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2011年9月29日 (木)

戦場の不可解さ

夜明けが遅い。ひさしぶりに雲の厚い空、太陽も顔を出しにくいのだろう。
といって予報では雨には夕方までならないらしい。ところにより降るかもしれないと言った状況。
気温も21度と生暖かい。
東京の娘に家内が電話で様子をうかがったところ、朝子は元気ならしい。
どこも二人暮らしになり、賑やかさはまるでない。宿命というべきか。
煩わしくても赤ちゃんが居る時が一番賑やかで張りがあって人生の盛りだったと気づく。

これからはもう減るばかり、桑原々々。

戦史叢書の”広西の会戦”を今読みまくっている。
衡陽で3ヶ月も手コズッタのに、その後、あっというまもなく桂林、柳州が陥落した。しかも同じ日に。
この本を見てみると、敵将白崇禧は早くから逃げ支度をしていたようである。張本人はアメリカのスチルウエイ顧問らしい。
こんなのを読むと、小説よりも奇なりで、いろいろな教訓が含まれていて面白い。

何時だったか、他の戦争記事を読んでいるとき、夜退却して行く敵軍の中にまぎれて、我が軍の斥候がうまうまと敵中深く侵入したということがあった。その斥候は便衣を身につけ、中国語をしゃべり、あらかじめそれをもくろんだということだった。
戦国時代の戦いにはよくあったことらしいが、戦うものにもそのくらいの工夫はいつもあったということだ。

私の戦争にも不可解なことは多い。
終戦二日後即ち昭和20年8月17日の夜、軍命で長沙への復路の道を急いでいた。昼間は盛んに道路を挟む山々で銃声砲声がしきりであった。途中の南岳市では包囲され激戦中だった友軍警備隊を救援し,敵を撃退した。
その夜の宿泊地を求めて、前年の19年8月から12月まで宿営し宣撫地としていた花蕚郷板塘(軍秘匿名で広東橋と呼称していた)に夜9時頃辿り着いた。
こんな遅い真っ暗な時間に、部落の住民が張ったばかりのテントに多数やって来て、歓迎すると言って、民家に連れて行き、宴をはって供応してくれた。
そのとき彼らは日本は負けて、帰国しても米軍に占領され、家は無くなり家族もどうなっているかわからないだろうと口々に言った。だからこの地に留まれ、我々が協力してなんとかするとまで広言した。
私はそんな馬鹿な事があるかと怒って反論した。
私は部隊長から停戦になったとだけ聞いていて、敗戦なんて信じられんし、先ほどは敵と交戦し撃退したばかりだったし、信じる環境にはなかった。

翌日長沙に入って唖然とした。軍も部隊もすでに敵さんの待ち構える捕虜収容所に入れられ、迎えに来た久田部隊副官の指図で粛々と収容家屋に入る他は無かった。
事実はやはり敗戦だった。しかも無条件降伏だった。神風も何もありはしなかった。
呆然とまるで記憶に残らない数日を過ごした。

気がつくと、銃も剣も皆とられて、僅かに背嚢一つ背負って、とぼとぼと列となって公路につながっていた。

広東橋の住民たちは何故あの時すでに敗戦を知ってたのだろうか。勝利の喜びを出さずに、われわれを迎えむしろ歓迎してくれたのだろうか。
あの夜の遅い時間に、多数で迎えてくれたこともよくわからない。
この地に宿営する事は、敵を退けて警備隊の将兵たちを本隊に送り届けた後、もう暗くなり始めていた時刻、始めて私が決めたことだから。総数七十数名といえども私が最高指揮官だったのだから、私の知らないところで何があったのか。

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