。

寝床でも,部屋の中でも、妙に軽いふわふわしたゴミが多いなあと思ってたが、それに気づいて愕然としている。
老人というのはやっぱり厄介なものである。人間一筋縄では生きて行けないものだなあ。
今は痒いのが困り者だが、そのうち痛いところがあちこち出てくるのだろう。やはりもういいから死にたい。

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2011年10月30日 (日)

金力は武力に勝る

今日のサンケイの中国同郷窃盗団会社の記事には驚いた。凄い合理的な会社なんだな。
現在51人の犯人が捕まえられているそうだが,日本全国で千軒以上の空き巣を実行し6億3千万円を盗んだという。
福建省の同じ市の出身者で固めているというところが又凄い。

最近大ごとになってるサイバー攻撃にしろ,中国人のすることは並の知恵では計り知れない。偉い民族ではある。
同じ新聞でアメリカをボロボロにした中国人と云う記事もある。その末尾にある
「それにもまして緊急に危ないのは中国マネーの日本の土地,特に水源地や五島列島の買い占めが進んでいる点だ。富士山の水まで手に入れようとしているのだ。これに対して日本政府は全く無策で、それどころか日本列島は日本人だけのものではないと言う首相を抱えていた政党が政権を握っている。危ないかな日本!」
というのである。ほんとだろうか。

払えない程の大借金をして、不景気で苦しんでいる日本の円が異常に高い。何故だか凡夫には判らない。
さっきの記事のように中国マネーあたりが日本国土まで買い漁っているのでは高くなるのが当たり前かもしれない。
先にはオイルマネーで世界を金融恐慌に巻き込み、今度は中国などの過剰輸出国の過剰ドルが外国の土地までを侵略する。南沙諸島などもいずれ金の力でベトナムも頭を下げることだろう。
古来軍事力の根源は金にある。経済力こそ最大の武器である事を忘れてはならない。

雨は小やみなく降り続いている。市長選挙などがあるが、この雨の中を歩いて投票所まではもういけない。残念だが今回は断念しよう。
人に支えられてやっと生きている老人の出る幕ではないし。

昨夜は孫娘が行っているベルギーの特集をテレビでやっていた。今回始めて関心を持つようになったベルギーという国。
テレビで見る限り景色のすばらしい国のようだ。自然もよく保全されて日本に負けない。水が凄く豊富なところもよく似ている。
私はほんとうに知らなさ過ぎた。EUの中心にある事はただ地理的要因だけではなさそうだ。

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2011年10月31日 (月)

思い出の温泉旅

昨日の雨が嘘のように晴れ上がる。気温14度の朝。

婿が潮温泉に連れて行くと言っている。中国山脈のど真ん中の温泉らしい。
あまり聞いたことのない温泉だが、効能はあるらしい。
近いから疲れなくていいだろう。50年くらい前もう少し先の湯抱温泉というのに泊まった事があったが、鄙びた親切な温泉で良かった思い出がある。
近くだから人情などは変らないだろう。

そういえば入浴はしなかったが、食事をさせてもらった頓原温泉というのもあった。これは私が18歳のときだから,73年前である。
こちらは最近は聞く事もないからなくなったのだろうか。町の名前は残っているが。

考えてみると,長生きするということはこうした経験をするということだ。
近くはもちろん北海道から沖縄までくまなく歩いているのだしなあ。

古い日記帳を開いて、湯抱温泉に行ったのは何時だったかなあと検索してみると、あったあった、詳しく所感ととともに勘定書まで載っている。
やっぱり思い出通り、旅情豊かなうれしい旅だった。折角だから記事を載せておこう。
   ________________________
昭和32年6月11日(火)
6月8日の土曜日稲田さん始め8名の者で去る4月に出かけた石川君らの後を受けて、コースは違うが大体同じ方面へ向けて慰安旅行を実施した。
折から鉄道の不意討ちストが再三あった後であり、又近日中に行なわれるという噂もあるので、ギリギリのコース予定の旅行だけに心配で、鉄道に事前にお伺いを立てる始末。
どうやら心配ないとのことなので出かける事にする。大急ぎで食事を済ませて12時18分の東京行に飛び乗る。
広島、三次、赤名と乗り換え、乗り継ぎ、19時頃予定の志学温泉が自動車線不通のため行かれず,途中の湯抱温泉に入る。
割に女中らしからぬ女学生の様なタイプの女中さん、間違ったとかで予め連絡のあったお客の如く私等を中村旅館に導く。日の出旅館が一番大きいのだそうだが、既にカバンを質
に取られた今となっては致し方がない。
上がってみると、しもたや風のちゃちな宿屋。田舎の事だから文句は云われない。それでも一番良さそうな部屋に通され、見晴らしも風通しも良い。
先ず驚いたことには女中さんが数名入れ代わり立代わり挨拶に来た後、この家のおかみが畳に頭をすりつけていらっしゃいと言う。ご丁寧なことではある。
いたづらに外見をてらうものは、内容はそれ程でもないのが普通。やや鼻についた仕草にいささかその不安。
併しその不安は杞憂だった様だ。
その晩稲田さんの家より持参の五橋2本を夜12時までかかって飲んだのだが、終始二人の女が付き添って離れない。こまめに酌はするし、歌う、話す、聞く、ついで調子に誘わ
れて盃を重ねる。結構耳朶まで赤くして付き合ってくれる。おかげで何の変哲もない田舎温泉も楽しい思い出の泉とはなった。
人の真心からのもてなし、これこそ何よりのご馳走に勝るとは改めて感じ入った所感。
※三瓶山行費用
     岩国ー三次     ¥2160
     アイス        ¥160
     三次ー湯抱     ¥1440(180 *8)
     宿賃        ¥9570+300
     湯抱ー大田     ¥440
     大田ー北松江    ¥1440(180 *8)
     今市ー大社      ¥160
     ジュース       ¥320
     大社ー川跡      ¥240
     ハイヤー       ¥480
     土産         ¥550
     松江ー岩国     ¥4320(540 *8)
     合計        ¥21580
________________________

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